二十二. 枯芙蓉②



 千代が大量の喀血をした日、

 昼餉を携えて訪れていた冬乃は、急ぎ屯所へ駆け戻って近藤に半日の休みをもらい、取るものも取りあえず千代の元へ戻って、滾々と眠る彼女の傍に居続けた。

 

 そうすべきではない、

 頭では分かっていても、冬乃はどうしても千代を独りにしておきたくなかったのだ。

 

 梅の蕾が散見し始めるなか、まだまだ風は凍てつくように冷たく、病床には厳しい寒さが続いている。

 だから庭の障子を開け放ち空気の循環をさせることも日光の紫外線を入れることもままならず、せめてもの気休めに冬乃は、サラシで自身の鼻と口元を覆った。

 

 千代の額へのせた手ぬぐいは、その都度あっというまに熱をもち、寒そうに震えながらも一方で汗に滲む彼女を、冬乃は何度も桶の水をとりかえて拭った。

 

 だが、時おり激しく咳きこむ千代の掌には真っ赤な血が散って、すぐにまた気を失うように眠りへと落ちてゆく千代が、

 その刹那の合間に息も絶え絶えに押し出す言葉は、なおも変わらず冬乃を気遣い、早く去るようにと乞うものだったために、

 冬乃は最後には、もう話さないでと、言う通りに帰るからと従うよりほかなかった。

 

 せめてと、枕元に多めの量の水と茶を置いておきたいにも、喀血の後で著しく体力を消耗した千代には今、やかんを持ち上げる事も辛いはずで、

 冬乃は迷った後、家に三つあったやかん全てに、小分けにして入れておくことにした。

 

 

 「いやだわ・・」

 

 こんなに飲めないと。

 冬乃の去り際、どう気づいたのか眠りから覚めて、枕元に並ぶやかんを見やると力なく笑った千代へ、

 一つずつの量は多くはないと説明しながら冬乃は、こみ上げてくる涙をごまかすのに必死だった。

 

 「ありがとう・・でも、本当に」

 

 もうお願いだから来ないで

 

 最後に、振り絞るように冬乃の背へ追わされたその声が、後押しするようにして冬乃の堪えていた涙は堰を切って。

 閉ざした襖を背に、冬乃はもつれる足で夕日の差し込む土間へ降り、昼前に棚に置いたまま手付かずの昼餉を通り越して戸を開けた。

 

 どんなに拒まれても、それでも冬乃の心はとうに決まっている。

 吹き込む冷風のなかへ歩み出しながら、冬乃は強く涙を払い除けた。

 

 

 

 

 梅の花が咲いた頃。冬乃は千代に鎮痛薬の投薬を開始した。

 

 穏やかな表情で眠る千代を見下ろして、冬乃は今も小さく安堵の溜息をついていた。

 このところ、やっと諦めてくれたのか昼間の間だけは千代の口から「帰って」の言葉を聞かなくなって。

 

 冬乃が差し出した小さなカプセル型の薬も、初めて渡したとき物珍しそうに見つめて、嫌がることもなく飲んでくれた。

 

 「苦くない・・」

 

 そのとき驚いた顔で呟いた千代に、冬乃は以前に家族が長崎で買って送ってきたという作り話を千代が覚えていてくれたのだろうと思いながら、

 

 同時に、

 千代ならもしかしたら、冬乃が未来から来たという話を信じてくれたりするだろうかと。そんな想いに駆られ。

 

 そのとき生まれた想いは、それから時おり冬乃の心を掠め続けた。

 

 (・・だけど)

 

 もしもすべて、洗いざらい話してしまえたとして。

 

 (それが、何の役に立つの)

 

 それで千代の病を治すことが、叶うわけでもない。

 まして、運命が変わる前の沖田のようには、彼女に寄り添うことも、夜通し彼女の傍らで手を握ることも、変わらずできないままなのに。

 唯、冬乃の背負った重責感をきっと、少しだけ軽くできる。それだけだろう。

 

