二十三. 清涼の桜
新緑の中を一頭の馬が歩んでゆく。
さわさわと流れる林間の風は未だ冷涼ながら、
緑葉の天からは温かな木漏れ日が煌めいて、馬上の冬乃と沖田に惜しみなく降り注ぐ。
あまりの眩しさに目を細めながらも冬乃は、堕ちてくる光を仰いだ。
地を這うからこそきっと、まだ見ることのかなう光景を。
こうして、あの日と同じ晴れわたる蒼天も。
こんなにも美しい世界を、見納めるかのように何時もいつまででも外を見つめていた千代を、冬乃は思い出していた。
この眩しい光の先に、今、千代が居るのなら、
今度こそ心安らかに沖田をそして冬乃を見守ってくれているだろうか。
そして託された冬乃は、見届けることができるだろうか。
千代の祈りが導いた未来を、
少しでも愛する人が苦しまずに済む道を。
これから先も。
最期まで。
江戸から引き取りに来た千代の親戚の元で、彼女の葬儀は執り行われた。
長く覚悟していたはずなのに、冬乃の胸内に空いた喪失感は深く、幾度もふとした瞬間に涙が溢れ零れて。
いつまでも元気のない冬乃を心配した沖田が、二人揃っての休みを得た今日、新緑の林へ散策も兼ねて連れ出した。
此の世と未来を繋ぐあの文机を拾った廃寺へと、二人は向かっていた。
冬乃はいつかに沖田が話してくれた僧が、居るような予感が何故かして、強い期待と不安を共に忍ばせていた。
まだ冬乃が結核に罹っていないとの確信は持てないなかで、
沖田の傍にずっと居られる未来があるのか如何か、
きっと、その僧ならば観通せる。そんな予感もまた、しているからで。
現代の知識をもって出来うるかぎりの予防には努め、やがて長居もしなくなって。千代との時間をそうして過ごしてきたとはいえ、それでも不安は残っている。
もし、僧に会えて話をすれば、このさき冬乃に一体どちらの未来が待っているのか、
沖田の傍に最期まで居られる未来か、
沖田から離れなくてはならなくなる未来か、
冬乃はなんとしてでも確かめようとしてしまうだろう。
「・・驚いたな、これは・・」
沖田のその声に、はっと冬乃は、彼の肩先に凭せかけていた顔をずらして沖田の目を見上げた。
冬乃を横抱きで腿に乗せながら手綱を操る沖田の、その手が軽く引き、馬は歩みを止めた。
冬乃は沖田の視線の先を追って前を向いて。
瞳を見開いた。
「う、そ・・・」
一本の、満開の桜の木が。
古寺の前、静やかな風に白花を舞わせ、まるで別世界のような光景がそこに広がっていた。
「・・最後に来た時もたしか今の時期だったが、桜が咲いていた記憶は無いな・・」
最後に来た時というのは、二度目に寺へ来て僧に出会った時の事だろう。冬乃は沖田を再び見上げた。
つまり、いま桜の舞いに縁取られたこの古寺が、沖田の言っていた寺なのだと。
冬乃は高鳴る心の臓を感じながら、改めて前へと向き直る。
此処がいくら高地とはいえ梅雨入りも間近な今の季節に、満開の桜が、在るなんて。
冬乃の瞳に映る廃寺は、いかにも人の手から離れた寂れた姿ながら、却って周囲の自然に融け込んで、
そしていま奇跡の桜を纏い。
まるで、
天界の、入り口にでも迷い込んだみたいに――――
不意に、門の内から一羽の鳥が飛び去ってゆき、
鳥を追うようにして一人の僧が、苔で覆われる門柱の後ろから歩み出てきた。
と思ったら僧はこちらに気づいて、立ち止まった。
「・・貴女様は・・・・」
まだ離れた距離にありながら、まっすぐに冬乃を見つめて僧は声をあげた。
その、ひどく驚いた様子は。
冬乃の息を奪って。
冬乃は咄嗟の声も出せずに、僧を見つめ返した。
桜の香りに包まれ、冬乃は。つと我に返った様子で会釈を送ってきた僧が、こちらへゆっくりと向かい来るのを、なお息を殺して見つめた。
何故、僧が冬乃を見て驚いたのか、
彼こそが沖田から聞いた例の不思議な僧であるならば、その解は、おのずと導けて。
