二十一. 再逢の契り②



 雨が降り出して。

 

 バラバラと軒先を叩きはじめた音は瞬く間に激しくなり、ヒナたちが今どうしているのか気になった冬乃は、おもわず障子のほうを凝視した。

 とはいえ、吹き込む風が冷たかったために障子なら既に閉め切ってある。

 

 近藤が顔を上げ、「やはり降ってきたか」と溜息をついた。これは暫く外に出られそうにない。

 

 「秋ももうそろそろ終わりだな」

 近藤が更に続けて呟いた。



 冬の到来は、もう季節だけではなく。これから、この時代そのものが冬を迎える。

 

 

 そして近藤たちにとっても、冬乃にとっても、もう冬の時代で終わって。この先に春は来ない。

 いくら季節だけは、あともう一巡、繰り返しても。



 己の名の一部だけに、何か因縁めいたものを感じてしまう。冬乃は内心自嘲した。

 

 人生が冬のままで終わるなら終わってもいい。いっそ、

 冬を越したとしてもいつかまた冬が来るかもしれない、そんなふうに何度も“人生の冬” を迎える苦しみを味わうよりは。

 

 

 「この仕事を片付けたら、休憩にしよう」

 

 気を取り直したかの近藤の、温かい声に冬乃は顔を上げた。

 

 「はい」

 

 冬だからこそ良い事もあるのだ。ぬくもりが、より温かく有難く感じられるように。

 

 冬は決して、わるいものでもない。

 

 (私の名だし)

 

 冬乃は小さく力なく微笑った。

 


 

 

 

 

 

 「ああ、なんか似たような事、土方さんにも聞かれたんだよね」

 

 昼過ぎまで続いた雨の名残のぬかるみを避けて、夕餉の広間から幹部棟までの帰り道、冬乃と藤堂は一緒に歩いていた。

 ちなみに沖田なら夕番に出ていたため、今時分は未だ風呂を上がった頃だろう。この先の道ですれ違うかもしれないと冬乃は少し期待しながらも、藤堂に確かめようと構えていた事柄を口にしていた。

 

 伊東と近藤の思想に、いま何か異なるところがないかを。

 

 「でも冬乃ちゃんがなんでそんなこと聞くの?」

 

 「・・近いうち、」

 冬乃は用意しておいた言い訳を切り出す。

 

 「お二人が“口論” する記録が未来には残っているんです。でも記録にはそれだけで、肝心の理由が残っていません。防ぎたいんです、お二人の・・喧嘩なんて。だから、」

 

 藤堂が目を丸くして聞いている。

 

 「もし藤堂さま、さんのほうで、伊東様と近藤様のご両者の間に何かご意見の食い違いがあることを気づかれてらしたらと・・。きっと藤堂さんなら、そんなお二人の仲介ができるかもしれないって。すみません、勝手な事言ってて」

 

 藤堂はひとつ小さく息を吐いた。

 

 「よくよく考えてみれば、ってくらいの違いしかないよ。土方さんにも答えたけど・・伊東先生はさ、けっこう長州に同情的・・寛容的なことをおっしゃるから。ひやっとする時はあるんだ。あるとしたらそれくらい」

 

 だけど、

 と、冬乃が今ので受けた内心のこわばりを知ってか知らでか、藤堂は続けた。

 

 「それだって、伊東先生は長州がしてきた事を許しているわけじゃないんだ。ただ、もっと初めの頃に天子様のご意向が長州に、いや、天下に、正確に伝わらなかったことが一番の憂うべきことだって。そしてその最大の原因は、朝廷内部の牽制や幕府の閉鎖的な体制のせいだって・・だから伊東先生は変えたいんだ。もっと政治が広く天下に開けたものに」

 

 (あ・・)

 

 「そしてそれって近藤さんもよく言ってることだよね。だから二人に食い違いとか口論になるほどの原因は、俺にもごめん、わかんないや」

 

 幕府体制の変革。近藤も伊東も、めざしている大筋は変わっていない。

 だが、だとしたら。

 (やっぱりそれじゃ・・)

 

 

