二十四. ゆく末への抗い⑥





 蟻通様・・!

 

 「なんか随分焦ってるようだけど、大丈夫?」

 

 広大な、殆ど人に出会えずじまいなこの空間を彷徨い続けていた冬乃は、

 突如天の救いを得たような心地に見舞われた。

 

 「それが・・監察執務室で島田様と待ち合わせしているのに遅れてて・・・、蟻通様、ここからの最短の行き方を御存知でしたら教えてください!」

 

 そういえば、蟻通とこうして何か会話をするのは一体いつぶりだろう。

 冬乃がこの新屯所に来てから、広間ではいつも遠く向こうに居る彼と、目が合えば会釈をし合ってこそいたけども。

 

 本当なら久しぶりに世間話のひとつふたつしたいところだけど、島田を待たせているのでどうにもならない。

 

 「・・迷ってるってこと?」

 「ハイ。」

 改めてこの状況が恥ずかしくなりつつ、冬乃はぎくしゃくと頷く。

 

 「時間あるし送っていってあげれるけど・・どうする?」

 

 (え)

 

 もうこれは。

 天の救いで確定のよう。

 

 「ありがとうございます、お願いします!」

 

 冬乃は最敬礼でお辞儀した。

 

 

 

 

 少し早足の道すがら、蟻通と期せずして世間話をすることが叶いつつ、

 冬乃は今、連れてこられた小庭つきの縁側を見上げて大きな溜息を零していた。

 

 こんな入り組んだ道のはずれの場所だっただけでも溜息ものなのに、

 

 (・・・何ここ・・!?)

 

 一見、位の高い御隠居の隠れ家とでも見まがうような見事な構えの、それでいて京都らしい風流な佇まい。

 

 隊士部屋の棟へ最初に向かってすぐ、そこに居た隊士達に「此処じゃなくて離れにある」と教えられて、

 なるほど監察達は仕事柄、隊士達に聞かれてはならない会話も多々しているわけなので、離れに構えていることは理に適っている、などと納得しながら来たのだが。

 

 それにしたって此処だけ、やたら別世界すぎないか。

 

 「此処すごいよね」

 冬乃が茫然と見上げているのへ横から蟻通が同調する。

 

 「聞くところでは元々この屯所には、お坊さんたちの住まいだったのを幾つか貰い受けて移設したものもあるみたいだから、きっとこの離れがそれで、住職の別邸とかだったのかもしれない」

 

 (あ・・)

 そんな特別な離れを監察達に宛がうとは。やはり近藤達が彼ら監察を高く評価し重宝していることの表れなのだろう。

 

 「じゃ、俺はここで」

 

 はっと冬乃は急いで再びお辞儀をした。

 「大変助かりました・・!本当に有難うございました」

 

 「こちらこそ久しぶりに冬乃さんと話せて良かったです。またね」

 

 言うなり踵を返して去ってゆく蟻通の背へ、

 冬乃は今一度深々と礼をした。

 

 

 

 

 

 

 「申し訳ない・・待ち合わせをお願いした時、こちらをご存知そうなご様子にみえて・・」

 

 約束の時間の四半刻も遅れてやってきた冬乃を前に、島田は責めるどころか、迷っていたと聞いてすぐに謝ってきて。

 

 開け放たれた奥の座敷では、監察達がせわしげに動き回っているのを視界の端に、冬乃は、

 いま目の前で大きな体を縮こませる島田へ、「いいえ」と大慌てで首を振って返した。

 

 「てっきり隊士部屋の棟だと思ってしまってて、ねんのためと場所をお伺いしなかった私がいけないんです。本当に御免なさい」

 「これはまた、どこぞの美女やろかと思えば!」

 

 不意に起こった風とともに声が横合いから飛んできて、冬乃は驚いて声のしたほうを向いていた。

 庭の障子をまさに開けたばかりの山崎が、冬乃の目に映る。

 

 「おお、おかえりなさい山崎さん」

 そのまま庭側から入ってくる山崎へ、島田が首を向けて挨拶するのを耳に、冬乃も急いで会釈する。

 

 「ただいま島田はん。冬乃はんは随分と久しぶりやなあ。元気にしとったん」

 冬乃は顔を上げた。

 「はい、おかげさまで・・山崎様もお元気そうでなによりです」

 あっという間にやってきて島田と冬乃の傍にすとんと座った山崎が、そして興味津々な眼差しを二人へ寄越して。

 

 「にしても珍しいお客やな。どないなご用件?」

 

 「それについては私から」

 と島田がおもむろに三人の間へ、数枚の書状を広げた。

 

 「局長が前回金策に自ら出向かれた商家のうち、返済期限の迫っているものです」

 

 (あ)

 もうそんな時期なのかと、冬乃は目を瞬いた。

 

 「局長のお顔を立てたく、これらは期限迄にしかと返したい。そのため、別の商家から借り入れなくてはなりません。いま勘定方で用立てできる額は、半分にも満たぬので」

 

 「難儀やなあ」

 山崎が嘆息する。

 「もうどこのめぼしい商家も御大名方に借り尽くされてるやろ」

 

 (そう・・だよね)

 

 第二次長州征伐のころ京滞在が長引いた幕府諸藩に、いま着々と戦さの準備に励む薩長しかり、

 豪商たちへの度重なる彼らの負債は止むところ知らず、積年溜まりにたまっている。

 

 いわゆる大名貸し、藩債と呼ばれる莫大な借金。

 

 のちの明治政府が廃藩置県政策によって、これらを名目上、肩代わりすることになるものの、その額は限定的かつ作為的で、

 

 昔より長年にわたり貸し出してきた大阪の豪商達にとっては、踏み倒されたも同然の結果となってしまう。

 そのころ銀目停止という政策によって既に憂き目に遭っていたところへ、とどめを刺すかの事態に、倒産した商家は数知れず。

 

 明治政府の中枢にいた元薩長土の、このさすがに非道なまでの政策は、まさに恩を仇で返した典型例といえる。

 

 

 (援けてきた結果あれほど酷い未来が待っていると、先に分かっていたなら、資産を隠し通してでも絶対貸したくなかったはず・・)

 

 未来を知る冬乃としては、いたたまれないものがある。

 

 

 

 「・・で、冬乃はんには何をお願いに?」

 

 山崎の声に、はっと冬乃は島田を見やった。

 

 「冬乃さんには、この新たな借り入れのための、書状の作成をお頼みしたいのです」

 畏まったように島田が冬乃を見返し。

 

 「局長のお名前で作成していただきますので、局長への内容のご確認も併せてお願い致したく」

 

