二十四. ゆく末への抗い①








 以前よりも遥かに実感を増したからなのか。

 目の前の彼が、冬乃の愛してやまない人の生まれかわりなのだと。

 

 瞳にその姿を映した刹那、

 むしろ感傷にも似た、深く込み上げてくる情感に冬乃は、息を奪われていた。

 

 

 「・・冬乃さん」

 

 心配そうに見下ろす彼の、よく見ればあの人と同じ澄みわたる双眸は、やがて冬乃のひとつふたつ続けられたゆったりとしたまばたきと、

 「統・・真さん」

 息を吹き返したかの呟きに、

 安堵の色を広げるように見開かれてゆき。

 

 「貴女を呼んだら・・目覚めるような気がした」

 

 ぽつり囁かれた言葉に、

 それでも、冬乃のほうが瞠目した。

 

 「また二日も昏睡状態だと聞いて、学会の手伝いが終わってすぐ戻ってきた。そういえば一週間ほど来ないでいいと言われていたのを思い出したけど」

 思い出した時はもう此処まで来ていたと、統真は困ったように微笑い。

 

 「・・・何度か、貴女は俺が来るとすぐ目覚めたから。今回も或いはと、そう思ったら取るものも取りあえず京都に向かってた」

 

 

 枕元から冬乃は、おもわずじっと統真を見上げた。

 

 彼はどこまで、この現象もとい、その魂の作用に気づいているのだろう、

 

 そして、

 冬乃のことに。

 

 (総司さん・・・)

 

 彼が、貴方の、生まれかわりで。

 

 そして、

 あの僧の言ったような存在なら。

 

 

 

 「昏睡から覚める事例に、よく聴覚への刺激が言われる。どの音に反応するかは人によって様々だけども、たまたま俺の声の特定の周波数帯が、貴女の覚醒を援けているのかもしれない」

 

 

 「・・・」

 

 まだ。統真の"覚醒" のほうは、訪れてはいないようで。

 

 

 冬乃は幾分がっかりした心地で、統真のいかにも医者の卵らしいその分析に、緩慢に頷いてみせた。

 

 (・・あれ)

 つと統真が点滴スタンドのほうへ寄ったことで不意に鮮やかな色が目の端に映りこんで、冬乃は次には首だけ動かしてそのほうを見遣った。

 

 (・・あのバッグ・・)

 

 たしか、違うバッグで京都には来ていたはず。なのに家に残してあったはずのショッキングピンクのボストンバッグが、統真の背後の椅子の上に乗っている。

 

 「貴女のお母さんがいらしてるよ」

 未だぼんやりしたままの冬乃の視線を追って、統真がバッグの存在理由を教えてくれた。

 

 (お母さんが・・・?)


 「俺とすれ違いで電話しに出て行かれたけど、そろそろ戻られるんじゃないかな」

 

 (電話・・)

 母の名に続いてその既に懐かしい響きを耳に、冬乃は小さく息を吐いた。

 

 ――平成の世に、本当に帰ってきてしまったのだと。

 

 現実感が、俄かに増して。

 

 

 (・・・もう時間が無い・・)

 

 伴って急襲した不安感は、たちまち冬乃の心を覆い出した。

 

 

 早く戻らないと間に合わなくなる

 

 

 幕末の世で、藤堂の命の刻限はあと半年まで迫っていた。きっと此処では、あと一日あるか無いかなのではないか。

 そして、

 

 (二日・・・総司さんの最期までは、きっと此処ではそのくらいしかない・・)

 

 

 胸を焼くような焦燥が冬乃を襲った。

 

 いったいどうしたら、母にこれ以上の心配をかけずにすぐまた昏睡状態に戻れるというのだろう。

 

 (それに最後まで幕末にいられるためには・・本当にもう、どうすれば)

 

 

 「冬乃・・!」


 すっと横開きの扉が流れ、携帯を手にした母が入ってくるなり、冬乃が目を開けているのを見とめて声をあげた。

 

 次には脱力したように深く安堵の表情を浮かべた母が、足早にベッド脇まで向かってきて。

 自ら作り出す罪悪感ならば捨て得たはずなのに、ちりりと再び冬乃の胸奥を奔り抜けた。

 

 こんなに冬乃の目覚めを喜んでくれる母を置いて、冬乃は今すぐにでもまた向こうへ戻りたいと、そればかり願ってしまっている事に。

 

