二十五. 灯明の道しるべ②



 「家へ寄って行こうか」

 

 不意に落ちてきた言葉に、冬乃は沖田を見上げた。

 

 「伏見からなら遠くはないが、これからはあまり帰っていられないだろ」

 

 確かめるように冬乃を見返した沖田へ、

 冬乃は咄嗟に返事が浮かばずに只、慌てて頷いて。

 

 

 もうあと少しで京に入ることすら、できなくなる

 

 脳裏をよぎった言葉も、呑み込んでいた。

 

 

 

 今回の一連の移転は、

 先日ついに王政への復古号令が成されたため。

 

 大政奉還後も朝廷からの委任により勤めていた『将軍』を、これにより名実ともに降りた慶喜が、京の二条城を出て大阪城へと移り、

 

 新選組は“元” 将軍不在時の要所固めを任命され、二条城そして最終的に伏見奉行所へと移転することになったのだ。

 

 

 慶喜が在京の家臣団や会津などを引き連れて都落ちさながら京を出たのは、即時開戦の事態を避ける為でもあった。

 

 このたびの王政復古に附随した、慶喜に対する薩摩の推す領地返還や政治不関与など諸々の要求は、

 理不尽が過ぎるとして、旧幕閣や会津等の佐幕派が遂に「薩摩討つべし」と声高に訴えるようになっていたからで。

 

 これまで彼ら旧幕府側が反幕・討幕側に募らせてきた憤りからすれば、無理もなかった。

 

 この後に激化してゆくこととなる、薩摩首謀による挑発的な数多の暴動も、

 初めの頃こそ、これらは激派の勝手な活動であって薩摩内で実権を握る主導層はかわらず親幕派なもの、とばかり世間には印象づけられてきたのだが、

 

 その主導層こそが激派の側であった事は、今や大々的に知れるところとなり。

 故にこれ迄の暴動も謀略も、蓋を開けてみれば薩摩の藩としての意向も同然であった事、

 

 ましてそんな親幕の仮面をとうに見破っていた一部の者達からすれば、薩摩のその狡猾とすら呼べるふるまいと、

 長州の赦免を含め、反幕的な勅旨朝命の類いを彼らが昵懇の公家宮家を通じて“幼帝を操り” 引き出してきた事実は、すでに赦し難く、

 

 その上ここにきて極めつけに今回の徳川・旧幕府に対する過剰な要求とあっては、

 

 当の本人の慶喜ですら、家臣たちの激昂を鎮めきるすべなど最早、持たなかったのである。

 

 

 共に手を取り合い新体制を築く事など、こうなっては不可能であり、決着をつけねば日本国に泰平が訪れることはない

 薩摩を加えた『討幕側』を一掃すべし

 

 そう息巻く家臣たちへ、

 慶喜は「いずれ」と濁しながらも、戦争に向けた心構えを見せたという。それが本心ではなかったとしても。

 

 ただし、帝のおわす京の地で起こってはならない

 そう説いて慶喜は彼らを引き連れ、京を出た。

 

 

 

 もしも。

 せめて二条城の警固に新選組が参画し続けていられたなら、

 そうして帝の居る京の側に、留まっていたのなら。

 この後の歴史の流れすら変えるきっかけを、或いは生んでいたかもしれない。

 

 だけど現実は、新選組は京を出て伏見へ向かい、二条城に留まったのは、己らの権威をもって城から新選組を追い出した水戸藩。

 

 ――あの天狗党の悲劇を生んだ藩であり、慶喜の生家、

 

 だが、このころ京に居た水戸藩士たちを『徳川』寄りと、反幕府寄りとに大別するならば、

 彼らは、後者だった。

 

 慶喜は当然にそれも承知で。むしろ“新政府” 側を刺激しないためにも、

 元々反幕(ただし討幕ではない)の立ち位置の彼らを、適任と定め託したのだろうか。

 

 

 だが京に残った彼ら水戸藩士たちは、やがては討幕側へつくことになる、

 

 開戦ののちに。

 