 「承知致しました」

 冬乃はぺこりと頭を下げて返した。

 もとい想定していた仕事内容である。

 

 「そのために見ておいていただきたい書状の数々はこちらで保管しておりましたので、御足労いただいてしまいました」

 

 「ほな、お茶を出さな」

 何故か楽しそうな山崎が、颯爽と立ち上がった。

 

 「そんな、おかまいなく」

 「ええからええから」

 

 どこかの部屋へとそのまま向かっていく山崎を、冬乃が呆然と見送る前では、島田が側の棚からあれこれ他にも書状を取り出してゆく。

 見ておいてほしいという書状たちだろう。

 

 次から次と出てくるさまに、冬乃は目を見開く。

 これは長丁場になるかもしれない。

 

 コーン

 と相槌を打ったかの、小庭から届いたししおどしの音を耳に。

 

 (がんばろう・・)

 冬乃は身を引き締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 巡察から戻ってきた沖田を夕暮れの紅に染まる此処、女使用人部屋にて出迎えた冬乃は、

 長丁場の仕事後だというのに今日ばかりは疲れをまったく感じずにいて。

 

 その理由は明白、

 これから久しぶりに二人の家へと帰れるがため。

 

 冬乃を見るなり抱き締めてきた沖田の、常のように温かく強靭な腕のなかで、

 常のように深い安息感に溺れながら冬乃は、うっとりとこれからの時間に想いを馳せる。

 

 

 「駕籠を既に待たせてあった」

 

 やがて、長い抱擁ののち思い出したかのように沖田がそっと冬乃の身を離して呟いた。

 

 「それが今日の持ち物?」

 続いて冬乃の足元にある風呂敷包みへと視線を寄越した沖田へ、

 冬乃は急いで頷く。

 

 先ほど厨房に寄って、茂吉から色々分けてもらった食材だ。

 

 「じゃあ行こうか」

 沖田がひょいとその風呂敷包みを持ち上げて微笑んだ。

 

 冬乃は高鳴る胸の鼓動を感じながら今一度頷いて、次には差し出された手を取る。

 いつも沖田は、冬乃が縁側へ降りる時にこうして支えてくれるからで。

 

 沖田が居ない時には一人で降りているわけなので、支えてもらわなくても勿論大丈夫なのだけど、

 

 (しあわせ。)

 この姫扱いは、これからもできればずっと続いてほしいと冬乃は願う。

 

 

 

 

 木枯らしの舞う路地を二つの駕籠が走り抜けてゆく。

 

 日の沈みとともに丁度、家の手前の角で降り立った二人は、ひっそりと玄関をくぐり抜けた。

 

 部屋へ上がり、障子の外からの幽かな勝色のなか、沖田が早速行灯を灯し、その火を用いて各部屋の火鉢に火を熾してまわる。

 

 それから彼は冬乃の傍までやってきて、その場に腰を下ろし、家が温まるまで寒がりの冬乃を抱き包めていてくれるのも、常の事。

 

 

 あいかわらず冬乃の頬肉は落ちてしまいそうになりながら、背後の沖田へと冬乃はすっぽり包まれる身を寄り掛からせる。

 火鉢の時おり奏でるパチパチと穏やかな音を耳に、目を瞑り。

 

 かみしめた幸せの直後、

 

 このまま永遠に時が止まればいいと

 そう心に幾度と繰り返した想いがまた、一瞬に胸を過ぎり。

 

 また常のように。そんな想いへと心の目も瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十一月に入り、土方が帰京し。

 

 

 藤堂の言付を沖田から聞いた土方が、

 真っ先に向かった先は。やはり監察執務室で。

 

 すでに話を聞いている近藤が、土方の戻るまで彼らへ伝えることが無かったのは、

 監察方が、近藤ではなく土方直属であるからに他ならない。

 

 

 (これで、・・)

 

 討幕派の画策が成功せぬように、あらゆる方面での阻止が掛かるだろう。

 つまり虚偽の近藤暗殺計画も、浮上してくることは無くなって。

 

 そうしてうまく事が進めば。

 

 新選組が伊東達を粛清する未来も、

 

 もう起こることは無くなる。

 

 

 (どうかうまくいきますように)

 そしてそれなら、すでに冬乃がすべきことの半分は叶ったはず。

 

 けれど、未だ未来を知る冬乃にしかできない事がこの先ある。

 

 その日を、

 藤堂が命を落とす史実上の命日を。

 

 その日にならないように、避けること。

 

 (・・きっと)

 避けたところで、命日を僅かにずらすだけで終わってしまうことを、

 これまでの結果から想像せざるをえなくても。

 

 それでも、その本来の日を避けることは一つの小さくはない『変更』になるはずだから。

 

 

 (元の歴史での死因となる事件がもう起こらないなら、・・それだけで、)

 それだけですでに、大きすぎる変化であって。

 

 更なる働きかけによっての変化など、もとい冬乃にできること自体、もう無いのかもしれない。

 

 

 それでもこれは、

 僅かばかりに縋る希望。

 

 

 ・・・望めないものかと。

 

 

 その歴史へ叶った変更が、もしも大きければ、

 

 (そして・・大きいほど)

 

 

 或いは―――奇跡―――が起こりうることを。

 

 

 

 (“もしも” )

 

 冬乃は一語一句、辿って呼び起こす。

 

 『・・・死期に関わる特に重要な事柄の縁に対し、』

 

 あの桜花の降る廃寺で、僧から聞いた言葉たち。

 

 

 『変更を及ぼすことが、小さくとも叶ったとしますれば』

 

 

 あの意味は。

 

 言い換えれば、

 

 もしも大きな変更を及ぼすことが、叶った場合には、

 

 

 (大きな違いを生む)

 

 そうとも、とれるのではないかと。

 

 

 

 (だから・・それに賭けたい・・・)

 

 

 藤堂が死なずに済む未来、

 

 その奇跡に。

 

 

 

 

 そしてそれが叶うならば

 

 

 「冬乃」

 

 

 

 強い風に吹かれ流されゆく上空の薄雲から、

 冬乃は視線を逸らした。

 

 愛しい声のもとへと。己を見つめる沖田を見とめて。

 

 

 (総司さん)

 

 

 ―――貴方のことも

 

 

 喪わずに済む未来に

 

 縋れるのかもしれない

 

 

 

 

 

 「総司・・さん・・?」

 

 立て掛けてあった梯子を上ってきた沖田に冬乃は瞠目した。

 

 「風邪ひくだろ」

 

 手渡されたものは冬乃の褞袍。

 

 「あ・・」

 

