二十一. 再逢の契り①





 たとえば怖くて確かめることができなかったわけではなく、

 あの気持ちをしいて表してみるなら、知らない未来をとっておきたかったからであったように思う。

 

 

 沖田と恋仲になれて。彼の墓前で、千代の祈りに気づき。

 そして戻ってきて、遂には互いの最も近くにまで届きあうことが叶った。

 

 千代の魂からの使命を完遂した冬乃が、次に真っ先にすべきことは、

 そうして変わった沖田の運命の“確認” だったというのに。

 

 彼の最期が。どうなったのかを。

 

 

 統真が病室を出た後、千秋たちにメールを打ちながらあの時、冬乃にはその機会ならばあった。

 だけど何度も、携帯を打つ指が震え。結局それを確かめることは無かった。

 

 (嘘。怖くなかったわけじゃない・・)

 

 それでも、それ以上に、何もかも未来がみえているなんて望まなかったのだ。

 歴史の大流もこの時代の誰一人の死期すらも変えられなくても、冬乃の手に届く人々のその刻限までの未来ならば、彼らが望む限りは変えられる。なら最後まで、まだ分からない。

 冬乃はそう信じている。

 

 だから、知らなくていいと。

 

 

 

 今さら後悔しても・・遅い。

 

 

 

 「・・冬乃?」

 

 「総司、さん・・・」

 

 

 家に着いて沖田の顔を見るなり、その胸へ雪崩れこむように縋りついた冬乃を沖田は、只々抱き締めてくれていた。止まらない冬乃の涙は沖田の着物を濡らし、それでも冬乃は沖田から離れることができなかった。

 

 

 そう遠くない未来に沖田はその命を終え、冬乃はきっと元の世へと還される。

 それでもこれまでは未だあと少し、猶予があった。悲嘆にばかり暮れる日が来るだろう時までは、あともう少しだけ。

 なのに今はその“確約された” 未来すら、バラバラとまるで音をたてて崩れ落ち、

 

 

 もう答えは出ない。

 

 知らないことは幸せなのか。不幸せなのか。

 

 

 (私は・・)


 いつまで沖田の傍に、居られるだろう。

 

 (貴方を護るためになら)

 

 沖田自身にさえ、

 許されなくても、浅はかに。

 

 彼の元を去ることを選ぶと。

 

 「冬乃・・」

 

 

 そんなふうに勝手なことを、心に決めてしまっている。

 

 「ごめ・・・なさ・・」

 

 

 楽園だと沖田は言ってくれたのに。

 冬乃の傍に居ることを。

 

 

 それなのに冬乃は、

 この先もしも感染してしまったなら迷いなく、沖田からその自分という“楽園” を奪おうとしている。

 かつて千代のこの魂が、千代という運命の恋人を沖田から奪うよう、冬乃に課したように。

 

 

 「もう少しだけ・・こうしてて・・」

 

 返事の代わりに、沖田の大きく温かい手が冬乃の頭を撫でる。

 

 冬乃は泣き止んだら口にすべきこの涙の言い訳を、考える力も出ずに。只々強く深く包んでくれる優しい腕に甘え続けた。  





 

 

 

 

 

 泣いた理由など、沖田に言えるはずもなく。

 

 言い訳ひとつ思い浮かぶことなく結局、月のものの前で気分が不安定なのです、などと下手すぎる嘘なら口奔って、冬乃は罪悪感に沈みながら残りの夕夜を過ごし。

 心配した沖田が、翌昼、見舞いがてら千代の所へ出向いたことを冬乃が知ったのは、

 その日の夕餉の席。千代からの山菜の煮物を分けられながら。

 

 

 冬乃はその更に翌日、慌てて千代を訪ねていた。

 

 

 「もう冬乃さんたら、泣いて帰ってきたんですって・・?」

 

 どんな大病かと思われたじゃない

 と微笑う千代を前に。

 

 冬乃は己の愚かしさに。眩暈がしていた。

 

 (ばか私・・・)

 

 何も言えない冬乃を心配した沖田が、状況の確認に動く事くらい想像できてもよかったものを。

 