 孝明帝はじめ今時点の慶喜や幕閣の多く、そして近藤の期待する変革とは、

 これまでどうり幕府を朝廷から委任された最上席に据えたままで、幕府内の古びた膿を掻き出しての体制改革、

 

 片や、現状の薩摩ら雄藩が期待する変革は、

 幕府を最上席ではなく、まず朝廷の元に同列として席を並べての体制改革。よって幕府の政府としての権威は失せるも同然、ゆえに緩く“倒幕”の側面をもつ。

 政治以外では依然、徳川幕府が諸大名を統べる立場であるとしてもだ。

 

 政治における幕府の立ち位置をどうしたいか。その思想の違いは、それでも平和的改革としては本来紙一重。

 だがきっと冬乃が危惧したように、全く妥協をせず相容れなければ、表裏ほどの大きな違いを生んでしまうのかもしれず。

 のちに薩摩が、相容れずに武力討幕へと転換したように。

 

 

 もし伊東が後者なら、

 もしくは、もっとそれ以上に大きく広い体制をめざしていたとしたら。



 (・・だけど同じ後者でも、薩摩以外の藩は留まったじゃない・・)

 

 こののち四侯会議失敗の後、武力討幕へ明確に舵転換するのは薩摩だけ。

 

 (紙一重を紙一重でないものにしてしまうのは、・・あくまで“人次第” )

 

 

 変革が最早叶いそうになくなったからと見切りをつけ武力討幕へ転換した薩摩は、その点で異端といわざるをえない。

 そうまでして相容れなくなった根底には、薩摩の、長州との同盟による義理立て以上に、徳川慶喜個人への鬱積した反感があったともいわれている。



 だが長州と同盟を結んでいたことも大きく影響したのは確かだろう。

 ただ当初、薩摩内部ではそれでも、未だ朝敵の長州に義理立てして幕府と戦争するなどもってのほかと反対する声は根強かった。

 

 まして伊東なら。

 そのような藩同士の政治や経済という縛りのない彼だからこそ、

 

 (幕府改革が叶わないかもしれないからって、討幕をめざしたかどうかは、)

 

 つまり近藤達と、決定的に道を違えるかどうかは。まだわからないのだ。

 

 

 

 「藤堂さま・・さん、」

 

 なに、と藤堂が微笑んだ。

 

 「伊東様のめざしてらっしゃる幕府の体制って、・・詳しくご存知ですか?」

 

 「え、うん。いま薩摩が中心になってめざしているものに少しだけ近いんだけど、まずは、諸侯がもっと幕府に遠慮せずに政治に関わって、広く意見交換するっていう構想」

 

 あっさりと答えてくれた藤堂に、冬乃は瞠目しつつ急いで頭を下げた。

 「お、教えてくれてありがとうございます」

 

 「べつに隠すことじゃないもの」

 顔を上げた冬乃の前で、藤堂がまたもあっさりと微笑った。

 

 

 孝明帝や幕府は薩摩らのめざす改革そのものは望んでいないとはいえ、確かにその内の、広く意見交換という構想自体なら、即、反孝明帝・反幕府となるわけでは無い。

 

 幕府自身が、そして朝廷も(こちらは裏で操られることも多かったとはいえ)、いくつかの政治課題においては広く諸侯に意見を求めたことならこれまでにもあった。

 いま薩摩らがめざす体制は、平たく言えば、それが全ての政治課題において為されるようになり、かつ、幕府の立ち位置そのものが諸侯と並列になることなのだ。

 

 その立ち位置の点では、当然に孝明帝や幕府の意とは反するのだが。

 

 (そういう意味では、ほんとうに言動に気をつけないと誤解されかねないんじゃ・・)


 

 「もう土方さんたちにも気づかれてたみたいだから、ていうより未来から来た冬乃ちゃんなら知ってるだろうから言っちゃうけど、いま俺たち、組から分隊を出してそれを薩摩や土佐や朝廷内の政治的な動きを探れる専門の機関にしようって考えてるんだ」

 

 (え・・・)

