二十二. 枯芙蓉③




 どうしても選べない、選んではならない大切な人達の

 身代わりに

 

 己を犠牲にする第三の道を選ぼうとするのなら

 

 その道は

 ただ、逃げ道なのかもしれず


 

 

 

 護りたかったはずの存在に

 深い痛みを遺して

 

 

 救いになど

 まるでならないままで

 

 

 

 

 

 ――――それでも

 

 

 いつの日か

 

 また笑ってくれるようにと

 

 

 

 そんな祈りを籠め――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 庭先を飛び立つ鳥を千代の目が追って、

 冬乃はつられて振り返った。

 

 清らかな鳴き声とともに、鳥が高く高く舞い上がってゆく。

 

 

 晴れた日中には障子を開けていられるほどに、少しずつ春が訪れていた。そそぐ穏やかな陽光は、温かく静かな安らぎをもたらし。

 

 もう千代の瞳が翳ることは無い。

 それどころか床からみえる春の息吹にその瞳を凝らして、ひとつひとつまるで焼き付けるかのように煌めいて、

 

 その瞳の澄んだ光は、冬乃の心を柔く締めつけた。千代が、この世との別れを少しずつ進めているように思えてならずに。

 

 ただ幸いな事には、併せて千代が痛みに苦しむ頻度も格段に減っている事だった。

 それともそれは只、統真の処方の通りに与え続けている薬が鎮痛の強さを増しているからなのかもしれないけども。

 

 

 「・・また明日来ます」

 

 うとうとし始めた千代へ、冬乃は囁くように告げてそっと立ち上がった。

 

 藤堂に咎められた後も、変わらず冬乃は毎日のように千代を見舞っている。

 

 勝手、

 その通りの。冬乃には反論の余地など無い、これは許されない浅はかな愛。

 

 そう思っていても。



 (それでも私は・・・)



 

 

 

 

 

 「おかえり冬乃」

 

 屯所の門をくぐって数歩、想像もしない方向から降ってきた声に、冬乃は驚いて振り返った。

 

 「総司さん・・!?」

 門の横から覗いた馬上の沖田へ、冬乃は見上げた双眸を瞬かせる。

  

 「俺もいま戻ったとこ」

 馬に乗ったまま馬小屋へ行くのだろうか、沖田は降りる様子が無く。冬乃が首を傾げた時、見下ろす眼がつと悪戯っぽく笑った。

 「乗ってく?」

 と。

 

 「え、きゃあ?!」

  

 伸ばされた手に冬乃は。そしてあっさり引き上げられた。

 

 




 背後の沖田に腰を横抱きに抱きかかえられつつ、冬乃はいつもよりずっと位置の高い景色を瞳に映してゆく。

 

 どうにも仲睦まじく見えるのか、あいかわらずすれ違う隊士達はみな恥ずかしげに目を逸らしながら会釈をしてくる。

 冬乃のほうが彼らの数倍は気恥ずかしいはずなのだけど。

 

 そういえば、なぜ沖田は馬で出かけていたのだろう。冬乃はふと気になって振り返った。

 

 「どこか遠出されてたのですか?」

 

 なぜにも沖田は今日久々に夜まで非番だ。仕事の用事ではないはずで。


 「嵐山」

 駆けてきた、と。

 さっくり答えた沖田を、だから冬乃はそのままおもわず見つめてしまった。

 

 季節は初春とはいえ、未だ寒い山の中を馬で駆け回っていた、という事になる。

 「・・・」

 

 延々と道場で稽古していたり、かとおもえば子供の遊び相手をして壬生寺を走り回っていたり、

 どうも非番を冬乃と過ごさない時の沖田の行動は、休みの時はどちらかというと体を休めてゆっくりしたい自分とはまったくの正反対で、冬乃は今なお驚いてしまう。

 

 (・・川で泳いできたコトも一度や二度じゃないし)

 真冬なのに、である。沖田曰く稽古の一環らしい。

 

 幼少から鍛え上げた肉体、培ってきたその体力は、

 過酷な気候の京で一番隊組長としてこれだけ激務を極めていても、

 防壁となって、冬乃の心配していた時期にも沖田は体調を崩す事なく、こうして今年の冬もまた元気に越してくれたのだ。

 

 逆に言えば彼の人並外れた肉体と体力がなければ、新選組の一番隊組長は務まらない。

 

 

 そして。

 

 (そんな鉄壁の体をもってしても・・感染したほどに)

 

 それほどに。決して彼が、千代を辛い夜に独りにさせなかった――証でもあって。

 