 わざわざ冬乃の行李から持ってきてくれたのだ。

 いつのまに彼は冬乃が此処に居ることに気づいたのだろう。ありがとうございます、と受け取りながら冬乃は、

 

 そういえば先程またも飛ばされた洗濯物を取りに屋根へ上がって、少し景色を見てようと座り込んでそのまま考え事に耽ってしまっていたことを。思い出し。

 

 「すみません、」

 このところ前にも増してこんな状態な冬乃を、沖田がまた心配しているというのに。

 「すぐ降りますっ・・」

 

 「降りなくていい」

 「え」

 沖田が梯子を上りきった。

 

 褞袍を着かけていた冬乃の、後ろへとまわった沖田が腰を下ろすと冬乃に残りの褞袍を着せながら、

 

 「せっかくだから俺も、此処に居ようかと」

 冬乃を腕に抱き寄せた。

 

 温かい抱擁にすっぽり包まれ。冬乃はどぎまぎと背後の沖田を見上げる。

 と同時に、

 

 「総司ー--!」

 

 土方の声がどこからか届いた。

 

 (・・え?)

 

 屋根の下を見やれば、幹部棟の向こう裏庭をゆく土方の姿が。

 

 「どこ行きやがったあいつ!」

 

 悪態をついている様子からわざわざ想像せずとも、見るからに、沖田を探している。

 「そうじさん・・」

 はらはらと再び背後の沖田を見上げた冬乃へ、

 例の悪戯っ子のような眼が笑い返してきて。

 

 

 「総司ー--!!」

 

 鳴り響く土方の怒号を耳に。

 大丈夫だろうかと戸惑いつつも前へ向き直りながら、この降って湧いた二人きりのひとときについ冬乃は微笑んでしまい。

 

 顔を上げれば、澄んだ冬空を背負う京の町並み、遠く見渡せる紅葉の山々。

 

 この美しい光景を今、ふたりじめして、

 土方から逃れてきた沖田の腕の中でこうしてぬくもりに抱かれて。

 冬乃はもう、土方には申し訳ないけど感謝さえしてしまいながら。

 

 

 

 

 「スオォォォウゥゥゥゥジイィィィィイー-!!!」

 

 

 

 

 

 「・・・・」

 

 

 いま呪詛に近い叫び声が聞こえたのだが。

 

 本当に大丈夫なんだろうか。

 

 

 再び沖田を振り返ってしまった冬乃を、

 

 今度は、苦笑する眼が見返してきた。

 「諦めて行ってくる」

 と。

 

 「冬乃も降りる?」

 

 

 「ハイ。」

 

 冬乃はもちろん、一緒に降りることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 例によって、気づけば傍に居てくれる沖田からの、

 

 たとえば一瞬ふたりきりになった隙をついて降ってくるような口づけだとか、

 昼間からのいけないコトだとか。

 

 そんな危ういひとときもまた、気づけば比例して増えていて。

 

 

 (・・・もぅ。)

 

 さきほどは、沖田の部屋の畳を雑巾がけしていたら昼の巡察から帰ってきた彼にそのまま襲われ。

 

 着物の乱れをまたしても気にし忘れていた冬乃も悪いのかもしれないけど、

 それにしたって。絶賛掃除中でよつんばいのところを、後ろから激しく裾をめくり上げられ、苛められて、

 

 強烈な快感についには耐えきれずおもわず目の前の雑巾に突っ伏してしまった冬乃は。

 ちょっとばかり涙目になって。

 

 

 (たまたま洗ったばかりだった雑巾だから・・いい・んだけど・・けど・・!)

 

 もはや嬉しい悲鳴といっていいのか純粋に悲鳴といっていいのかよく分からない悲鳴を心に叫ぶ。

 

 (それにおもいっきり今日は、隣の部屋に土方様まで居たのに・・っ)

 

 此処の新屯所では、両隣がそれぞれ近藤と土方の部屋。いくら、個々の部屋が広くて壁との距離が遠いとて、

 よけいに気を張らなくてはならない事情であって。

 

 

 (やっぱり、ぜったいわざとですよね総司さん・・!)

 

 そうしてドSの夫は、冬乃が必死に声を押し殺しているのを愉しんでいるに違いなく。

 

 

 昼間だからと例の『手加減』は忘れずにいてくれていることが、せめてもの救いである。

 

 

 「・・・。」

 

 目の前で何事も無かったかのようにいま飄々と茶を飲んでいる沖田を。

 

 「何、」


 そして冬乃は。つい嫌疑のまなざしでじっと見つめる。

 

 「ものいいたげだね・・」

 

 そんなふうに哂う沖田は、絶対冬乃の心中など知っているくせに。

 

 

 冬乃が結局のところ沖田から求められることを悦んで受け入れてしまうからいけないのか。

 つまりどんなことでも沖田からされるなら何だかんだ大歓迎なほど沖田を大好きすぎる自分がいけないのか。

 

 

 (・・・て、そうかも)

 

 嫌なら拒めばいいのだから。

 

 でも。

 

 

 (嫌・・じゃないし。)

 

 

 「・・・・」

 

 

 「どうしたの」

 

 何も言わないままの冬乃を揶揄うように沖田が眼を細める。

 

 「まだたりないなら、もう一度する?」

 

 (!!)

 

 さすがに冬乃は大慌てでぶんぶん首を振った。  

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで昼間は、近藤どころか土方まで両隣の部屋に居たせいでいろいろ抑圧されていたからなのか、

 

 今日の冬乃はいつまで経っても、反動の“恋わずらい” を抜け出せず。

 困っていた。

 

 あと少ししたら沖田が夜の巡察から戻って、冬乃の部屋を訪ねてくれるはず。

 その時きっと冬乃は、想いを抑えられずにものほしげな顔をしてしまいかねないと。

 

 

 (行灯消して寝たふりしてるしかない・・)

 

 高確率でバレる気もするけど、それ以外に顔をまともに見られずに済ます方法は無さそうなのだから仕方ない。

 

 そうして、真っ暗のなか寝ぼけたふりで沖田の胸に擦り寄る作戦にした冬乃は。

 とくとくと鳴りっぱなしの胸の騒音を聞きながら、行灯へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 京の冬夜は、しんと静まり。

 凍てついた空気を纏う。

 

 犬猫の鳴き声すら起こらぬ闇を、しかし今宵はバラバラと多数の足音が蹂躙し出した。

 

 前方の路地、向こう数か所からは息を殺して待ち構える気配。

 

 (・・数が多すぎるな)

 