「ご無沙汰しております」
沖田が冬乃を馬から降ろし、自らも降りると、二人の前まで来た僧へと挨拶した。
やはり、彼が例の僧なのだと。冬乃はどきどきと激しい心臓の鼓動を胸に、僧の返事を待つ。
「すべては御縁によるお導きでございます。この時こそが、まさに再逢の時なのでございましょう」
冬乃の想像を超えた返事に。
冬乃は、次には続けようとしていた挨拶も忘れ、呆然と僧を見つめてしまった。
そんな冬乃へ再び向いた僧が、にっこりと微笑んだ。
「そして、これまでの長き旅路、お疲れ様でございました」
それはまるで、いま山林を来た道というより、
これまでの、千代を見送るまでの日々に対しての言葉にすら聞こえ。
冬乃はもはや圧倒されたままに、今の言葉へせめて礼を返さねばと、なんとか頭を下げる。
「彼女の事が、お分かりですね」
だがその横から降ってきた沖田の声に、はっと冬乃は顔を上げた。
「ああして驚いてらっしゃったご様子では」
「ええ、ではやはり・・こちらの御方は、此の世のお生まれではない、のでございますね」
「そうです。彼女は先の世から来たんですよ、此処で拾った文机のおかげで」
ごく自然に交わされてゆく僧と沖田のやりとりに、冬乃のほうはもう唖然として二人を交互に見やった。
二人は前回もこんな調子でこんな浮世離れした会話を普通にしていたのかと。
「おそらく文机は、」
僧がゆっくりと両手を合わせた。
「定められた"的" にすぎませぬ・・すべては、この御方を此の世へお運びになった御力があっての事でございましょう」
「それは法力、ですか」
「まことに左様でございます」
(ほうりき・・?)
倫理の先生の雑談にそんな話があった気がする。冬乃の記憶が正しければ、たしか仏教修行によって得るという超常的な力だ。
「それを為された御方が、この御方のお生まれになった世におわすのでございましょう」
「冬乃が言っていた人か」
(あ・・)
統真のことだ。
確かにそんな人がいるとすれば統真しかいないだろう。
冬乃は、けれどもおもわず首を傾げて。
それでは統真は無自覚にその法力という力を発している、という事になるではないか。
文机が的、つまり時空を超えて冬乃を飛ばす先の目標地点、いいかえれば座標とでもいったものだったらしい事は、分かったものの。
(・・・だいたい統真さんは、お坊さんじゃないし・・・)
しかも法力が存在するとしても、時空を超えさせるほどの力ならば、そんじょそこらの法力ではないことはさすがに冬乃にも想像できる。
修行僧ではとても成し得ない、
もっと、修行を完成させた"仏" の側に位置する存在の力――――
(でもそれって・・・・どういうこと??)
眩暈がしてきた冬乃に、知ってか知らでか沖田がつと覗き込んで微笑んだ。
「初めの頃、冬乃は未来から突然飛ばされてきたと、何故かも分からないと、そう言っていたね。その理由を、此の世へ留めてもらうよう最後にその人に頼んでくる時、聞いてみたりしたの」
「い、いえ」
困って首を振る冬乃の前で、僧が目を見開いた。
「最後に、とは、では幾度か行き来なさってらしたのでございますか」
「え」
はい、と今度は急いで首を頷かせた冬乃を、僧がその驚いた様子のままにどこか不思議そうに小さく息を吐いた。
「なんとそのようなことが・・・此の世でもまたそれほどの御力をお持ちの方から、法力をお受けになられてらしたと」
「あ、いえ、たぶん違います、その・・向こうへは飛ばされるというより、その人に引き戻されていたというか。此処に来ている・・た間、向こうでの私はずっと気を失っていて、その人が来るとすぐ否応なしに目覚めてしまってたので・・・」
「・・・・」
「・・・・」
僧が押し黙り、緊張した冬乃も押し黙った、
時、
ピイと澄んだ声をあげて先ほど見た鳥が、向こうの門柱に下り立ち。