 幸いに沖田が訪ねた時には千代の熱はすでに下がっていて、起きて動き回っていた千代は沖田から事情を聞くなり、ただの風邪で今はこのとおり元気ですわと、朝に作ったばかりの山菜の煮物を沖田に渡したという。

 

 

 「私が労咳だと思った・・?」

 

 千代が、じっと冬乃の瞳を見つめた。

 

 冬乃の瞳は大きく見開いただろう。

 一寸のち冬乃は、諦めて小さく頷いた。泣いて帰った理由として千代に納得してもらえる嘘など、もう無い。

 

 「・・・」

 

 土間のほうから、喜代が茶の用意をする物音が聞こえていた。

 それへちらりと千代が視線を投げて、小さく咳をすると、冬乃へ向き直った。

 

 「大丈夫よ。沖田様には風邪と信じていただけたと思うわ」

 

 「・・え」

 

 「冬乃さんには隠せないと思うから正直に言うわ。たしかに私、労咳に罹ってしまったみたいね」

 

 

 冬乃が言葉も無く硬直したのを前に千代は、

 

 「お願いがあるのよ」

 

 静かな声で、そっと続けた。

 

 「この先、私の症状が悪化したら、もう此処には来ないでいただきたいの」

 

 「・・お千代さ・・」

 漸う絞り出したのに語尾が掠れた冬乃は。目の前の穏やかな微笑みを浮かべるままの千代を茫然と見つめた。

 

 「絶対よ」

 そんな冬乃に、千代が念を押して。

 「冬乃さんのことだから、お見舞いに来てくださるどころか、母をさしおいてでも私の看病を買って出そうですもの。そんなの嫌なのよ、」

 

 「いいですこと、冬乃さんは友人。私の親や夫じゃないわ。覚えててくださいね、“赤の他人” の貴女に、看病なんて頼みたくないこと」

 

 

 その、およそ千代らしくない物言いに。冬乃は千代がわざとそんな慣れない言い回しをしているのだと、気づかないわけにはいかなかった。


 「冬乃さんの忠告も無視して“赤の他人” の患者を看病して、あげく病をもらってしまった私が言えたことじゃないけれど・・・でもお願いよ。貴女にうつしてしまったら、沖田様や貴女のご家族に申し訳が立たないわ。病をもらってしまった私だからこそのお願いと受け取って。どうか・・」

 

 返す言葉が見つからず黙り込んだままの冬乃に、千代はつと頭を下げた。

 

 「そして本当にごめんなさい。あんなに止めてくださったのに」

 

 その声に、だが後悔の音色は感じられず、冬乃は唖然と、千代を尚言葉なく見つめた。

 

 

 やがて顔を上げた千代の瞳は、深く澄んで静かだった。

 まるで、己の正しいと信じた道の果てに死ぬことなど。本望と言うかのように。

 

 

 「病が蝕むものは、肉体だけではないの・・病の末に心から寄り添う存在が居なくなってしまえば、心までもその病に蝕まれてしまうのよ。だけど・・」


 静かだった表情に、悲しげな色が滲む。


 「今まで、散々みてきたわ。労咳に罹ったと知ったとたん、近寄らなくなったり離縁すらしてしまうご家族をたくさん」

 

 千代が最後に看た患者の家族も、そうだったのだろう。

 

 「そのご家族を、でも冷たいなんて言えないのよ・・だってその方々だって、色々な理由で未だ生きていかなくてはならないんですもの」

 

 「それでも一方で、うつる危険を顧みず、最期まで傍に寄り添うご家族もいたわ・・特に仲の良いご夫婦は・・どんなに患者のほうが、うつってしまうからもう放ってほしいと懇願したって、絶対に離れようとはなさらなかった。そういうご夫婦は、」

 

 連れ添う相手を見捨てることなど、決してしない。

 

 

 千代に対して沖田が、そうであったように。

 

 「・・強い絆で結ばれているのよ。きっと・・次の世までも」

 

 

 はっと冬乃は、千代の瞳を見た。

 

 「もう一度、言わせていただくわ」

 千代がその深遠の瞳で、そんな冬乃を見返した。

 

