二十五. 灯明の道しるべ⑥
伏見界隈でも、江戸の地でも、旧幕府側と薩長側との諍いは頻発し。
とくに江戸では薩摩による卑劣としか言いようのない挑発が長らく続き、旧幕府側は我慢の果てに遂に薩摩藩邸への制圧を断行するに至って、両者の緊張状態は極限にまで達していた。
そうして祝う事のなき年が明け、
開戦まで秒読みとなった、元旦に。
冬乃は、ひとり大阪城へと居を移すこととなった。
冬乃が、戦さにおいて奉行所は攻撃を受けて大火事になると土方達へ伝えたのち、沖田に問答無用で事前の避難をさせられたからに他ならない。
戦さの内での炎上とはいえ、その手に剣を持ってではなく、奉行所で負傷の手当てを受けている最中に逃げ遅れて亡くなる人達もいるかもしれないと、
その無念を思えば、冬乃は悩みに悩んだあげく、伝えておくことに決めたのだ。
それでもその大火災の原因となった攻撃が、どこからによるどんな類いのものであったか、そこまで伝えることは、断腸の思いで堪えた。
冬乃は伝えている間、もし詳細を土方に追及されれば何とかして断ろうとも身構えていたけれど、反して訊かれることはなく。
土方の心情も、恐らく沖田が言っていた通りなのだろう。
開戦の日について沖田から近藤達に伝わった時も、土方が加えて何か聞いてくることは無かったと。併せて冬乃は思い出して。
遠く、慌ただしい城内の喧騒を耳に、冬乃はぼんやりと障子の隙間から覗く碧空を見つめる。
先ほど冬乃を送ってきて早々に伏見へ帰ってしまった沖田の背が、瞳に焼き付いたままだ。
これから新選組が、旧幕府軍敗退を受けて大阪に引き上げてくる迄、冬乃は此処で不安と恋しさに闘いながら沖田を待つことになる。
遠くから想いを馳せるくらいなら、抗ってでも奉行所に居続けたらよかったのか。
尤も、
伏見が一戦場となることは誰の目にも歴然であって、
冬乃の今日の大阪城入りが、今朝打ち明けたじつに数刻後となったあまりの迅速さから察するに、
どちらにせよ、冬乃を開戦日までには避難させるべく、沖田達によってすでに準備が進められていたような気がしてならない。
(井上様と山崎様に・・最後に一目お会いしたかったな・・)
何を話せるわけでもない、それでも、ただ何かせめて挨拶のひとつ交わせたらと、奉行所を出る直前まで折をみては懸命に探したのに、彼らには会えずじまいだった。
もしもこのまま冬乃は大阪城に、彼らは伏見にいるままであれば、もう二度と会えないかもしれない。
山崎の死期に関しては戦いの直後か、その時の傷により江戸へ戻る最中かは、後世で定かではないのだが、
井上は銃弾に斃れ即死、その地で刀とともに埋葬されたと記録されている。
考えるほどに沈むばかりの気持ちを、冬乃ははっとして奮い立たせた。
気を強く持たなくてはならない。お孝のかけてくれた言葉に、心は後押しされる。
懸命に気持ちを切り替えた冬乃は、
気づけば溢れそうになっていた涙を留めるべく、咄嗟に天井を仰いだ。
(・・・・高・・)
そのままおもわず。唖然と、見上げて。
大名屋敷に引けを取らなかったあの最後の屯所でも、かなり高く天井を取っていたけれど、更に此処はその比でなく。
(さすが・・・将軍の『家』・・・)
大阪城、
その堅牢な外堀に覆われた広大な敷地内の、広大な二の丸内屋敷の小さな一角に、冬乃は居る。
冬乃の居る屋敷の向こう、水の何故か張られていない内堀の囲いと門を超えた先には、本丸御殿があり、
そこには今まさに、徳川最後の“元” 将軍、慶喜が居る。
これから数日のあいだ冬乃は、その時の人の『家』にお邪魔している状況になる。そうでなくても城内に泊まるなど、一生のうちに体験できる日が来るなんて思いもしなかった冬乃は、
様々に心苛まれるかたわらで、現状の落ち着かなさも胸に、はらはらと震える息を呑んだ。
震えているのは、尤も緊張のせいではない。
寒すぎて。
改めて見回すに、冬乃に与えられたこの部屋そのものは、こじんまりとしているのだが、なるほど天井がやたら高いせいで、空間としては広く、それで先程から火鉢が全く機能してくれないのだろう。
少しばかり障子を開けているせいも、あるかもしれないけど。
(とりあえず閉めよ・・)
こんな時は殊更に、沖田の腕のぬくもりが恋しい。
次には冬乃は、この如何にもならない現状を諦めながら、おもむろに立ち上がった。
障子を閉めるついでに、厠へ向かうことにする。動いていたほうがまだましかもしれないと。
場所は聞いてあるけども、万一迷子になって入ってはいけない所へ入ってしまったら、手討ちにでもされるのだろうかと冬乃は困りつつも。
じつは隣にはもう一室用意されており、その部屋には、重要書類などの断じて燃えさせるわけにいかない厳選した物が、既に冬乃とともに避難してきている。
冬乃はそれらを整理しておく任務を負っているので、厠の後にでも取り掛からねばなるまい。
のんびりしている暇は無く。
意を決して、廊下へ出るべく冬乃は、襖に手を伸ばした。
「姫様」
ひいさま、と。顔合わせの先程にも、
これまでは沖田に戯れで呼ばれていただけの“姫” の呼称を、他人から直に呼ばれてびっくりした心持ちを再び繰り返し、冬乃は、その声のした方向の襖を見遣った。
呼ばれ方に、冬乃が慣れるのかは謎である。
その呼びかけの声の主は、冬乃の身の回りの世話をしてくれるという侍女だろう。
沖田が帰ってまもなく、彼女から、“顔合わせ” なのに始終平伏されながらの挨拶を受けて、冬乃は身の縮こまる想いをしたばかりで。
「はい・・」
できればなるべく、面倒をかけたくないというか。
「お食事をお運びしても宜しゅうございますか」
そんな冬乃をよそに、きびきびした声音が襖の向こうから届く。
「あ・・先に、はばかりへ行ってまいります・・」
冬乃はおそるおそる返事をした。
「・・姫様。襖を開けさせていただいても宜しゅうございますか」
「は、はい」
ゆっくりと襖が開かれてゆき、やがて彼女は、また手をついて。
「その節にはお呼び下さいますよう、お願い申し上げます」
(う・・・)
じつは、既に先程彼女からは、
厠にも同行すると、念押しされている。
(だってトイレのたびに、いちいち呼べるわけないから!)
一応場所は聞きだせたので、こっそり一人で行くつもりでいた冬乃は、結局またしても縮こまる。
「これより、ご案内いたしまする」
平伏したままなのに容赦なく告げてくる彼女に、そして冬乃は閉口した。
いや、彼女はもしかしたら、冬乃に彷徨われて入ってはいけない部屋に入られないよう、お目付け役も兼ねているのかもしれない。
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