 「・・ごめんなさい」

 

 冬乃から零れ出た言葉へ、母が「いいの」と囁く。

 この先また心配をかけることを含めての咄嗟の詫びだったけども、母には勿論伝わっていないだろう。

 

 冬乃は母の目を見ていられずに逸らした。まるで長い昏睡の後で疲れているかのふりで、目を瞑ってしまおうとして、

 けど統真にはまだ此処に居てもらわなくてはならない以上は休むふりをするわけにもいかないのではと、またすぐに目を開ける。

 

 「眠気があるなら無理しないで寝たほうがいいよ」

 冬乃の様子に統真がそんなふうに声をかけてきて、冬乃は急いで首を振り。

 「あの・・」

 そのままつい縋るように彼を見上げていた。

 

 「京都にはいつまで・・」

 

 彼は少し困惑したように微笑んだ。

 

 「まだ決めてはないけど」

 どうしてそれを聞くのか知りたげな眼が、冬乃を見返し。

 「貴女の容態が落ち着くまでは居るつもり」

 

 冬乃は返事どころか、全く考えがまとまらないままに、

 統真がコールボタンを押していたのかまもなく入ってきた看護師と医者へと、視線を流した。

 

 

 冬乃の問診が始まっても、冬乃の意識は考えるほど迫りくる恐怖に圧し潰されそうになり、

 返答も途絶えがちな冬乃の状態を昏睡後の疲労だと思ったらしい医者は、早々に切り上げると、話があると言って母を連れて出て行った。

 

 看護師が無言でてきぱきと動いている横で、統真が再び心配そうに冬乃を見遣って。

 やがて看護師が出て行くと、彼は冬乃の枕元まで戻ってきた。

 

 「またあの夢を見たりした?」

 

 (・・・え?)

 

 冬乃は、すぐには彼の質問の意味が分からずに。

 (・・・あ)

 千代の薬をもらうために話した夢の事だと。暫しのち思い出して、

 「はい・・っ」

 横になったまま咄嗟に頷いていた。

 

 「そう・・」

 統真は少し考える様子になった後、

 「一応、貴女に渡した薬はあれから保管庫へ全て戻したけど、・・また必要?」

 ベッド脇の簡易椅子に腰を下ろしながら、気遣うように冬乃を見下ろしてきた。

 

 「薬は・・おかげでもう大丈夫なのですが・・」

 冬乃は統真を見上げながら、

 もう、この流れで彼に頼むしかないのだろう事を、頭の内で懸命に並べてみる。

 

 「代わりにお願いがあります。・・何度もごめんなさい、でも」

 

 冬乃は統真の目を見据えた。

 

 「夢の中で、ある人にさよならを―――してくるために・・そうして、もうこんなふうに昏睡しなくなるために・・必要なことで」

 

 比喩にしたのに、言いながら涙が溢れそうになった冬乃は、最後まで言い切らぬうちに慌てて目を伏せた。

 

 「あの」

 ごまかすために冬乃は身じろぎし。

 「起き上がっても、いいですか」

 ベッドの背凭れに角度をつけるコントローラーの在り処を探してみると、統真がすぐに渡してきた。

 

 礼を言って受け取り、背凭れを起こしながら、冬乃はなお顔を俯かせた、

 「・・統真さんが仰るように、」

 言葉を探しながら。

 

 「統真さんが近くに来ると、昏睡から覚めるんです・・声だけじゃなくて、何かもっと・・」

 

 

 (・・・だめ・・やっぱりどう伝えたらいいのか分からない・・)

 

 

 どんな時に統真の魂の力が働くのか、冬乃も完全に説明できるわけではない。

 

 物理的な距離の接近と、統真の意識が冬乃へ向いた時、

 その両方が掛け合わされた瞬間だと、これまでの経験から漠然と想像してはいるものの、正確なところは分かりようもない。

 

 そしてこれから先もずっと。冬乃と統真が人である以上、完全に知るすべは無いだろう。

 

 そんななのに、統真の『声の周波数説』に合わせた別の尤もらしい仮説をいま適当に挙げてみることなんて、冬乃にはとてもできそうになく。

 

 

 「・・・とにかく近くに統真さんが来ただけでも、これまで目が覚めてたんです・・」

 

 冬乃は仕方なしにそれだけ言うと、ひとつ大きく息を吸ってもう一度統真を見上げた。

 

 