翡翠色の羽をすっと伸ばす姿に、一瞬で視線を奪われていると、
「人の世に」
ふと僧が、感極まった様子で呟いた。
「未だ人の世に、生きながらにして彼岸に到達された御人は、途方もない法力をもお持ちになられます」
「然れども人であらせられるかぎり、」
はらりはらりと桜が舞い。僧は溜息すら零しながら続けてゆく。
「この十方世界の無常のことわりを、決して超えることはございませぬ」
無常
仏教において、すべてのものは移ろい、同じ状態であり続けることは無い、という意味であったはず。
冬乃は僧が何を言いだそうとしているのか、緊張の解けぬ胸内で息を凝らした。
「しかしながら、貴女様のお戻りになられていた先の世は、貴女様が過去へと移動されたことで派生した時の流れの先では無しに、元の流れの内にある先の世」
「・・・・」
冬乃の表情は、顔いっぱいに混乱を示していたに違いない。
僧が申し訳なさそうに一旦口を噤んで、「たとえ話を致しましょう」と言い直した。
「過去という上流から、未来という下流へと向かう、川の流れを思い浮かべてくださいませ」
冬乃は小さく頷いて返した。
横の沖田も興味深そうに耳を傾けている。
「水面に浮かぶ葉を、下流のとある位置から掬い上げ、上流へと戻したと致しましょう。川の水の流れもまた無常にて、同じ流れとはいきませぬ。葉は必ずや一寸もたがわぬ元の位置には向かわずに、違う位置へと流れ着きましょう」
冬乃は今一度頷いてみせた。
「ゆえに、貴女様が戻ることの叶う未来は、大なり小なり違う流れで行きつく先の未来でございます。
たとえ法力にて時を超え、そこへ向かうまでの間を飛ばしたと致しましても、その原則を破ることは決して叶いません。向かうべき先は、元の同じ位置ではあらず、新しい位置でございます、そこが新たな流れに約束された未来の地点でございます」
ですのに
と、僧は静かに深く息をついた。
「貴女様は、元の流れの内の未来へと、そこに留まる貴女様のお体の元へと、強制的に、引き戻されていらした」
(・・・あ)
「そのようなことを叶えられたほどの・・・万物のことわりを超越する法力をお持ちとなれば、」
冬乃は、僧が何に驚嘆しているのか。理解して。
「・・・・その御方は、」
僧は確信を籠めた眼を冬乃に向けた。
翡翠の鳥が門柱から音もなく飛び立った。
「・・その存在は。いにしえからの書物にて様々な呼称とともに、語られてはおりました。しかしお逢いになられた方のお話を直に伺った事は、ついぞございませんでした、」
奇跡の桜が今もおだやかに舞い落ち。
「この時まで」
ゆるやかな風が三人を包むと、するりと吹き抜けていった。
(・・・え・・つまり・・?)
いったいどんな存在なの
おもわず、食い入るように僧を見つめた冬乃の、
そんな無言の問いを聞いたかのように僧は、柔く首を振ってきた。
「その御"存在" を、どう表そうといたしましても到底言葉が足りませぬ。私の拙い言葉でしいてお伝えしようとしますならば・・・その御方はまさに変幻自在な、ときに人の姿をなされながら、されど生死も時も、あらゆる万象をも超越され、」
冬乃のどんどん丸くなる目を、僧が見据えながら続けてゆく。
「それゆえに申し上げました様な驚くべき法力をお使いになられるのです・・いえ、恐らくその御力は最早、法力と呼べる範疇さえ超えたものでございましょう、
そしてそのような深遠な御力ともなれば、果てしなき"慈悲" に縁るものに他なりませぬ」
僧は恭しく重ねている両手を顔の前へ運び、目を瞑った。
「然るに・・その御存在は"涅槃" の境地に達されながら、衆生の救済がために十方世界の内に留まられた・・」
(ま、まって、"ねはん" って何だっけ)
話についてゆくのが精一杯で、冬乃は懸命に、以前沖田が数多ある解釈のひとつとして話してくれた事を思い起こす。
(たしか)