 後方からは更に増した足音が近づく。

 尋常で無いその音に、背後の隊士達には緊張が奔り。

 

 

 沖田は、感覚を研ぎ澄ませた。

 

 

 「一つ前の角まで戻る」

 

 まもなく立ち止まり振り返った沖田を、驚いた隊士達が見上げる。

 

 が、すぐに其々短い返事で踵を返し。

 「走るぞ」

 今や列最後尾の沖田の声に押されるように、元来た道を走り出した。

 

 遠く道の向こうからこちらへ向かって来ている足音の主達が、皆の目に映り。

 

 こちらの引き返す動きに対し、彼らは早くも吼え声をあげている。

 待ち伏せている連中が気づくのも時間の問題だろう。

 

 「屯所まで互いにまとまって走り続けろ」

 前をゆく隊士達へ沖田は指示を追わせた。

 

 「袋小路は避けろ、屯所めざしてひたすら進め」

 「はっ」

 

 「それから、」

 目的の角を曲がり始める隊士達へ、沖田は更に声を掛ける。

 「俺は少し遅れてゆくが、待つなよ」

 

 「・・え」

 驚いた隊士達がいずれも振り返り。

 

 「組長、まさか」

 「そんな」

 「組長・・」

 

 「大丈夫だ。すぐに追う」

 

 「行け」

 沖田は促した。

 

 「これは命令だ」

 

 互いに戸惑った顔を見合わせた隊士達は、

 その言葉に意を決したように沖田へと頭を下げ。一目散に走り出した。

 

 

 

 

 

 

 駆け込んできた一番組の隊士から報告を受けた土方は、

 急ぎ援隊を向かわせるなり、自分は近藤の部屋へ飛び込んだ。

 

 「総司のやろうッ、組下全員先に逃してしんがり務めやがって、未だ戻ってきてねえ・・!」

 

 布団だけ敷いて沖田達巡察隊の帰屯を起きて待っていた近藤が、飛び込んできた土方に目を見開いた。

 

 「向こうはかなりの人数が居たらしい・・!今、二番と三番組を向かわせているが、・・あいつ・・」

 「落ち着け、歳。総司なら大丈夫だ」

 

 普段、隊務においては非情なまでに冷静沈着な土方が、珍しいほど狼狽えている。

 実は近藤よりもずっと情に篤い土方の、こうした一面を知る者は数少ないだろう。

 

 「すぐ帰ってくるさ。心配するな、・・・・と噂をすればほら、帰ってきたんじゃないか?」

 急に外が騒がしくなったのを受けて近藤はおもむろに立ち上がった。

 近藤が中庭側を開けると、庭園の向こう、この夜分にもかかわらずいつのまにか、開け放たれた隊士棟の部屋じゅうが煌々と灯りを点け、

 叩き起こされた様子で泡を食って動き回る隊士達、そして、

 

 召集した彼らと、全員無事に戻っていた一番組を引き連れ、帰ったばかりでまたも出て行こうとするかの沖田の姿が、見え、

 

 「・・・沖田!!」

 

 近藤の背後、土方が堪らず大声で呼び掛けた。

 

 「先に報告に来い!!」

 

 「副長、現場判断にて出動を優先します」

 一瞬土方を向いた沖田の、

 「二三番組の人数ではまだ足りない」

 朗々とよく通る声が返ってくるや否や、

 

 あっという間に走り去ってゆく沖田ら隊士達を。もはや土方は呆然と見送り。

 

 「な。無事だったろう」

 そんな土方の肩に手を置き、近藤が笑った。

 

 「しかしさすが共有が早い。帰ってくる時に二番三番組と出会ったのか、此処で一番組隊士に聞いたのか」

 とにかくあとはあいつらに任せておけ

 と近藤が添えて。

 

 「・・二隊でまだ足りないとはどういう事だ、報告で聞いた人数より遥かに多いというのか」

 土方は訝った。

 「一番組隊士からは、後ろを来ていたおよそ十五から二十人と聞いたが」

 

 「きっと他にも居たんだろう」

 「他にも、って・・」

 

 だとすれば沖田は、いったい何人を相手に立ち塞がったのか。

 

 「あいつは早々に戻ってきたんだから、なに、無茶はしてないさ」

 唖然としている土方を宥めるように、近藤は微笑んだ。

 

 

 土方の気のほうは。納まるわけがない。

 

 

 

 

 

 

 「組長が組下を護ってどうする!逆だろうが!」

 

 

 一二三番組総員で浪士達と大乱闘した末、無事多数を捕縛して凱旋してきた沖田達を、労ったのち。

 

 副長室に呼びつけた沖田へ土方は開口一番、一喝した。

 

 「隊士はてめえの命令には従うしかねえんだ!組長残して去らなきゃならなかった隊士達の気持ちも少しは考えろ!」

 

 「そう言う土方さんだって、きっと俺と同じ事したでしょうよ」

 「てめッ・・」

 

 「まあ総司の事だ、その場での最善策を採ったんだろう」

 横から慌てて近藤が割って入った。

 「歳はな、おまえのことが心配で仕方なかったんだ。怒るのも当然だ」

 

 「勇さんはちょっと黙っててくれ」

 

 「・・スマン」

 飛び火を受けた近藤が、おとなしくなる。

 

 「お聞きのように、連中の数が多すぎでしたからねえ」

 沖田が肩を竦める。

 

 「下手に迎え討てば組に死人が出る」

 「おまえはっ・・一人残って、その『死人』になる危険を採ったんだぞ!?」

 「んなヘマはしませんよ。時間稼ぎに、適当に斬り伏せておいただけですよ」

 

 土方は、遂に深い溜息をついた。

 沖田の話もそれはそれで理解せざるをえない。

 

 相手の人数が多数ならば、沖田の言うように迎え討つのは得策ではなく、

 かといって撤退中に道の先を廻られ囲まれるわけにもいかない以上、誰かが最初に引き付けて時間稼ぎをする役を担うのも、理に適っている。

 

 「・・だからと言って、おまえ一人で残らずとも良かっただろう・・!」

 土方は尚、食い下がった。

 「いくらおまえだろうが、万が一という事があるんだぞッ」

 

 「それはそうですが」

 沖田が困った顔になった。


 「俺一人の方が動きやすいですから」

 

 「・・・・」

 飄々と放たれたその台詞に絶句する土方の、隣では近藤が苦笑し。

 

 

 「おまえの腕じゃなければ、そんな判断は許さねえところだ」

 

 ついに吐き捨てた土方に。

 沖田が多少すまなそうに今一度肩を竦めてきた。

 