 冬乃の懸念をよそに、本当に何から何まであっさり話してくれる藤堂に冬乃はもはや押し黙った。いや、

 戸惑っている冬乃のほうがおかしいのだろう。

 

 藤堂たちがいずれ組の謀反人として扱われる未来を知る冬乃だからこそ、違和感をおぼえるだけであって、

 今の藤堂からすれば、全くうしろめたさのかけらもない活動なのだから。

 

 やはり内々に動いていたのも混乱を避けるためなどの、彼らなりの配慮があったのだろう。

 

 

 「もう少し準備が整って本当に実現できそうになったら、土方さんたちに伝える算段だったんだけどね。さすが監察だよね、とっくにわかってたみたい」

 

 (やっぱり)


 組の監察のことをむしろ誇らしげに笑っている藤堂を、冬乃は呆然と見つめる。

 

 

 (・・きっと本当に、)

 

 「伊東様と近藤様は・・、“喧嘩” するようなことなんてなかったのに、お互いの想いがきちんと伝わらなくて誤解が重なってしまったのかもしれません。・・それこそ、今の国を憂いているお二人なら、最も望まないことのはずなのに」

 

 

 

 互いのめざす終点がどんなに同じでも、そこへ向かうまでに採る道が違えば、

 

 互いをみることさえできない遠く隔てた道を向かえば、

 

 それは同じ志とは、もう呼べない。採る“経路” が違うがために、採る言動ひとつひとつも違ってきて、

 その言動の違いは互いへの誤解を生じ、重ねてゆくだけでなく、互いをみれてさえいたなら無くてすんだはずの憎しみにまで発展させてしまう。

 

 佐幕派と討幕派が、国を想ってめざした終点が同じでも、そうと信じ合うことなく殺し合ったように。

 

 

 近藤と伊東の、採る道もまた、

 このさき互いの手も取り合えないほどに、遠く離れた道へと別ってしまうのか。

 つまりは、

 

 伊東は武力討幕の道をこのさき進んでしまうのだろうか。

 

 

 (・・もし伊東様の採った道が、武力討幕ではなく、)

 

 “倒幕” は倒幕でも。

 あくまで、平和的改革をめざし貫こうとしたものだったなら。

 

 (それなら)

 本来決して、互いの手が届かないほど隔てた道ではなかったはずだ。二人がその手を伸ばし合うかどうかは、

 

 (二人次第・・)

 

 

 「そうだね。俺、二人のこと気をつけて視ててみるよ」

 

 「お願い、します」

 

 

 声が震えた冬乃を藤堂の心配そうな眼が覗き込んだ。

 

 「そんな大きな喧嘩なの」

 

 冬乃は咄嗟に逸らしそうになった目を藤堂に据え。感情を抑えた。

 「すみません、そこまでの詳細はわからないんです」

 

 「そっか。でもどっちにしても喧嘩なんかしてほしくないね」

 冬乃は小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 思想が、信念が。

 異なった時。

 

 相手を悪者にしてしまうのは簡単で。

 

 だけど、本当にもう通じ合うものが残ってはいないのか。

 謀られ騙されるかもしれない、そんな不安と怖れをも乗り越えて、相手との接点を求め探ろうとする力は、勇気に他ならない。

 

 

 (もしかして伊東様は、最後までそれを・・)

 

 伊東は最期の夜、近藤の元を訪れていた。

 粛清されようとしているとは微塵にも疑わなかったのか、それとも懐疑はあっても、話し合おうと、想いを伝えようとし続けたのか。

 

 

 近藤がそれでも尚そんな伊東を粛清するに至るまでの、過程さえ、もっと早くにわかれば。

 

 (防げるかもしれない、最悪の事態を・・)

 

 

 「仲をとりもつために、私にもできるかぎりのことをさせてください」

 

 冬乃の縋る眼を、藤堂はにこやかに受け止めた。

 「もちろん。冬乃ちゃんがいてくれたら心強いよ」

 

 失いたくない藤堂のその笑顔が、そこにあった。

 

 「これからよろしくおねがいします」

 見ていられずに、冬乃は頭を下げる。

 

 藤堂が「うん」と微笑った。

 

 

 


 

 

 

 

 「口論がある・・?」

 

 「そうみたい。それもなんだか冬乃ちゃんのあの様子だと、相当激しい口論でもありそうなんだよね」

 

 

 藤堂が部屋に訪ねてきて、心配そうに昨夕の冬乃との会話を伝えてきた。

 

 (冬乃の思い悩んでいたのはこれか?)