 「貴女は大事な友人だけど、そういう強い絆で結ばれた家族ではないのよ」

 

 逆だと、

 出会った時からすでに二人が感じていた、強い絆を、

 持つ相手だからこそ。千代は冬乃をなんとしてでも護ろうとしているのだと。

 冬乃は気づいて。

 

 「だから家族でもない貴女が、危険を背負うことなんかないの。家族だって背負わなくていいのに・・いま母のことも、いずれどうやって説得したらいいのか悩んでいるところなのよ」

 

 千代の意志の強い瞳を冬乃は食い入るように見つめた。

 

 「ほんと、とても私が言えたことではないことは分かってるわ・・だけどどうかお願い。あと少ししたら・・もう来ないで」

 

 

 喜代が向こうの土間を上がってくる姿を目に、千代は口を噤んだ。

 

 「冬乃さん、かすていら美味しかったわあ」

 どこか無理に明るい笑顔で喜代がそんなふうに言いながら、茶を乗せた盆を手に向かってくる。

 「ええ本当に。冬乃さん、ありがとう」

 千代がすぐに言い添えて。

 

 その千代の笑顔は、常の大輪の花のように清らかだった。


 「やっぱり冬乃さんって多才ね」

 ふふ、と嬉しそうに微笑む千代を前に、冬乃は唯小さく俯いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 千代に断られても、冬乃はその時になって彼女を独りにしてしまう事などできるはずも無く。冬乃は気を抜くと涙が滲む心持ちのまま、横の書状を手に取った。

 

 先ほど島田が来て、近いうちまた組の金策を行う相談を近藤としてから帰っていった。

 大柄でも愛嬌のあるぷくぷくの体と優しい人当たりの天使の如き島田には、ある意味うってつけの役割だと。冬乃はおもわず微笑んでしまいながら、島田の置いていった書状を整理する。

 

 仕事をしていれば気が紛れた。

 そのあたりが、何も手に付かなくなる恋わずらいとは違うようで。どういう違いなのか冬乃には今一つ分からないが。

 尤も恋わずらいなら最初の頃と比べて、だいぶ上手につきあえるようになっている。

 

 (きっと・・)

 恋わずらいは、躰の作用。

 今こうして抱えている悲しみは、心の作用。

 冬乃に思いつくのは、その違いだけ。心も脳ゆえに体の一部とはいえ。

 

 心の定義にも記憶を含むのなら、心は脳だけに在るとはいえないものの。

 

 

 (・・混乱してくるからやめよ。それに)

 

 千代の家を出てからずっと考えていた事も、脳裏つまり心からそろそろ追い出さなくてはならないだろう。

 

 千代がどうしても接触を許してくれない時は、どうすればいいか。

 それはやはりもうその時に考えるしかないのだと。

 

 

 「冬乃さん、それが終わったらいったん休憩に入ってくれてかまわないよ」

 

 冬乃を振り返って近藤がにっこりと微笑む。あいかわらず優しい“父” に冬乃は癒されながらぺこりと頭を下げた。

 

 

 

 

 

 「心がどこにあるか?」

 

 沖田の愛しげな眼が、すぐ間近で冬乃を見返した。

 

 

 休憩をもらってすぐ沖田の部屋を覗いた冬乃は、昼寝をしている沖田を発見して。布団まで忍び足で向かって、こっそり横の畳に座って寝顔を堪能しようとしたのだが。

 横に座った瞬間に、ぬっと伸びてきた沖田の腕に冬乃は絡め捕られ、布団の中まで引きずり込まれて今に至る。

 

 

 「“わが心いずくにありともしれず、天魔外道も、わが心をうかがい得ざる也”」

 

 そして沖田が冬乃の先の質問に返事をしたらしいことは分かったのだが、冬乃はすぐには理解できずにきょとんと沖田を見つめた。

 

 (いまの、どういう意味?)