 こんな心内を分かち合える人を、求めるのなら、それは千代本人に求めることでは決してないはずで。

 

 

 

 「・・・冬乃さん」


 いつのまに目覚めたのか千代が、悲しげな表情で冬乃を見上げていた。


 「そんな辛い顔をしないで・・」

 

 冬乃を心配そうに見つめる澄んだ瞳が揺れ。

 

 「貴女がいろんな事を抱えているのはわかるの。私はその中の一つでしょうから、その私がお願いするのは・・おかしいけど、」

 

 最近は薬のおかげで呼吸まで楽だと、先ほど嬉しそうに告げてくれたその声は、いま苦しげに、震えた。

 

 「でも、貴女には、笑っていてほしいの。・・・ごめんなさい、やっぱり私が言う言葉じゃないわよね」

 

 「お千代さん」

 起き上がろうとする千代の背へ手を伸ばし、冬乃は千代を支え起こす。手に触れる千代の背は、今にも折れてしまいそうに薄く。

 

 「私が、わがままを言ってお千代さんの傍に居させてもらってるんです」

 

 「辛いというなら、」

 何か言おうとする千代を遮り、冬乃は千代の細い背からそっと手を離した。

 

 「お千代さんの体調が一番悪くなる時には、居させてもらえないことです」

 

 

 千代の瞳が今一度、揺れて。静かに逸れた。

 

 毎日のように昼餉を持って通ってくる冬乃に、やっと根負けしたかの千代が、それでも、

 夕方を超えて留まることだけは頑として許さないまま、

 どうしても夜までには冬乃を帰らせようとする理由を。冬乃は分かっている。

 

 這って、どんなに酷い体調の中でも、千代は必ず朝には全て片付けて、あの大量の喀血の日から続いているであろう夜中の咳も喀血も冬乃に気づかせないようにしていた事を。

 

 あるとき隠しきれていない痕跡を見つけて、冬乃はその事に気づいた。それから何度も、夜も傍に居させてほしいとねばった。

 そのつど千代は最後には言い放った、これ以上まだ留まるなら今この場で舌を噛み切って命を絶つと。強い眼差しで、その宣言に嘘の一片も感じさせない澄んだままの瞳で、

 

 冬乃にはそれ以上、押し通す勇気など出なかった。

 

 

 (・・総司さんだったら)

 

 傍に居られたはずだった。只の友人である自分ではなく。夫の彼だったなら。

 その代償が結果、避けられない感染であったとしても。

 

 だからこそ、この運命は千代の魂が望んだ事。そうして幾度心に繰り返し聞かせても、

 

 一番辛いはずの夜に千代を独りにさせてしまうこの結果を、未だに冬乃は受け入れきれないでいる。

 

 せめて食事だけでも運ばせてもらえている、鎮痛薬も投薬できている、そんな一抹の安堵に縋ってきた。

 

 

 「こうしている間も貴女にうつしてしまわないか不安で仕方ないのよ、・・そのうえ夜も傍に居られたら私、先にその心労でどうかしちゃうわ」

 

 目を伏せたままの千代が、小さくわざとらしい溜息をついた。

 

 「貴女の気持ちは・・嬉しいと思ってるの」

 

 「お千代さん」

 「でもその想いの一方でね、今だってまだ本当は来てほしくないのよ」

 

 冬乃は、顔を上げてきた千代を見つめ返した。

 悲しそうな瞳が、冬乃を捕らえて。

 

 「それに、もし私なら、大切な妻がこんな労咳患者の看病に毎日出かけてるなんて、心配で耐えられないわ。貴女にうつしてしまったら私は、沖田様に何てお詫びすればいいのかわからない。だから、」

 「お千代さん!」

 

 大声で遮った冬乃に、千代は目を見開いた。

 

 否、千代が驚いたのは、冬乃の瞳から溢れ出た涙のせいかもしれない。

 

 「お千代さん」

 

 (・・・違うんです)


 「お願いですから、来るななんてもう言わないでください」


 本当は貴女が、総司さんの妻なのに

 