 非番の日にずっと傍に居ただろう事なら、想像するまでもなく、

 毎夜、巡察から戻っては再び屯所を出て家へ向かい、夜を通して病と闘う千代に寄り添いながら合間合間に寝んで、朝には凍える寒空の下を屯所へ戻る、

 きっとそんな日々をも続けていたのだと。

 

 それでは睡眠もろくに取れなかったはずなのに。

 

 (・・それほど愛してらしたのですね・・お千代さんのこと本当に、すごく)

 

 だけどそんな日々を長期間にわたって、大量の結核菌に曝され続ければ、どんな人でも感染など防ぎようがない。


 だがそうして体調を崩した時期でさえも、きっと沖田は千代の看病を当然のように続けたのだろう。千代がかつて、己の体調よりも患者を優先したように。

 

 

 冬乃がインフルエンザに罹った時、彼が甲斐甲斐しく看病してくれた日々の事を、昨日のことのように思い出せる。

 

 苦しい病の床にあっても、どうしようもなく冬乃は幸せだった。

 

 きっと千代も、そうだったはずだ。

 

 

 それでも、

 のちの結末をみた千代の魂は、

 千代の想いは。

 

 (一緒に居る幸せを捨てて、総司さんを護るほうを選んだ・・)

 

 

 手に取るように。冬乃にもわかる。

 伝わってくる。

 

 どうしても護りたい、強い想いが。

 

 

 

 「冬乃・・?」

 

 泣きそうな顔になってしまったのか、気づけば驚いたような顔が見下ろしていた。

 

 「あ・・すみません、ちょっと考え事して」

 

 沖田の眼が心配そうに細められ。

 今の冬乃の表情は千代の病状を憂いてのものだと、思ったのかもしれない。

 「お千代さんなら」

 冬乃は慌てた。

 

 「最近は食欲も戻って、痛みを抑える薬も前より効いてくれてて・・」

 

 だから大丈夫とは、

 けど決して導けない。冬乃は結局、襲ってきた無力感に押し黙った。

 

 「・・冬乃は十分によくやってる」

 冬乃を抱く腕が、ふと優しく強められた。

 

 「冬乃が居てくれることでお千代さんは心強いはず」

 

 (総司さん・・)

 

 「同時にお千代さんならばきっと、冬乃が笑っていてくれる事を第一に望んでいるのではないかとも、思う」

 

 「え」

 冬乃の瞳はめいいっぱいに見開かれたに違いない。

 

 冬乃は瞬間、声も忘れて沖田の目を見つめた。


 (その・・言葉・・・)

 

 まさしく千代が、冬乃に言った言葉ではなかったか。

 

 「冬乃には、」

 それだけで泣きたくなるほど優しい眼が、冬乃を見つめ返した。

 

 「その時どちらの選択ともに辛いものになるならば、後に冬乃が少しでも苦しまないほうを選んでほしい」

 

 そうして冬乃が最も望んだ事が

 一番の望み

 

 「俺にとって。・・きっとお千代さんにとっても」

 

 

 そう言った沖田を。

 冬乃は溢れた涙で曇らせた視界に、受けとめ。

 

 頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬乃は、千代の家に滞在する時間を減らした。

 

 毎日訪ねることだけは変えなかったが、まるでもう様子を見るだけ、食事と薬を届けるだけの、そんな束の間の訪問となり。

 

 だけど千代は、心得たように何も言わなかった。

 只、ひどくほっとした表情でいつも、そんな冬乃を見送って。

 

 

 

 沖田の、最期の時まで傍に居たい

 なにより、

 彼に辛い想いはさせたくない。

 

 その想いが、冬乃の出した結論だった。

 

 一番の望みという名の。

 

 

 藤堂の言葉と、

 

 千代の言葉、

 

 沖田の言葉を。

 

 何度も何度も、冬乃は反芻して、導き出した。

 


 そして

 千代の、この魂が望んでいることが、何かを

 

 突き詰めれば、

 答えは自ずと出て。

 

 

 

 

 

 

 やがて桜が咲き。

 

 満開を迎えた頃、

 

 千代の命日まで、あと一月となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その少しばかり前の頃の事。

 

 

 「どうしても行っちまうんだな・・本当に」

 

 原田の涙声が、静まった場に落ちる。

 この場に明るい表情でいるのは、藤堂だけで。

 

 開け放たれた障子の向こうには、穏やかに春の日差し、

 そして西本願寺の桜が咲き誇る。

 