浄土が、
地獄界から天上界までの苦しみを抜けた先、
肉体を脱して魂で存在する仏の世界
であるとされるならば、
涅槃とは、その極楽の世すら脱した先、
真に解放された境地をさすのだと。
「・・ひとつお話を挟みましょう」
どうやら再び解説を入れてくれる様子の僧に、冬乃はほっと息をついた。
「まず申し上げます事は、"存在する" ということは無常のことわりから解き放たれてはいない、という事でございます。
魂をも含め、存在であるかぎり、常にその成り立ちは移ろい、永劫に恒常であることはございませぬ」
(永遠に同じままの存在は無い・・)
ひとつとして一律な舞をみせぬ桜花が、三人のまわりを風にゆだね流れゆくなか、冬乃はひたすら僧の教えに傾聴する。
「極楽浄土は、輪廻というひとつの無常のかたちからは放たれた世でございましても、いうなればそれはひとつの特例であり苦しみの六道に戻らぬ確約がなされた世であるというのみの事・・」
僧は一呼吸を置いた。
「"存在" は無常ゆえ、御魂となられた御仏の住まわれる、即ち、"存在" なさられる浄土の世もまた、無常ということに変わりはございませぬ」
ヒヒン・・と馬が嘶き。沖田が手を伸ばし馬の頭を撫でるのを、見上げながら僧がにっこりと微笑んだ。
「かように極楽の世をも司る、無常のことわりでございますれば」
その柔らかな微笑みにのせて僧は紡ぐ。
「無常であることそのものは決して苦しみではない証、とも言えましょう」
(“無常であること" は苦しみではない)
冬乃は、僧の言葉を咀嚼した。
(“永遠ではないこと" は苦しみではない・・・?)
「それどころか無常こそが、十方世界を生きる者の救いなのでございます」
(え?)
話が逸れてしまいました
つと僧は呟くと、
改めて冬乃と沖田へ交互に目を合わせた。
「十方世界を司る無常のことわりを超越することは、浄土におわす御仏でさえ叶いませぬ」
「叶うは唯一、そのことわりの外・・涅槃・・に達せ得ながら、慈悲がため十方世界に留まられた、究竟の御"存在" のみでございます」
(究竟・・究極のこと?)
僧の肩先にひとひらの花びらが乗るのを目に、冬乃は先程からずっと胸内を渦巻いている混乱に、
「此の世と元の未来の往来という、いうなれば真の奇跡を叶えられた御方は、そういう御存在なのでございます」
遂に。悲鳴をあげた。
(統真さんが・・そんな、究極の存在だっていうの・・・?!)
「そのような御方から貴女様に授けられた、その奇跡の往来は、まぎれもない"慈悲" に縁るおはからいでございましょう」
(・・・でも仮に)
冬乃は声が出せず只々、僧を見つめ返した。
(本当に、そうだとしたら)
もしも、冬乃が感じ始めているように、統真が沖田の魂を継いだ存在であるとすれば、
再逢を切望した千代の魂は、その統真と冬乃が出逢えたことで、一世を超えて遂に安らぎを得られたはずだった。
けれど千代の魂は同時に、沖田への深い罪悪感の呵責に喘ぎ、出逢えてなお安らぎとは程遠い苦しみの渦にいた。
沖田がその一片すら千代を責めてなどいないことを、哀しい程わかっていても。
そして、そんなかたち無き罪は。
それを生み出す自分自身が手放さないかぎり、消え去ることはない。
あのとき母への罪悪感を、冬乃自身で手放したように。
(お千代さんの・・私の)
魂の呵責を
拭えるのは。
(私自身でしか、なかった・・・だから)
慈悲
と僧が表現した、この奇跡は。
冬乃が宿命のように背負ってきた数多の罪悪感を
冬乃自身の手で解放させるために、
贖罪への祈りに苛まれていた、この千代の魂を
浄化するために、
統真・・沖田によって施された――――救済。
冬乃は茫然と沖田を見上げた。
(私・・お千代さんが、総司さんを救うためではなくて・・・私とお千代さんが救われるための奇跡・・だったの・・・??)
