二十五. 灯明の道しるべ⑤
尋ねるのは――訳を知るのは、怖かった。
勘違いだと、己に言い聞かせながら、それでも拭えないままでいる違和感の。結局冬乃は何も言葉が出てこないままに、ふたり屯所へ戻ってきて。
沖田のほうもあれから一言も無く。
軽快に歩む馬の上、かわらず温かな腕に抱かれていても、冬乃の心を確かな寂寥が覆い尽くしていた。
「おかえりなさいませ」
人の往来がひっきりなしの姦しい門前で、沖田たちを見上げた門番が迎えてくれる。
「ただいま、ご苦労様です」
にこやかに返した沖田の腕の中で、頭巾をしたままの冬乃も慌てて会釈を送った。
門をくぐった先、屯所の内でも、あいかわらずの混乱が続いていた。
荷物を運び出す隊士達の波をぬって、
叫びながら遁走してゆくニワトリの後ろを、必死に追いかけてゆく農家の人々が向こうに見える。
豚たちはすでに捕獲されたのかは分からないけれど、この様子では未だかもしれない。
それに新選組は当然いつの日か此処へ戻ってくるつもりでいるために、“断捨離” が叶わず奉行所へも持っていけない荷物を各々懇意の所へ預ける隊士も多いのだろう。
みるからに荷物を抱えて他所と何往復もしているかの、疲弊しきった隊士が散見する。
二条城にはじまる一連の移動騒ぎの末に、急きょ決まった奉行所への引越しをこうして本日最短で迎えたのだけど、
果たして日没までに完遂できるのやらと、冬乃はおもわず心配になりながら彼らを見送り。
「お、居た」
幹部棟に近づいた時、横合いから井上の声がした。冬乃がはっと声のほうを見下ろすと、
何故か薪を手にした井上が、馬上の二人を少しスス汚れた顔で見上げている。
彼は沖田の背負う土堀用のすきを一瞬、不思議そうに見遣った後、
「書状の処理に手が足りんのだ、ふたりとも来てくれ」
と、まさにもくもくと煙が上がっている裏庭の方向を指さした。
(あ・・)
昨日までに近藤と島田と冬乃で懸命におこなっていた、燃やすべき書状と持ち出す書状に分ける整理は、昨夜なんとか一段落したはずなのだが、何か追加でまたおこなわれているのだろうか。
荷造りが途中だった冬乃は、今朝近藤から「今日はこっちの仕事はいいよ」と言われていたとはいえども、
こんな騒動のさなかに屯所を抜けた事を改めて申し訳なくなりつつ。さてどうするのかと、沖田のほうを見上げた。
沖田が一瞬冬乃に目を合わせてくると、すぐに井上へ承知と返事をし、
冬乃を先に降ろす様子で、冬乃の両脚をふわりと持ち上げた。地面の側へと傾けてくれるのを冬乃は伝って、まもなく足元の砂利を踏みしめる。
「馬を小屋へ戻したら俺もすぐ行きます」
井上へ断りを入れると遠ざかってゆく沖田の背を、冬乃はどうしてもせつなくなりながら見送った。
(うわ・・)
井上と冬乃が早足で到着した幹部棟裏の庭先では。みごとに盛大な焚火祭りが、催されていた。
居残っている幹部の面子が皆して、石の重しの下から書類を取っては、あくせく火にくべている。
もちろん彼らに祭りの意図はないだろうが、
「燃やせや燃やせーい!」
ひとり愉快そうに音頭をとっている原田だけは、そうかもしれない。
どうやら仕分けまでは終わっていて、あとはひたすら燃やしているところの様子だ。
ただ昨日までに冬乃たちで整理した分も未だ残っているような量が、ところ狭しと山積みされている。
(あ)
見渡せば先日から漸く帰屯していた斎藤も参加していた。皆と同じだけ動いているはずなのに、常ながらきっちりと乱れのない襟元のまま、淡々とこなしている。
「総司も後から来るよ」
井上が、手に持っていた薪を火に投げ込みながら皆へと伝える横で、
目が合うなりおまえら何処行ってやがったと言いたげに睨みを利かせてくる土方へ、冬乃は慌てて頭を下げる。もちろん冬乃から何か言う気はない。
(おわった・・・)
そして漸く全てを燃やしきって後片付けまで済ますのに、四半刻以上かかってしまい、
真冬だというのに皆して遂にはほかほかになった身で、各々したくへ戻ってゆくなか。冬乃と沖田は一旦軽食をとるために、広間へ向かうことにした。
昨夜のうちに茂吉たちが、漬野菜や日持ちのする食べ物を今日の行動予定がバラバラな隊士たちのために、好きな時に適当に食べられるようにと広間へ並べておいてくれたのだ。
着いてみると、大分種類が減ってはいたが、冬乃と沖田は好きなものを幾つかは確保できた。
見れば隅には、隊士たちが各々できちんと洗ったらしき、空の小鉢が並んでいる。冬乃はちょっと感心してしまいながら、
引越先の奉行所は今、京都町の管轄となっていて人は不在と聞いているものの、物に関しては処分されず放置されているらしい在庫を借りるはずだから、
あの小鉢も諸々の食器も、組として何処かへ保管を頼むことになるのだろうかと、頭の隅でぼんやり考える。
(ん・・・?)