 

 冬乃の反応に、沖田が想定内の様子で微笑った。

 

 「心の在処は定まるものではないという見解だが、兵法から来ている言葉」

 

 沖田の説明に。

 「兵法・・」

 そして冬乃は目を見開いた。

 

 「剣の極意に於いては心も体も同一のものとされる。“体得” した動きは何者にもその思考、心、を読み取らせず、本人にとっても無我の状態にある。先のは柳生新陰流の兵法にある言葉だが、どの流派にも通ずるもの。冬乃もその動きができているよ」

 

 「え・・?!」

 

 「簡単にいえば、稽古を重ねた結果、一々考える事なしに体で動けるに至るまで高められた状態だね」

 

 (あ・・)

 

 冬乃は、沖田に背を預けて真剣で闘った時のことを思い出した。

 あの時、たしかに冬乃の体は自然と動いた。それまでに沖田に何度も稽古をつけてもらっていた通りに。

 

 

 おもわず感動に瞳が潤んだ冬乃を。

 

 「で、どうしたのまた、急にそんな質問」

 沖田が穏やかに見下ろした。見下ろすといっても、互いに横になっている姿勢なのだけども。もとより二人にはよくある状態である。

 

 「あ、いえ、ふと気になったんです」

 見上げて答えた冬乃の額に、そのまま口づけが降ってくる。

 (きゃあ)

 「気になった、ねえ・・」

 

 面白そうに見返してくる沖田を目に冬乃は、さらに思い出して顔を赤らめた。

 以前に沖田と買い物に出かけた折に、空腹感にああだこうだと考えていた時のことを。

 

 これではまたも、わざわざ珍妙な事を考えている変な子だと思われてしまったのでは。

 

 「今の冬乃の心は、この辺か」

 だが不意に沖田のその台詞とともに、冬乃は心臓の位置を撫でられて飛び上がりかけた。

 心臓の位置、つまりは。

 

 「…ぁ、ん…!」

 

 沖田の太い指先が、その場で意図をもって動き始める。

 「総、司さ…っ」

 「それとも、ここ?」

 低く哂うなり沖田の手が下ってゆき。するりと冬乃の裾を割り、内腿の奥へと這入り込み。

 

 「ひゃ、あっ」

 

 「そう。ここなんだ?」

 「ちが…っ…ぁ」

 

 冬乃の腰は沖田の片腕に抱き寄せられ、逃げられなくなった冬乃が。

 

 口づけにまもなく声を封じられながら辿った、心と躰の顛末など、

 

 「ンンん……!!」

 

 勿論、常の通りであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 休憩中に沖田に“いじめられて” 近藤の部屋へ帰ってきた冬乃は。

 

 火照りの抜けないままの見事な恋わずらいに閉口しながら、いいかげん場数を踏んだだけあって近藤になんとか悟られずに残りの仕事をこなしていた。それでも。

 

 躰で近づけたこんな後はしばらく続く、この激しい渇望感、

 

 離れたばかりの肉体的距離をまさにとり戻そうとするかのように、無性に今すぐもういちど逢いたくて恋しくて、苦しくてたまらないこの現象は、冬乃を精神の苛みに容赦なく叩き落として。

 

 絶対、沖田はこうして冬乃に究極の精神修行を課しているとしか最早おもえない。

 こんな、躰の渇望作用を精神で抑えつける、極限の修行を。

 

 

 

 「・・・昼間、総司と何かしてねえだろうな?」

 

 そして。だけど。

 冬乃の修行は、実を結んだらしく。

 

 「何か、って何でしょうか」

 「・・・」

 

 これまでなら、土方は冬乃を見るなり、ばっさり断言的であったというのに。今、なんと彼は疑問形で確認してきたではないか。

 夕餉の広間の入口で鉢合った冬乃と土方は、そうして暫し見えない火花を散らしたのち。別った。

 

 

 内心どっきどきである冬乃は、広間へ入ってゆく土方に隠れて盛大に溜息をつく。

 

 「どうしたの冬乃ちゃん」

 

 廊下をやってきた藤堂が、入口で深呼吸に勤しむ冬乃を見て微笑みかけてきた。

 

