二十五. 灯明の道しるべ④




 もう帰らなくてはならない刻かもしれない。

 

 自ら身を離す気に到底なれない冬乃は、長く深い抱擁に包まれたまま、ふと息を顰めた。

 

 身動きすら尚も惜しく。

 いっそこのまま死んでしまいたいとさえ、想いは巡る。これきりの二人の家で、沖田の腕の中、この一番大好きな居場所で。此処だけは、どんなに望んでも永遠を得るすべが無いからこそ。

 

 この身の命を終えた先の、漸く約束された真の"永遠" にならば、今確かに救われているというのに。

 

 それでも、もうその時がすぐにでも来てほしい程の待ちきれない切望も、

 その時が来るまでの避けられない長い別離の辛苦も。

 あらゆる想いのすべてが今、胸内で綯い交ぜになりながら、

 

 今はとにかくこのまま一ミリも離れたくない、その苦しい想いをまず何とか断ち切ろうとして冬乃は、遂に己を奮い立たせた。

 

 

 わかっているから。

 冬乃から動き出さないかぎり、ずっと沖田はこうしていてくれるのだと。

 

 

 冬乃は、深く、時間をかけて息を吸い込み。吐くと。

 最後に、ゆっくりと顔を上げた。

 

 すぐに優しい双眸に迎えられ。

 額へと慈しむようにして落とされた口づけに、おもわず目を瞑る。続いて唇にもふれるだけの熱が落ち、

 その熱がそっと離れてゆくのに引かれて、冬乃は瞼を擡げた。

 

 

 いつかの、強く堪えるような眼が一瞬、冬乃を見返した。

 

 冬乃の瞠目を。

 だがその眼は、受け流すように唯、次には微笑んで。

 

 「・・そろそろ出よう」

 続いたその促しは、

 それでも、名残惜しげな響きをともなうのに。

 

 

 (総司・・さん・・・?)

 

 

 両肩を支えられて冬乃の身は、ゆっくりと離される。離れたことで俄かに纏わりはじめる常の、此処の世との疎外感に、

 重ねて、ふたりの間には今、まるで見えない隔たりを置かれたような感覚が、冬乃を覆っていた。

 

 

 それは以前にも、どこかで在った感覚。

 

 

 冬乃の体を抱えて立ち上がる沖田に、導かれるが侭その腕に掴まった刹那、

 更に既視感までおぼえ。

 

 

 もはや冬乃を覆い尽くした違和感で、思考が引きずられ、立ちながら縋るように見上げてしまったのかもしれない。

 

 見つめた先にふと、少し困ったような、何故か苦しげなとさえいえる表情を垣間見た冬乃の、視界は、

 けれども刹那、沖田の襟元で塞がれた。

 それは再びの、きつく強い抱擁で。

 

 (・・あ・・・)

 

 急速に溢れ出た安息の想いに、押しやられた違和感が未だ少し心奥を燻っても、

 こんな抱擁は常にたがわず、惑う冬乃の心の目までも間もなく塞いだ。

 

 かわらず沖田のぬくもりであっというまに溶け去る、此処の世との疎外感と、まるでいま共に押し流されてゆく思考をも見送り、冬乃は、夢中で沖田の背へと腕を回す。

 

 尤も沖田の広い背には回りきらない腕で冬乃は、彼の両脇の向こう定位置を握り締める。

 いっそう抱き寄せられ、圧されて息を零した。

 

 

 なのに。またまもなく冬乃の体は離されてしまい。

 

 離れる熱とともに再び忍び寄った、ひやりと冷たい感覚が、またたくまに冬乃の心を覆い、

 

 沖田からこれ以上離れたくない想いで窒息しそうになるほどの葛藤に、冬乃は再び苛まれた。

 

 

 早まっている。

 生じた感は、冬乃の心を更に凍えさせ。

 

 沖田と肉体のふれあいによって溶け去る、此処の世との氷のような隔たりの感覚は、以前ならば彼から身を離した直後のこんなにもすぐに蘇ってなど来なかったというのに。

 