 当然ひどく驚いている様子の統真が、冬乃の懸命な眼差しを見つめ返してきて。

 それでも。

 

 「お願いは・・」

 冬乃は声を押し出すように、続けた。

 

 「次にまた私が昏睡したら、三日・・いえ、せめて一週間は、私を起こさないでほしいんです。つまりその間は私から離れていて・・いただきたいんです・・・」

 

 

 「その夢の中の人と別れてきたら、もう昏睡することはなくそれで最後になると、そのために長い日数が必要だと、考えているんだね?」

 

 「はい・・っ」

 あいかわらずの荒唐無稽な話だというのに。前回のように統真は、冬乃に合わせてくれたようだった。

 

 声を聞かなくても近づいただけで覚醒から目覚めるという冬乃の主張からして、そもそも荒唐無稽な話だろうけども。

 

 「俺の声・・存在が、確かに貴女の覚醒を援けるのだとすれば、」

 それでもやはりそこも冬乃に合わせて言い直してくれる統真を見上げながら、冬乃は彼の返事を待つ。

 

 「貴女の望む一週間は、来ないようにするよ」

 

 (あ・・)

 

 「ただし、」

 

 承諾の返事におもわず目を輝かせた冬乃を、統真は注意深く制した。

 

 「もしその間に貴女の容態が悪化するなど、何らかの緊急事態が起こった場合にはこの限りではない事も、分かっていてほしい」

 

 「はい」

 とさすがに答えるしかなく。冬乃はそんな事態がないことを祈りながら、それでもひとまずの安堵に胸を撫でおろした。

 

 (・・・お願いします)

 統真の――沖田の、魂へと。そのまま冬乃は語りかける。

 

 この声は、きっと届いているはずだから。

 

 (どうか、叶えてください・・・)

 

 

 「貴女のお母さんには、その夢を見ていることは話した?」

 質問にはっと冬乃は、統真へと焦点を戻した。

 

 「いえ・・」

 

 「これからもしまた昏睡すれば今度は長くなる可能性がある以上、話だけでもしておいたほうがいいね」

 

 冬乃は統真の理解のある台詞に心底感謝して、大きく頷いた。

 

 「俺から話しておいてあげようか。少し精神医学的な観点から・・そのほうがまだ安心してもらえるかもしれない」

 (え)

 「そうしていただけるならぜひお願いします・・!」

 

 もはや腰からお辞儀してしまいながらも、冬乃は目を瞬かせる。

 (どんなふうに話してくれるんだろう?)

 

 「・・あいかわらず貴女には、他にさしたる思考の乱れがみられないので、」

 どきりとして顔を擡げる冬乃の瞳に、どこか苦笑ぎみの統真が映った。

 

 「その夢に関する貴女のこれまでの言動は、覚醒直後の錯乱状態とは全く関係なしに、本気で貴女がその夢と一連の病状との関連を信じているからこその言動だと、そう思えてきたから、」

 「そうなんですっ」

 

 冬乃はつい遮って、大慌てで頭を下げていた。

 

 「ごめんなさい・・!本当はちゃんと、おかしな事を言ってるのは自覚してました、でも、仰るとおりどうしても必要な事だったんです・・!」

 

 「それはいいよ」

 あのとき錯乱症状のふりをして薬を用意させてしまったというのに、

 統真は怒っている様子もなく頷いて。

 

 「貴女が昏睡中に見ているというその夢が、潜在意識の表層化だと仮定すれば・・その夢の中の人に貴女が別れを告げようとしていることは、何らかの課題解決の示唆かもしれない、」

 見開かれる冬乃の瞳を、見守るようにして彼は続けてゆく。

 

 「その別れによってその後は昏睡しなくなると貴女が予感しているなら、その通りになる可能性は大いにあると・・俺も思う」

 

 貴女のお母さんにはそのように伝えてみるよ

 と、統真は締めくくった。

 

 (あ・・)

 「ありがとうございます!」

 再び大きくお辞儀をして冬乃は、深まる安堵におもわず息をつく。

 

 統真がつと、胸のポケットから携帯を半分出して液晶画面を確認すると、またポケットへ戻した。

 バイブの音が続いているので着信中のようだが。

 

 (・・あとでかけ直すのかな?)