視線を受けた沖田が、どうしたと微笑んで。
冬乃はどんな形容でさえも表しきれない、その胸奥から込み上げてくる強烈な情感に圧され、咄嗟に顔を伏せた。
「冬乃?」
沖田を千代との運命から引き離す
冬乃に課された、その使命は。
無き罪への贖罪を請う千代・・冬乃が、
その祈りを叶え、
果てなき苦しみから自ら解き放たれるが為に。
他でもない"彼" から、課された使命だった。
統真が、たしかに沖田の二世先の生まれ変わりであるならば。
(総司さん・・)
だけどいったい、
千代と天界で再逢しなかった彼の魂は、代わりにどこへ向かい、どれほどの修行に投じたのなら、
更なる次の世で、千代を救いだせる究竟の存在にまで成りえるというのだろう。
冬乃はおもわず沖田に手を伸ばし。
返ってくる硬い温かな肉体の感触、息遣い。
いま人として沖田が存在している実感に、ほっと息をついてしまって。
ますますどうしたのかと覗きこむ沖田へ、冬乃は只々どうしようもなく、手に触れたままの着物をぎゅっと掴む。
(・・・きっと)
これが本当なら、
千代と冬乃の魂が救われるための、奇跡だったのなら。
冬乃の願いもまた、叶うのだろうか。
冬乃は感染してはいなくて、
沖田の望む最期を見届けられる未来を、迎えることが。
さわさわと流れる風を頬に、冬乃は目を閉じた。
それでも、沖田の命の長さを変えたい
その願いのほうはきっと叶わない
漠然と、そんな想いを懐きながら、
「その力は」
返されるであろう答えを覚悟しながら。冬乃は瞼を擡げる。
「歴史を大きく変えることも、できるのでしょうか・・?」
一縷の期待すら持てずに、
それでも尚、確かめないままではいられず。
「そして・・人々の死期も」
僧が、冬乃の怯えた瞳を静かに見返してきた。
「・・・それらを大きく変えることは」
できるのなら。
冬乃が願った時から、とっくに変えられていたはず。
「できぬ、と答えるより他ありませぬ」
冬乃は、諦念の内に小さく息を吐いた。
「歴史を大きく変えるということは、」
僧は、言葉を選ぶように、
「そこに関わる天変地異から、無数の人々の無数の想いまでを、大きく変えるということでございます」
一語一語。ゆっくりと続けた。
「歴史というものは、それら無数の作用に縁って、成るべくして成ってゆくもの」
「・・言い換えますれば、どんな天変地異を防いだとて尚、その大きな歴史の流れに関わり合う無数の人々が違う道を自ら望まぬかぎり、どんな御仏にも、"究竟の御存在" の御仏であってさえも・・変えるすべはございませぬでしょう」
それは決して
と僧は継ぎ足した。
「御仏に変える御力が無いということではなく、変えようとは為さらない、のでございます。人の想いを・・それがたとえどんなに邪悪な意思であってさえも、御仏は"其の儘" に為さられ、無理に捻じ曲げることは決して為さいませぬ。関わり合う縁のひとすじに至るまで・・」
少し悲しげに、僧は小さくかぶりを振った。
「これは、人の身である私たちにとって認めがたき事ではございましょうが・・善悪は、あくまで人の世の概念でございます故。
正しき義が何たるかは、各人の心が各々で定めしもの」
「そのような中で多くの人々によって支持される善悪の基準は、人が人を律し、そうして人が人を護るために、人類の歴史の長きにわたり培ってきた知恵と言えましょう・・
仏教の戒律でさえ、人の世において律する必要が生じて作られしものでございます」
また少々話が逸れてしまいました
と僧は力なく呟き。
「人の死期も、また」
一呼吸置くと、更に継いだ。
「ときに天変地異の諸々に加え、縁の関わり合う人々の様々な意思と行動、勿論のこと本人の生き様や、あらゆる選択の積み重ね、望む死に様に至るまで・・・全ての万象との縁が、其々大きくも小さくも作用したうえで定まるものでございますれば、
往々にして、その万象に導かれし死期を変えることは到底、困難なことなのでございます」
「・・・もしも、死期に関わる特に重要な事柄の縁に対し、変更を及ぼすことが小さくとも叶ったとしますれば、それによって少しの時期のずれが生じることもあるやもしれませぬが・・」
安藤や山南、そして千代の死期は、冬乃の働きかけによって少しの変更を受け入れた。その事を改めて冬乃は思い起こし。
