二十五. 灯明の道しるべ①





 今生の別れになるかもしれなくても

 

 いつの時も、さよならの言葉だけは誰もが口にしなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新選組が遂に屯所を完全に引き払う前夜。

 使用人たちは最後の仕事を早めに終わらせると、近藤の部屋へ集まった。

 

 

 「此度の事、急でまことに申し訳ありません」

 

 皆を前に深く頭を下げた近藤に、使用人たちも慌てて頭を下げる。

 

 新選組の次の行き先は伏見奉行所であり。新選組の引っ越しには再三つきあってきた彼らも、今回はさすがに同行できない。

 

 「全てが片付いたら、この屯所に戻って来たいと考えています。だが当分の間は留守にするより他なく」

 

 つい先日までも、いつ戻れるかは分からぬ中、新選組は慌ただしく主要な荷物だけ携えて二条城に詰めていたばかりだった。

 その後は更に他所へ移動しつつ、結局は数日で戻ってきたのだったが、


 明日からの伏見行きにおいては、京を出る事が確定したうえ戻りの期限はおろか目途すら全くみえず、使用人たちに留まっていてもらう道理がもう無かった。

 

 

 「面目次第もござらぬ・・」

 

 繰り返された哀しそうな近藤の詫びの声に、茂吉が顔を上げて、とんでもないと首を振って返し。

 

 部屋の隅で冬乃は、滲む涙を堪えながらそんな茂吉たちの背を見つめた。

 

 冬乃が此処の世へ来た、そのじつに初めの日から、

 茂吉や藤兵衛そしてお孝とはずっと、共にこの新選組で働いてきた。その日々が今、ひとつひとつ記憶を巡って、堪えている涙の堰をともすれば崩してしまいそうになる。

 

 「皆々様には、此れまで言葉に尽くし難い程、大変お世話になりました」


 やがて近藤がそう言うと膝を進め、茂吉たち古株三名の前にひとつひとつ丁寧に包みを置き始めた。

 

 冬乃も急いで立ち上がり、茂吉たちの後ろに坐す、西本願寺の頃に新たに入ってきてくれた使用人たちへと、あらかじめ近藤より託されていた包みを渡してゆく。

 

 「思いのままお渡ししたい程に包むことが叶わず、お恥ずかしい限りですが・・こちらを当面の金子として受け取ってはいただけないでしょうか」

 座り直した近藤が、そして恐縮したような表情で言った。

 

 組からの用立てに重ねて、近藤土方個人の給与からの心付も上乗せされ、ことに茂吉たち古株三名には彼らの向こう一年分の給金に匹敵する額を包んでいるが、

 近藤からすれば、これまでの感謝と突然のお暇にたいする詫びには到底いたらないと思っているのだろう。

 

 一方で、畳に置かれた厚みのある包みを目にした茂吉たちは、驚いて顔を見合わせた。

 

 「こないにいただけません」

 茂吉が焦った様子でいつも以上の早口で口奔り。

 

 「しかし」

 今度は近藤が、隣の土方と顔を見合わせる。

 

 「でしたら、こちらは“予約金” も含ませてもらっていると、思っていただけませんか」

 つと土方が茂吉たちへ向いて、珍しく微笑んだ。

 

 「いつかまた我々が此処へ戻って参った暁には、貴方がたにもどうか戻ってきていただきたく」

 「ああ、その通り・・!」

 近藤が合わせて破顔し。

 

 「ぜひそうお受け取りいただきたい・・そしてまことに、できればまた戻ってきてはいただけないだろうか」

 

 「それは、もちろんでございます」

 「お戻りをお待ちしております」

 すぐに茂吉たちが口々に答えて。

 

 「では・・有難く頂戴いたします」

 

 改めて代表して礼をする茂吉に継いで、藤兵衛たち皆も畳へと両手をついた。

 

 

 

 

 

 支度を終えていた茂吉たちを門前で見送り、涙の滲んだままに冬乃は、女使用人部屋に戻って荷物をまとめているお孝を手伝いながら、

 いつもとかわらず楽しげに世間話をし続けてくれるお孝の明るさに、内心救われていた。

 ゆえに。

 

 「うちは、お武家はんの事情はよう分からしまへん。せやけど、・・冬乃はんは何があっても、死んだらあかんえ」

 

 荷物をまとめ終えて立ち上がったお孝が突然放ったその言葉は、

 冬乃を瞠目させ。

 

 

 咄嗟の事に声も出せずお孝を見つめる冬乃に、お孝が悲しげに首を振ってみせた。

 