 

 一度離れたら次に会う時が冬乃の昏睡に落ちる時だと、それも伝えた方がいいのではないか、

 そんな思いが冬乃の頭によぎった。

 

 けど、それこそ荒唐無稽の極みのような話。

 

 (でも・・・)

 

 行き来のタイミングを間違えるわけにはいかないのだから。

 (言うしかない、か)

 

 「あの」

 バイブの音が止まった頃合いをみて、冬乃は声をかけた。

 

 「信じていただけないかもしれませんが、まだお伝えすることがあります」

 つい居ずまいまで正す冬乃に、統真が何事かと注目してくる。

 

 「さっき私は、統真さんが近くに来ると昏睡から覚めると言いましたが」

 

 冬乃は統真を見つめ返した。

 

 「統真さんが近くに来るときは、昏睡に入るときでもあるんです・・つまりその、交互に起こるんです。

 今回は昏睡から目覚めた後なので、このあと統真さんから離れると、次お会いした瞬間、昏睡に入ることになります・・・」

 

 

 「・・・」

 これまで冬乃に合わせてくれていた統真だが。さすがにどう答えていいか分からなそうに、冬乃の見守る前、彼は困ったような表情をした。

 

 と思ったら、

 「成程ね」

 少し置いて。彼は溜息をついた。

 

 「前回の貴女の言動の理由が、これでやっと全て理解できた気がする」

 

 (え)

 

 「どうりで、俺が去ろうしたら慌てて引き留めたり、次に会った時に倒れると言ったり・・」

 

 (あ・・)

 

 「本当なんだね?俺が近づく時、そうなるというのは」

 

 再び困ったような顔になって確認してくる統真に。

 「はいっ、本当に起こるんです・・!」

 冬乃は懸命に頷いてみせる。

 これは、信じてくれるということなのだろうか。

 

 またはきっと、そのままを信じてくれるわけではなくても、

 『声の周波数説』同様、何かしらの原因から、近づいただけで昏睡したような現象が結果的に起こっていると、

 そんなふうに一旦受け止めてくれたのかもしれないけども。

 どちらにしても、

 

 「俺はこれから出ないといけないけど、次に会うとき貴女が昏睡してしまう可能性を覚悟しておいたほうがよさそうだね」

 そんなふうに完璧に理解を示してくれた統真に。

 

 「はい・・またご迷惑おかけしてしまいますが・・」

 深々と、冬乃はこの短時間でもう何度目かのお辞儀を返し。

 

 (・・あれ、でも今)

 

 出かける、と言わなかった?

 

 耳に残る統真の言葉に、だが次には弾けるように顔を上げていた。

 

 「いつ、お戻りに・・・?」

 縋るような声が喉を出てしまいながら、ハラハラと答えを待つと、

 「今日は戻れないと思うから、明日かな」

 そんな回答が落ちてきた。

 

 (ど、どうしよ)

 

 「少しでも早く昏睡に入らなくてはいけないんです・・っ」

 

 焦りだした冬乃を見下ろし、統真は一瞬黙した。

 

 「・・じゃあ俺はこれから一度、部屋の外に出て、すぐ戻ってくればいいのかな」

 (あ、そうか!)

 「はいっ」

 「・・ただ、それだと可能性として、貴女のお母さんが戻られた時にはもう貴女は昏睡してしまっているわけだよね。お母さんが戻られるのを待って、さっきの話をしてからにする?」

 もう少しくらいならまだ時間はあるから

 そう提案してくれる統真に、

 冬乃は本当のところ母が戻るのを待つ時間すら惜しいだなんてことは、再び燻っている罪悪感と相まって言い出せず。

 

 (・・せめて)

 「また昏睡する前に顔を見せれたらそれで・・私は充分です・・」

 

 なんとか声を圧し出した冬乃に。

 「そう」

 統真がどことなく分かったような声を出した。

 「じゃあ戻られたら、俺はお母さんをお連れしていったん部屋を出るよ」


 「・・はい・・ありがとうございます」

 

 再び携帯を取り出して何やらメールを打ち出す彼から、冬乃は礼とともに目を逸らして。ふと、己の体の状況に気が向かった。

 これまで何度もお辞儀をしたことで、腰のあたりの下着でもずれたのか、妙な違和感をおぼえたからだ。

 

 (・・・ああ、そっか)

 

 おむつをしているのだと。

 次には思い至って、よく見れば服も冬乃の私服ではないことに今さら気がついた。病院が用意したのだろう服に着替えさせられている。

 