 そんな白昼酒盛りでも始めたいような陽気だというのに、一様に浮かない顔をした者達が、その日、藤堂を囲んでいた。

 

 

 「だからさ、そんな今生の別れみたいに言わないでよ。別動隊に行くだけだってば」

 

 「だけどよぅ・・!」

 「もう、原田さん寂しがりすぎ!」

 「俺もだってのっ」

 「永倉さんまで・・って痛たた!二人していちいち抱きつくなー!」

 

 三人のいつもの戯れに、場は多少なごんだものの。

 部屋の隅で隠れるようにして座る冬乃は、自分が今うまく微笑むことができているのか分からなかった。

 

 

 伊東率いる隊の分離が正式に決まり。その予定日は刻一刻と迫っている。

 

 旅装の藤堂が、部屋に詰めかけていた試衛館仲間を今一度見渡して、ついに小さく肩を竦めた。

 

 「じゃあそろそろ行くからね」

 

 各方面に分離の決定を伝えてまわる役目を負って、藤堂は一足先に立つことになっている。

 

 

 立ち上がった藤堂を皆、名残り惜しげに見上げた。

 

 分離組の隊士は、もう新選組に戻ることは無い。

 統制の乱れを防ぐため、

 また、伊東の九州遊説の際に志士側には意見の相違と伝えてある以上、更に余計な懐疑を生まないためにも、分離後の両組間の移籍は禁じる取り決めを交わしたのだ。

 

 つまり藤堂はもう、この先、皆と寝食を共にすることも、巡察に廻ることも、共に稽古することも無くなる。

 

 

 (・・・藤堂様)

 

 だけど、

 それだけなら、まだ。

 

 現実はもっと、この先に冬乃しか知り得ない未来をも含んで。

 もし全てがうまく運び、藤堂たちが組の裏切者として粛清される未来を回避したとしても、

 藤堂の命の刻限までは残り僅かという、決して変えることの叶わない未来が。

 

 

 それを、

 もしも藤堂が知ったなら。彼の選択は変わっただろうか。

 

 江戸の頃からの仲間たちと共に過ごす最期の日々を、選んだだろうか。

 

 それとも尚、伊東の元で志に従って過ごす最期を選んだのだろうか。

 

 

 いま唯、冬乃にも分かっている確かな事ならば、

 

 藤堂が皆と共に暮らして共に笑っていた、今日までのそんな日常は、

 もう二度と、戻らない事。

 

 

 

 「気を付けて行ってこいよ!」

 「手紙よこせよ!」

 「手紙だすほど長旅するわけじゃないし・・」

 「違えよ、分隊に行った後の話だ!」

 「同じだよ、手紙だすほど遠くに移るわけじゃないんだから」

 「つったって、すぐ隣なわけじゃねえじゃんか!」

 「同じ京でしょ!大体いったん報告に戻ってくるよって言ったじゃん」

 「だったら、戻った後そのままもうどこにも行くなよぅ!!」

 

 「最後まで五月蠅えおめえら!!藤堂、いいからもう行け!!」

 

 恒例の土方の締めの一喝が落ち、藤堂が今度は大きく肩を竦めて部屋を出た。

 皆もぞろぞろと結局その後に続く。

 

 「え、どこまで見送ってくれる気」

 

 「門まで行くに決まってら!」

 原田と永倉が藤堂の肩に腕を回し。

 「歩きづらいよ!」

 すかさず藤堂が抵抗するも。

 

 「おまえはなーもうすこし置いてかれる俺らの寂しい気持ちを察しろよー!」

 原田がそんな藤堂をさらに引き寄せて頬を膨らませる。

 

 「俺だって寂しいし!でも落ち着いたらまた呑みに行く約束してるんだしさ」

 「だからって俺ら、もう表立ってこうやって肩組んで呑み歩けるわけでもねえんだろ?これだけでも寂しいと言わずして何と言う!?」

 「おうよっ、寂しいのなんの」

 永倉が横から同調した。

 「もうおまえの寝顔にいたずら書きすることもできねえんだぞ!?」

 「それ俺、何も寂しくないよね?!」

 

 わーわー喚きながら数珠つなぎのようになって歩いている藤堂たちの背を見つつ、一団の最後尾をゆく冬乃は、

 

 少し向こうを歩む沖田と斎藤が始終無言でいる事に、ふと気づいた。

 

 気になって二人の背を見つめはじめる冬乃の、すぐ前では、あいかわらずの喧しさにか土方が小さく舌打ちする。

 