 (それ・・に・・・何・・)

 

 今は、更に、何か拭いようのない違和感、

 

 沖田との間に置かれたその見えない隔たりの存在をも、やはり確かに感じていて。

 

 

 「近いうち、また戻ってこられるといいが・・」

 

 冬乃は茫然としたままに顔を上げた。応えて冬乃を見下ろしてきた眼にはもう、先程一瞬に見たあの熱の色も無い。

 只々優しく、穏やかなその眼差しをまえに、冬乃の心中は寂しさのほうが勝る。

 

 (あ・・・)

 

 この違和感は、

 

 まるであの時と同じなのだと。

 

 

 遂に思い至ったその感は、そして冬乃を一気に困惑へと陥れた。

 

 

 「いつになるか、わからない・・か」

 庭先へ向かいだす背が呟く、その後ろで、冬乃は息を凝らす。

 

 (これ・・は)

 

 遥かまえ冬乃が想いを告白してしまったも同然だった、上七軒の料亭での時、その直後に受けた一連の彼の反応への、あの違和感とまるで同じではないか。

 

 それは、続く後日に『避けられている』という答えへと、結びついたもの。

 

 

 (で・・も、なんで・・・)

 

 

 沖田が振り返り、冬乃の手をそっと攫った。

 

 そう。あの時と違って、

 いま繋いでくれる手は、こんなにも温かく。

 

 

 「寺にも、・・」

 

 冬乃を見返す眼差しは、こんなにも深く愛情に満ちているのに。

 

 

 (・・・なのに、どうして)

 

 

 

 「何度でも、坊さんに会えるまで行ってみるが、それも出来得て開戦までだろう」

 

 

 (・・・え?)

 

 鼓膜の底へ届いた今の言葉には、冬乃ははっと我に返って、沖田の双眸を窺った。

 

 「念の為聞いておきたい。答えられるなら、教えて」

 

 (あ・・・)

 「開戦は、いつ」

 

 もう今更、隠すことでもない。

 

 「一月の、三日・・です」

 

 「やはり間もなくか」

 教えてくれて有難う、と添えた沖田が小さく溜息をついた。

 

 「これに関しての猶予は無いな・・」

 

 冬乃が元の世へ帰れる方法を探るまでの猶予、という意味だろう。

 

 沖田があのとき感想したように、そもそも雪山にあの僧が来るかどうかも、

 まして僧が冬乃の帰り方を思いつくかどうかすら、分からないなかで。

 

 

 (総司さん・・・)

 

 ただでさえ酷い多忙の中を、これから彼がその薄い希望に賭けて冬乃のために何度も山へ行くというのでは、冬乃はあまりに申し訳なくなって。

 だけど、

 

 「・・きっと、」

 

 沖田の最期を見届ければ冬乃の役目は終わって、帰され、二度と戻ってこられないことを

 冬乃は直観のように予感していて、そしてその予感が正しければ沖田がこれから労力を割く必要もない。

 それを伝えるなど、冬乃にはとても出来そうになかった。

 

 それでは沖田との関係のはじまりから、永住できると誓ったその嘘をずっとつき通し続けていたと、告白するも同然で。

 

 

 とてもそんな勇気までは、持てない。

 

 (ごめ・・なさい・・・)

 

 

 「・・またいつかは・・急に帰されてしまう時が、あると思います・・」

 

 冬乃は沖田の双眸から目を逸らしそうになるのを抑え、言うべき言葉を懸命に紡ぐ。

 

 「その時に、・・今度はもう此処へは戻らないで、向こうに留まると・・約束します・・ので、お寺へは行っていただかなくて大丈夫・・ですから・・・」

 

 

 

 「わかった」

 

 ややあって沖田が頷くのを、冬乃は瞳に映し。震えた己の手をなんとか自然を装って沖田から離し、拳をきつく握り締めた。

 

 

 心のざわめきに、耐えきれず。

 逃れるように冬乃は、そのまま枯山水の庭先へ数歩あゆみ寄った。

 

