南美川さん、起きて
結論は出た。
帰ってきた僕は、ただいまよりも先にその結論を述べる。
「南美川さんのネイルデザイン、売ろう」
ケージのなかで短い四肢を投げ出してうとうとしていた南美川さんは、うーん、と切なそうなうめき声で眠気を主張している。耳がぴくりと震え、尻尾がふわっと持ち上がった。……南美川さんの寝起きが悪いときの、もっと寝たいというサイン。
……あ。眠っていたか。
だったらまずは、起きてもらわないと。
眠っている南美川さんにはちょっと申し訳ないけど――ペットと主人だったら、主人の都合のほうが優先される。……当然だろう?
僕はワンルームの床に仕事の荷物を降ろして、短い廊下と部屋を隔てる扉を閉めた。
明るさと熱気が、すでに満ちている。電気と暖房は、朝に家を出てきたときからつけっぱなしだ。もちろん、南美川さんのために。暖房代は、もう、諦めた。というか、覚悟した。
ケージのカギを開け、僕は手を差し入れて南美川さんの鼻先でちょいちょいと揺らす。……本物の犬相手に、そうするかのように。
ううーん、とまたしても南美川さんがうなったので、鼻のあたりをこしょこしょくすぐってみた。
南美川さんは不満そうに眼を開ける。……ああ、眠たそうだ。
「……いやあ。シュン。いや……くすぐったいじゃない……」
「ごめんごめん。でもさ、起きてよ。南美川さんと話したいことがあるんだ」
「くすぐったい、くすぐっ、くしゅぐったい……」
それはまあ、くすぐってるからね。
ほら、好きな子には意地悪したくなるって言うよね、――言わない?
「くすぐられるの嫌なら、起きて」
「……うう」
南美川さんは子どもじみた不機嫌さで、僕をとろんとした目で睨んできた。
あ、これは起きてくれるな。だから僕はくすぐっていた手を引っ込め、しょうもない意地悪をやめた。
……この三週間の奇妙な共同生活で、僕は、ほんとうに南美川さんのことをたくさん知った。南美川さんは意外と寝起きが悪いんだ、っていうのも、そのひとつ。
南美川さんはなにかを諦めたような小さなため息をつくと、背中を伸ばすように四つ足で大きく伸びをした。そして金髪を揺らし、頭をふるふると振る。前足をピンと直立させて、四足歩行の体勢をつくる。同時に耳もピンときれいな三角形になる。尻尾はゆったりと横に揺れはじめる。
……起きた。
リリン、リリン。リリン、リリリン……。
南美川さんがなにか動くたびに、真っ赤な首輪の鈴が今日も鳴る、――僕の選んであげたその、首輪。
うちに来るときに、プレゼントをしてあげたその首輪……。
眠たくともがんばってちゃんと起きたらしい南美川さんは、僕を見上げた。と同時に、くわあ、とあくびをした。出てきてしまったらしい。あくびを噛み殺そうとしているけれど、どうにもそうもいかないくらいにあくびが次々出てくるらしい。そう――南美川さんは、もうあくびの口を手で覆って隠すことさえもできないのだ。
恥ずかしそうな表情をする南美川さんに、「ただいま」と僕は微笑みかける。そして手をちょいちょいと動かして、「出ておいで」とも語りかける。
「……言われなくたって、出るもん」
拗ねた子どもみたいなことを言うと、のそのそと四つ足でケージの外に出てきた。首輪の鈴が鳴る。リン。リリン。
僕はおどけた仕草で、しかし真剣に、全身でその小さな身体を持ち上げて膝の上に乗せる。まだ不満そうだ。……赤ちゃんみたいに。
「南美川さんは今日もいい子で留守番できたね。……えらいよ」
僕はその頭を、犬耳といっしょくたにしてぐしゃぐしゃに撫でてあげた。南美川さんはしばらく仏頂面をしていたが、やがて続かなくなったのか、息を漏らして嬉しそうに笑った。
「うん。シュン、おかえり、待ってたわ」
南美川さんの耳の動きは、いま、南美川さんが気持ちよく感じているんだってこと。そんなことくらいは、……僕には、わかっている。
やっぱり、ここなんだな、……付け根の裏のちょっとざらっとしているところ。ここを引っ掻くようにしてちょっと強めに撫でてあげると、どうもほんとうにとても気持ちがいいらしい。
なので僕は何度かそうやって撫でてやった。
ぱたぱた、ぱたぱた、尻尾が揺れる。嬉しそうに。留守番を今日もうまくできた自分を誇るかのように――。
南美川さんには、犬の所作がしっかりと、身体の隅々に至るまで身についている。
どこまでも自然に、どこまでもスムーズに。
……そんな、南美川さんと。
僕は、今宵、……南美川さんがほんのすこしだけでも、人間に戻れるって話をしたい――南美川さんのクリエイトするネイルデザインを、売る、という社会性によって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます