耳うち

 それから、週末まで。


 南美川さんは、中流工程レベルのネイルデザインパターンを生産し続けた。すぐに売ってしまうのではなく、売る前にひととおりは完成させたいと言って、意気込んでいた。一週間は時間がほしいと。べつに僕にそれを否定する理由はどこにもなかった、……やりたいようにやらせてあげたい。

 すべての色をやっていると効率が悪いらしく、彩度は赤色から青色に限定して、あとは明度をいじる程度にしたようだった。……彩度とか明度とかいうのも、僕は南美川さんに聞いてはじめて知ったものだけど。

 初日のネイルデザインの真ん中には花柄が散らされていたけれど、そういった模様的なところでの工夫はやめたようだった。僕としては南美川さんはああいうデザインが好きなんじゃないかって思ったけれど、それを聞いたらふるふると首を横に振られてしまった。


「わたしは好きよ。わたしは、ね。……でも売り物としては、だめなんじゃないかって思うの」


 そして、また、パソコンの画面に戻る。

 すっかり使いこなせるようになった眼鏡型ポインティングデバイスで。


 ……南美川さんのなかで、なにかのブレイクスルーがあったのは確実なようだった。

 それがなんでなのかは僕にはすべてを把握できたわけではない。ただ、おそらく……なにかが降り積もりに降り積もり、積み重なりに積み重なった結果なのかな、とは思う。

 まあ、それも……わからない。


 犬の南美川さんが僕のペットとして家に来てから、もうすぐひと月になろうかというこのタイミング。

 僕は、はじめて、……秘密をつくられた気分だった。


 まあ……まったくさみしくないと言えば、それは嘘になる。

 けど、



 僕の知らないなにかを抱いて、中流工程であっても仕事的な作業に向かう南美川さんの横顔が、

 ほんとうに、人間の顔をしていて、

 ……僕はおそらくほとんど生まれてはじめて、孤独を感じない日常を手に入れていた。



 高校時代の南美川さんは、僕にとっては上位者の怪物で、理解などなにもできなかった――それが、怖くて、怖くて。

 けれど。こちらがもしやいまの南美川さんのすべてを把握しているのではないか、と感じてしまうのもあんなにも切なく物悲しく、虚しいものだった。



 僕はふたりで食べる夕食のあと、毎晩南美川さんに黒ぶち眼鏡のポインティングデバイスをかけてあげた。

 毎日仕事を終えて帰ってくる僕。そして僕の仕事帰りが、いわば仕事はじめな南美川さん。


 ……とても、いい、距離感な気がした――奇妙な話であるとは思うけれども。




 そして。

 金曜日。週末。

 定時の、六時。

 僕はオフィスを後にして、歩きながら大きく伸びをした。……今週も、一週間が、終わった。

 とくに予定はない。僕には週末いっしょに遊ぶような友達もいないし、ひとりであってもだれとであっても、飲んだり寄り道をするという癖はない。

 このままきょうも帰る。もちろん。南美川さんが昨日からの続きをやりたがっている。早く、ごはんをあげて、眼鏡をかけてあげなくちゃ。

 ……僕もなにか遊び道具でも用意するかな、と。ソシャゲもいいけど……ああ、そうだ、それこそ安価なマシンをなにかひとつ用意してもいいのかもしれない。夜には基本的に南美川さんがずうっと使っているから、僕は自分のパソコンにはほとんど触れなくなった。帰りがけ、電気街で買うくらいの寄り道は、うん、以前よりは人間らしくなってきた南美川さんなら許容してくれるかなあ、それとも――。