 いや、土方なりの寂しさの表現なのかもしれない。

 「もうあのやりとりも聞けなくなるんだな・・」

 土方の隣でぽつりと近藤が、そんな土方の代弁をするかのように呟いた。

 

 

 

 

 

 「こっちのことは任せたよ」

 

 前夜に、

 風呂場の先ですれ違った冬乃を呼び留めた藤堂は、そんな言葉で託してきた。

 

 伊東と近藤の仲に、これまで遂にさしたる変化は無く。

 やはり分離した後になって二人がどこかで違えてゆくのだとしたら、

 この先ますます冬乃にとっては、伊東に働きかける機会など得ようもないだろう。

 それは藤堂にとっても、近藤に対し同様で。

 

 ならばこそ。

 

 (近藤様のことは、私が必ず)

 

 「はい」

 

 (だから、伊東様のことは・・)

 

 「どうか宜しくお願いします、藤堂様も」

 

 想いを籠めて冬乃は、藤堂を見つめ返した。

 

 「うん」

 藤堂が頷き。

 

 刹那、冬乃は強く抱き締められた。

 

 瞠目した冬乃を離さないままに藤堂が、

 「おしおき」

 そんな柔らかい声音で微笑うのを、冬乃は耳元で聞いて。

 

 (あ・・)

 

 「藤堂さ、ん」

 

 「今さら言い直しても遅いから」

 

 「・・元気でね」

 直後に続いたその言葉は、

 

 刻一刻と迫る別離に冬乃が堪えてきた涙を、一瞬で溢れさせた。

 

 「藤堂さんも・・・お元気で」

 

 震えそうになる声を懸命に押し出して冬乃は、咄嗟に藤堂の肩越しに空を仰いで。

 

 抑えきれなかった涙が、一すじ冬乃の頬を伝い落ちても、

 きっと気づかれずに済んだほど、

 それから長いあいだ藤堂は冬乃を抱き締め続けていた。

 

 



 

 

 

 

 

 

 はらはらと舞いおちる桜の先、

 何度か振り返っては遠ざかる藤堂を門前で長く見送っていた冬乃たちは、

 

 やがてその桜色の残像を目に焼き付けたまま、誰もが言葉なく幹部棟への帰路を戻りはじめた。

 

 

 冬乃の瞳の奥、焼き付いている残像はもうひとつ。

 想い起しては冬乃は、小さく息衝いた。

 

 大門の桜色の光景に、

 そのとき門前で皆を振り返った藤堂と、彼の前まで歩んでゆく沖田、その後ろに続いた斎藤の姿、

 

 そして、分かっていたように彼らに道を開けた永倉達の、前で。

 

 「・・後は宜しくね」

 「ああ」

 「達者で」

 交わされた親友達の、最後の挨拶。

 

 にしては。あまりに素っ気なく。

 

 なのに言葉にされなかっただけの、言葉以上の想いが、そこには在るように感じられて。

 

 あのときの三人の、その光景は、ずっと冬乃の胸奥を強く締めつけている。

 

 (それに・・)

 

 冬乃には、今すでに関係者には周知なのか、それとも未だこれから決まることなのか、分からない。

 だが今回の分離には、斎藤も『参加』することになるはずで。

 

 

 彼の場合は。

 この先どのような経緯になるにせよ、再び組に戻ってくる未来を伴う。

 

 その心積もりが、分離の時点ですでにあったのか、まだ無かったのかも、冬乃には知りようもない。

 先の世では、斎藤は土方達から間者としての密命を受けて伊東の傘下に潜り込んだ、とも言われているが、

 

 

 (でも今は、まだ・・)

 

 水面下でさえ、そんな任務が必要となる敵対状態ではない。

 

 

 (・・だとしたら・・・)

 

 

 

 

 「斎藤、ちょっと来い」

 

 幹部棟に着いて、其々が昼餉の前のひとときに部屋へ戻る中、

 土方がつと斎藤を振り返った。


 「おまえも来い」

 続いて沖田に声をかけた土方は、そのままくるりと自室へ向かってゆき。

 

 沖田と一緒に部屋へ入りかけていた冬乃は、おもわず歩を止めた。

 

 「部屋で待ってて」

 沖田の優しい眼が冬乃を促し、冬乃は慌てて会釈で返し。

 廊下をゆく沖田と斎藤の背を見送り、冬乃は部屋にひとり入った。

 

 

 (斎藤様の分離の件・・・だよね)

 

 