 「大きな戦さになってまうかもしれへんのやろ・・組のお方々は気い張りつめてはるよに見えるし、冬乃はんはこのところずうっと思い詰めた顔してはったさかい」

 

 (え)

 

 「これから何があっても冬乃はんは、・・貴女を喪うたら悲しむ・・苦しむ人のため思うて、生きてあげなあかんえ」

 

 刹那に母の顔を思い浮かべた冬乃は、息を呑んだ。

 

 「江戸に居てはる親御さんのこと、苦しめたらあかん」

 冬乃の心内の揺れを分かりきっているかのように、お孝が言い直して。

 

 「・・教えてください、」

 冬乃は。おもわず呟いていた。

 

 「そうして・・生きることで、私が苦しみ続けることになっても」

 

 ずっと、心の奥底に沈んでいた、その問いを。

 

 「・・それでも、親は私に、生きていてほしいのですか。苦しくても生きなくてはいけないのですか・・・」

 

 

 「悲しいこと言わはる」

 

 お孝が瞳を涙ぐませて小さく溜息をついた。

 

 「そないなこと子に言わせてしもうたら辛いわ。申し訳のうなる・・」

 まるで我が子からの言葉を受けたかのように、酷く辛そうな声を零し。

 

 「せやけど、月並みな言い様になってまうけど、いつかはきっと状況が良い方に変わる時も来るかもしれへんて、踏ん張っていてほしいの。・・無理に動かんでもええ、ただ生きようとしていてほしいの。

 そしていつかはまた、生きているからこそ出来るはずのいろんな事を楽しめるよになってほしい、そないに幸せもまた掴んでほしいんよ」

 

 「けど、そうやね・・子にどないに辛くても必死に生きててほしい言うのは、きっと親のわがままやわ・・・」

 

 「もし・・」

 お孝が尚、悲しげに目を伏せた。

 「親としてやなく、一人の人として言わせてもらうんやったら、」

 

 「・・授かった命やから、何が何でも大事にせなあかん粗末にしたらあかん言うのは道理やろけど、それぞれにいろんな事情もあるいうのに・・それやのに、どないな事があっても苦しみのたうちまわってでも生き続けろやなんて、・・それはそれで、そないなこと強いるんは鬼やて思う・・」

 

 「矛盾しとること言うてるけど・・」

 「いえ、」

 冬乃は慌てて首を振った。

 

 どちらもお孝の心からの言葉なのだ。

 親として、子には生きる希望を諦めないでほしい、一方で他人が誰かに深い苦しみの中でも生き続けろとは、強制できるはずもないと。

 

 そして、

 それでも。冬乃には生きてまた幸せを見つけてほしいと。

 

 そんなお孝の気持ちが、沁み入るように伝わってきて。

 

 

 「有難うございます・・、」

 

 冬乃は小さく俯いた。

 「・・こんなこと聞いてしまって、ごめんなさい」

 

 「うちが言いだした事や。せやけどほんに、気を強う持っててな。・・戦さになったら、大切な人達にいろんな事が起こってまうかもしれへんけど・・そこで踏ん張らなあかん」

 

 

 (お孝さん)

 

 冬乃は深くお辞儀をして返した。

 

 

 踏み止まれる自信は、日ごと欠けてゆくけれど、

 お孝の言葉は、その時が来て思い出せるのだろうか。

 

 生きる気力も、死ぬ気力すらもきっと、無くなってしまうなかで、

 

 それでも想いに押された最期の力が冬乃を突き動かしてしまうだろう、その時に。

 

 

 

 

 

 

 「ほな・・また会う日まで元気でいてね」

 

 「お孝さんも・・」

 

 宵闇のとばりが降りた空の下、門前まで見送った冬乃を振り返り、お孝がにっこりと微笑んでくれる。

 

 最後はまた笑顔を見せてくれたそんなお孝に、冬乃は精一杯、笑顔で返そうとした。

 

 「ややわ、泣かんといて」

 「すみませ・・」

 全く成功しなかったけども。

 

 「・・これまで本当にありがとうございました・・」

 「うちこそほんにおおきにな」

 もう何度目になるか分からない感謝の辞を尚言い足りずに繰り返す冬乃に、そしてお孝も何度も返してくれながら、

 

 「ほな・・行くね」

 やがて、意を決したように一歩前へと歩み出て。

 

 

 幾度も振り返って手を振ってくれるお孝が、遠く道の角を曲がって見えなくなっても、冬乃は長く佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 引っ越し先が奉行所なだけに、今回新選組は持ち込む荷物を最小限に抑えるべく、いわゆる現代語でいう断捨離、を敢行した。