 

 

 「いつとも言ってなくてさ、近いうちとだけで。あまり詳しいことは知らないと言ってたけど、本当はもっと俺に言えない事があるんじゃないかと思うんだ。沖田だったら聞き出せるかもしれない」

 

 よろしくと言い置いて去ってゆく藤堂を見送り、沖田は溜息をついた。

 

 口の堅さに関してはもはや譲らぬ定評のある冬乃が、いくら沖田相手だからといって明かすかどうか。

 土方に手討ちにしてくれとまで言い切った彼女だ。沖田にその時の事を話した土方の、苦虫を噛み潰したような顔を思い出す。

 

 

 (まあ聞くだけ聞いてみるか)

 

 冬乃が本当に心に決めた時には、こちらが聞かずとも自ら話すだろう。尤も待っているより促したほうが、先日のように話してくれる時期が早まる可能性はある。

 だがそれだって彼女の中で話しても問題が無いと結論付けられた事柄だけだ。

 

 

 沖田は立ち上がり、開け放っている縁側へ向かった。夕暮れ時の空を冬支度の渡り鳥が過ぎ去ってゆく。

 

 冬乃がこうまで口を噤むほどの未来が待っている。土方は覚悟ができたと言っていたが、沖田は沖田でどのような未来へ向かおうと元々の為すべき事に変わりはない。

 だが冬乃が未来を知るがためにその心を痛めている姿をただ見ているしかできない己には、どうしようもない憤りをおぼえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (あ、ヒナ無事だった!)

 

 昨日は昼過ぎに雨がやんでから使用人女部屋の周囲を巡ってみたのだが、ぬかるみにはまっただけでヒナたちを見つけることができなかった冬乃は、夕餉の前と今朝の出勤前と昼間にも探しに巡っていた。が、尚も親鳥共々見つからず。

 

 かなり心配になっていた冬乃だったが、夕刻ふたたび戻ってきた冬乃の瞳に、部屋の前をゆく母ニワトリとその後ろをよちよち歩くヒナたちの一行が映った。

 

 「もう心配したじゃん!どこ行ってたの?」

 

 つい話しかけてしまいながらも冬乃はその場で立ち止まる。近づきすぎて驚かせてはいけない。

 

 「コケー・・」

 なにやら返事でも返してくれたかの母ニワトリの鳴き声と、可愛らしいぴよぴよ声が続いて、冬乃は息をついた。

 よく見ると、一行の更に向こう側に、立派な冠の父ニワトリらしき姿がある。

 

 カアカアと降ってくる烏たちの声に、時々すっとその凛々しい顔を上げていた。烏たちは空を行きかうものの降りてくる様子は無い。

 ほっとしながら冬乃はそろそろと縁側へ昇った。

 

 沖田が半刻したら迎えにくる。

 今夜の夕食は何にしようかと考え始めて、冬乃は早くも浮き立つ心を感じながら支度を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 縁側つづきの畳の間から、冬の近い澄んだ空に煌々と浮かぶ月を見上げていた冬乃は、太腿の上の沖田が話し出すのへ、つと視線を落とした。

 

 こうしてひざまくらをしていても、もう沖田が寝ることはない。もちろん冬乃の脚を痺れさせないため。

 一度『あまりの気持ちよさに』眠りそうになった沖田がその懸命な闘いののち、むくっと起き上がって冬乃の背にまわり、突然の移動に驚いている冬乃を背後から抱き包めてひざまくらならぬ抱きまくらにしたことならある。

 

 そのままもはや迷うことなく睡眠に突入した沖田を背に、あの時いつのまにか冬乃まで、包まれるぬくもりにやられて寝てしまっていた。

 ふたりして最後には大きく体が傾いて畳に激突する手前で、一足先に気づいた沖田に抱き止められた顛末まで冬乃は今でもしっかり思い出せる。

 