 「もういい、行け」

 土方が再び深い溜息ともに手を振ると、

 

 「心配かけて御免ね、歳さん?」

 立ち上がりながら沖田がにんまりした。

 

 「うるせえ、おめえなんざ二度と心配してやるかよ!」

 

 「歳、俺も部屋に戻るぞ。おやすみ」

 あいかわらずの二人にひとり破顔している近藤が、挨拶でしめる。

 「総司も、今日は御苦労だった。おやすみ」

 

 「おやすみなさい先生、と“歳さん” 」

 わざと昔の呼び方を続ける沖田に、

 「とっとと寝ろ」

 土方は舌打ちして追い払った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝たふりで迎えるつもりが。

 あまりの騒ぎに、冬乃は何度も起き上がって外を覗いていた。

 

 その初めの頃、土方と沖田の声は冬乃の元にも届いて。

 

 それからかなり長い間静かになった後、再び喧噪が響いてきた。

 無事に勝利して帰ってきたのだと、もう外を覗かなくても情景が浮かぶほど、高揚した隊士達の声がそこかしこに。

 

 (お疲れさまでした、総司さん、皆さん・・)

 

 冬乃はほっと胸を撫でおろした。

 

 大きな捕りものの後で沖田もさぞ疲れているに違いない。しっかり休んでもらうために、冬乃は今夜甘えることは断念した。

 

 

 そろそろ沖田は風呂を出た頃だろうか。

 

 五徳の上で温めておいた麦湯と、

 今夜は急きょだったので茂吉に断りもなく厨房から持ってきてしまった余りものの漬物を、それぞれ盆に用意する。

 

 ゆらゆらかがよう灯のもと、冬乃は布団に座って沖田を待った。

 

 

 

 

 

 風呂から出た沖田はまっすぐ冬乃の部屋へ向かっていた。

 

 闇の内にそこだけ浮かび上がらせ、部屋の障子を灯の影が揺らしている。起きて待っていてくれているのだ。

 

 進む足は急ぐ。

 己がまるで、薄ら灯へと引き寄せられる蛾のように、

 冬乃という抗し難き蜜へと、吸い寄せられる蜂のように。

 

 常の、

 斬り合いの後の、身の芯を燻る昂ぶりは、

 蜜を目前にし、沸騰するかの熱を帯びはじめ。

 

 

 (・・冬乃)

 

 

 抑える必要も無い。

 

 彼女は受け止めてくれる。いつも。

 

 

 

 「総司さん、おかえりなさい」

 

 障子を開けた瞬間、沖田の眼に飛び込んできた大輪の笑顔は、

 

 沖田の熱情の堰を切らすに、充分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 声を。

 冬乃は自身でもう抑えきれずに。

 

 後ろから大きな手に塞がれても、

 躰を返され、口づけで舌で、塞がれても。

 なお喉をすり抜けてゆき。

 

 深い痺れは、幾重にも冬乃を衝き上げて、

 

 硬い腕に囲われ捕らわれているのに、浮き漂っては崩れ堕ちるような眩暈に覆われてゆく。

 

 冬乃を見下ろす熱にまみれた眼ざし、

 荒い息遣い、冬乃の名を幾度も呼ぶ低い声、

 火照る冬乃の肌をなぞりあげる指先。

 

 すべてが鋭い快感を迸らせ、

 冬乃の五感を支配する彼だけがすべてになる。

 

 彼との今しかみえなくなって。

 この刹那以外の、あらゆるすべてを押し遣って。

 

 

 

 

 

 総司さん

 愛しいその名を零した己の声を、冬乃は、遠ざかる意識の淵で最後に聞いたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 普段ならば始まっている自主稽古の喧噪も、今朝はひっそりと静まり返り、響いてくることも無く。

 

 昨夜は出動した隊士のみならず待機も含め屯所じゅうが夜中に叩き起こされたのだから、当然だが。

 

 

 雨戸の隙間から遅い朝を告げる光の内で、沖田はそして己の腕に眠る愛妻を見下ろす。

 

 微動だにせず、

 深い眠りの中に安住しているその姿を。飽かずに見つめているうち、だが不意に人の気配が起こった。

 

 沖田は雨戸のほうへ視線を上げた。

 

 

 お孝だろう。

 

 どうやら想像していた以上に遅い時刻だったようだが、

 知ったところで手遅れだ。

 

 冬乃をこのまま寝かせておきたい沖田は、この腕枕の状態を解除する気にもなれず。

 (ままよ)

 腹を括ってお孝が雨戸を開けるのを待ち構えた。

 

 

 が、いつまでも入ってこないどころか、引き返したのか遠ざかる気配に、

 沖田はさすがに驚いて開かずの雨戸をおもわず眺めた。

 思い巡らすうち、

 成程お孝はこの時間でありながら未だ閉ざされた雨戸を前に、冬乃が未だ寝ていると思い至ったのだろうと。

 

 それ以上を気が付いたのかどうかは分からぬが、

 今もすやすや眠る冬乃を今一度見下ろしながら沖田は、お孝の気配りへ胸内で礼をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝は新選組の皆が皆して朝寝坊した様子だった。

 

 茂吉たちがちょっとばかり困っている。

 現在昼前だというのに、未だ朝餉の片づけをしているのだから、それはそうだ。

 

 「昼餉の時間は遅めたほうがええやろな」

 茂吉が諦めたように早口で呟いて、冬乃は慌てて頷く。

 

 

 近藤と沖田が外出したので、冬乃は、お孝から通常営業外の事態で混乱していると聞いた厨房へ応援に来ているところだ。

 

 そのお孝にも、今朝はいつもと違うことをさせてしまったようで、

 目が覚めてのち沖田から聞いた冬乃は、彼と別れてすぐ厨房へ駆け込んで、作業着に着替えないままで働いているお孝に平謝りした。

 

 だが今朝の屯所じゅうの静けさから、深夜遅くに何か大捕物でもあったのだろうとすでに想像していたらしいお孝は、

 冬乃が未だ寝ている様子で部屋の雨戸が閉ざされたままな事にも、さして驚かなかったという。

 

 「それに、今朝は庭下駄がなんやいつもより多いよに思たし・・」

 うふ、とお孝がそのとき言い足して。冬乃は赤面した。

 

 

 庭下駄は皆、建物から建物へ移動するための共有物となっている。

 

 そのため人の出入りの激しい建物にほど庭下駄は集まるし、

 時には何故か庭の真ん中で見かけることもあるが、基本はもちろん各建物の出入口に、多かれ少なかれ何組かが常に在る。

 冬乃たちの、女使用人部屋離れの出入口にも、利用者は少ないもののたいてい数組ほど在ったりするのだが、

 