 その日のうちに意識が戻った前回は私服のままだったので忘れていたが、

 東京で病室に母が泊まりにきたあの時も、日をまたいで昏睡したからか服が替えられていて腰にはおむつをしていたことまで、思い出し。

 

 (着替え・・)

 やっとボストンバッグの中身に想像が及んだ。

 きっと母がまた冬乃のクローゼットから、適当に選んで持ってきてくれているだろう。

 

 「・・・」

 このあと統真が部屋を出ている短い間に着替えなくてはならないと、冬乃の脳内を思考が巡る。

 (絶対、おむつのままで総司さんの前に戻りたくないし・・っ)

 

 いや、べつにすぐ服を脱ぎ去るような状況になるとは限らないけども。

 

 (でももし見られることなんてあったりしたら・・・)

 厚みといい形といい。

 一体これは未来のフンドシなのかと、訝られるに決まっている。

 

 そこまで思って冬乃が眉間に皺を寄せていると、

 がらりと病室の戸が開けられて、待ち人の母が入ってきた。

 

 「お時間、まだもう少しありますか」

 統真がさっそく母に声を掛けて。

 

 母は少し不思議そうに統真を見返してから、「ええ」と答えた。

 

 「では、戻られたばかりですみませんが、少し私からもお話させてください。・・冬乃さんはそろそろ休んで」

 

 (・・あ)

 統真が目くばせしてきて。冬乃は、母に暫しの別れを言うべきかもと、慌てて母を向いた。


 「お母さん」

 けど何て声を掛ければいいのか。咄嗟には思いつかず。

 「心配しないでね・・私は大丈夫だから」

 月並みな台詞を呟きながら冬乃は、内心溜息をついていた。

 

 (・・・何言ってるんだろ私)

 

 本当のところなんて、自分でもわからないというのに

 

 

 今度こそ最後になる。幕末で、冬乃は沖田の死を見届けて、その後、生きる気力なんてきっと失って此処へ戻ってくるのだろう。

 

 その時、冬乃は踏み留まれるのか。自信が無かった。

 

 統真が、此処には居るというのに。

 つまり沖田から継がれた魂は、きっとすでに此処に居る、いま冬乃のすぐ目の前に。

 

 冬乃が沖田の死後、己も死して追いかけてしまいたいと望む彼の魂ならば、

 もう此処に居るということ、

 

 今度こそ離れたくないと、

 千代から受け継ぐこの魂が渇望してきた、その存在が。

 

 それなのに。

 

 

 (・・だって・・・総司さん・・私は、まだ)

 

 

 貴方じゃなきゃだめで

 

 

 どんなに、目の前の統真が沖田の生まれ変わりであっても。

 まだ人という器を纏うままの冬乃が今も恋い求めてやまない存在は、一寸たりと変わっていない。

 

 

 今この瞬間も冬乃が、『沖田の』魂と片時も離れたくないと求めるは、

 それが『他の誰でもない沖田という肉体と精神に、包まれている』魂だからなのだと。

 

 統真ではなく。冬乃にとってはどうしても、沖田という存在でなくてはならない。

 きっと、冬乃が人の器から抜け出て、まっさらな魂へと戻るその時までは。

 

 

 (・・・それとも)

 

 縁を辿り、世を超え再逢した魂同士ならば、

 

 冬乃という一世限りの肉体と精神などいつか凌駕して、いずれは惹かれ合う時が来るのだろうか。

 

 まだ今の冬乃には、

 こんなにも、沖田しかみえないというのに。

 

 

 

 冬乃は、自嘲に息を吐いた。

 

 肉体と精神という、魂の器の側に、

 こうまで囚われていることに。

 

 これが、文字通り魂がそれに囚われ拘束されているがゆえの、当然の宿命なのだとしても。

 

 

 まるで振り出しに戻ってしまったかのようだった。

 

 平成の此の世に居て未だ沖田に出逢えていなかった頃、

 彼の実体を求めて、苦しんでいたあの頃に。

 

 

 せめて、

 統真が、沖田の記憶だけでも、取り戻したのなら。

 

 (・・・そうしたら、少しは違う・・?)