 沖田が静かに横に立ち。

 そのままふたり言葉もなく。眼前に見渡す小宇宙なら、この家に初めて来た時と変わらぬ紋様を湛えて、そこに在るのに。


 まるで小さな“涅槃” のように。

 

 

 対するふたりの間では何が変わってしまったのか、わからずに。

 

 冬乃は戸惑って再び沖田を見上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう冬乃を抱くことはできない

 

 まともに直視すれば気の狂うような、己へ律したばかりのその決意を

 その通り直視せぬように。沖田は今も思考ごと逸らした。

 

 まさか早くも感知しているかの、度々縋るように見上げてくる冬乃の眼差しからも逸らし、

 

 目前の枯山水を、無理やりに凝視し。

 

 

 冬乃を元の世へ帰す事を最優先と、はっきり据えた先の瞬間から、

 心内に幾重にも張り廻らした、その箍は。

 

 同じく冬乃とのはじまりの頃に律したそれよりも遥かに強固に、それでいて尚、

 やもすれば、早、決壊しそうに軋み。

 沖田はこの先の絶え間なき、最後まで確定された苦渋を想像するまでも無く、心の底から咽せ返る。

 

 

 それでもこの先沖田が、この箍に、堪え続けさえすれば。

 

 

 内縁の婚姻を結んだとはいえ、

 幸か不幸か、まだ二人に子はいない。今冬乃は身籠ってもいないはずだ。

 今ならまだ、冬乃を此処の世に縛り付ける状況が、無いという事。

 

 

 (・・そして)

 

 冬乃の先の長い人生を、沖田との夫婦の契りに縛り付けることも、また無い。

 

 

 沖田の後を追う許しを訴えてきた冬乃を、二の世の誓いに託して引き留めようとこそしたが、

 もとよりその再逢への祈りは沖田の本心からの願いである一方、

 

 これからも生き続ける冬乃が、いつか新たな幸せを見つける日が来たならば、

 その時には、己に気兼ねせずその幸せを掴んでほしいと。

 

 

 そんな願いまでも伝えることは、先程の思い詰めた冬乃を前にしては叶わず。

 

 もし、冬乃がそんな沖田の想いを、朧げにでも感じ取っていた上であの訴えだったのならば、尚更に。

 

 

 冬乃にとっての幸せが、だが果たして本当に、この先も己との契りと思い出の記憶に寄りすがり生きてゆくことなのか、

 

 沖田には、答えが出なかった。

 

 

 

 ――子に関しても、また。

 

 

 『俺達の子を冬乃に遺したい』

 

 冬乃が覚えているかは分からないが、そう胸の内を冬乃へ伝えた時の事を思い起こす。

 

 異なる世の存在である二人が子を授かってはどうなってしまうのかと、不安な想いを冬乃が打ち明けてきた時、己が最後に結んだ言葉だった。

 

 それは今も、沖田にとって真の望みであり続け。

 そして、決してもう叶う事はない望み。

 

 

 あの時、

 この人智を超えた奇跡の中で、二人が子を授かるならば授かる、授からぬのならば授からぬ、成るように成るそれだけの事と。

 此処の世を選び生きてゆく冬乃の、抱えた不安をそうして沖田は少しでも和らげようとしたが。

 

 だがそれも、あくまで冬乃の永住を前提としたからこそ。

 

 この先、もし元の世へ冬乃が永久に帰る機会を得たその時に、

 もしふたりの子が誕生しているのなら――それがどんなにもうひとつの奇跡が成した事であろうとも、属する世は『生を受けた此処の世』であるはずの、その存在を、

 共に冬乃の世へ連れて帰ることが、はたして叶うものなのか。

 

 あの僧が話していたように冬乃の行き来が、世のことわりすら超越した真の奇跡だというならば、

 冬乃の身に許されているその奇跡は、ふたりの子に対しても与えられるのだろうか。

 

 だが人智を超えた世のしくみをどう解釈し、成るように成ると捉えようとも、

 所詮、人の想像でしかないその勝手な解釈に、元来不可能であろう事象までを希望的に委ねていいものでは無い。

 