 そうして京の側に、旧幕府の主要な戦力がひとつも残留していなかった事は、

 敗因の大きな一つとなって。

 

 京の地は、帝は、完全に討幕側の“手中” に落ちてしまう。

 

 

 その時は近く。

 

 (まだあとほんの少し日は残ってる・・けど・・)

 

 きっと、今日が最後の訪れになるのではないか。

 ふたりの家への。

 

 

 

 「総司、さん」

 

 ふたりとも荷物はいつも屯所から持ち込んでは持ち帰っていたので、家に荷造りが必要な物は特に無いはず。

 だけど、

 

 (伝えたい・・)

 

 冬乃は応えて見下ろしてきた沖田の目を見つめ返した。

 

 もしかしたら今日が、家に帰れる最後の機会かもしれないんです


 

 言いかけた冬乃は。だけど、咄嗟に口を噤んだ。

 

 (・・だめ)

 

 それを、言ってしまえば。

 京にはもう戻らない未来が待っている、と告げてしまうも同然ではないか。

 

 そして、旧幕府側の新選組が京の地には戻らない、それがどういう事を意味するか、当然に伝わってしまうだろう。

 

 「・・・ごめんなさい、なんでもない・・です・・」

 

 

 (伝えるものの選択を間違ってはだめ・・・)

 

 そもそも冬乃が何を伝えようとも、

 旧幕府軍を戦さに勝たせて明治維新を覆すことは出来ないというのに。

 

 たとえいっときその場の戦さを勝利に導けたとしても、巡り巡って、行きつく先の結果は元の歴史の流れへと収束してしまうだろう。

 

 この歴史の大流に抗うすべなど無いと。もう思い知ったではないか。

 

 却っていたずらに流れをかきまぜれば、

 戦いのなかで迎えるはずだった、彼らにとっての栄誉の死を、その運命を、別の死に変えてしまう可能性だってある。

 

 それは、冬乃の最も懼れている事で。

 


 尤も、既に歴史に新たな波を生じている沖田の存在が、別の流れを生む過程で、その可能性を引き起こすことも当然にあり得る。

 または、その逆も。

 つまりこのさき冬乃が成そうとしている事を、後押ししてくれる可能性もあって。

 

 彼によってもたらされるかもしれない数多の影響だけは、冬乃にも予測しようがなく。

 

 それでも彼が仮に、新選組に関わるこの先の戦況をすべて好転させ得たとしてさえ、遥かに多くの存在と意志が関わる歴史の大流だけは、変えられないはずなのだ。

 そして冬乃もまた、それだけは変えるすべを持たなくとも、

 

 この先を知る冬乃の、その言動であれば、確実に、向かう数多の波をかき乱すまでは出来てしまう事なら予測できて。

 それも、

 既に伊東一派、新選組、そして討幕側の三者が関わった歴史を別のかたちに変えてしまえた程に、決して小さくはない流れをも。

 

 

 (だからこそ・・私のすべき事は、許されている事は・・なにも変わってない。“かき乱し方” を間違えるわけにはいかない)

 

 それは、これからの出来事を沖田たちに包み隠さず伝える事でも、まして戦さのための情報を事細かに伝える事でもない。

 

 それを忘れてはだめだと

 冬乃は、幾度となく己に言い聞かせた言葉を胸内に繰り返し。

 

 

 まもなく開戦とともに、何人もの新選組隊士が戦いの中で散ってゆき、そのなかには井上や山崎もいる。

 それを知っていても冬乃が彼らのために出来る事は、きっと何も無い、

 これまでのように。

 それが彼らの望む死のかたちであるかぎり。

 

 一方で戦いの中ではない、切腹でもない、伊東のように暗殺による死も然り、其々の望まぬ死の運命を背負う人達、

 冬乃が変えられる、導ける可能性のある歴史は、そんな彼らの最期だけ。

 

 (だけどそれだって全てが叶うわけじゃない・・)

 

 伊東の時のように。いくら新選組の仲間からの誤解は免れたとはいえ、そして恐らく伊東自身は知らなかったとしても、彼を殺したのは彼のもうひと方の仲間だった。

 

