春のデジャヴ
南美川さんは施設について多くを語らない。最初にいたらしい愛玩用の施設であれ、そのあとの超調教施設、そして最後にいた労働用の施設、ペットショップに至るまで――なんであれ、その時代のことを語るときには、泣きじゃくってしまって説明は幼児のように断片的で、足りない。
だから、必要に応じて僕が補っている。いつでも歩行型発電機で時給百二十円以下だと蔑まれて嘲笑われながらえんえんと歩かされてたといまも泣きじゃくるのを聞いて、僕もネットで調べてみたことがある。見つけた説明文にはこんなことが書いてあった――時給百二十円ぶんの発電は、ひとつひとつはわずかなものだけれども、数がたくさん合わされば、発電機の削減ができる。エコだ。しかもヒューマン・アニマルに対する調教のひとつとしても有効だ。これも、エコだ。ダブルエコな発明なのです――と。
なんてことを、と僕は思った――けれどその直後、僕は気がついた。……南美川さんと再会を果たす前だったら、そんな説明を読んでも、ふうん、で終わっていただろう。僕もつまりはその程度には、この社会に生きる単なる平凡なひとりの人間であるのだ。
南美川さんは、人間だと、僕は思うから。
……そんな、非人間的な環境で、非人間的な条件で、強制労働をさせられていたというのは、あんまりにも、むごい、と思うし。
南美川さんは人間なんだから、と僕は思うし。
その傷がすこしでも癒えてほしい、と思う。
……だけど。
そんなことさえ、僕のエゴだが。
たとえば、
傷を無理やり絆創膏で隠したところで、見えなくなるわけではない、たとえ薬を与えたところで、痛みそのものがなくなるわけではない。
けれども、それでも、僕は南美川さんが隣で傷にまみれているのが……つらかった。
僕は南美川さんに、南美川さんのつくったネイルデザインはそれなりに売れるだろう、と説明した。相場に比べてしまえば、少し安いのかもしれないけれど。すくなくとも、……時給百二十円とかの酷い価値にはならない。最低限でも、人間的な……対価を、得られるはず。
勇気を出して橘さんに訊いてみたら、そう教えてくれた。
僕はそういうことを、ところどころ言葉に迷いながらも、説明した。
僕の膝の上。もはやここは、南美川さんの定位置となった。
僕自身の定位置というのは南美川さんが来る前からもともとある。ローテーブルの前、キッチン、ベッドの上だ。
いまはベッドの上に、僕たちはいる。……なんとなく、真面目な話をするときには、僕は南美川さんを抱き上げてベッドの上で言い聞かせる。それが、いつしか僕たちの習慣になった。
南美川さんは話を聴き終えると、訝るように僕を見上げた。耳が、立ってもおらず萎びてもおらず、中途半端な位置でひくりひくりと折りたたまれては開かれる。……なにか人間的なことを、かつ、ちょっと難しく捉えて、考えているときの癖だ。
「……こんなの、売れるの?」
僕は南美川さんが昨夜描いたネイルデザインのファイルを、すでにタブレットに移動させている。
南美川さんは人間的な表情で僕の顔を見上げて、前足をひょいひょい動かした。見せて見せて、ということだろう。僕はタブレットを低く持って、南美川さんが覗き込めるようにした。
「うーん……やっぱりどう見ても、ふつうのネイルデザインのパターンよ。こんなものにそんなに価値があるのかなあ……」
「もちろん、」
僕は、言葉を選ぶ。……南美川さんのその傷を、まさか僕自身の手で押し広げることがないように。
正直、僕には、
南美川さんを傷つけてしまう夜がある――けれどもその傷というのにはいくらか種類があって、……僕は、最低だけど、僕の手で南美川さんの心をそっとひっかいてみたいとは思う、
けれども、けれども――むかしの後遺症を激しくさせたいとは、思わないのだ。……わかるだろう? 最悪に暴力的な――衝動だよ。――欲望だ。
だから、だから、……せめていまはとても配慮する。
表現ひとつが――凶器となりうる。……いまの南美川さんにとって、僕の言葉は、……僕は、絶対的なのだ。――南美川さんのいまの世界は僕と僕の部屋。それだけなのだ。
「……もちろん、南美川さんの元来もってるセンスからすれば、このネイルデザインというのは、あくまでもパターン的で、納得がいかないことなんだと思う。南美川さんが、……むかし、ネイルデザインをどこまでやっていたのかは知らないけど、……きっともっとハイセンスで、ユニーク的なデザインも、たくさん知ってるんだろう。そして、そういうのを、スケッチとしてファイルにしてフォルダにして、残していたわけだよね。だから、たぶん、……上は、ある。このデザインは最上流ではないってことだよね――ごめん、センスもなんもない僕が言えたことじゃないんだけど、たしかに、見せてもらったオープンソースのネイルデザイン表と、南美川さんのこのデザインだけから判断をすれば、上流、というよりは、まだ……中流なのかなって、思うよ」
配慮の末に、僕の言葉はどんどん、どんどん滑っていくけど。
南美川さんは尻尾を軽快に動かしている。……嫌な思いは、してないらしい。
「そうよ。こんなのは、ぜんぜん、中流以下なのだわ」
悲壮めいてもなく、かといって誇らしげでもなく、ごく当たり前のこととして――南美川さんは、言い切った。
僕は、……あ、と思う。
あ。
この感じ。
すごく――デジャヴだ。
……そう。僕が高校時代に哀しみとともに南美川さんをひたすら見上げていたときの感想とはほんとうは違い、
南美川さんは、……じつは自己評価がとても慎重で正当なのだ。
つまりありていに言うなれば――そこまで自信のないひとだ。それは、犬になる前からのことだったらしい。……あの涙や語りをこんなにも間近で繰り返されれば、そんなことくらいは、わかる。
高校時代。
キャアキャア黄色い声でファッションのことを語りまくって、テストの結果が出るたびに跳ね上がって自慢をしまくって、幼なじみの男には見苦しいほどに甘えた声でしなだれかかって媚びを売りまくって。
それらはむしろ、南美川さんの自信のなさによる裏返し、いや、というよりは――それでも生き抜くためのサバイバル術であったのだろう。
そう見えるようにしていたのは――南美川さんの、そういう自己評価だったのだろう。それはいまやっと僕のわかったことだった――南美川さんが犬になってから、はじめて、わかったのだ。
つまりありていに言うなれば――南美川幸奈は、僕の思っていたような意地悪高飛車自慢しいなギャルでは、なかった――と、いうことなのだ。
……けども、けれども。
そうわかったいまでさえ、僕は――あ、傷ついた、と思ってしまった。
『そうよ。こんなのは、ぜんぜん、中流以下なのだわ』
南美川さん。
その物言いは――性能が良いひと、ならではのことなんだよ。
……ひととして、劣っているのは、やっぱりたぶん、僕のほう。
さまざまな偶然が重なって、いま僕たちは数奇にもお互いこんな立場になっているけれど――
……ほんとは、……あなたが、
慈悲と笑顔と蹴りとともに、
劣った僕を、飼ってくれる――僕はそんな未来さえ、思い描いていたことがあったんだよ。
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