 

 「おとなしく、夜には帰りますから・・・」

 

 

 

 千代が、黙って小さく頷いた。

 

 「手ぬぐい、換えてきます」

 冬乃は頭を下げて、

 止まってくれそうにない涙を拭きに、急いで立ち上がった。









 「御友人のお加減は如何かな・・」

 

 近藤の気遣う声に、冬乃ははっと顔を上げた。

 そろそろ昼餉の時間だからか、いつのまにか近藤が筆の手を止め、冬乃を振り返っていた。

 

 「・・薬は効いてくれているようです・・」

 

 冬乃は小さくなってしまう声を押し出す。

 

 千代の看病にこのところ毎日、午後は時間をもらって出かけていた。

 仕事の事は気にしないでいいと送り出してくれる近藤へ、毎回頭を下げながら部屋を後にし、厨房に寄って余りものをわけてもらい外出する。

 

 そんなに足繁く通うようでは労咳をもらってきてしまうのではないかと、初めは土方が難色を示したところに、無理をお願いした経緯があった。なにより沖田が、冬乃が悩み抜いて決めた事だから冬乃の望むようにさせてやってほしいと、口添えしてくれたおかげで叶ったようなもので。

 土方からすれば、夫である沖田が許しているなら己が止められる事でもないと諦めたのかもしれない。

 

 

 (総司さん・・)

 

 沖田もきっと、本心ではひどく冬乃の心配をしているだろうことは、自分が逆の立場であったらと思うまでもなく容易に想像できて、

 

 冬乃は、だけどいつかに導いた思いを今日も己に言い聞かせ、千代の元へ向かう。

 

 もしも千代に付き添う事さえ使命として、この奇跡に課されていたのだとしたら、必ず成るべくして成ってゆく、

 

 感染することはない、と。

 

 またはもし感染したとしても。

 沖田へうつす結果だけは、決して起こらない事を。

 

 

 (そう、・・私がもしも感染しても)

 

 沖田の傍に居られる時間が、今よりあともう少し短くなってしまう、

 それだけ。

 

 (そしてそれは私が耐えればいい事)

 

 それに、

 遠くから、彼の望む最期を見届けるすべならば、もしかしたら見つかるはずと。

 

 

 

 

 

 

 「冬乃ちゃんは、勝手だよ」

 

 

 珍しく冬乃を責める声音が。

 いま冬乃の目の前で仁王立ちになる藤堂から、発せられ。

 

 冬乃は大きく瞠目していた。

 

 

 「もう見てらんないよ・・」


 夕餉の広間に向かう廊下口で、冬乃を遮ったまま、藤堂がそして大きく溜息をついた。

 

 「どうせ冬乃ちゃんのことだから、もし自分も労咳になってしまったら、誰にもうつさないように人知れず此処を出てしまおう・・とでも思ってるんだろ」

 

 「いま沖田が何も言わないでいるからって、そんなの許されると思うの」

 

 

 畳みかけるように続けられたその言葉は。冬乃の胸内へ錘のように落ちて。

 

 冬乃は藤堂に目を合わせていられず、俯いた。

 

 (・・・だって、)

 

 他にどうすれば

 

 返事ができぬまま冬乃は、前に組んだ両の手をきつく握り締め。

 

 「あのさ、」

 そんな冬乃へ、さらに藤堂の溜息が落ちてきた。

 

 「沖田にとって、冬乃ちゃんがいなくなることは、冬乃ちゃんから労咳をうつされることよりずっと辛いんだよ。そんなことも分からないの」

 

 冬乃は弾かれたように顔を上げていた。

 

 「・・それをよく胸に刻んで、そのうえでそれでも御友人を見舞い続けるのか、もう一度よく考えた方がいいよ。・・俺、今あえて心を鬼にして言わせてもらったから」

 

 同じ、冬乃ちゃんを好きな男として

 

 

 冬乃が返す言葉を探すより前に、藤堂はくるりと背を向けると廊下の向こうへ去っていった。

 

 

 

 

 

   


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