 「いえ、ええとまだ皆さまお揃いでなかったのでなんとなく待ってようかと・・」

 適当に口奔って、事実まだ沖田が道場なのか来ていないので冬乃はそのまま首を傾げる。

 ちなみに近藤なら先ほど冬乃と一緒に来て、入口で出会った例の土方と席へ向かい済みだ。

 

 「こんなところで待ってなくていいよ。中、入ろ?」

 藤堂が促すのへ、冬乃は抗うこともないので頷いた。

 

 そういえば藤堂は、日中は非番だったはずだ。きっちり正装している藤堂を改めて見やって冬乃は目を瞬かせた。どこか畏まった所にでも出かけていたのだろうか。

 

 「あ、伊東先生、本日はお疲れさまでした」

 

 冬乃と藤堂が広間へ入ろうとした時、さらに廊下を向こうからやってくる伊東に藤堂がいち早く気づいてそんな挨拶を送った。

 

 (本日・・?)

 

 「藤堂君こそ、今日は有難う」

 伊東が歩んで来ながら、にっこりと柔和な微笑を作る。

 

 伊東の周りには、常に彼の心酔者が侍っていて。今も伊東はそうして数人の隊士達と共に廊下を来て、まもなく藤堂の前で立ち止まった。

 

 「あの事を宜しく頼みます」

 藤堂の目をしっかりと見て伊東はそんなふうに言った。

 みれば伊東も、いつも以上に堅苦しい正装をしていて。

 

 「はい!」

 藤堂がはきはきと返事をし、伊東は再び微笑むと「では失礼」と言い置き広間へ入っていった。

 

 (あの事?)

 冬乃は、伊東の背を見送る藤堂を横でじっと見つめてしまった。

 

 その視線に気づいた藤堂が、冬乃を見返して。

 「あ、」

 冬乃は慌てた。

 「伊東様とどこかへお出かけなさってたのですか」

 

 聞いてしまってから、後悔するも遅い。これでは伊東と藤堂のやりとりに首を突っ込んでいる状態ではないか。

 

 「うん、ちょっとね」

 だが藤堂は気にしたふうでもなく、それだけ言ってにこにこ微笑むと、促すように広間を向いた。

 

 

 席へ向かってゆく藤堂に続きながら、冬乃は小さく溜息をつく。

 

 何かが確実に始まっている。

 

 藤堂が伊東と行動を共にすることなら、これまでにもあった。伊東は藤堂の元々の師匠なのだから当然で。

 (だけど今日のは・・)

 

 それは、これまで伊東の言動をできるかぎりに観察してきた冬乃の勘だった。

 

 数日前にも伊東の心酔者の一人が、隊に所用と断り江戸へ向かっている。その隊士が伊東の部屋を訪ねていた時、冬乃は部屋の前の廊下をさりげなく掃除しながら、金策という言葉を耳にしていた。

 

 もう分離の準備を彼らが始めているのだとしたら。

 冬乃の胸に不安がよぎる。

 

 

 (でもそれなら、・・それが近藤様達に反することなら。藤堂様が何もしないでいるはずがない)

 

 藤堂ならば。

 もしも今の時点でさえ、近藤と伊東のめざす道にこのままでは危ういまでの相違があるなら、

 近藤と伊東どちらにも、その間を取り持とうとそれこそ必死に働きかけているはずではないか。

 

 それがもし未だ小さな綻びであっても、いつか取返しのつかない裂け目となってしまわぬうちに。

 

 ただ、一方で、

 素直でまっすぐに物事を捉える藤堂だからこそ、もし若干の危うげな相違がある程度なら、まさかその程度の小さな違いがいずれ血をみることに繋がるなどと、想像もしないのではないかとも。冬乃には思えていて。

 

 

 冬乃は隣に坐す藤堂をそっと見やった。

 

 味噌汁の蓋を開けて、鼻歌を歌い出しそうな上機嫌でさっそく食事を始めている。

 その横顔に、後ろめたい隠し立ての様子などとうてい垣間見えない。

 伊東との今日の外出も、頼まれ事も、近藤達に明かせないような事では全くないのだ。

 