冬乃は、自分が僧の話を全て理解できているかは分からないものの、これまでの経験をもって想像していた事と違わぬ僧の回答に、静かに目を伏せて。
「教えていただき有難うございます・・」
それでもこみ上げそうになる涙を隠し、頭を下げた。
「・・今お尋ねになられたことは叶えられずとも」
僧の、気遣うような声が降りてきた。
「貴女様をこの世へ送られた慈悲の御力は、おそらく貴女様の御魂を救うために、何か大変に重要な物事を叶えられたはずでございます。・・もしかすると、すでに貴女様はそれにお気づきなのではありませぬか」
沖田が再び冬乃を見やる気配がした。
彼に明かすことはできない、その"何か" を。わからぬふりで冬乃は、そっと首を横へ振って見せる。
「では、いつかお気づきになる時が参りましょう」
僧が柔らかに微笑んだ。
「はい・・」
何を叶えられたか、以前に。
たとえば何故、その究竟の存在が、これほどの奇跡を起こして冬乃の魂を救うのか、
きっと沖田や僧からしたら、そこからして不思議だろう。
冬乃は顔を上げた。
「尋ねたわけは、近い未来にどうしても変えたい歴史があるからなんです」
話の矛先を逸らすべく、
「もしかしたら私が想像している以上に、大きく変えることなのかもしれなくて・・それでも」
もとより後押しが欲しかった事。
それは僧の話を聞いた時から、確信しはじめた希望だった。
(・・そう、)
もし伊東一派も近藤達も、確かに同じ方向を本当は目指していたのなら、
向かう歴史が、もし誤解から始まった悲劇だったのなら。
それなら、彼らの向かった歴史は、彼らの本来の望みではないから。
「・・・もしも、そこに関わる"多くの人達" が違う道を望んだ場合には・・その歴史を変えられる可能性はあるってことなのですよね・・・?」
誤解さえ、無ければ。
彼らが本当は向かいたかった未来へと、
歴史の行先を変えることも、望めるはずだと。
僧が静かに頷いた。
「可能性が全く無いとは、決して申しませぬ」
ただそれでも
と僧は慎重に冬乃の目を見据えた。
「元の歴史が、結果として在るということは・・多くの縁がその方向へ導いたという事でございます。
つまり、その歴史に関わった多くの人々の意思もまた、直接的ないし間接的にその結末へ向かうものであったという事でございます故」
「それらを覆すことは、その関わり合う縁の範囲・・規模が大きくなればなるほど、非常に困難になってくるという事は・・申し上げておきます」
冬乃は頷いてから。
つと生じた不安感に息を呑んだ。
(関わり合う縁の範囲・・)
もし当事者の伊東達や近藤達以外にも、実はそのような存在が多くいたのだとしたら、
そして、その人達の意思が、
元の歴史の通りを望んでいる場合は・・・
(どうしたって覆せない・・・ていうこと・・・?)
「ですが、変えることが貴女様の望みならば、それを諦めてはなりませぬ」
優しく芯のある声に、はっと冬乃は僧の目を見返した。
「歴史をすでに知る貴女様にならば可能性がある、それもまた確かな事でございます」
「冬乃」
沖田に手を包まれた冬乃は、次には彼を横に見上げた。
沖田の着物を握り締めたままだったと気づいて。今その手は大きな手にがっしり支えられて、まるで冬乃の心までも力強く支えられる感をおぼえ。
(・・・総司さんが居てくれる)
冬乃にとって一番に心強い存在の、その温かな熱が常のように、怯えていた冬乃の心の強張りを溶かしてゆく。
(恐れないで・・最後まで諦めずにやれるだけのことをやってみるしかない)
冬乃の眼が改めて決意を帯びたさまを。見届けたように沖田が、今一度強く冬乃の手を包み込んだ。
柔らかな風に押されながら、馬上の冬乃たちはゆっくりと坂を下る。
ふと見れば馬のたてがみに、一枚の桜の花びらが絡まっていた。冬乃はこの帰り道も沖田の膝上に横抱きされた姿勢で座るままに、ついと手を伸ばして花びらを摘まみ上げた。
冬乃の行動にか、沖田がふっと微笑ったのを感じて、冬乃は沖田を見上げる。
「浮世離れした桜だったな・・あの僧も、相変わらず」
冬乃は頷いた。
振り返れば本当に、別世にでも迷い込んでいたようなひとときだったのだから。