 ――今後、

 敵の目を欺くために伊東たち分離隊と新選組は、接触をできるかぎり避けてゆくことになる。

 

 親しい交流を見せてしまっては敵の警戒を解けないのだから、当然に。


 かといってあまりにも敵対したように見せかけては、分離組としての立場が成り立たない。

 伊東達が分離において拝した御陵衛士の職は、朝廷と直に関わりつつも歴とした幕府側の役職の一つである。

 

 敵方には、伊東達が敢えてその立場に留まることで新選組および幕府側の情報を入手する、と匂わせてあるのだから、

 伊東達が新選組とは表向き敵対してはいないように"ふるまう"事自体は必須の事と、敵方は了承していよう。

 

 が、それもあくまで、

 親和的交流はもう無い

 という範囲での事。

 

 

 つまり両組間のそんな『対外的な見せ方』には、大変に慎重を期さなくてはならないのだ。


 その制約下で、

 双方の内情を詳細に把握し、また間者の存在を想定すれば時に内部さえ欺いてでも、近藤と伊東の交流を陰で繋ぎ続ける存在が、双方の組内に必要になる。

 

 その、伊東側の組内での存在として、斎藤が選ばれたのではないか。

 

 

 (斎藤様なら、たしかに適任なはず・・)

 

 以前の東下の際に、彼は伊東と行動を共にした。それが縁で伊東からの信頼を得たのだろう、伊東に誘われ呑みに出かける斎藤を冬乃は時おり見かけた。

 

 そうして彼は近藤傘下の中では藤堂や亡き山南に次いで伊東と関わりをもち、

 

 なにより両組間でいま繊細に取り扱わなくてはならない政治論を、彼ならばその静かなひととなりで黙して語る事もなく、

 

 さらには、その剣の腕をもってして、今後の敵方の目をかいくぐり双方の"連携" を繋ぐという危険な任務をも遂行できる。

 

 

 そして。

 彼もまた、藤堂たちから話を聞いているならば、

 藤堂とともに、伊東の側から、伊東と近藤のすれ違いがこの先に生じてしまわぬよう支える力となってくれるはず。

 

 

 

 

 

 部屋の障子を開けた沖田を、冬乃はかける言葉が見つからずに声もなく見上げた。

 

 沖田にとっては、親友の二人と今後は表立っての交流ができなくなる。

 

 斎藤ならばいずれ戻ってくる事を、

 かといって今、冬乃が気休めに伝えていいとは思えずに。

 

 

 彼が戻ってくる時は。

 まだ史実でならば、伊東達が粛清される時なのだから。

 

 

 

 「暫くの辛抱だな」

 

 沖田が呟いたその言葉に、

 だから冬乃は驚いて目を見開いていた。

 

 「"暫くの"・・?」

 

 

 「ああ。どれほど先になるかは分からないが。いずれ全てが収まった後、分離組はまた組に戻ってくる手筈になっている。・・それまでの辛抱」

 

 

 

 

 

 

 沖田の言葉に一瞬、泣きそうな表情をみせた冬乃に、

 分離組が戻ってくる未来は来ないのだと。

 知るとともに、

 

 今の確認をした事への後悔で、沖田は内心嘆息した。

 

 

 冬乃に直に聞いても答えてはくれないだろう事を、これまでに土方が、こうして彼女の反応を見て確認したことならば何度かあり。

 

 確認したところで、変わるはずのない未来。そうも土方から聞いている。であれば、

 それがどこまで変えられないのかは定かでないにせよ、何故己も今このような確認をしてしまったのか、

 

 沖田は再び溜息を落としながら、一方で今知った未来に、沸き起こる懸念でおもわず障子を閉める手を止めていた。

 

 

 分離組が戻ってこないならば。

 

 

 (藤堂達はどうする・・否、どうなるのか)

 

 

 冬乃が苦悩していたこの先の出来事とは、つまり――――

 

 

 

 

 

 障子を閉める動きが止まった沖田の、向けられたままの背を冬乃は息を凝らして見つめた。

 

 先の沖田の台詞に一瞬こみ上げた感情を隠しきれていただろうか、不安になりながらも、

 あの時、だが沖田はすぐに障子を閉めるべく冬乃に背を向けたため、おそらくは冬乃の表情を殆ど見てはいないはずだと。

 そう祈るように彼の背を見上げた矢先で。

 

 

 そして長いように想えた、短い時間の後。

 

 「冬乃」

 

 静かな眼差しが、障子を閉め切って振り返った沖田から届いた。

 