 そしてもしそれらが分離の準備の一環であっても、そしてこれからもっと藤堂が関わっていくとしても。やはり、決して謀反の動きではないのだと。

 未だ表立っての準備を避けているのなら、そこには何かしらの伊東なりの配慮があるのかもしれない。

 

 (そうじゃなきゃ、藤堂様がこんなに幸せそうにしてるはずないから)

 

 藤堂もまた心酔し尊敬してやまない伊東と、今日行動を共にした事、頼まれ事があって頼られている事、

 

 沖田と近藤におきかえてみれば、その喜びは、冬乃にも手に取るようにわかる。

 

 分離にせよ思想の段階にせよ、もしもこの先に伊東と近藤達が敵対しかねない事態が、今すでに少しでもあるのなら、

 藤堂が、近藤達のため、何より伊東のために、やはりその回避に懸命になっていないはずがない。

 そしてその場合、こんな平和な穏やかな顔などとてもしていられるはずもない。

 

 だから・・

 

 

 「冬乃ちゃん?食べないの」

 また具合が悪いのかと心配そうに見つめられ、冬乃は慌てて膳へ手を伸ばす。

 「あ、ふたりとも道場の戻り?」

 同時に藤堂が冬乃の後方へ声を掛けた。冬乃が振り返ると、沖田と斎藤が連れ立ってやってくるのが目に映った。

 

 「ああ」

 腹へった、と沖田が返事をしながら袴を捌いて冬乃の隣に座る。

 斎藤は勿論いつも通り黙したまま頷いて、沖田の向こう隣へ正座して。

 

 (あ・・)

 三人揃っての夕餉は久しぶりではないだろうか。冬乃は、彼らの間でつい頬を緩ませた。

 

 「俺たち揃うの、久しぶりじゃない?」

 藤堂も同じ事を思ったらしく、そんなふうにどこか嬉しそうな声をあげた。

 おもわず藤堂を見た冬乃に、「だよね?」と藤堂がにこにこと同意を求めてきて。

 

 (藤堂様)

 

 「はい・・っ」

 

 この笑顔に。偽りなどあるはずがないのだ。

 

 冬乃は、安堵の傍らで、

 この先それならば藤堂達が迎える局面は、冬乃が疑い始めていたように、やはり何らかの誤解が発端なのではないかと。それがいずれ血をみることに繋がるなどと藤堂がいま想像もしていないような、きっとほんの小さな相違から。

 

 改めて胸内をよぎった、その懸念に。

 

 

 「藤堂様・・」

 

 冬乃は、つい呼びかけていた。

 呼びかけておきながら、

 

 「え?」

 

 何を言えばいいかなど用意しているはずもなく。

 

 「あ・・の、近いうちご相談したいことが・・」


 

 咄嗟に繋いだその台詞は、

 

 

 だがこの場に少々の波紋を生じたことに。冬乃が気がつくのは、夜も更けてからだった。

 

 

 


 尤も、最初の波紋は。

 

 「それは全然いいけどさ、藤堂様じゃないってば。もう、またおもいっきり抱きついちゃうよ?」

 

 そんなふうに笑った藤堂の一声ではあったのだけど。

 

 

 「あっ」

 慌てて冬乃は、藤堂さん、と言い直そうとした。時。

 

 「抱きついてみ」

 沖田の不敵な、

 

 「俺がその数倍増しの力でおまえに抱きついてやるよ」

 

 いや不穏な声音が。横合いから飛び。

 

 「んげ、」

 蒼くなった藤堂が仰け反った。

 

 「絶対嫌だよっ、あばら折られそうじゃん!むしろ折る気満々じゃん!」

 

 藤堂は当然、即座に拒絶の意を表明する。

 

 「冬乃、」

 藤堂が慄いている中、沖田が冬乃に耳打ちした。

 

 「今夜、部屋に行っていい」

 

 どきりと沖田を見返した冬乃の瞳には、

 だが予想に反した眼差しが映り。捕らえられたようにその眼を見つめた冬乃は、半ば茫然と頷いた。

 

 こんな台詞の時はあの熱の籠る眼だと、予想したのにいま冬乃の瞳に映る彼の眼差しが纏うは、

 

 (・・心、配?)