あれから僧は、古い書物に語られるという極楽浄土の世界について、そして一切が謎につつまれた涅槃の先について、あれこれと話して聞かせてくれた。
冬乃はだんだんと、おとぎ話でも聞いているような心地になって。
それに、
涅槃の境地に達しながら、この世界に留まった究竟の存在は、きっとそうと分からぬだけで多くいるはずなのだと、
自分もいつかはお逢いしたいと、もしかしたらもうお逢いしているのかもしれないと、そんなふうに僧が熱く語っているのを前に、
その存在になる二世前の存在にならば、ちょうどいま会っているかもしれないですと、冬乃は言ってみたくなる小さな衝動にも幾度も駆られ。
「そのような究竟の存在になるには、どれほどの功徳を積まれたのでしょうね」
そんなさなか、沖田がそうしてどこか感嘆した声で僧に相槌を挟んだので、そのとき冬乃は瞠目して沖田を見上げた。
「功徳・・仰るとおりで、」
そのとき僧は呟くように頷き。
「"慈悲" の行い・・善意から救いの手をさしのべる行い・・・まさに仏への道でございましょう」
しかし問題がございます
と間を置かず僧は困ったように微笑んだ。
「先に述べましたように義そして善悪が何たるかは、人様によって受け取り様が違います・・そうなれば善意とは、つまるところ何でしょうか」
冬乃は、僧の投げかけに、息を凝らして答えを待った。
「あくまで与えられる側にとっての"善行" をしてさしあげることが、その者を救う慈悲の行い、ということになるのであれば」
一呼吸のちに僧は続けてゆく。
「いいかえますれば、与うる側の信ずる善意がもしも、与えられる側にとって善意でなかった場合には・・、時に押し付けとなりえてしまうといえましょうか」
冬乃は不意に、思い出し。
近藤と町に出て浪士達と闘ったあの日、生き残った浪士の自害を咄嗟に止めていた時のことを。
あの行為が冬乃の中で信じる善に突き動かされたものであったことは確かで。だけれどもその行為が正しかったのか、ずっと分からないままで。
「・・しかしながら、あくまでその者が望むことを叶えてさしあげることだけが善行であるかというと、また一概にそうともいきませぬ」
ゆるやかな風に乗せるように僧が話を続ける。
「与えられる側の信じる"善" の定義は、時の経過によって変化することもまたあり得ますゆえ。その者がのちに振り返って、当時は押し付けであったその受けた善行を後から感謝するもまた、起こりうること・・」
(あ・・・)
「ゆえに私達は、ひたすら各々の信じる善行を、心より相手を想って施し続けるより他ないのかもしれませぬ」
「勿論の事、その善行にあたっては世に広く受け入れられている善悪と照らし合わせての、賢明な判断も必要でございます。それらは相手にとっての善を知る上で、大変に重要なことでございます・・」
(・・え)
冬乃は再び心中に渦巻いた思いに、つと息を呑んだ。
"武士の世" で広く受け入れられている、
彼らにとっての善は、
それならやはり、闘いの中で栄誉の死を、互いに尊重することではないのかと。
近藤が言ったように、互いに真剣を交えて闘う際に手加減をすべきでない事、
そして、そこにはたとえば沖田のいつかの選択のように、丸腰の相手や逃げ出す者ならば殺さない事も、
つまり一方的な殺害はしない事をも含むだろう。
そして、
その対の、闘いを続けた末の自刃ならば。尊重すべき事も。
(私は・・・)
あの時、近藤は冬乃の行為を咎めずにいてくれた。けれども、やはり本当のところは武士にとっての"善行" ではなかった、ということなのではないか。
僧が言ったような、いつかあの時の侍が振り返って冬乃の行為を認めてくれる日が、来ないかぎり。
心奥を突き刺した痛みに冬乃は息を震わせた。
――ひたすら各々の信じる善行を、心より相手を想って施し続けるより他ないのかもしれませぬ
慰めのように僧のその言葉を、胸内で繰り返しながらも。
「・・ならば」
そんな冬乃の横では、沖田が小さく息を吐いた。
「功徳どころか、その逆の、己の善に背く行為を幾度もしてきた私の・・次世で向かう先は地獄界でしょうね」
沖田のそんな静かな声を受けて冬乃は、弾かれたように彼を見上げていた。
(今・・なんて・・?)