 

 

 「藤堂様がそんなこと仰ってたのですか・・」

 

 そして膝の上の沖田から藤堂の心配を聞いた冬乃は。やはり冬乃の咄嗟のごまかしなど、藤堂には気づかれていたのだと小さく嘆息した。

 

 「藤堂に言えないことで俺には言えることがあれば聞かせてほしい。俺には何ができる?」

 

 気遣うような表情になって冬乃を下から覗き込む沖田に、冬乃は一瞬声を詰まらせた。

 

 今は、まだ、藤堂の向かう運命を沖田に打ち明ける時ではない。

 

 「・・ありがとうございます。でも、もうすでに総司さんにはすごく助けられていますから」

 

 この機会に。伝えたかった言葉を冬乃は代わりに口にした。


 「貴方がいてくださるだけで、それだけで私は支えられているんです」

 

 

 沖田がまっすぐに冬乃の瞳を見つめた。

 

 その深く優しい眼差しで、冬乃の膝元から見上げられている冬乃のほうは、どきどきしてしまって、

 だけど今の台詞が本心であることを伝えるため、逸らすことができずに、

 

 「本当に?」

 確認する沖田へ、

 「本当です」

 冬乃は只々、声を押し出した。

 

 「こんなに心強いことはないんです」

 

 大丈夫だと。そう言って貴方が抱き締めてくれる。

 

 ここにいて、そばにいて、そのぬくもりで包んでくれるだけで、私は本当に大丈夫になる。

 

 

 「だから・・どうか、私のことは心配しないで・・」

 

 

 「わかったよ」

 

 冬乃を見上げる沖田の眼が、ふっと柔く微笑った。

 

 「だが前に冬乃に言った思いは変わらない。それは覚えていてほしい」

 一人で抱え込んで苦しんでほしくない、冬乃が打ち明けたくなった時にはいつでも聞くと言ってくれたことだ。

 

 冬乃は大きく頷いた。

 

 「はい。ありがとうございます」

 

 「もう一つ、覚えてる?」

 大きな手が上がってきて冬乃の片頬を包んだ。

 

 「温泉に行こうと言った事」

 

 (あ・・っ)

 

 「明後日から、行こう」



 冬乃の表情は一瞬でまるで天空の月光よりも明るく輝いたに違いなく。

 沖田が笑って、そんな冬乃のうなじまで手を流すと、冬乃の頭を抱き寄せた。


 「ン……」

 重ねられた唇を割り、早くも舌が這入りこむのを冬乃は驚きながら受けとめる。意識がふたりの重なる一点へと常のようにあっというまに集う中、

 気づけばそのまま体勢を入れ替えられて、冬乃は深い口づけにきつく目を閉じたままにひんやりと畳を背に感じた。

 

 同時に反して熱い手を襟内に。

 

 

 煌々と月が見下ろすのも、お構いなしに。

 冬乃はその熱に溺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 藤堂と話ができた後に、沖田に伝えておこうと思っていた事――近藤と伊東の間で、恐らく互いへの誤解が元で“口論” がある事――は、すでに期せずして、藤堂のほうから沖田へと伝わっていた。

 

 そういうところも藤堂らしいと。朝餉のしたくのさなかに冬乃は改めて思い返していた。

 

 おかげで沖田からもすでに昨日のうちに土方へ話が行っていることだろうし、この先、近藤と伊東のやりとりに気を配ってくれることだろう。近藤の側では土方と沖田が、伊東の側では藤堂が。

 これほど頼もしいことはないように思う。

 

 今はまだ沖田にも到底明かすことなどできない藤堂の運命も、もしもこの先に近藤と伊東が仲違いをまぬがれさえするなら、変えてゆくことが叶うはず。

 組の裏切者としてではなく。せめてなにか藤堂らしい、彼が望むかたちの死へと。

 

 このまま組の分離は為されてしまうとして、そしてそうなれば藤堂が師匠の伊東についてゆくのは歴然であっても、

 伊東たちが裏切者として粛清される未来さえ起こらなければ、望める。

 