 勘の鋭いお孝は、その数が今朝はたった一組増えていただけで、しっかり何やら感知した・・ということなのだろう。

 

 

 (ほんとお孝さんにもいつも頭が上がりません・・。)

 

 おかげさまでぐっすり遅くまで熟睡できた冬乃は、あれだけ激しかったひとときの翌朝だというのに。すっきりしてしまっていて。

 

 

 (・・って)

 

 またしても昨夜の記憶へ意識が流れそうになって、

 冬乃は急いで深呼吸する。

 

 先程から全然、効果は無いけども。

 

 たとえば。

 

 

 『優しくできなかったら御免』

 

 鼓膜の記憶に強く残るその声は、おもえばどの時に掛けられたものだろう、とか。

 

 出迎えた冬乃を見るなり掻き抱いてきたあの時だったのか、気づけばあっというまに帯を回し解かれて布団の上へと転がすように押し倒されたあの時だったのか、

 噛み付くような口づけの後か。

 

 いろいろな記憶が交錯するなかで、唯、克明に焼き付くは冬乃を見下ろす沖田の鋭く熱を滾らせた眼差しと、数々の・・・

 

 

 (きゃああぁぁぁ・・っ!!)

 

 

 顔から火を噴いた冬乃は。

 再び大慌てで回想の遮断に努め出す。

 

 

 そんなわけで、冬乃の恋煩いは今日も重症のまま。

 

 (ままっていうか悪化してるけど・・!)

 

 

 

 「今日、卵少ないわあ!」

 (わ)

 

 棚を覘きに行っていたお孝が声をあげたので、冬乃は今度こそ意識を現へと引き戻した。

 

 「ニワトリさんも寝坊しはったんとちゃうかー」

 藤兵衛が作業の手を止めずにさらりと答える。

 

 そのまじめな顔での台詞に、内心びっくりした冬乃だが、

 確かに昨夜のあの騒ぎで鶏も夜中に起こされてしまったのだとすれば、充分ありうる。

 

 (・・あれ?でも)

 そういえば平隊士達が毎朝持ち回りで鶏の卵を回収しているはずだから、やっぱり寝坊したのは鶏じゃなくて、単に平隊士達では。

 

 

 それにしてもこの広大な屯所で、点在する鶏たちの卵を毎朝探し回っているのだとすると、考えただけで涙が出てくる気がするのだが。

 

 

 「一品なにか増やしたほうがええんのやろか」

 棚の傍ではお孝が唸っている。

 

 今ある食材で増やすとすると何だろうと、冬乃も考えようとしつつ、

 まだ回収されていない卵がありそうなら頑張って探してくる方法もあるのではと、おもわず首を傾げ。

 

 (でもどこを探せば)

 

 案外、それぞれの鶏たちにはお気に入りの場所などがあって、卵を産む場所もいつも一定だったりするのだろうか。それならばまだ希望がありそうだ、と思ったところで、

 

 そうだとしてもその場所を見つけるまでは、

 

 (宝探しみたいになりそう。)

 

 結局その事に気づいた冬乃は、あっさり諦め。献立の追加考案の手伝いに向かうことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 史実通りに、伊東たちの屯所から斎藤がひっそり戻ってきたのは、暫くのことだった。

 

 表向きは、分離組の公金を使い込んだ事を伊東に気づかれてもう居られなくなったから脱してきたという、

 およそ斎藤らしからぬ理由を置き土産に。

 

 

 そして斎藤は、ある事実をもたらした。

 

 伊東について新選組を出て行った者たちの中には今、『真に』討幕へ傾倒し薩摩の過激派と『本気で』通じている者たちが居る事、

 

 更に憂うことには、中核の内にさえそういう者が居るという事を。

 

 

 元々伊東の思想は、幕府の枠に囚われない非常に広い視野に立ったものであるからこそ、

 

 薩長内の反幕府側とも、元新選組であったが為に散々疑われながらもやっとのことで、ここまでのつながりを築いてくることが叶ったのであり。

 

 いいかえれば同様に、伊東一派の中にも、薩長と近い『受け取り方』で伊東の思想を認識していた者がいただろう事は、想像に難くはない。

 たとえ、

 伊東がどれほど彼らに、幕府の枠に囚われぬのと同じほど反幕府の枠にも囚われぬ視野を、説いてこようとも。

 

 伊東の思想が、志が、どこまで理解され伝わっていたのか。

 中核の篠原ですら、

 のちに彼が遺した話からは――もし明治政府に何か配慮したゆえの話と受け取らずそのまま受け取ってみた場合――

 その深度の程は、嘆かわしい。

 

 

 

 伊東は、だからいま波風を立たせる事は避けようとした。

 

 数にすればほんの一握りとはいえ、その者達から斎藤を『警戒』する声が秘かに届くようになった事態に、

 伊東はそうして表向きの理由を作り上げて斎藤を脱退させたのだった。

 

 

 元々斎藤は、

 同じ元近藤傘下であれど伊東とは師弟関係である藤堂と違い、どうしても伊東一派と相容れる素地には欠ける。

 その為すでに新選組分離の時点から、彼らの内には斎藤の参加を解せない者も在ったが、

 

 当時はそれでも未だ、四侯会議決裂以前の時期で、彼らもせいぜい幕府と一線を置いている程度であり、今のような武力討幕への傾倒は無かったはずで。当然に、当時は斎藤に対してどうこう言い出す者もいなかった。

 

 それがここにきて、伊東にわざわざ諫言する者が出てきた。

 

 “近藤の息がかかっている” 可能性のある斎藤を、

 

 『危険』だと。

 

 

 伊東は認識せざるをえなかったのだ。

 そのように新選組を警戒するという事は、

 

 いまその者達は過激派側に感化され、真に討幕へ傾倒しているが為、つまり、

 

 伊東の理想が、決して皆のすべてには伝わっていなかった事を。

 

 

 「私の責任です」

 

 斎藤を脱退させる夜、伊東は斎藤に頭を下げた。

 

 

 「彼らのことは、必ず説得します」

 

 

 だからどうか時間を欲しい、と。

 

 

 

 

 

 

 (・・・そんな)

 

 討幕派による虚偽の企てを、遂に阻止できたというのに。

 

 

 (他にも未だ、こんな問題が残ってたなんて)

 

 

 斎藤が内々に戻った夜、沖田に呼ばれて近藤の部屋で一切を聞いた冬乃は、

 静かに坐す斎藤の横で、最早いたたまれずに顔を伏せた。

 

 

 この可能性も、冬乃には想定できたはずではなかったか。

 

 ・・勿論、想定だけで口にしていい事でも無かっただろうとはいえ。

 

 

 (何か私に、これからでも、出来ることはないの・・・?)