 

 

 「藤堂、あとで副長室に来い」


 「へええ?!」

 

 (え?)

 

 今度は向かいの土方から、藤堂へと泣きっ面に蜂の如く届いた不穏な命令に、何事かとおもわず沖田から土方へ視線を移した冬乃の横で、

 「なに、俺、なんかした!?」

 藤堂がついに悲鳴をあげた。

 

 「もしかして冬乃ちゃんに抱きつく発言したせい?!冬乃ちゃんに抱きつくのってそんなダメなの?禁忌なの!?」


 (や、たしかにダメでございますけど・・っ)

 勿論そんな理由でいま藤堂が呼び出しをくらったわけではあるまい。

 怪訝な表情になってしまった冬乃の、視線を浴びていた土方がじろりと冬乃を見返して。

 

 すべてが、冬乃の投じた波紋のせいだったのだと冬乃が気がつく夜までは、

 あと数刻。

 

 

 

 

 控えめに伸びやかな夜虫の音色が、未だ時おり奏でられる穏やかな夜。

 対照的にとくとくとせわしい胸の鼓動を聞きながら、夜番の沖田の帰りを待つひととき、冬乃は懸命に瞑想する。

 

 どちらかというと迷走だが。

 

 (わからない・・・)

 

 何故藤堂が突然に土方から呼び出されたのかも気になるものの、一番には沖田の先程の眼差しだった。

 何か沖田に心配をかけるような言動をしただろうか、冬乃には思い出せず。

 

 流れからすれば、藤堂が抱きつくよの発言をした後なので、なにかそのあたりにあるのだろうか。

 

 そういえば沖田があのとき妬いてくれて嬉しかったなどと思考が脱線しつつ、やがて、冬乃は瞑想もとい迷走するうち眠くなってきてしまった。

 

 布団に座ったまま、うとうとしているうちに。

 

 「冬乃入るよ」

 つと待ち焦がれた声がして、はっと冬乃は顔を上げた。

 

 「はい・・!」

 

 冬乃が急いで返事をすると、障子を開けて沖田が入ってくる。

 「待たせて御免」

 うとうとしていたのが分かったのか沖田がそんなふうに言って、冬乃はいいえと首を振る。

 今夜は普段よりも遅かったように思う。夜番が長引いたのだろう。

 

 「もう眠いよな・・話は明朝にしよう」

 

 だがその言葉に、冬乃は逆に水を浴びたように覚醒した。

 「話・・ですか?」

 咄嗟に聞き返して。

 

 (なにか話をするんだったの?)

 

 あの時たしかに、夜這い宣言の眼差しとは程遠かったけども。

 

 

 冬乃の前で沖田が腰から両刀を抜き、片膝をついた。

 「話だと思ってなかったんだね」

 見上げる冬乃を愛でるような揶揄うような眼が見下ろして細まり、大きな手が冬乃の片頬を包んだ。

 「眠く無くなったのなら・・両方する?」

 

 「…ぁ」

 

 

 どちらから先かなんて。確かめるまでもなかった。

 

 

 

 夜更けだからと、昼の時同様“手加減” されたらしき冬乃は。それでも途中で止められた昼とは違って、十分すぎるほど蕩けたままの意識の内で、

 「藤堂に、何か起こるの」

 そんな言葉をつと朧ろに聞いた。

 

 (・・・え?)

 

 まどろみから浮上するように冬乃は、沖田の腕の中で顔を上げていた。

 

 (今、)

 どういう意味で、聞いたのか

 

 瞠目する冬乃を、あの時の心配そうな眼が見下ろした。

 

 「藤堂に相談したい事があるというのは・・何かそういう事だろ」

 

 その眼は、冬乃の心を見透かしてしまうような眼差しに継いで。

 冬乃は。吐息を震わせた。

 

 「どうし・・て」

 そう思うの

 

 最後まで問う必要もなく。

 (あ・・・)

 次には、冬乃は気づいた。

 

