南美川さんの尻尾の動き
ベッドも、ソファも、テーブルも、パソコンも、ともかく部屋のなにもかも。
僕の部屋はすべてがひとり用だ。だれを呼ぶ気もなかったし、そもそも呼べる予定もなかった。家族でさえも、ここを訪れたことはいちどもない。会うときには、いつも僕のほうから出向いてる、……手土産を持って。
床に置く背の低いソファ、ガラステーブルの上には28インチ型のわりと大きめな画面の、据え置き用ノートパソコン。
ひとり用のソファで、パソコンを開いて、いろいろ眺めていく。
そのことじたいは、いつも通りだ。
……違うのは、僕はいまひとりではないということ。
南美川さんが僕の身体にすっぽり収まる格好で、そこにいる。
僕の両足のあいだにちっちゃくおすわりして、まるで赤ちゃんがつかまり立ちするみたいにテーブルに前足を乗せて、僕に抱っこされて、パソコンの画面を見つめている。
目を見開いて、らんらんと輝かせて。……ひさしぶりだ、その目の輝き。
卒業以来、と言ってもいいかな。
南美川さんはパソコンの画面を見ながら、尻尾をぱたぱたさせている。……リラックスしてるのだ。尻尾や耳はどうも嘘をつけないらしい。それは僕としてはわかりやすくて時に助かるけど、――感情を誤魔化せないなんていうのは、やっぱちょっとキツいものがあるよな。南美川さんからすれば、きっと……。
そうだと、わかってはいたけど、
……南美川さんの揺れる尻尾は、なんというか、おもしろい。
神経を通されている――つまりしてその尻尾の揺れ方は、だれか科学者が設計したものなのだろうけれど、まあ、うん、うまいこと設計したんだなあとは思ってしまう。そんなこと思ってるなんて南美川さんには申しわけないし、言えることではないから黙ってるけど……。
尻尾の揺れ方にも、やはり一貫した法則性があるらしいのだ。おそらく種としてのイヌを意識してはいるのだろう。
ぱたぱた、ぱたぱたと軽快にリズミカルなときは、なにか楽しいことを考えていたり、気持ちがいいとき。
ゆっくり、ゆっくりと幅をもって振り子のように揺れているときには、リラックスしていたり、ぼうっとしていたり、眠たいとき。
ぴたり、とその動きが止まるときは、なにか緊張してるとき。
びくん、とアンテナのように鋭く立てているときには、脅えているとき。
だらん、と垂らすときには、悲しかったり、落ち込んでいるとき。
横ではなく、上下にぶんぶん振っているときには、なにか興奮してるとき。
おもしろいっていうか、うん。
……かわいいとか言ったら、やっぱり、怒られてしまうだろうか……。
南美川さんを買ったのも水曜日だった。
きょうはちょうど三週間目、三回めの水曜日。
……僕はこの三週間ほどの、人生単位で見ればごく短い時間に、
このひとのことを――どれだけたくさん、知れたことか。
もっと、知りたい。
南美川さん。あなたはきっとほんとうに、
……犬になってから、ひととして成長したんだ、って、いっしょにいる僕には、わかるから。
南美川さんはパソコンのホーム画面に流れてくるニュースの記事タイトルを、飽きもせずにずーっと眺めていた。
僕にとってはあくまでも社会人としての教養の維持が目的で、ただ流して、いつもほとんどはタイトルだけを読み飛ばしておしまいな情報群だ。
南美川さんにはもっとべつのなにかを見せてあげようと考えていた、……べつに具体的に決めているわけじゃないけど、南美川さんがすこしでも楽しく眺めることのできるような情報の、そう、できれば優しい情報にあふれたような――彼女の好みの情報群をもった、ページを。
けど、パソコンを起動してすぐのホーム画面で、南美川さんは尻尾をぱたぱたぱたぱたぱたぱたさせて、そのまま見入ってしまった。
僕とテーブルのあいだにおさまっている南美川さん。その尻尾の動きは、どんどん速くなっていく。
ぱたぱたしていた動きは、やがてぶんぶんと言ったほうがいいものになっていく。
やがて、十分周期のニュースが、三周した。
南美川さんは尻尾を大きく振りながら、ひたすらにそれに見入っていた。