たしか、預けた先で後日、出火したと記録があったような。冬乃はふと思い出し、土方に伝えておかねばと慌てて脳内に留めた。
とはいえそれでもし無事に済むかもしれない物たちを、隊士達が各々個人で他所へ預けた物も然り、新選組がまた京に戻ってきて使う日はどうせ来ないのだと思えば、冬乃はうら哀しくなる。
「此処じゃなく俺の部屋で食べよう」
つと、沖田がそう言って冬乃を向いた。
(あ・・)
そんな些細な声掛けさえ嬉しくなりながら冬乃は、もちろんすぐに大きく頷いてみせる。
お孝の気配りなのか、幾つか盆まで用意されてあるので、冬乃はさっそく取りにいった先で盆に自分の小鉢や箸を乗せると、沖田の元へ戻った。
「これで持っていきましょう」
冬乃が差し出した盆に、沖田が手にしていた小鉢などを乗せると、そのまま冬乃の手から盆ごとそっと攫ってゆく。
当たり前のように、
そうして冬乃を促して歩み始めた沖田を前に、
冬乃は今日までずっと浸ってきた、沖田と過ごす日々の幸せな気持ちを、漸くなぞるように想い起して。
彼は優しいまま、ほんの些細なひとつひとつの言動も、そうして冬乃を大切にしてくれている彼のままだ。
だから、こんな違和感のほうがやはり間違えで。
冬乃が想像したようにきっと、いま沖田は自身の内面に深く向き合っていて、あれから口数が少ないのさえも、何かそのせいなのだろうと。
己に何度も言い聞かせている言葉たちを冬乃は、そうしてまた胸内に繰り返した。
ふたりはまもなく玄関が開けっ放しの幹部棟に入って廊下を歩み、沖田の部屋の前へ着いた。盆を右手に持つ沖田が、左手で部屋の襖を開ける。
「入って」
先に冬乃を部屋へ入れると、続いて入り襖を閉じた沖田は、部屋の中央へ適当に向かってゆく。
後を追う冬乃を、
盆を畳に置くなり沖田が、振り返り、
瞬間、引き寄せられた冬乃は、分厚い胸板へ頬から雪崩れ込んだ。
(総司さん・・っ)
ふたりきりになった時には、いつも最初にこうして抱き締めてくれることも、
変わってはいない、
胸内を溢れ出すその確かな安息感に、冬乃は刹那に滲んだ涙を咄嗟に目に留め。温かく強い腕の中へ縋りついた。
度々寂しそうな表情で見上げてくる冬乃に。だが何を言う事ができるのか、
冬乃をきつく抱き締めながらも沖田は、相変わらずの答えの無さに自ら辟易し。
冬乃の様子では、やはり早々に何かしら勘づいているに違いなくとも。
(御免)
先程はつい声に出してしまったその想いを、沖田は胸内に繰り返す。
ただ一方では、疑問も過ぎり。
冬乃は沖田と、まさに出逢った初めの時から、既に世がこうなることも、沖田の死期も、
全てを、知っていたはずだ。そこまで知っていてなお彼女は、
此処の世での永住を、沖田と結ばれる事を選んだということではないか。
己はだが、もしも初めから知っていたのなら、冬乃の永住を認めはしなかっただろう。つまりは、
冬乃と想いを通じ合うことも、せず。
そんな沖田の想いとうらはらに、冬乃がそうしてじつに初めから、
その身を脅かすこの先の危険などとうに覚悟の上で、それでも此処の世での永住を望んできたというのなら、
冬乃はあの場で沖田に約束こそしてくれたが、その時が来れば、沖田の願いを聞き入れてくれる気など本当は無いのではないか。
それとも、何か他に、冬乃が未だ沖田に伝えていない事でもあるのか。
つと腕の中の冬乃が、更に沖田へ擦り寄り。その小さな手で精一杯に沖田の服を握り締めてきた。
離れたくないと、
今も全身で伝えてくる冬乃を沖田はたまらずに、よりきつく掻き抱く。
冬乃が。もし本当は此処の世に留まろうとしているのなら、己は何を抑える必要がある。
(冬乃・・・)
いっそ、