 

 (だけど、それでも変えられない・・)

 

 どんなにあがいても、彼らの死だけは避けるすべがない。

 

 (・・藤堂様)


 冬乃はもう何度も繰り返した無力感に、滲んでくる涙を慌てて手の甲で払った。

 むりやり手元へ意識を戻して、作業を再開し。

 

 まもなく魚の焼けてくる匂いに、そして冬乃は顔を上げ、七輪へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 おもえば、沖田の下帯を一度も洗濯したことがない。

 

 突然そんなことに思い至った冬乃は、魚をつついていた手を止めて沖田を見た。

 

 「・・?」

 

 さすがの沖田にも、今の冬乃の眼差しの心は読めなかったようで、どうした?と聞きたげな眼が返ってくる。読まれていても困るけども。

 旅行は三日間の予定で、その間の洗濯ものはそういえばその場で洗うのかな持ち帰るのかななんて考えていた流れで。冬乃はそうして突然思い出した今の事柄に、次には赤面した。

 

 ますます何だとばかりに沖田が笑って、冬乃は慌てて魚に視線を逃す。

 

 ここへ来たばかりの頃、冬乃は永倉から離れの幹部の洗濯ものを頼まれたときに、沖田の下帯なら洗ってみたいとこっそり思ったことがあった。

 けれど結局彼らが、もちろん沖田も、冬乃に渡してくる洗濯ものはどれも上着ばかりで、その機会は無かったのである。

 

 「・・・」

 

 意味もなく魚を凝視してから、冬乃はちらりと上目に沖田をふたたび見た。

 沖田が噴き出す一寸手前のような顔になって「どうしたの」と促してくる。

 

 冬乃は心に決めた。

 

 「旅行中は、洗濯ものぜんぶ、私が洗います!」

 

 「・・・ありがとう?」

 

 考えてみたらこれでは、何が赤面事項なのか沖田からすれば謎だろうと思い至るも、説明する気なんてもちろん無い。

 冬乃はひとり頬を染めたまま、再び魚をつつき出した。沖田の解せなそうな視線を感じながら、冬乃は旅行の楽しみがさらに増えたと内心浮かれて。

 

 昨夜は寝物語に、温泉地の山々では今ならば未だ、頭上には遅咲きの紅葉が、足元には落葉が色鮮やかだろうかと沖田が話すのを、冬乃はうっとりと聞いていた。

 冬の訪れを待つ西本願寺の銀杏は、今で色づき九分といったところ。山の葉は落ちはじめて久しいとはいえ、まだまだ美しい光景を留めているに違いない。

 

 今夜は屯所から戻ったら早めに寝て、明朝に出て日の高いうちに温泉地に着く予定でいる。京の町を抜けるまでは駕籠だが、その先はのんびりふたりで景色を見ながら歩いてゆくのだ。

 

 美しい晩秋の光景に囲まれて沖田と歩く道。温泉に浸かってきっと明るいうちからお酒を呑んで、沖田とずっと一緒に過ごせる三日。

 想像しているだけで頬肉がおちてくる冬乃は、慌てて箸を持ち直した。

 

 

 

 

 

 

 

 (あ、総司さんが飛んでる)

 

 鷲が悠然と冬乃の見つめていた空を横切って、冬乃はおもわずくすりと微笑んだ。

 

 一面に赤と黄の葉で敷きつめられた道に佇んで、今なお艶やかな晩秋の錦を沖田の隣で見上げているさなか。

 急に笑った冬乃へ、沖田が頭上の紅葉から視線を移してきたので、冬乃はなんでもないですと眼差しで返しながら、冬乃の肩を抱く彼の胸元へふたたび片頬を寄せる。

 

 秋も暮れのおかげか此処へ来るまでもすれ違う観光客はまばらで、この光景をいま冬乃と沖田でふたりじめしている状態に、もとより冬乃の頬は緩みっぱなしなのだった。

 

 どころか。気を抜けば涙まで滲んで。

 

 こんな日が来るなんて

 もう幾度、冬乃はこうして幸せを噛みしめて、奇跡に感謝したことだろう。

 