 「今なら話せる事があれば、聞かせてほしい」



 心の臓を掴まれたような感が、冬乃の息を奪い。

 

 あの時折の、冬乃の心奥まで見透かしてしまうような眼に、

 射貫かれたように。やがて冬乃の前に座った沖田から冬乃は目を逸らすことができず。

 

 「冬乃の言っていた近藤先生と伊東さんの"口論"をもし避けられなければ、・・どうなるのか」

 

 その問いは、冬乃の耳奥で只々残響して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強風で巻きつく裾に何度も足をとられ、冬乃はそのたび立ち止まった。

 

 止まってもまた歩み、一歩ずつ千代の家へと向かいながら、冬乃の意識は今も先程までの沖田との会話に囚われている。

 

 

 あの問いに、冬乃が返せた答えはひとつだった。

 

 「お二人は・・仲違いして、分離組は戻ってこなくなってしまいます」

 そんな、

 きっとあの場であの問いを投げてきた沖田ならばもう、冬乃の先の表情でとうに悟ってしまったであろう事しか。

 

 「・・・その後は?」


 珍しく続いた彼の追及に。

 冬乃はそして、俯くしかなかった。

 

 それ以上、表情を見せないために。

 

 

 「その後も・・・そのままになります・・」

 

 

 殺し合う結末になる

 

 そんな事を伝えるなど、できるはずもなく。

 

 

 「・・・」


 もはや答えになっていない事なんて分かっていた。次に来るだろう更なる追及へ冬乃が身構えた時、

 だが、不意に沖田の手が冬乃の握り締めた膝の上の拳をそっと包んで、

 

 冬乃ははっとして顔を上げていた。

 

 

 冬乃の表情を見ていなくても、もう次を聞かなくても。冬乃の胸内に抑えられた答えを知ったのかもしれない。

 沖田の、こんなに酷く辛そうな表情を、初めて見た冬乃は、

 そのとき声も忘れて只々瞳を見開いて。

 

 

 「歴史は変えられないと」

 

 そんな冬乃を。

 どこか覚悟した眼が見返した。

 

 「以前、冬乃がそう答えたと土方さんから聞いたが」

 

 本当に、変えられないのか

 

 

 そう問う静かな声音が、続いた。

 

 

 

 どんなにあがこうと――――変えられない親友の死期だけは、

 今、まだ彼に知らせずに済むとしたら。

 

 

 (きっと・・・こう答えるしか)

 

 「いいえ」

 

 冬乃は強くゆっくりと瞬いて、沖田の目を見据えた。

 

 「・・本当は」

 

 

 歴史の大流を変えられなくても、大切な人達の命の長さを変えられなくても、

 全てを変えられないわけではない

 

 ただ唯一、命の散り方なら

 

 

 ――貴方の歴史を変えられたように

 

 

 「変えられる可能性は、あります」


 

 

 冬乃のその言葉に、偽りは無い。

 

 だからこそ、

 沖田はふと息をつくと、冬乃の願った通り、それ以上聞いてはこなかった。

 

 「冬乃」

 

 代わりに、

 「確認したい事がある」

 

 "変える" そのすべを探るかのように、

 

 「以前冬乃は、先生達が口論せずに済む方法がもしかしたら見つかりそうだとも、言っていたね」

 

 そんなふうに促してきた沖田に。

 

 冬乃は一瞬だけ迷って。だがすぐに頷いた。

 

 

 「近藤様と伊東様のお考え・・志が、この先もずっとおふたり同じ方向を向いてさえいれば・・・何か糸口を見つけられるはずと、そう思えています・・」

 

 

 これまで冬乃は。

 

 近藤たちが"口論" する未来が待っていると、

 

 そしてその原因は二人の思想がきちんと互いへ伝わらずに、様々な誤解が重なったためではないかと、

 

 唯そんなふうに伝えて、

 両者ですれ違いが生じ始めたりしてはいないか、常に観察してもらえるよう働きかけてきた。

 

 それだけで。その"喧嘩" の程度までは、決して伝えなかった、

 

 もう絆が戻らなくなるほどの"喧嘩" だとは、

 まして近藤が伊東に懐いたかもしれない誤解の中身が『伊東が討幕に転じた』、そんな誤解であった可能性など。

 

 ――冬乃が動いたことで相応に深刻な結末だとは、多かれ少なかれ想像されていただろうとしても。



 「ですが、」

 

 分離組が戻らない未来を知った沖田に、

 もう隠し通す事は不可能だろう。

 

 「この先お二人の志が、もしも表裏ほどに違っていってしまうのだとしたら・・」

 