 

 今朝から、組や各々が呼びつけた古物買取業の人々と、ニワトリや豚たちを引き取る農家の人々、更にはどこで聞きつけたかツケ払いの取り立ての人々までもが押し寄せて、組の門前はごったがえし、庭のそこかしこでは物を燃やす煙がひっきりなしに上がっている。

 

 荷物の少ない身軽な隊士などは雑務を押し付けられぬうちとばかりに、既に早朝から出立してしまったらしいが、

 大半の居残りによって現在発生している屯所じゅうの騒ぎを、遠く耳にしながら、冬乃はというと、

 

 近藤の付き人としての職務もあるうえ、将軍御目見である近藤の娘つまり『姫』の身の上でもあるとのことで、非常時の内々の特例で奉行所内に一室を与えられたものの、

 やはり持ち込む荷物は同じく最小限に留めなくてはならないために、今や四つに増えた行李の前で。

 唸っていた。

 

 

 初めの頃に沖田に買ってもらえた着物たちの他にも、時々沖田と町へ“デート” しに出かけた際に買ってもらえた高価な着物は、今や十着を超えていて、これらだけはなんとしても持っていきたい。

 

 一方で替えを含めた作業着たちは、きっともう使うことはないだろうから、長く着てきて愛着があるところ苦しいけれど、今回捨てていかなくてはならない対象だろう。

 

 (問題は・・)

 

 平成から冬乃が着てきた服たちである。

 なにより、

 

 (携帯とお財布)

 

 をどうすれば。

 

 彼らがこっそり鎮座する行李の奥底を覗き込みながら冬乃は、そうして朝から固まっている。 

 

 服はまだ、燃やす手があるだろう。

 だけどお手頃人工革の、たしかPVCレザーという素材が使われている財布や、携帯電話、そしてかつて千代に使った薬の入れ物のプラスチックゴミなどは、果たして燃やして済むものなのか。

 

 この小さな一角で大気汚染が一時的に発生してしまうのは人払いでがんばるとしても、

 

 (跡かたなく・・ってことにはならないだろうし・・・だいたい携帯なんて爆発しそう)

 

 しかも万一、後世で見つかり成分分析でもされようものなら、これらの残骸だと分かってしまうに違いない。

 いずれも江戸時代には絶対に在り得てはならない人工物だというのに。

 

 (オーパーツになっちゃうじゃん・・)

 

 もう、どうせ残ってしまうならわざわざ燃やさずに、このままどこか掘り返される心配の最も少ない場所へ埋めるのでもいいのではないか。

 

 

 そうして。

 そんなふうに考え出してからのち、ずっと候補に浮かんでいる唯一の場所を、

 

 冬乃は遂に腹を決め、沖田へ相談することにした。

 

 

 

 

 

 

 「近いうちもう一度訪ねておきたかったから、丁度いい」

 今から行こう

 と、冬乃の相談を聞くや否や、沖田が腰を上げた。

 

 (よ、よかった・・)

 文机の上へ昼九つには戻る書置きを残し、早速部屋を出る沖田に続きながら、

 彼がこの混乱の中を抜け出す時間があるのか確信が持てなかった冬乃は、ほっと胸を撫でおろす。

 

 だが、

 「あの坊さんが今日、居てくれればいいが」

 居なければ俺だけ後日もう一度訪ねる、とまで言う沖田の背を、冬乃は驚いて見上げて。

 

 「どうしても聞いておきたい事があってね・・」

 見ずとも冬乃の吃驚に答えるかのように、前を行くままの沖田が訳を継ぎ足した。

 

 (聞いておきたい事・・?)

 

 「それにしても。その発句帳入れ、俺もてっきりべっ甲で作られているのかと思っていたが、違ったんだね」

 

 (あ)

 互いに少しばかり急ぎ足で歩みを進めながら、沖田が遂に冬乃を振り向いて微笑んだ。

 

 「はいっ、そうなんです・・」

 

 あの廃寺の、桜の木の下へ埋めたいと。

 冬乃が切り出した時、

 

 風呂敷に包んで持って来た携帯たちを沖田に見せながら、実はこれらの素材は未だ此処の世には存在していなくて、かつ燃やしきることができない特殊な物なのだと、

 

 冬乃の『世の移動』も本来起こりえる事ではないために、後の世でこれらが万一発見されては大騒ぎになるから地中に隠したいのだと、打ち明けたのだった。

 