 はじめの頃には想像もしなかったこの深い幸せのぶんだけ、得た苦しみにまみれていても、

 初めから終わりがみえている幸せであっても。

 

 もしもこの奇跡を初めから繰り返す選択肢が、目のまえに与えられたとしたならば、また繰り返すことを迷わず冬乃は選んでしまうのだと。

 

 思いが巡ってばかりで、すべてを本当に終えた時には己が何を願うことになるのか、もう自身で予想すらできずにいても、

 沖田の腕の中でこうして幸せに浸っている時ばかりは、どうしても冬乃はそんなこの先の絶望に心の目を塞いでしまうようだった。

 

 

 「大丈夫、寒くない?」

 

 頬に伝わる、大好きなその穏やかで低い振動に、冬乃はそっと頷いた。

 

 体も心もあったかくて蕩けてます。こっそり冬乃は胸内で答える。事実沖田の腕の中はいつだって温もりで満ちていて。

 

 「すごく幸せです・・」

 

 冬乃の回答に、沖田が微笑った。

 寒くないかと聞かれたのに確かに妙な台詞になってしまったが。

 

 「俺も」

 ぎゅっといっそう冬乃の肩を抱き寄せ、沖田が囁いた。

 

 はらりと視界の端を舞う紅葉とともに口づけが降ってくる。冬乃は、紅葉色の光を瞼の裏に残してうっとりと目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 「続きですか・・?」

 

 目のまえに並ぶ御馳走の向こうの沖田へと、冬乃は箸を止めて聞き返していた。

 

 文机を拾った廃寺の話には実は続きがある。そう言って沖田がまるで世間話の気軽さで切り出したからだ。

 

 

 あれから紅葉の道をゆっくり歩んで温泉町に入ったのち、ふたり町の温泉から宿に戻った頃にはすっかり日も落ちて。

 涼やかな風の吹き抜ける部屋に運ばれてきた夕餉を囲んで、冬乃と沖田はさっそく食事を始めていたところで。

 

 

 「ああ。文机を拾って暫く経ってからまた散策に通りかかった時に、何故か坊さんが居てね」

 

 どきどきと見つめる冬乃の前で、膳の上の猪口を摘まみ上げながら沖田が話を続ける。

 

 「使われていない寺だが時々は様子を見に来ているらしい。いろいろ面白い話を聞いたよ。・・随分と浮世離れした気を纏う坊さんだった」

 

 「・・・」

 “浮世離れ” して気配に鋭敏な沖田が、その力で感じ取ったその僧の気とはいったいどのようなものだったのか、冬乃はひどく興味がわいたものの、聞いてみたところでやはり言葉に表せる類いではないだろうことも推測できて。

 

 (平成でいうなら、この世の色とはおもえないオーラ・・とか?)

 冬乃はむりやり想像してみてなんとか問うのを我慢し、おとなしく話の続きを待つ。

 

 「仏教には六つの世界、六道が唱えられている事は聞いたことある?」

 

 (あ・・)

 輪廻の話に違いない。

 冬乃は学校の授業で習った範囲の知識を掘り起こす。

 確か苦しみが多いとされる順から、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界だったはず。

 

 冬乃は頷いてみせた。

 

 「前に俺は冬乃に、魂は記憶をもたないとされる、と伝えたが、あの坊さんの話では正確にはそれは人間界までの話らしい」

 

 「・・え」

 冬乃の睫毛は大きく瞬いたことだろう。

 冬乃は今聞いた言葉を脳裏に反芻し、冬乃がずっと疑問に思っていた事の答えがそこにある予感に、胸の鼓動が増すのを感じた。

 

 そう。

 何故、千代が死したのち、まるで沖田の発病を知り得たかの。その答えが。

 

 「実際には魂がそれまでに辿った六道での軌跡は、すべて魂に記録され保存されているが、人間界以下の住人である時点では記憶として取り出すことができない、」

 

 冬乃が固唾をのんで見つめる先、沖田が淡々と続けてゆく。

 