僕はそのあいだ、ほかになにもせず、スマホをいじったりもせず、ただその傷の色素沈着した背中や、金色の尻尾が動くのを、なんとなくずうっと見ていた。
南美川さんはふと、揺らしていた尻尾をぴくん、と止めた。金色の毛が束ねられたようになって、僕のおなかのあたりをこちょこちょ動き回る。
そしてくるっと僕を振り返って、見上げた。
顔が赤く火照っている。――悪い火照りかたでは、なさそうだ。
「ねーえ、ねえねえ、シュン、すごいのねえ、世のなか、こんなことになっちゃって……」
「おもしろかった?」
「おもしろい、っていいのかしら……わたし、浦島太郎みたいな気分よ」
「……なんかのおとぎ話だっけ、それ?」
「かなあ? おとぎ話っていうか、日本の、むかしばなし」
現代では高柱猫の価値観をベースにして、文学的なことは個人的なものとして小さく扱われる傾向にある。すくなくとも学校教育におけるガイドラインは、そうなっている。
たとえば星座が文学的で非科学的だということで教科書から消えたように、日本の伝承的なお話などは、あくまでも雑学知識として取り扱われる。
学校のテストで出てくることはまずないし、学校でそれらの存在を聞くことがあるとすればそれは、偏屈で変わった価値観をもつ文系の教師が雑談的に話す場合くらいだ。
そのせいか、
……僕は、浦島太郎と言われても、あんまりピンとこない。
「太郎、太郎。……桃太郎とかいうのもなかったっけ?」
「あるわよ。太郎っていうのは、古来からある日本っぽい名前だから。金太郎っていうのもいたんだから」
けど。南美川さんは、知っているのだ。
……南美川さんがもともと成績優秀なのはもちろん僕は痛いほど、痛みとともに覚えているが――バリバリの理系なイメージだったのだ。実際的で、実用的な。
とくに生物科目は唯一、峰岸狩理にもつねに勝っていた。そのことを教室でやたら自慢していた。
人文的な知識があるようにはあまり見えなかった。そういうムダは切り捨てて、もっと、もっと、直進していくタイプのギャルかと思っていたのだ――どうも僕は、まだまだぜんぜん、南美川さんのことを知らないらしい。
南美川さんはどこか誇らしげに尻尾をぱたんぱたんと動かしている。
「その浦島太郎っていうのがどうかしたの?」
「うん。あのね。こういうおはなしなの」
南美川さんは、語ってみせてくれた。
……亀を助けて、竜宮城というファンタジーな異世界に出向いてそこの価値観で遊び呆け、戻ってきたら時が経っていて、たまて箱という報酬と貴重品入れの中間のような箱を開けたら、歳をとってしまいましたとさ、と。
「かわいそうよね。ひとりだけ」
「でも、そのはなしの通りなら、その浦島の太郎さんは、けっきょくはみんなとおなじ時間軸になれたんじゃないかな……」
「ううん、だからかわいそうなのよ。まだ、若いままのほうがましだったわ、……そうしたら軌道修正できたのに。むかしは科学もないし、若返りっていうのは実現不可能なフィクションと思われたし。だから、彼はきっとどこにも戻れなかったの。帰る場所もなかったのね。自分だけ、みんなと違うところで、人生の時間を使ってしまったんだわ」
南美川さんは、ぱた、と尻尾の動きを止めた。……金色のふさふさが、垂れている。
こっちを見たままで、その犬耳がちょっとだけ垂れる。
「……わたしにも、そんなのはなかったんだけど。まさかね――シュンに拾ってもらえるなんて、思わなかった……」
「そうだね。僕も、南美川さんを飼えるなんて、まったく夢にも思わなかったよ」
……なんとなく、ふたりで、沈黙する。
パソコンが動くときに発する熱の音。小さく、でも鳴ってる。……このパソコンにはいろいろ搭載してあるから、仕方ないのだ。あくまでもプライベート用のパソコンの機械音とかの、気にはなるけどさしたる大きな問題にもならないことは、そう、技術の進歩でだってけっきょく放っておかれている。
……ウィイン、と。
機械音でさえ、……ふたりでいるとこんなにも大きい。
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