 伊東と近藤は、今後"歴史" が示すかぎり

 そうまで思想を違えてゆく可能性があると


 つまり、その意味は

 

 「・・・だとしたら、どうがんばっても避けられないのかもしれません。歴史に遺された諸々の事柄からでは結局、推測しかできないんです・・お二人に、」

 

 ――悲劇の結末をむかえるほどの


 「・・"仲違いしたままになってしまうほどの" 、思想の隔たりが、本当にあったのか、そんなもの無かったのかは・・・ただお二人の真実がどうであっても、このままでは」



 ただの口論や喧嘩などではない

 

 敵対してゆく未来が、待っているという事を。

 



 「・・・ですが私は」

 

 冬乃は、声にできなかった言葉たちを置き去りにしたまま、包まれている拳を再び握り込んだ。


 「おふたりはずっと同じ方向を目指していたと、思い・・信じたいです・・・そして」


 「同じ方向では無くなったという誤解が、おふたりの関係を引き裂いていったのだと」

 

 

 

 「話してくれて有難う」

 

 未だ辛そうな沖田の顔が冬乃の瞳に映っていた。


 「ならば改めて」

 決意したかのように。彼は低く息を吐いた。


 「その"誤解"が生じてゆくのを、なんとしてでも阻止だな」

 

 冬乃は頷いて。それでも、辛そうな顔をもうそれ以上見ていられずに、

 まだ少し震える己の身を寄せ、彼の胸前に顔をうずめた。

 

 「・・仲違いしたままになってしまう事、ずっと黙っていてごめんなさい」

 

 声がくぐもった冬乃の、背を沖田の腕が抱き包み。その優しいぬくもりのなか、冬乃は告白を続けた。

 

 「お伝えしてこれからのことを総司さんに相談するときは、もっと、おふたりのすれ違いを避けられる確信がもててからにしたかったんです」

 

 周囲が記録に遺した伊東の敵対的言動は、真実ではないと、

 伊東が、たしかに討幕に転換してゆくことは無いという確信を。だからこそ、これからの二人の隔絶もきっと誤解によるものと、

 

 そして誤解ならば解いてゆくことも叶うはずと。

 その確かな希望が欲しかった。

 

 「ごめんなさい・・」

 

 でなければ、期待は所詮、祈りの域を出ずに。彼を今のように苦しめてしまうと、懼れて。



 「冬乃」

 冬乃の背を抱き包める腕が強まった。

 

 「冬乃が話さない時は、色々と考えてくれた上での選択だと分かっている」

 

 「だが、一人で思い詰めずに話してほしい気持ちにも変わりはない。この話も・・聞くべきではなかったかと一時は思ったが、やはり聞けて良かったと今は思う」

 

 (総司さん・・)

 

 「今後、先生と伊東さんの"志の目指す方向" が同じでは無くなったと」

 冬乃の言い回しに合わせ、沖田が確かめるように続けた。

 「そのように俺達が誤解したとしたなら、それも"仲違いしたまま" になる程という事は、つまり」

 

 「『伊東さんは敵方に寝返った』、そのように俺達は誤解したという事になるね」

 

 

 やはり沖田は正確に、冬乃が言い回しで濁して声にはできなかった言葉たちを、読んでいて。

 冬乃は、沖田の腕のなかで顔を伏せたまま、小さく頷き肯定した。

 

 「しかし皮肉だな・・見せかけの仲違いが、本当になってゆくとは」

 落ちてきた嘆息を耳に、

 

 冬乃は急いで首を振った。

 「仲違いは、きっと、防げます」

 

 無理やり押し出した返事は掠れても。


 (だって絶対に)

 

 「防がなきゃ、いけないんです・・・」

 

 「ああ。必ず」

 

 応えた沖田の腕の力が、更に強まった。

 

 

 「藤堂達が無事、戻ってくる為に」





 その言葉は。

 今も鉛のように、冬乃の胸奥に深く沈んでいる。

 

 行く道が何度も涙で霞み。手の甲に払っても次には、まるでこの先の予兆のような強風に阻まれながら。

 

 

 冬乃は抗い、歩み続けていた。

 

 もうずっと。

 

 

 (・・大丈夫・・・藤堂様の望みに、沿うようになる)

 

 彼が再び組に戻ってくる未来は、望めなくても。

 

 全てが収まり分離組が戻ってくる未来、それ自体が望めないからである事以前に、

 あと半年で藤堂の命の炎は尽きてしまうのだから。

 