 そんなことを考えながら歩いていると、後ろからドンッと肩を叩かれた。



「――ううわっ!? って、杉田先輩じゃないですか……」

「おうおう、ずいぶんなご挨拶だなあ、後輩よ」


 ……杉田先輩が、ニコニコしていた。先輩ももう――退社を済ませたはずだ。

 と、いうか、さっきオフィスの終礼で挨拶をしたじゃないか。


「ま、ま、ま、歩きながら喋んぞ、来栖。駅まではなんと五分もある」

「……いまどき、そういうの、やめたほうがいいんじゃないですか、その、いきなり肩を叩くとか、パワハラ的な……」

「いーの、いーの。俺はくるちゃん信じてっからー。つか、おまえもだんだん言うようになってきたなあ。橘さんにちょっと似てきたかあ?」


 秋。すこし、冷える夜ではある。

 僕は当然、……長袖長ズボン、ブーツ、ネックウォーマーに手袋。

 暑いくらいだ。でも――僕はどうせ季節に関係なく、肌を露出するのが怖くてできない。……だんだん寒くなってきてくれるこの季節は、むしろ、ありがたいほどなのだった。


「……杉田先輩は、それ、七分袖、でしたっけ」

「あぁ? うん、そうだよ。おまえもちょっとはお洒落に興味が出てきたかあ? 俺のオススメのスタイリッシュファッションセレクトスーパーウルトラハイパーショップとか、教えてやってもいいぜ」

「長いし、カタカナだし、超えてるだけだし……」


 杉田先輩は、ははっ、と笑って僕の肩をもういちど叩いた。パワハラ的ともいえるだろう――でも、もう、そこまで怖くも、……もしかしたら嫌でも、ない。



 ふたりで、駅までの道のりを歩く。駅前は、簡易繁華街。レストランやカフェの明かりが煌々と眩しい。

 いまどき、倫理監査もほんとうに厳しい。パワハラにも、時間外コミュニケーションにも。……杉田先輩とオフィスのなか以外でこうやって肩を並べて歩くというのは、僕が入社してそろそろ二年めのいま、はじめてのことだった。



 あと、二分もすれば、駅に着くだろう。



「……杉田先輩、どうしたんですか。外にまで、ついてくるなんて」

「はは、――嫌だなあ、だいじな後輩のためにここまで危険を冒してんだろお」



 言葉は軽快だったが、……わかる、僕にはわかる、

 杉田先輩は――ヤバいことを言おうとしているんだ、と。



 杉田先輩は、僕の耳もとに耳うちした。歩きながら、器用に。



「……日曜、空けとけ。絶対だ。いいな」

「え? なんで――?」

「ナシ、つけてある。――良い子ちゃんのペットをちゃんとケースに入れて、例の住所に向かうんだ。時刻は午前十時。時間厳守だ。いいな。……お相手は、生物学者の先生だ。大層気難しいらしい――手土産も忘れんな。……案外、甘ぁいチョコレートなどお好きだと。これだって――極秘情報なんだぜ、漏らすんじゃねえよ、……こんなナシはおまえのためだけだ」



 ナシ――話、ということだろう。



「正直、だいぶ、苦労した。次はいつだか約束できねえ。……だから、かならず行ってくれ。行ってくれねぇと、俺はもうメンツ丸潰れだ、……あの街を歩かせてもらえなくならあ」

「え、杉田先輩は、その日――」

「行かない、行くわけねえだろ! 俺はその日は休日だよ」

「……だったら、そんなこと、僕たちのためだけに――」

「気にすんなって! 水臭ぇよな、いつまでも。――これで、ちったあ先輩のこと信用しろよ?じゃ――そうゆうわけで、バイビー、来栖よ!」



 杉田先輩は僕の肩をバンバンと痛いほどに叩くと、ニコニコ笑顔に戻ってぶんぶんと大きく手を振った。

 すっと僕の隣から離れ、人波にまぎれ、呑まれ、いつのまにか見当たらなくなり――ぴゅうっ、とどこかに消えていってしまった。



 ずっと、振り向いているわけにもいかない、人の流れ的にも、……僕は前を向いて歩き出す。

 ゆったり。……ふだんよりも、すこしばかり、ゆったりとした歩調で。

 ありがたく。ほんとうに、……ありがたく。



「……なんで、なんだろねえ。こんな、僕に」



 僕のつぶやきはこの街の音に呑まれてなかったことになってくれたはずなのだ――いやむしろ、呑まれてくれ、こんな気持ち、

 ――いまだにひとに親切にされることを恐れてしまう僕のこんな不義理な気持ちを。

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