 

 仮に、冬乃が此処の世の者に子を託す選択肢を採れるのならば、或いはそれが現実的な解決になるかもしれずとも、

 その選択を冬乃が心より望むとは、到底思えず、どころか、冬乃がどんなにか苦しみ、最後に何を優先するかなど、目にみえて明らかな事。

 

 なればこそ、冬乃が此処の世を必然的に選ぶようなその状況が、元の世へ帰る機会を迎えた時に残っていては決してならないだろう。

 

 

 

 「・・・」

 

 逸らしたはずの思考は、気づけば延々と胸内を堂々巡りしていることに。

 沖田は次には嘆息した。

 

 視線を合わすを諦めていた様子の冬乃が、ふと再びこちらを見遣るのが、視界の端に映る。

 

 

 

 

 

 ――なんでもない、と。

 

 冬乃をやっと向いてくれた沖田の、その眼が力なく微笑った。

 

 すぐにまた、どこか苦しげなままの眼差しは冬乃から逸れて、二人の前の枯山水へと戻ってゆく。

 

 

 (総司さん・・)

 

 なんでもないと、沖田は言っても、今の溜息が気になったままの冬乃は、彼のやはりどことなく辛そうな横顔をそっと窺う。

 

 おもえば彼にとってあまりに辛い未来を、ここにきて多く伝えてしまった。

 冬乃との間に今、何か隔てるほどの距離を感じさせる訳は、もしかしたら沖田の心がそれほどに心の内側と漸く向き合いはじめたからだとしたら。

 つい先程までは冬乃の荒れた感情に向き合うことで、沖田は自身の心は後回しにしてしまっていたのかもしれないと。

 

 冬乃の先の訴えだって、沖田は受け止めて冬乃を支え救ってくれさえしたけれど、

 反面に彼の心の内には鉛のような辛苦を、落としてしまったりはしなかったか。

 

 辛い、死にたいと、貴方を追わせてと。そんなことを、伝えてしまったのだ。言うべきではなかったはずの言葉たちを、幾つも。

 

 それなのにあの時の沖田の答えに、今こんなにも自分だけが救われているなんて。

 

 (・・ごめんなさい・・・)

 

 「総司・・さん」

 

 おもわず指先を、震えるままに横に立つ沖田へと必死でのばした。

 届いた先で、冬乃は横抱きのようになりながら懸命に沖田を抱き締める。大きな体は冬乃の腕にはまるで納まらなくても。

 

 「・・冬乃」

 少し驚いたような声が降って、抱き締めたかったのに結局縋りつくような姿勢になってしまった冬乃の、頭上をそっと、沖田の対の側の手が撫でた。

 「どうしたの」

 

 聞いた沖田は、だがまた常のように、答えられないでいる冬乃へ問いを追わすこともなく。

 只かわらず深く愛情の籠められた手が、再び冬乃を優しく大切そうに撫でてくれる。

 

 そう、

 

 (避けられてるわけない・・・)

 

 あの頃と同じ違和感など。きっと勘違いで。

 

 

 

 

 「――御免」

 

 

 (え・・・?)

 

 冬乃の肩へと下った温かな手に抱き寄せられながら、

 冬乃は咄嗟に沖田を見上げていた。

 

 何故いま謝られたのか、わからず。

 

 

 だけど捉えどころのない彼の双眸が、静かに冬乃を見返しただけで、

 そのまま振り返り玄関のほうへと向いた。

 

 「行こう」

 

 

 「・・は、い」

 

 

 優しいままの手に引かれ。冬乃は歩んでゆく沖田の背を見上げながら、問う言葉も、かける言葉も失い、

 

 もうきっと二度と帰ってくることのない、この家の隅々を見納めることも忘れ。ふたり初めて結ばれた寝室を、あっというまに通過して、何度も沖田の帰りを待ち食事を準備した土間も素通りして、

 

 二人は、呼び寄せた馬に乗り、

 家を後にした。

 

 

 

 







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