 

 いつかの、初めて沖田と呑みに行き、あまりにも冬乃がしどろもどろで答えられなかったあの夜があったせいか、

 何かあまり聞いてはいけないものとでも認識されてしまっているらしく、おもえばあれから母親の話以外でまともに冬乃の世での出来事が話題に上がった記憶が無い。

 

 依って当然、素材云々以前に、携帯電話やら何やらの現代文明自体についてきちんと沖田に話した事も、一度も無いままだ。

 尤も話題に上がったとしても、どう説明したらいいのかも冬乃にはそもそも分からないのだけども。

 

 たとえば、月に行けるんです。なんて言ったとして、きっと沖田なら疑わずに興味深く聞いていてくれるだろうけれど、じゃあ具体的にどうやって行くのかを冬乃が上手に説明できる自信は無い。

 

 (そいえばスペースシャトルって何の“素材” でできてるの・・たぶん鉄じゃないだろうし・・)

 

 最早そんな事を思い巡らす間に、馬小屋に到着した。

 

 

 

 沖田がよく好んで乗っている黒い馬が一頭、沖田を見てまるで自分の出番だと分かったかのように嘶いた。

 

 漆黒の豊かなたてがみが美しい。

 沖田も迷わずその馬へと向かってゆくのへ、冬乃はそっと後に続く。

 

 「冬乃」

 

 馬に飛び乗った沖田に手を差し出され、冬乃はどきりとして馬上の沖田を見上げた。

 

 手を渡せばがっしりと力強く掴まれて、沖田の伸ばされるもう片方の手に冬乃の背も支えられる。

 

 沖田が冬乃へと大きく傾けていた姿勢を戻しながら冬乃を引き上げ、

 そのまま冬乃は最後に彼の上でくるりと回されて腿上へ滑り込み、その横座りの定位置に落ち着いた。

 

 この黒馬は、新選組の所有する中で一番体格の良い馬で、それなりの高さなのに、

 その位置から馬に乗ったまま軽々と冬乃を持ち上げる沖田の力強さには、あいかわらず何度引き上げられてもそのたびに驚かされる。

 

 しかも今なんて、途中で立ち寄った倉庫から拝借してきた土堀用のすきが、沖田のたすき掛けした背に背負われており、ただでさえ身動きがしづらいはずなのに、全くそんな様子など微塵も無いのだから。

 

 

 「さてと」

 沖田が部屋を出る時に持ち出し、いま一時的に馬の首へ掛けていた褞袍を拾い上げると、冬乃を大きく覆うように被せてくれた。

 

 「今日は飛ばすから、しっかり掴まってて」

 言いつつも沖田の片腕は冬乃の胴を抱き寄せ、冬乃がその腕に掴まらなくとも冬乃の体はしっかりと支えられる。

 

 

 沖田が片手で手綱を捌き、馬は早くも助走をつけて走り出した。

 

 

 

 

 

 

 流れる景色は純白の一色。

 

 沖田の温かな胸板へと、冬乃はふかふかの褞袍に包まれる横頬を寄せながら、朝の光に煌めく一面の光景に先程から感嘆の溜息を零していた。

 

 目の前を水平に横切ってゆく粉雪の数が、徐々に増えている。

 山の中腹へ近づいているのだろう。

 

 そしてそれなら、あと少しで廃寺に着くのかもしれないが、冬乃には今どこを走っているのか皆目判らなかった。

 

 唯、馬は獣道の斜面を勢いよく駆け上り続けている事は確かで。

 

 そういえばそんな馬上なのにちっとも悪酔いしないのは、沖田の腿の上だからなのか、沖田の腕の支えが強靭だからなのか、または両方なのか。

 ひたすら心地良い揺りかごにすら感じる一定の大きな波に委ね、冬乃はうっとりと飽くことなく、雪帽子で着飾る木々たちを眺め続けている。

 

 

 そんな夢見心地な時間を経て、まもなく馬は廃寺の前で止まった。

 

 此処もまた、一面に果てしなく純白がひろがり、深く降り積もった雪には小動物の足跡以外、枯れ葉すら見当たらない。

 

 目的の桜の木も今はとうに葉を落として、静かな佇まいで廃寺を見下ろしていた。

 

 

 冬乃は襟内から、埋める物たちを包んである小さな風呂敷包みを取り出した。

 

 「坊さんはさすがに来てないか・・」

 

 まあ、この雪だしな、と残念そうに沖田が横で呟き、冬乃はそういえばと顔を上げる。

 聞きたい事があると言っていたけれど、何だろう。

 

 「もしかしたら」

 冬乃の問いたげな気配へ、沖田が答えてくれる様子で視線を向けてきた。

 

 「冬乃が元の世に帰れる方法をあの坊さんなら何か思いついたりしないかと、ね・・」

 

 (・・え?)