「組織に害した、元は仲間だった者達を、私は幾度も手にかけた」
続く沖田の告白に。
「だが、この先も。私は迷うことなく行う」
冬乃は息を殺し。
(新選組に害した・・元は仲間だった者達・・・)
隊規に背いた隊士を、
だが逃げて生き延びることを望んだ者を。
裁きの場へと引きずり戻し、刑に処した事、闘いの中ではない死を与えた事を、
言っているのだと。
「・・御心で信じておられる善には背くとも、貴方様の"組織" にとって為すべき事であると、貴方様は同時に認めてらっしゃるということですね・・」
「ええ」
ただ、
と沖田は言い足した。
「さすがに、卑劣な方法での処断には、迷わぬわけではなかったですが」
冬乃は、芹沢達の暗殺の日、あの一瞬かいま見た沖田の表情を今また、見上げる先に見とめ。
「貴方様の向かわれる世は、」
不意に紡がれた僧の返事に、はっと冬乃は続けて僧を向いた。
「地獄界ではございませぬ。それだけは、疑いようのないことでございます」
「・・しかし」
「功徳を怠ったからとて、」
沖田の差し挟んだ懐疑へ、僧は静かにかぶりを振った。
「それすなわち地獄界へ向かうというわけではございませぬ。先程申しました様に、戒律にも在るところの"不殺生" も、また然り・・・」
「・・更には、貴方様の場合、御魂が大変に清くいらっしゃる。ゆえに尚のこと、一筋縄ではいかぬのでございましょう。貴方様が次に行かれる世は、少なくとも地獄界などではありませぬ、それだけは確かでございます」
僧は再びそう繰り返すと、「されど」継いだ。
これ以上は私にも観えませぬ
と。
あの僧には、沖田の次世が地獄界ではないことまでは、観えていたというなら。
(あの僧も僧で、いったい)
本当に、何者なのだろうかと。
冬乃を此の世の人間ではないと一見で観抜いたり、
今もって不思議な別世から戻ってきた感覚のなか、冬乃は深まる謎に、遂に溜息をついた。
僧は、まるで己はそれらの存在ではないような物言いをしていたが、本人に自覚が無いだけで、彼も統真と同じく何か、修行僧では無しにすでに仏の側の存在なのではないのか。
(・・統真さんも、本当に自覚が無いだけなのかもしれない)
だから自分を人間として認知し、あたりまえのように人間として生きているのかもしれないと。
(あの僧を見てたら、そんなふうに思えてくる・・・)
だが、そうなるとどうやって、統真は冬乃に対して『慈悲の力』を使っているのか。
本人の自覚が無いまま力だけが発動する、それではまるで、肉体や心つまり精神の働きではなく、
その制御の及ばぬ、魂、の働き――――
(そう考えてみるしか・・もう、説明がつかない・・・よね・・?)
いつかに冬乃が混乱して思考を打ち切った、ひとつの感を。今また思い起こして。
千代より受け継いだこの魂が、まるで冬乃の心を操って、
そして冬乃の心は、体を操り、
時に逆転して体が、心を操る。
そんなふうに感じてきた事。
(・・そして)
所詮、"現世でのみ存在する宿り木" の体と心では、
前世から次世へと無常の内を移りゆく、自らも無常である魂に、
操られることはあっても。
それを操るすべなど到底、持たないのではないかと。
そんなふうに、今ならはっきりと思える。
それにもし確かにそうならば、
統真の魂の、仏としての"慈悲の力" を、
彼の人間としての体と心では、本来、認識すらできないだろうと。
(そう・・・きっと、本来、なら)
それでも、その身が宿す魂は
この十方世界の究竟の存在
(“普通の" 仏様じゃないってことだから・・・)
冬乃でさえ。天上界から降りた魂をこの身に、
この奇跡のなかで既に幾つもの魂からの直観を、受けてきたのだ。つまり、
非常に限定的であっても、魂の及ぼすものを僅かに認識していて。
(・・・だから統真さんなら、もっと)
今は未だ、気づいていないだけで。
きっと然るべき時が来れば。
そして、その時こそ――――――
「冬乃ッ」
「・・・冬乃さ・・」
目の前が、突然真っ白になった。
(え・・・?)
「冬乃さん」
沖田の声と重なる、もう一人の声が。
聞こえて。
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