 

 

 「今は伊東さんに賭けるしかねえ」

 

 まるで冬乃の心の声に応えるような台詞を。

 土方が、コンと灰吹きへ煙管の内を叩き落しながら囁いた。

 

 「俺達にしてもそいつらだけ“粛清する” わけにはいかねえからな」

 

 

 土方の云わんとする事を冬乃は理解し。小さく息を吐いた。

 

 もし新選組が、伊東一派のうち一部だけの粛清に動けば、

 討幕側はどう受け取るか。

 

 粛清の対象にならなかった者達は、新選組の『味方』だと考えるだろう。

 

 そうなってしまえば、これまでの伊東達の努力は全て水の泡になる。

 

 

 

 「ま、誰にも俺達の仕業だと判らねえようにやるんなら良いけどな・・」

 

 (・・え)

 

 冬乃はどきりと顔を上げた。

 

 「歳、それは」

 近藤が声を途切らせ。

 

 ――暗殺

 

 

 この場の五人の内には、沈黙が落ちた。

 

 

 (・・・だめ、そんなことしたら)

 

 まもなく冬乃は、はっと息を呑み。

 

 

 

 当然、伊東だけは気が付くだろう。

 

 伊東が、そして動機こそ理解したとしても。

 

 

 (いったい、どんな想いに)

 

 

 時間を欲しいと頼んだ伊東を無視し、伊東の旧来の仲間を暗殺するなんて事。

 

 

 「・・・どうか、それは」

 

 冬乃はおもわず声を圧し出していた。

 

 「それはきっと伊東様に・・近藤様が、・・土方様や井上様を殺されてしまうのと、同じ想いをさせてしまいます、」

 

 「・・だから何だ」

 土方が冬乃へ睥睨を寄越し。

 

 「・・伊東様にそんな辛い想いは・・、」

 

 冬乃の声は震えても。

 

 「さしでがましいことを申し訳ありません、・・・ですが・・どうか」

 

 

 

 伊東の命の刻限は、もう残り少ない。

 

 近藤達の誤解を受けてしまう未来を、せっかく回避できたのに。

 

 (・・こんな)

 

 こんな結末が、

 あっていいわけがない。

 

 旧来の仲間を喪って、信じた近藤達仲間をも失って、

 

 そんな二重の苦しみのなかで、最期へと向かうなど。

 本来の運命とこれでは同じ程、伊東の最も望まぬかたちの終焉を迎えてしまう。

 

 一和同心

 伊東のめざしてきたその理想と、真逆の結末が、

 

 かけがえのない二つの仲間の間で起こるなんて事。

 

 

 そして藤堂も。

 そうなれば伊東の苦しみを背負ってしまうだろう。

 なにもできなかった苦しみとともに。

 

 それはもし無二の友人達を喪った近藤の、

 傍にいる沖田へと、置き換えてみれば。

 冬乃にも手に取るようにわかる。

 

 

 (そんな想い、絶対に藤堂様にさせられない・・)

 

 

 「先に裏切ったのは奴らだ、奴らとて粛清される覚悟もあっての事さ。伊東さんもまた、俺達に知らせた時点で奴らがそうなる可能性など覚悟してるだろう」

 

 (そんな・・はずない・・)

 「伊東様は時間を欲しいと・・待ってくださると、土方様たちを信じてらっしゃいます」

 

 そうでなければ。

 斎藤にまるで託すようにして帰隊させたりしないはず。

 

 土方達を信じていなければ、隠し通そうとしただろう。

 斎藤の話からすれば、その数名はなにも徒党を組んだり声を大にしては無かった、

 其々がたとえば伊東に秘かに『忠告』してきたりしていただけ。

 

 つまり伊東が斎藤に明かさなければ、いずれ明るみに出るとしてももっと先のことだったはず。

 

 

 (・・・あれ、・・でも)

 

 そもそもいろいろな事が冬乃のこれまでの想定と、明らかに違う。

 

 おもえば虚偽の近藤暗殺企てが起こらなくなった以上、斎藤が史実と同じ頃に戻ってくることも無くなっていたはずではないのか。

 

 永倉の記録通りならば、斎藤が戻ってくることになった理由は、伊東の近藤暗殺計画を『掴んだ』がゆえだったのだから。

 

 それがいま無くなったはずなのに、

 

 まるで斎藤の戻ってくる理由だけがすり替わって。史実通りに斎藤は、こうして秘かに戻ってきた。

 

 (・・どう・・して・・・?)

 

 

 「・・何だ。何か気になる事があるなら言え」

 

 土方が、珍しく冬乃に向き直るとそんなふうに促して。

 

 冬乃は。必死に思い巡らせる、

 何かこれまでの流れで見落としている事が無かったかと。

 

 

 「・・あ」

 

 冬乃はつとおもわず声に漏らしていた。

 

 (もしかして)

 

 むしろ斎藤が戻ってきた理由は、元からこちらだったということはないのだろうか。

 

 (元の歴史でも、伊東様が斎藤様を帰した・・・)

 

 分離組内で討幕を志す者達の存在を土方達に伝え、渦中の斎藤を離脱させる為に。

 

 (でもその場合、)

 虚偽の近藤暗殺計画はやはり、元々斎藤からもたらされたものではなく、

 何らかの別の方向から浮上していたものだったのだろうか。

 

 そして元の歴史では、きっとこの時期すでに、その真偽のほどの裏取りのため当然監察方が奔走していたはず。

 

 その疑惑が真と誤判断されてしまったのが実際はいつだったのか、これより前なのか後なのか、今となっては冬乃には分かりようもない。

 だが、

 

 斎藤によってもたらされた、分離組内部に生じた討幕派の存在は、

 新選組が、こののち伊東だけでなく、伊東一派全体を粛清しようとした事にも繋がるのだろう。

 

 (でももうこれは想像でしかない)

 

 

 元の歴史から、状況は確かに変わったのだ。今となっては元の歴史で何が起こっていたのかは、最早想像しかできない。

 

 だけど元の歴史でも、ひとつだけきっと冬乃にも間違えてはいない事があるとしたら、

 

 「伊東様は・・」

 

 最期まで、近藤たちを信じていたという事。

 

 

 「・・・敵や味方の枠を超えて、援け合える理想のために尽力してらっしゃると、藤堂様からお聞きしました」

 冬乃は両手をついた。

 