 

 どうして

 

 余計に問いたげな表情へと化したであろう冬乃に、

 沖田が背から降ろしたすきを持ち替えながら、「念の為だ」とだけ微笑んで。

 

 「可能な限りの選択肢を残しておきたい。冬乃には」

 

 

 不意にびゅうと雪を巻き込んだ風が吹き抜けても、

 

 ふたりは風の存在すら気づかなかったかのように、只々互いの目を見つめた。

 

 冬乃は沖田の今の言葉の意味を探ろうとして、

 沖田は冬乃の明かさぬ未来を探ろうとして。

 

 

 「・・掘るのは、この辺でいい」

 

 ついと桜木の根元へ視線を向かわせ、すきを添えた沖田に、

 冬乃は、緩慢に頷き返した。

 

 

 (総司さん・・?)

 

 雪をあっという間に退かして下の土を掘り返し始める沖田を見つめながら冬乃は、

 戸惑ったままの心を抑えつけ、白く震えた息を圧し出す。

 

 『冬乃が元の世に帰れる方法を』

 

 沖田がどうしてそれを知りたいのかが分からず。

 以前に藤堂を呼んだ置屋での会話なら、冬乃は思い出して。元の世と行き来できるすべがあれば、それが一番良いと言ってくれた、あの時の。

 

 (その事・・なの・・?)

 

 けど何か今の沖田の言葉からは、もう少し違う意味を感じ取った感覚が残っている。それが何なのか冬乃には分からないままながら。

 

 

 

 「大きさはこのぐらいでどう」

 

 冬乃を振り返った沖田に、冬乃ははっとして手元の風呂敷包みを見遣った。

 

 「はいっ・・有難うございます」

 「じゃあこっちへ」

 

 冬乃が風呂敷包みを手渡すと、沖田はそれを今しがた堀った穴の中へ丁寧に仕舞い入れてくれた。

 

 「埋めるよ」

 改めて確認してくれる沖田に、冬乃が「お願いします」と返せば、沖田が頷いて桜木へ再び向き直り、退かしていた周囲の土を穴へ戻し始めた。

 

 (・・あ)

 風呂敷包みが、みるみるうちに土を被って見えなくなる。

 

 冬乃は咄嗟に、この根本がいつまでも掘り返されることのないようにと願いを籠めていた。

 

 

 この廃寺のある山は、

 冬乃の記憶のなかの地図感覚が間違えていなければ、平成になっても麓以外は開発などが一切されていない、自然のままの地帯。

 

 そうしてこの木が伐採などされないで残る可能性が高いなら、この根本もまた、そうそう掘り返される心配は無いはず。

 

 なによりそうして、いつの世までも、こんな山奥の天然の桜木ならばきっと世の移り変わりなどどこ吹く風、無事に平穏にひっそりと生き続けてくれるはずと。

 

 

 (・・って、改めてそう考えてみると・・すごい)

 

 この桜木はタイムスリップさえ要さずに。

 これから江戸の世の終焉も、明治の世も、そしていつかは平成を経て更にその先へ、

 その長い命が尽きるまでずっと時を超えてゆくのかもしれないのだ。

 

 

 (・・そして、それなら)

 

 冬乃が、元の歴史のままの未来に帰るのではなかったのなら、

 此処の世と、帰ったのちの平成の世と。両方の世で、この“同じ” 桜木と、逢えていたかもしれなかった。

 

 

 でも。

 (実際はそうじゃない・・から)

 

 流れ去った時の喪失感を冬乃がきっと分かち合える存在は、帰ったのちの世には無い。

 なにひとつ。

 

 

 

 

 「帰ろう」

 

 沖田の声に、冬乃は顔を擡げた。

 

 

 行きと同じように、まもなく馬に乗った沖田に引き上げられ。

 手綱を引く沖田の腕の中、冬乃は温かな胸へ再び片頬を凭せ掛けた。

 

 

 (さようなら)

 

 背後に遠ざかる桜の木へ心の内で別れを告げる。

 

 (埋めさせてもらった物を、よろしくお願いします)

 

 きっと冬乃が此処へ戻ってくることは無いだろう。

 沖田もまた。

 雪解けの頃にはもう、江戸で。

 

 

 

 



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