 

 

 冬乃は。けど次にはおもわず首を振っていた。

 

 此処は、あの僧の話によれば、『元の歴史』の向かう先の未来、

 つまり、もし統真が取り戻したとしてもそれは、『新たな歴史』である冬乃との記憶ではなく、

 『元の歴史』である千代との記憶のほうになるではないか。

 

 

 (・・・あれ、・・でも)

 

 そうではない。

 

 まるで『元の歴史』といま並行して存在するかの『新たな歴史』のほうへと、冬乃を送り込んでいるのは、この目の前の統真の魂、時をも超越する究竟の存在自身なのだから、

 “彼” は、すべてを観ているに決まっているではないか。

 

 なら統真が覚醒する時がもしも来るとしたら、

 統真はその時、両方の記憶を持つことになる、という事ではないのか。

 

 

 (・・・それでも、やっぱり記憶だけでは・・)

 

 人の精神は、記憶だけで成り立つわけではない。

 

 

 (統真さんが総司さんの記憶を全て思い出したとしても、中身が総司さんになるなんて事は無い・・・)

 

 否、なりえてはならないだろう。

 統真には統真の精神があり、彼がこれまで生きてきた軌跡がそこにあるのだから。

 

 

 それとも人として生きてきた事なんて、“覚醒” してしまえば、些細な事となってしまうのだろうか。

 

 (でもそうなっても、きっと統真さんは人の肉体をもっているままで・・・それなのに・・?)

 

 

 そもそも、“覚醒” だなんて事が、起こりうるのかどうかすら。

 究竟の存在だからありえると、冬乃が勝手に想像しているだけで、

 

 実際はどんなにその魂がすべてのことわりを超越する存在だろうと、器はあくまで人なのだ。

 人としての器が耐えられるだけの事しか起こらないとすれば、結局“覚醒” など為されないともいえるのではないか。

 

 

 

 

 冬乃は、母と部屋を出てゆく統真の背を見やった。

 

 

 (・・・もう、・・わからないよ)

 

 何もしなければ決まっている未来があった幕末での世界とは、此処はあまりに違う。

 この先どうなってゆくのか、全てが冬乃にとって未知の状態で。

 

 

 「・・での・・、・・あとは・・」

 

 統真の説明する声が扉の向こうから聞こえてくる中、冬乃はぼんやりと手元を見つめる。

 

 (そうだ、早く)

 着替えなくてはならないと。ふと思い出した。

 

 (・・・て、)

 

 そういえば今の統真との距離は、これで充分なのだろうか。

 近づくべき距離ならばこれまでの経験で想定できるものの、逆の時はどのくらいまでいったん離れなくてはならないのか、おもえば冬乃の経験上にデータは無い。

 (・・・大丈夫なのかな??)

 

 

 「・・です。・・それが・・・」

 

 (と、とりあえず急ごう)

 

 ベッドの端へ両足を出し、冬乃は繋がったままの点滴チューブに絡まりそうになりながらバッグまで手を伸ばした。

 

 (これ・・)

 点滴を外さないと、着替えはムリなのでは。

 

 冬乃はバッグを引き寄せた手を宙に留め、どう動かしてもついてくるチューブとスタンドを困って横に見上げた。

 

 (ていうか、このままじゃ点滴ごと幕末行くんじゃ・・)

 

 でもたしか以前、膝上に落ちた下着は行かなかった。あくまで手に持っていた物だった。

 今回、腕の静脈に繋がれている物となるけども、この場合どうなるのだろうか。

 (・・とか、考えてても分かるわけないし)

 

 次には冬乃はあっさり諦め、とにかくおむつだけは替えなくてはと、

 慌ててバッグから下着を取り出してしまってから、そうだ先におむつを脱がなくてはと思い直す。

 

 点滴に繋がれる腕はやはり大きく動かすことはできそうになく、座ったまま冬乃は病院服の膝上まである裾に邪魔されながらもなんとか片腕だけでおむつを脱ぎきり、おむつをゴミ箱へシュートして、

 

 再びバッグから下着を取り出そうとした時。

 だが統真達が話し終えたのか、カタンと部屋の扉が音を発して。

 (きゃああぁ)

 咄嗟に布団の中へ隠れようとした冬乃は、

 

 「わ」

 次には冬乃に絡まったチューブに引っ張られてベッドへ突進してくるスタンドを、止めるべく慌てて立ち上がった途端に、スリッパに足をとられ、

 

 掴んだスタンドごと、コケた。

 

 

 

 

 

 目が覚めたら、医師と母の呆れ顔が揃って見下ろしていた。


 

 「危険ですから点滴をつけたまま激しく動かないでください。第一、昏睡が続いた後で急に動き回ったりしてはいけません」

 目覚めてまもなく医師に叱られる。

 「スミマセン・・」

 医師曰く急激な血圧低下による失神で数分ほど意識を失っていたらしい。

 

 「この後、流動食を試しますから、点滴はもう外しておきます」

 (と、統真さんは・・!?)