 何より伊東は未だ道半ばで、

 望まない最期であったことに、無念の最期であったことに、やはり変わりなかったのではないか。

 

 

 僧の示唆した通り、その者の最期に関わる者が多ければ多いほど、その波は容赦なく押し寄せる。

 

 

 (だから・・同じように)

 

 旧幕府側の揺るがない砦であり、討幕側にとって討ち取るべき絶対の対象である仇敵新選組の、

 局長、近藤勇を。

 元の歴史の波から救い出せるのかが。

 

 

 決意と一縷の希望の傍らで、冬乃は漠然としたその不安を拭えずにいる。

 

 

 

 

 つと馬が嘶き。

 

 

 冬乃は、沖田の双眸から目を逸らした。

 

 いつのまにか馬の走りが遅められていた事に、気付いて。

 

 「冬乃」

 心配そうに呼ばれ、冬乃はどきりと再び沖田を見上げていた。

 

 「言っておくけど・・俺も土方さんも、たとえ戦さが始まろうと先の事を逐一冬乃から聞き出す気は無いから」

 

 (・・え)

 冬乃はもう目を逸らせないまま、

 「冬乃が俺達に伝えられないと思う事は」

 そう継ぎ足す彼の声に耳を傾ける。

 

 「これからも当然言わなくていい。そしてそれを気に病むこともない」

 

 (総司・・さん・・)

 

 「第一、冬乃から何を聞き、何を試みたところで」

 沖田が一呼吸置き。

 

 「此の国の行く末が、変わらぬのならば」

 

 冬乃は息を呑んで、沖田の眼を見つめた。

 

 「その結末も、それ迄の道も、知っておく事に何の意味がある」

 

 

 (・・あ・・・)

 

 「さしずめ、とうに覚悟ができて“開き直った” 土方さんなら最早、」

 沖田の穏やかな眼差しが、つと微笑った。

 

 「如何しようとも変えられぬ行く末なら、それ迄は己の命の限り好きなように暴れてやる、何もかも知っていたらつまらねえ、といった心境だろう」

 

 

 冬乃は。おもわず涙が溢れそうになり咄嗟に目を伏せた。

 

 いつかに歴史の行く末について土方に聞かれ、手討ちにしてくれていいと跳ね退けたあの時も、

 今に至るまでの選択をも含めて、

 そうして冬乃がこれまで懸命に悩んで決めてきた事は、間違っていないと。

 

 そう、肯定してくれるかのようで。

 

 

 「ただ近藤先生の狙撃の件のように、」

 そんな冬乃を抱く腕が、そっと強まった。

 

 「この先、俺達の働きかけ次第で変えられる可能性がある事に関しては、最善の道を採る為に、これからもできれば聞かせてほしいと思っている」

 冬乃は反射的に顔を上げた。

 「それは勿論ですっ・・」

 

 「同じように、」

 沖田がその深淵の眼差しで、冬乃を見返す。

 

 「俺の『死期』についても、ね」

 そして少し困ったように微笑む沖田を、

 冬乃は見上げたまま。息を凝らして。

 

 「それ自体は変えられずとも、それを知っておくことで俺の今後の行動における判断を変えることがあれば、結果、他の何かを変えてゆけるかもしれない。近藤先生に関わる事も、・・冬乃に関わる事も」

 

 

 (え・・・?)

 

 「勿論どうなるか分かりようもないが、それでも」

 

 常の、冬乃を慈しむ沖田の眼差しが、冬乃の見開いた瞳に映り。

 

 (私に関わる事・・て、どういう・・意味なの・・・?)

 

 

 

 沖田が、つと視線を上げ、馬が更に減速したのを冬乃は次には感じた。

 手綱を引いた沖田の手が視界を横切り、馬は横の小道へと入ってゆく。

 

 「もうすぐ麓だ」

 沖田が前方を見ながら教えてくれる。

 

 「これからまた少し飛ばすから、続きは家で話そう」

 そう言うと沖田は、馬の速度を再び上げた。







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