 「だが天上界の住人になった時点で、それは可能となる。己の魂の辿ったそれまでのすべてをみることができ、望むならばそれを然るべき箇所へ納めてから、消し去ることも叶うと」

 

 (じゃあ・・それなら、お千代さんは・・)

 

 「そして天上界からは全ての下界が見渡せる。よく、此の世で親しかった故人が己の死にぎわに迎えに来ると言うが、あれも天上界へ行った者が人間界での記憶を保持したまま、死にぎわの者を迎えに出向くがためだと。ただ、坊さんが言うには迎えには行っても、その相手が次にどの界へ向かうかまでは知らず、相手の此の世での死の直後に隣から掻き消えてしまうこともあるそう」

 

 

 「面白い話だろ」

 沖田がやはり世間話の様子で結んだ。

 

 冬乃にとっては。当然、世間話の気分どころではない。高鳴り続ける心臓に息苦しささえおぼえて、冬乃は慌てて茶を手にとった。

 

 もしその謎の僧の話が真実ならば、これほど納得のいくものもないではないか。

 千代は天上界へ行ったのだ。だから千代の魂は沖田との記憶を辿り、再逢を待ち望みながら下界の沖田を見守り、そして彼が発病したことも知り得た。

 

 酷く哀しみに暮れながらきっと、沖田がその肉体から解放される時を待っていただろう。沖田の死の間際、迎えにも出向いたはずだ。

 

 (だけど総司さんは一緒に天上界に行かなかった・・・?)

 

 

 夫婦は二世。ならば次世、天上界で千代と再び夫婦になるはずだった沖田の魂は、千代を残してどこへ向かったのか。


 そして千代の魂、

 ――冬乃が。今、再び人間界に居るということは。

 

 千代は天上界からさらに次へと生まれ変わるとき、沖田の魂を探すために最後に共に過ごした人間界へ再び降りてきたということになるのではないか。

 

 だから、人間界に降りたことで記憶はふたたび封印され、それまでのことを冬乃は憶えていないものの、ごく断片の強烈な記憶だけが既視感として浮上する稀な事態を生むのだろうか。

 

 

 

 「面白くなかった?」

 

 真顔で黙り込んでしまった冬乃に、沖田がすまなそうに聞いてくる。

 

 「いえ、」

 冬乃は慌てて首を振った。

 

 「ただ・・驚いちゃって・・」

 

 ふっと沖田が何か思いついたように微笑った。

 

 「あの坊さん、冬乃が未来から来たと聞いたら今度はどんな話をしてくれるかな。近いうち、ふたりで会いにいってみようか」

 

 (ぜひ・・っ)

 

 冬乃は、大きく頷いた。

 

 

 「何故こんな話をしたかというと、」

 

 徳利を持った沖田の手が伸び、冬乃の膳の上の猪口へ向かう。あ、と冬乃は猪口へ手を添えて受け止める。

 

 「昼間冬乃と紅葉を見ながら、生まれた時代の違う冬乃とこうして一緒にいる奇跡に改めて思い廻らせていたら、文机から坊さんの事まで思い出してね」

 

 (一緒にいる奇跡・・)

 

 沖田も同じように思ってくれていることが冬乃にはたまらなく嬉しい。

 冬乃は染めた頬を微笑ませた。

 

 「明日は渓谷のほうへ散策に行こうか。またふたりきりになれそうな場所だしね」

 沖田が悪戯っぽく片目を瞑って言い添える。

 

 「はい」

 冬乃はどぎまぎして頷いた。昼間の紅葉の丘で過ごした、後半のひとときを思い出して。

 いつまでも誰も通らない、そんなふたりじめの空間で、やがて沖田が戯れに冬乃をその腕の中に閉じ込め、悪戯な手を舞わせてきたからで。

 

 沖田がふたりきりになれそうな場所と口にしたからには、またあのひとときが冬乃を待っているに違いない。

 

 再び猪口に酒が注がれる。

 

 冬乃は、何よりこれから待っている本当のふたりきりの夜に、次には気づいて、更にどきどきと早まる鼓動の中そっと猪口を持ち上げた。

 

 

 

 

   



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