 医師がスタンドへ寄って視界が開けるやいなや慌てて辺りを見回し始める冬乃へ、母が分かったように「統真君なら帰ったわ」と告げてくる。

 

 そんな。

 冬乃は愕然と母を見上げた。

 

 「急用でもう電車の時間を待てなかったみたいよ」

 明朝の面会開始時間の時にまた来ると言っていた、と母は継いだ。

 「話は聞いたわ。・・でも何か統真君とは話の途中だったの?もう帰ることを彼、随分と申し訳なそうにしてたけど」

 

 「・・・」

 統真が母を少しでも安心させるべく話してくれた内容は、きっと、

 精神医学面からみて冬乃の見続けている夢が一連の昏睡と関わりがある可能性と、その夢の中の人に冬乃が別れを告げることによってその後は昏睡しなくなる可能性がある、といった内容だろう。

 

 冬乃は母へそれ以上何を言えるわけでもなく、ただ小さく首を振った。

 

 一分一秒をも急がなくてはならない状況が統真に伝わりきっていなかったのは、自分の説明不足なのだから仕方がないが、

 (最初にもっとお願いしておけばよかった・・)

 

 動き回るなと叱られたばかりだけど、最早これは後で母たちの目を盗んででも統真を探しに病院を抜け出すしかないのではないか。

 医師に腕の点滴を外されながら、冬乃はちらりと、向こうのテーブルにある携帯を見やった。

 

 その視界の手前にふと、漸く冬乃からの離脱を果たした憐れなスタンドが映る。

 

 そういえばもし点滴ごと幕末へ飛んでいたならどうせ自分で外すはめになったのだから、先に点滴を外してから動くのが正解だったのかもしれない。

 といっても、

 自分で点滴を外すなどしたことがない冬乃にとって、あの慌てている状況下で正常な判断ができたはずもなかっただろうけど。

 

 (結局幕末には飛べなかったしね・・)

 

 やはり部屋のすぐ外の距離では、離れたことにならなかったようだ。

 

 「くれぐれも安静にしていてくださいね」

 

 念を押す医師に平謝りしながら冬乃は、母が席を外すタイミングはいつだろうかと目の端に追う。

 

 そういえばまだ履けていない下着をどうしようかと一瞬、冬乃の脳裏をよぎったものの、

 そもそも勝手に替えていいものなのかも分からない。先程のうちに幕末へ飛べなかった以上、後で看護師がおむつを回収に来た時におむつはすでに自分で取ってしまったと白状し、もう自身の下着を履いてもいいか許可をもらうしかないだろう。

 

 とにかくまずは、母がまた病室を出たらすぐにでも統真に電話をかけて居場所を聞くつもりで、

 冬乃は機を逃さぬべく今か今かと布団の中、手に汗を握り締めた。

 

 

 のに。

 

 

 

 (そんな・・・・)

 

 例の“タイムスリップ疲れ” を感じながら布団でじっと横になり続けていた冬乃は、いつのまにか眠り込んでしまっていたらしく。

 

 どうやら起こされもせず、早朝を迎えたようだった。

 淡い朝日が射しこむ病室で、簡易ベッドに眠る母を見ながら、冬乃は大きく嘆息した。

 

 (どうしよう)

 今更こんな早朝に電話したところで、迷惑以前に繋がらないだろう。

 (バカ私・・)

 

 呆れて泣きそうになりながら、冬乃はよろよろと半身を起こす。

 (面会時間って、何時からだろ)

 昨日のうちに会いに行ってしまうつもりでいたから、それすら確認していない。

 

 これからその面会時間までの数時間、拷問の如きひとときになりそうだ。

 

 冬乃はそっと起き上がった。病室内の化粧室へ、母を起こさぬよう静かに向かいながらも、胸内を一層焼く焦燥に、進む足取りはもつれ。

 

 (藤堂様・・)

 もう一体、幕末ではどのくらい過ぎてしまったのか。

 

