二十二. 枯芙蓉④






 千代の本来の命日が過ぎて。



 その少し前より、冬乃が持ってきた木箱の一番奥に横たわっていた最も強い鎮痛薬を使い始めてから、千代はほとんどの時を眠るようになっていた。

 

 幾度となく冬乃は、千代のあまりの静けさに、恐る恐る彼女の呼吸を確かめては息をつく日々を重ねた。

 

 

 やがて春も終わりの空へとすっかり変わった頃、

 

 その日は、庭に咲き乱れる花々に誘われたように、縁側に座っている千代の姿があった。

 

 「今日はとても調子が良いの」

 千代は、訪れた冬乃を振り返ると微笑んで。

 

 冬乃はそんな千代の座る横へと、共に座った。

 天の高さを増して澄みわたる蒼空の下、穏やかな風に揺れる花たちを、そのまわりを舞う蝶たちを、そして言葉もなく飽くこともなく共に眺め続けた。

 

 

 どれほど時が経っただろう。ふと千代が、冬乃を向いた。

 

 「ごめんなさい」

 

 いきなりの、そんな言葉に。冬乃は驚いて千代を見返した。

 

 「ずっと、貴女に来ないでなんて、言って拒んでしまったこと・・」

 

 「そんな」

 冬乃は急いで首を振っていた。

 「お千代さんは私のことを心配してくれてのことですから。私が勝手に押しかけていたんです」

 

 「いいえ、違うの・・」

 千代の少し潤んだ瞳が冬乃を見つめ返した。

 

 「本当はね、毎日貴女が来るのを心待ちにして・・貴女にずっと救われていたのよ」

 

 

 見開いた冬乃の瞳から。千代はまっすぐに逸らさなかった。

 

 「貴女にうつしたくないのに、」

 千代の痩せてしまった唇が呟き。

 

 「一方でそんな想いになっている自分が、ほんとうに嫌だったわ」

 

 ごめんなさい

 そう再び口にした千代の弱々しい声が掠れた。

 

 「お千代さん」

 冬乃は、今一度首を振ってみせた。

 「お千代さんが謝ることなんて何もありません」

 

 「お千代さんがどう思っていても、私が勝手に来たことに変わりないんです。私のほうこそ、そんな想いをさせてしまっていたなんてごめんなさい・・」

 

 冬乃は手を伸ばし、千代の骨と皮だけのように痩せ細った肩を支えた。

 「そろそろ床に戻って・・」

 千代がこれ以上起き上がっていては体に障るのではと、不安が胸を掠め。

 

 「もう少し」

 だが冬乃の手は、千代の震える細い手にそっと留められた。

 「お願い、ここに、居させて」

 

 「でも」

 「大丈夫よ」

 段々と息切れを伴いながらも、千代はその強く意志の籠った瞳を冬乃に向けてきた。

 

 

 体がどんなに蝕まれても、その瞳から決して消えることのない澄んだ光は、

 冬乃を呑み込んで。冬乃は、千代を床へ運ぼうとした動きを思わず止めていた。

 

 「だって、貴女のくださるお薬のおかげで、ほんとうに、らくなのよ」

 そんな冬乃に、千代はゆっくりと言葉を紡ぐ。


 「何人もの患者さんを、看てきたわ。だからこんなに、いま体がらくでいられるのは、お薬のおかげだって、わかる」

 

 「こんな、奇跡のようなお薬が、あったなんて。この世の物では、ないみたいに」

 

 どきりとした冬乃の前、

 「笑わないで、聞いて」

 ぽつりと千代が囁いた。

 

 「もしかしたらって、思ってしまうの」

 千代の瞳は今も透き通る光のなかで、つと揺れた。

 

 「貴女は、私を救うために、天界から降りてきてくださった、天女様かもしれない・・なんて」

 

 

 冬乃は最早声も忘れて。千代を見つめた。

 

 (お千代さん)

 

 本当にそうだと、

 

 もしも返したなら。

 千代は信じてくれるのだろうか。

 

 ずっと伝えたくて、伝えられずにいた事。

 冬乃は、千代の魂は、

 その通りに一度は向かった天界から再び降りて、沖田を、そして千代をも救うために、きっとこの奇跡を生んだのだと――――

 

 

 

 

 不意にすぐ近くで小鳥の声が鳴って。冬乃も千代も、はっとして庭を見やった。

 

 視線を受けた小鳥が、清らかにもう一度鳴いて飛び去ってゆく。

 

 

 「・・冬乃さん」

 

 千代の掠れながらも穏やかな声を受けて、冬乃は千代に視線を戻した。

 

 「いままで、ちゃんと、言えてなかったわ」


 ふわりと、

 大輪の花の綻ぶようなあの笑顔が、千代の表情に咲いた。

 

 

 「ありがとう」

 

 

 (あ・・・)

 

 その声は、千代が元気だった頃の、鈴の鳴るような澄んだ声音で。

 

 「ちが、います」

 冬乃はこみ上げそうになった涙を慌てて抑えて、

 「御礼を言うのは」

 懸命に笑顔を返した。

 

 「私のほう、なんですから」

 

 「まあ、冬乃さんったら」

 ふふ、と千代が微笑んで。

 

 「また、可笑しなことを、言うんだから・・」

 

 歌い出す鳥たちの声と、

 静かに目を閉じた千代の、穏やかな澄んだ声が、重なった。

 

 

 

 「・・・お千代さん・・?」

 

 まるで鳥たちの歌声を聴いているように、ゆっくり冬乃の肩先へ傾いた千代を、冬乃は覗き込んだ。


 

 

 

 やがて、もう千代の前で抑える必要のない涙が、

 冬乃の頬をとめどなく伝いはじめ。

 

 

 柔らかな風が、優しく冬乃の頬を撫でた時、

 鳥たちが天へと飛び立っていった。

 

 

 












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