只々この愛しい想いのままに抱けたなら、どんなにか。
このさき冬乃が此処の世に居てはその身に迫るであろう事態を思えば、だが一瞬にして掻き消えるその衝動を。今も沖田は、己で廻らす箍の内を毟られるような感情ごと流しきり、
反して常のふたりを求めるように、確かめようとするように、沖田を見上げるなり目を瞑る冬乃を、
沖田を迎えようとそっと小さく開かれる艶やかな唇を、見下ろした。
掠めるような口づけだけが、返され。冬乃は、呆然と目を見開いた。
すぐに大きな両の手が冬乃の肩を支えるなり、冬乃の身は離される。
「食事にしよう」
淡々とした声音が続き。
再び体に心に纏わりだす冷気で、冬乃は震えた。
「総司・・さん」
たまらず呼びかけた冬乃へ、盆の横に座り込む沖田が、「おいで」と一言その胡坐の膝上を叩いて冬乃を見上げて。
優しく冬乃を慈しむような、あの常の眼差しだった。
先の一瞬に蘇った違和感も寂寥も再び、冬乃はむりやりに心の奥へと押し遣り、沖田の温かな膝の上に夢中で滑り込んだ。
伝えられずじまいだった。
元の歴史では今日、伊東一派の生き残りによる、
近藤妾宅で療養していた病床の沖田を狙った、襲撃未遂があった事を。
奉行所の一室を与えられた冬乃の部屋で、
沖田の腕の中、いま冬乃は何事もなく終わった一日を振り返り、そっと息をついた。
そもそもいま沖田が病に臥せてはいないのだから、彼への襲撃自体が起こらないはず、
しかも元の歴史においても未遂に終わったのだから、たとえ何か起こったとしても、同じく何事もなく済むはずと。
そう思ってみようとはしても、
沖田に関してはあまりに今、元の歴史と大きくかけ離れたために、
半年後の避けられないその死期へ向かって、彼がどんな過程を代わりに辿るのかは、もはや未知も同然であり、
言い換えれば、今日も明日もこの先最期までも、
彼にいつどれほどの危険が迫るのか、もう冬乃には全く分からないのだと。
そんなふうに思い至ってしまった冬乃は、内心不安に圧し潰されながら今日一日を過ごした。
(もう総司さんの役に立てないのかもしれない・・)
いま温かな腕のぬくもりに包まれながらも、冬乃は浮かんだその思いに凍える。
この先の沖田の歴史を、予測することがもう出来ないのなら、
彼の望む散り方、生き様へと導くために、冬乃が役立てることはもう何も無いのではないのかと。
もし沖田に、彼の望む最期を迎えることも叶わなくなるような事態が、この先に万一起こるとしたら。つまりその剣を握れなくなるほどの、事態が。
その日その時を、もう予測できない冬乃には、
当然その事態を回避するための情報も何一つ伝える事ができないのだから。
(・・総司さんなら大丈夫・・もしこのさき何か起こっても、総司さんなら・・)
冬乃は、懸命に己に言い聞かせるも、心に一度巻き付いたその恐怖は、冬乃を解放してはくれず。
沖田には、せめて彼の本来の歴史で起こった事を、まともに伝えることからして、もうできないのだ。
その歴史は、今後全て、病ゆえのものなのだから。
どうか気をつけていて
唯そんなことなら冬乃が言う言わないに関わらず、元々沖田は常日頃から充分に警戒をしているはずで、
具体的な事を伝えられないのなら、何の意味があるというのだろう。
今朝も冬乃が唯一口にできたことは、
鈴木達からの報復活動が、本格的に始まる時期であり、
「・・今日、近藤様の件とは別に、総司さんも狙われたとだけ記録があるんです・・お怪我もなく済んだはずですが詳細が記録されてなくて・・・ですから、どうか念のため警戒なさっててください」
そんな、遠回しの言葉だけだった。
「今朝は有難う」
穏やかな声が頬へ直に響き。冬乃ははっと我に返り、顔を擡げた。