 潰されそうな思いでいっぱいになりながら、冬乃は殆ど自動的な動きで手洗いまで済ませ、

 ベッドに戻っても、先程から全くといっていいほど朝日の光量が変わっていないさまに、そのあまりに遅い時間の経過に、再び嘆息し。

 どうしようもなく、目を瞑った。

 

 

 どれくらい拷問の時間が過ぎただろうか。

 やがて漸く起き出した母の気配に、冬乃は目を開けて。

 母が傍までやってきて、冬乃が起きているのを見るとコールボタンを押した。

 

 「よく寝ていたわねえ」

 冬乃を見下ろしながら母はどこか安心したような声を出し。

 「起きたら食事をさせるつもりでいたのに、夕方になってもまだ起きないから、無理に起こして食べさせるよりはって、暫くの間また点滴していたのよ。あんたそれも気づいてないでしょ」

 

 冬乃が驚いて「全然気づかなかった」と呟くと、母は小さく息を吐いた。

 一時、あまりに反応が無いさまに、まさかまた昏睡しているのかと医師が慌てて確認する事態だったらしい。

 

 「今度こそ食べられるわね?」

 

 冬乃は頷いた。

 正直食欲なんて無いけども、点滴にまた繋がれるわけにもいかない。

 

 看護師がやってきて冬乃の検温をして出て行った。

 間もなく流動食が運ばれてきて、冬乃が味気ないそれを飲み込んでいると、なんと統真からの電話が鳴った。

 (統真さん・・!)

 すぐ分かるように、すでに遥か前に着信音を彼用に変えてある。

 

 「ケータイ取って!」

 冬乃が目を輝かせてテーブルの上の携帯を指すと、

 母は手渡してくれながらも、冬乃がベッドから出ようとしているのを見て一瞬その手を止めた。

 「どこ行くつもりよ。ここで話すか、指定場所まで移動してから掛け直しなさい」

 

 (あ・・)

 個室では許可されているので忘れていたが、廊下を含めた殆どの場所では携帯電話の使用が禁止されていたことを冬乃は思い出した。

 (たしかケータイの電波がすぐ近くの医療機器に影響するから・・って聞いたっけ)

 

 「統真さん、」

 携帯を受け取り冬乃はこの場で出ることにした。

 「おはようございます・・」

 母が居る前で何か余計な事を話してしまわぬよう緊張が奔りながらも、

 「おはよう。昨日はごめんね」

 統真の開口一番のそんな言葉に、「いえ」と冬乃はつい首を振る。

 

 「俺が戻っても貴女は昏睡しなかったけど、・・今回はしそうなのかな?」

 「は、はい。あの、十分な距離をとらないとだめだったみたいです・・」

 

 電話口の向こうで、きっと統真は首をかしげたに違いない。

 「・・まあとりあえず、もうすぐ着くから。面会開始時間よりかなり前だけど大丈夫?」

 (わっ)

 「もちろんです!!」

 喜びのあまり声が大きく出てしまった冬乃は、慌てて口を噤んだ。

 「じゃあ、またその時」

 「ありがとうございますっ、お待ちしてます・・!」

 と言っても、きっと統真が部屋に入ってくるよりも前に、冬乃は昏睡に落ちてしまうだろうけど。

 

 (よかった・・・あと少しで・・)

 

 安心したら急に食欲が出てきた冬乃は、母へ携帯を返すと残りの食事を一気に掻き込んだ。

 「統真君が来てくれるのね?」

 母がそんな冬乃の横に腰を下ろす。

 「本当によく面倒みてくれる子ね。あんたの事が好きなのかしら」

 

 (え)

 

 ぎょっとした冬乃は、

 次には、母とそんな会話をしていることに内心驚きながらも、

 「違う・・と思う」

 ぽつり、否定していた。

 

 「もっと、お医者さんの卵としての使命感みたいなものというか・・・博愛的なもの・・だと思う」

 

 慈悲

 まさにそんな言葉が浮かぶ。

 

 「ふうん、そうなの?」

 母は納得したのかしてないのか、どちらとも取れる声を出した。

 

 看護師が見計らったようにやってきて、冬乃の前の食器を片付けてゆく。

 冬乃は統真を待って高鳴る鼓動を胸に、そうだ何かどうせなら向こうへ持っていけるものはないだろうかと、つとバッグのほうを見やった時。

 

 懐かしい霧に、その視界は一瞬で遮られた。

 

 

 

   

 

             


 

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