 「きっと伊東様なら、その方達のこともお導きになれるはずです」

 土方たちへと頭を下げる。

 

 「どうか、そのためのお時間を今暫く・・・」

 

 

 「そこで断言しないのは、伊東さんの試みが成功するかはおまえにも分からないという事だな」

 

 

 降ってきた、その言葉に。

 

 冬乃はおもわず顔を上げていた。

 

 

 「伊東さんがどういう理想を掲げてようが、俺達は目の前の反乱分子をひとつひとつ排除し、この先の災いの芽を確実に摘む。それが新選組としてすべき事だ」

 

 

 「鬼ですね、土方さん」

 

 不意に沖田が吐くように呟き、冬乃ははっと沖田を見やった。

 

 「・・おい。誰であろうと容赦はしねえ、俺達はそうやってきただろうが。何を今更」

 

 「その事じゃありませんよ」

 冬乃を見返した沖田が、可哀そうに、と溜息をつき。

 

 「これじゃ冬乃が断言しなかったのを決め手にするも同然だ。自分のせいだと冬乃は自責してしまう」

 

 (総司・・さん・・)

 冬乃は瞬間こみ上げた涙に、咄嗟に目を伏せて。

 

 「・・もしこれで粛清を決行してごらんなさい。冬乃は今後二度と歴史の一切に関して口を割らないでしょうよ」

 

 それでは貴方も困るでしょう

 そんな沖田の声を聞きながら冬乃は、畳についたままの震える己の手を見つめる。

 沖田の言う通り、冬乃はそうなれば自責の念に到底耐えられないに違いない。

 

 「それから、冬乃が断言していないのはなにも“伊東さんの試みが成功する” 事だけじゃない」

 

 「“伊東さんの試みが失敗する” 事もまた、断言してはいない」

 (あ・・)

 冬乃は沖田を再び見上げた。

 

 「そうだ、今は伊東さんが彼らをきっと説得してくれると信じて待とう。粛清はあくまで最後の手段だ」

 近藤が横で大きく頷いて。

 

 「できるかどうかも分からねえなら、そんな悠長な事言ってられるかよ」

 土方が声を怒らせた。

 「大体、討幕派からしたら伊東さんも邪魔なんだろ。伊東さんだって悠長な事してられんのか?」

 

 「・・奴らが伊東さんを斬らねえのは、」

 土方は更に畳みかけて。

 「情なのか、それとも奴らは伊東さんも討幕に加担していると信じているのだとすれば、・・まさか伊東さんもとうに心変わりし」

 

 「それだけはありえません!」

 

 おもわず遮った冬乃は必死に声をあげた。

 「その方たちは、たしかに伊東様のお志を誤解されてると思います、ですが、伊東様は本当に決して・・・藤堂様が断言された通り、討幕なんて今も考えてらっしゃいません・・!」

 

 冬乃は震えたままの両手を拳に握り締める。

 「伊東様とその方たちは・・、」

 

 「・・新しいしくみを樹立する、その点では同じ方向も向いてることでしょう・・。でも今も伊東様にとってのその方法は、戦ではなく、手をとりあうほう・・徳川様も元幕閣も薩摩様も長州様も含めて、敵も味方も分け隔てることのない、新しい統治のしくみを目指してらっしゃる点で、大きく違います・・!」

 

 

 「・・・改めて聞くと、やはり全く、絵に描いた餅だな」

 

 (・・・っ・・)

 

 「だが。それが叶うなら、それに越したことはねえがな」

 

 

 (・・あ)


 冬乃が目を見開く前で、土方が煙管を少しふくみ、ふうと煙を吐いた。

 

 「・・ようは、その理想で土佐あたりの穏健派を動かして長州や薩摩の過激派連中を巧く抑え込むなり宥めてくれるんならいいさ。そう易々と事が運ぶとは思わねえから、手っ取り早く連中を処罰しちまえば済むんだがな」

 

 「ああ、」

 近藤が溜息をつく。

 

 「伊東さんのその構想の草案ならば、未だ伊東さんが此処に居たころ俺もよく聞いていたよ。長州父子まで新体制にいま参与させる事は、明らかに無理があるが、過激派を厳罰に処したのちならば可能となる日もいずれ来るだろう。伊東さんは厳罰からして望まぬのだろうが」

 

 「だが過激派の連中がこっちと手を取り合うわけがねえ」

 

 コンと再び土方が、灰吹きへ煙管を叩きつける。

 「伊東さんは話し合えばいつか分かり合えると言うんだろうがな、どいつも伊東さんのような人ばかりだったら、元からこんな乱世にもなっちゃいない。流すしかねえ血もあるってことを分かってねえんだ」

 

 「まあ、」

 近藤が緩く微笑んだ。

 「そこが伊東さんの素晴らしいところでもあるのだよな」

 

 (近藤様・・・)

 

 「そうだ、伊東さんにはもう久しくお会いしていないことだし、考えを改めてじっくりお聞きしたいと思っていたところだ。総司からも藤堂君を通して会合の依頼があったと聞いているし、どうだろう歳、近々一度お招きして状況の詳細を聞かせてもらうのは。・・奴らの粛清の決断はそれからでもいいだろう?」

 

 冬乃は、息を呑んだ。

 

 「だったら明日か明後日だ。悠長にしている時間は無い」

 「歳・・、いくらなんでも明日明後日では急過ぎる。迷惑だろう」

 「そんなこと聞いてみなきゃ分からねえ。明日明後日が無理でもこれなら最短の代替日を言ってくるだろ。総司、今すぐ監察に使いを頼んで来い」

 

 「どうします、先生」

 「・・仕方ない。宜しく頼もう。場所は・・そうだな、どこかの店ではなく俺の妾宅でお願いしてみるか。あそこなら互いに外目を気にせず会えるだろう」

 

 沖田が早速出てゆくのを冬乃が見つめる前で、

 「そういや、」

 近藤が呟いた。

 

 「三浦殿には斎藤君のことでかなり御世話になったから、戻った事は連絡しとかねばならないな」

 

 近藤のいう三浦とは、国事に携わる紀州藩の周旋方であり、伊東と新選組の内々の関係を知る数少ない一人だ。

 

 「丁度先方とは、十八日の昼に別件で会う予定があるが」

 「おお。ではちと遅いがその日に書状を持って行ってもらえるか」

 「ああ」

 

 (・・十八日・・・)

 

 冬乃はぶるりと身を震わせた。

 

 

 (その日は、)

 

 藤堂の命日であり。

 

 

 必ず避けなければならない日である事に。

 

 

 

 

 

   




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