 それでも、彼の望む最期へと向かう未来ならばきっと望めるはず。

 

 祈りをこめて冬乃は、その可能性を信じている。

 

 

 (・・けど)

 

 どうしても一方で、不安が胸内をよぎる。

 

 ひとりの命の散り様を変えるために、元の歴史がどこまでの変更を許容するのか

 冬乃には今も分からずに。

 

 歴史の大波になど、端から敵わない事なら承知している。

 だけどこれから冬乃が抗おうと向かう波は、微小な波でも決して無いはずで。

 

 藤堂の死因を変えるべく冬乃が目指している事は、史実では殺し合う結末に向かった二つの組織の隔絶を白紙にする事なのだから、

 安藤や山南の時とは、明らかに幕末史そのものに及ぼす影響の規模が違うのではないか。

 

 大流のなかの波飛沫では済まないだろう。

 

 

 だからこそ、本当に叶う事なのか。そんな漠然とした不安が拭えないでもいる。

 

 

 (・・大丈夫)

 

 冬乃は今一度、己に言い聞かせた。

 

 

 (きっと安藤様や、山南様が示してくださったように、藤堂様も望む最期を迎えられる)

 

 

 かわらず強風に圧されるなか、冬乃は今度こそ前を見据えた。


 

 

 ひときわ強い一陣の風が、そんな冬乃を押し退けていった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ようするに」

 

 コン、と土方の煙管が灰吹きを鳴らした。

 

 「この先の"表向きの" 歴史通りに、本当に伊東が俺達と反目する可能性もあるってことだな・・」

 

 「その可能性も覚悟しておくべきでしょうね」

 それから

 沖田の低く抑えた声が続いた。

 

 「その場合は、判明した時点で一刻も早く藤堂達を呼び戻してください」

 

 「・・藤堂が万一にでも、伊東につく可能性は無いとは言えねえ」

 「無いですよ」

 沖田は即答した。

 「こちらが余程の事をしない限りはね」

 

 「余程の事、か」

 「ですが、まずは冬乃の言う可能性のほうを」

 「ああ」

 土方は頷いた。

 「その歴史は、あくまで誤解が招いた結果だと言うんだな」

 

 深い溜息と引き換えに、土方は再び煙管を口元へ持ってくる。

 「俺も、それを信じてえよ」


 閉め切った障子が激しい風でガタガタと音を立てた。

 

 「でなけりゃ、・・反目したまま放置するわけにはいかねえからな・・・」

 

 吐き出した煙が彷徨い。

 

 「"仲違い" の後に俺達がどうしたかは・・言わなかったんだよな、はっきりとは」

 

 「ええ」

 煙の向こうで、沖田が声音を落としたままに頷いた。

 

 「ですが冬乃がそれを言わなかった事が答えです。それ程の事をしたんでしょう」

 

 粛清――

 

 その二文字が、

 土方と沖田の胸内に淀んでいた。

 

 新選組で、意味する粛清は。裏切りを死をもって償わせるという事に、他ならない。

 

 

 「・・藤堂も含めてだと思うか」

 「今言ったように、」

 

 「冬乃が"仲違い" の結末を答えなかった事自体が、答えです」

 

 「俄かには信じられねえ・・俺達が藤堂を・・」

 

 土方の表情が遂に苦痛に歪んだ。

 

 ガタガタと、今もひっきりなしに障子が悲鳴をあげて。

 

 「藤堂までそうなったとすれば」

 音の合間に、沖田の苦しげな声音が連なる。


 「そのきっかけを作ったのは間違いなく俺達の側でしょう、つまり」

 

 「それが余程の事、ってやつか。・・だとすりゃ、」

 「組は何らかの卑劣なやり方で、伊東さんを"粛清" した」

 

 

 ごう、と、ひときわ激しい風が建物さえも揺らした。

 

 

 「・・なあ。確かに、歴史は変えられると、あいつは言ったのか」

 

 縋るように。土方の眼は沖田を見据えた。

 

 同じ想いに押されるように、沖田は頷いてみせた。

 

 「ですから今はそれに賭けましょう」

 

 

 土方の眼の光は、決意に変わり。

 

 「藤堂には」

 それでも尚、苦しげにかぶりを振った。

 

 「この事、伝えねえほうがよさそうだな」

 

 「ええ・・」

 

 

 

 止むことをしらぬ風が、びゅうびゅうと舞い狂う音を伴い。二人の間の沈黙をまるで嘲笑うかのように続いた。

 

 

 

   

   




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