南美川さんの決意
けども――僕が傷ついていては、いけない。
僕がいま、どうにかこうにかで人間で。南美川さんが、人犬で。
たまたまこうなったというのは、事実だ。……そしてそれが奇妙にいびつなかたちであったということも。
ヘンだとは、思う。
けれども結果的に――。
傷ついているのはいま圧倒的に南美川さんのほうであるはずなのだ。
僕はなんども、なんどもなんども、自分にそうやって言い聞かせている――なんどでも。
……だから、僕はもういちど、言葉を選ぶのだ。
「……たしかに、ね。たしかに南美川さんにとっては、このくらいのものであったら、そうたいしたことはないのかもしれない。だからここは逆に僕の言うことを信じてほしいんだ――なぜなら、僕はネイルデザインというものに対して完全な素人だから」
「……え? 素人だから信じるって、その……ごめんなさい、どういうことなのかしら」
「つまり、南美川さんは、……プロフェッショナルではなかったかもしれないけれども、ネイルデザインについて詳しいよね。すくなくとも僕よりはずっと詳しいし、……ある程度の専門性のあることだってわかるのだろう。だから、上が見えちゃうんだよね、きっと。このデザインよりも上がある、上がある、って。……そう思っちゃうんだよね」
そして、きっとそう思うことは南美川さんにとっては苦しいことでもあるのだろう。
上が見えてしまって。現状の自分が、そこに届かないから、って。
僕なんかには、もつ資格のない悩み。……うらやましく、ぜいたくだとか、そんなふうに思ってしまう悩み。
けど。
南美川さんの耳のほうが、よっぽど正直だ。
僕がこうやって話せば話すほどに、垂れていく――。
南美川さんはポーズではなくきっとほんとうにそんな、僕からするとぜいたくなことが、苦しい。
上が見えていて、でも上には届いていないこと。
南美川さんは――人間未満に堕とされても、もしかしたらずっと、そうやって……上を向いていた。
四つ足で立っているという意味でもそうだし、人間のこころを――うしなわなかったこともそうだし。
……それは、つらいことなんだろうな、と思う。
だって――二本足で立つことさえできないその身体では、……もはや不可能なことだから。
だから、僕は、いまこの瞬間も、……僕を高校時代にいじめたギャルの女の子についての、理解だと思っていた誤解が、……解きほぐされて、どんどん、どんどん、……南美川幸奈を知っていく。
だから、だから、――僕は言う。
「……南美川さんからすれば、満足のいかない品だってことはわかるよ。けど、僕はね、きのう南美川さんに教えてもらって、はじめてネイルデザイン表を見て――そして、あなたのデザインしたパターンも、見た。たしかにいまどき人工知能がなんでもやってくれるよ。けど、まだまだ人の手の介入は、ゼロではないだろう。……南美川さんのネイルデザインは発展パターン化におけるワンパターンとして、充分、……流通しうるものだと思う」
「……なんで、そんなこと、わかるの?」
「僕にはそこまでわからなかった。でも、会社の上司が教えてくれたんだ。……僕の名義であれば、南美川さんのネイルデザインをオープンネットで売ることも、問題ないらしいよ。それが僕の施したものではなかったとしても、そのことをタグ付けで明記しておけば、問題がないんだって。……なんなら、会社のその上司のひとに、南美川さんがデザインしたネイルパターン、見せてみてもいい? きっとそのひとも美意識の高い、オシャレでキレイなひとだから、正確に判断してくれるよ――」
「そのひとは、女の、ひと?」
「え? ああ、うん。そうだけど……」
南美川さんはふるふるふるふると大きく首を震わせた。
そして口もとをぎゅっと引き締めて、静かな瞳で僕を見上げた。
「……そのひとには、見せなくて、いい。わたしのデザイン――売ってよ。シュン。……こんな単純パターンでよければいくらでも、わたしはがんばってつくる」
僕は、……なぜ南美川さんが唐突にやる気になったのか、いまいちよくわからなかったけど、
やる気になってくれたのは嬉しい――その頭に、いつものごとくポンと手を乗せた。……犬の耳と、人間の金髪。……尻尾は、たらんと垂れている。しかし、哀しそうというわけではない。
「うん。がんばってほしい。……そうしたら南美川さんの稼ぎでおいしいものでも食べよう」
「……あなたの、ハードディスク代くらい、稼ぐもの。わたしを買うことで――諦めたんでしょう?それとも、それとも――わたしを買った値段くらいは、稼いだほうが、いいかしら」
「……三十万円でしょう? うーん、だとしたらけっこうがんばらなきゃだなあ……。やる気になったなら、もちろん南美川さんには単価は教えるけど、最初は高望みしなくとも、僕はあなたがクリエイトしたモノが商品として流通して価値が生じるというだけで――」
南美川さんの視線のあまりのまっすぐさに、僕は思わず言葉を途切れさせた。
「わたし、がんばるもの」
南美川さんは、トン、とそのふさふさの両前足を僕の胸に乗せた。
その顔は――強い決意に、満ちていた。燃えるというよりは、……静かで。
「シュン。わたしに、眼鏡、かけて」
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