「幸い俺もこの通り、何事もなく無傷だよ」
見上げた冬乃の瞳に、冬乃を安心させようと微笑んでくれる沖田が映る。
冬乃は胸内を奔った刹那の辛苦を見せないように急いで頷くと、再び沖田の襟元へ顔を隠しうずめた。
実際は無意味に等しい今朝の冬乃の言葉にも、沖田はそんなふうに言ってくれて、
冬乃はその優しさに救われているけれど、
彼の望む散り方へと無事に導くすべを失ってしまったのだとすれば、それはどうしようもなく冬乃の心に圧し掛かる。
「冬乃」
そっと頭を撫でられ。冬乃は今度は顔を上げられず、返事のかわりに小さく身じろいだ。
「近藤先生の襲撃の件も、改めて、本当に有難う」
(あ・・)
継がれた沖田の言葉は、遂に再び冬乃の顔を擡げさせた。
そうではないか。まだ沖田の大切な人達の歴史ならば、伝えられる事はこの先もある。
そしていずれ明かすべき近藤の最期が。沖田の望む散り方へと導くすべは、そうしてきっと未だひとかけら、残っている。
(私にもまだ出来ることを着実にしていく・・それしかない・・)
たとえば今日は。元の歴史でなら、
沖田への襲撃があった日とともに、近藤が狙撃された日でもあった。
近藤も勿論のこと、無事に帰ってきている。
本来なら今日の襲撃で受けた傷の治療と療養のために、近く近藤は病の悪化した沖田とともに伏見を離れて大阪へゆくのだったが、それも無くなるかもしれない。
今日近藤に襲撃をかけるはずの鈴木達は、現れもしなかったという。
冬乃が伝えた詳細の内容をもって、土方主導で徹底的に先回りした大掛かりな人員配置がおこなわれたことで、
近藤の近辺にはおろか、元の歴史でなら鈴木達が狙撃のために陣取った小屋にも、彼らは近づくことすら叶わなかったのだろう。
衝突自体が無かったために、今日死傷する運命であった隊士達までも、無事に帰って来ていて。
少しばかりずらしてしまったであろうその死期は、それならばまもなくの戦さで、望む散り方のままに迎えられるのであればいいと、冬乃は胸内に祈る。
ただ今日の機会を失った鈴木達が次の機会を狙ってくることを想定し、新選組は引き続き警戒態勢を続けるという。
そうしてもし後日に衝突が起こってしまうなら、或いはその時となるのだろうか。
冬乃には、わからないものの、
かわらず人の死期だけは大きく変えようのない無力感に、もう幾度と胸内を奔った哀痛を、努めて遣り過ごした。
「そろそろ戻るとするよ」
沖田が、冬乃の身を名残惜しげにそっと離した。
この奉行所で沖田は今、斎藤や永倉らと同室で寝泊まりしている。
個室を与えられているのは、近藤と土方、そして冬乃だけで。
つい先日に此処へ移ってから、まだ沖田は一度も冬乃の部屋に泊まっていった事は無い。
この先もずっと無いのではないか、
此処は『屯所』で元々それが当たり前とは分かってはいても、恋しさは募り。
未だ冬乃の心を襲う時折の違和感も寂寥も、冬乃を悩まして止まないというのに。
立ち上がれずに見上げる冬乃の前、沖田が庭の側へ歩んでゆく。
雨戸の合間の障子を開けた沖田は、冬乃を振り返った。
沖田の向こう遠く篝火に照らされた、薄ら藍の外を霧雪が舞っていて。
吹き込んだ凍える風に、冬乃はふるりと身を縮こませる。
「おやすみ」
低く穏やかな、冬乃の大好きなその声は、今ばかりは冬乃を只々切なくさせるだけだった。
「おやすみなさい・・」
冬乃の返事に、沖田は微笑み返すと縁側へ出て障子を引き、ふたりの間を遮断した。
やがて去ってゆく音が消えても、冬乃は長い間、閉ざされた障子を見つめていた。
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