 この先を知る冬乃がこれまでずっと胸に溜め込んで悩んできた姿を、一番に見てきたのは沖田で。

 そうして秘めてばかりで何も話そうとしない冬乃が、それなのに前もって言葉をかけた時、

 それはその相手に何かが起こることを回避しようとするためだと、

 

 沖田ならば、もう容易に想像できるだろう事に。

 

 そして、

 それは土方も同様だという事も。

 

 (・・だからあの時・・)

 

 

 土方は土方で、このところの伊東の動きに気づいていなかったはずがない。伊東と藤堂が今日どこへ行ったか、それもまた既に監察を通じて確認してあったのではないか。

 彼が伊東たちの動きをこれまで静観していたとして、

 

 今夜冬乃が藤堂に声をかけたことで、土方の内で何らかの懸念が露わになったのだとしたら。

 

 

 「・・・藤堂様は、組を出てしまうかもしれません」

 

 今伝えられる事だけを。冬乃は喉から押し出すように答えた。

 

 「もちろん組抜けではありません・・。組を二つに別って、分隊のようなかたちで・・伊東様と・・」

 

 それはだが或いはもう、すでに監察を通じて土方が入手しているかもしれない事でしかなく。だからこそいま冬乃は口にできたのだが。

 

 

 近藤土方沖田の三者は、組の中枢をになう三幹。

 この三者の内で組の全ての機密を扱うことは、想像に難くなく。仮に土方が既に突き止めているのなら、沖田も当然、遅かれ早かれ聞き知っている事でしかないだろう。

 

 

 冬乃は沖田の目を見つめた。


 時折のあの捉えどころのない双眸が。冬乃を見返しただけだった。


 その先を彼は聞いては来ず。



 「教えてくれて有難う」

 

 代わりに、そんな言葉を落とし。冬乃を抱き締めた。

 

 冬乃が今、それ以上を話さないのなら、話そうとする時迄また沖田は待っていてくれるのだと。冬乃は胸内を拡がる深い安堵に目を瞑る。

 

 

 藤堂が、土方に呼び出されて話すとすれば、いま冬乃が話した事でしかないだろう。

 藤堂が確かに冬乃の推測したようにやましい事など抱えていなければ、それ以上にもそれ以下にも、話すべきものとして藤堂が思いつく事柄など無いだろうから。

 

 

 だけど、きっと伝わったはず。

 その“分隊” の結果それだけでは済まない未来が、このままでは待っているのだと。だからこそ冬乃が声をかけたのだと、

 

 冬乃が藤堂に声をかけた時点でその目的を解った沖田と、土方にならば。

 

 

 目的――望まぬ未来の回避。

 

 (それでも・・)

 これでは結局、冬乃の口からきちんと話せていないままだ。沖田達が本当に知りたい事、『望まぬ未来が何なのか』を。

 

 (・・ごめんなさい)

 今一度、冬乃は心内に呟き、沖田の温かな胸板へ頬を押し付けた。

 

 (まず先に藤堂様と話をさせてください)

 

 

 近藤達へのやましさが無いならばこそ、藤堂が土方へ話すべき事としては思いつかないであろう、伊東と近藤の微かな“すれちがい” という名の相違点。

 冬乃が藤堂になんとかして確かめておきたい点であり。

 もしそれが今すでに藤堂の目に見えて存在するのならば、ではあるものの。

 

 (でももし在ったなら)

 そして、

 ふと冬乃は心によぎった希望に、はっと瞼を擡げた。

 

 土方ならば、その点を今夜すでに藤堂に確認している可能性も大いにあるではないかと。


 冬乃が期せずして投じた波紋は、もしかしたら冬乃の望む未来へと一歩早く、前進させられたのかもしれない。

 

 (どうか・・・)

 そんな未来へと確かに向かっていきますように

 

 

 沖田の腕のぬくもりのなか冬乃は、祈りを籠め再び目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 表でカアカアと明けの烏が会話をする喧噪に、冬乃は薄らと目を開けた。

 

 「おはよう」

 冬乃の髪をそっと梳いていた沖田が、冬乃の目覚めを迎えてくれて。淡い光のなか冬乃はうっとりと、起きて最初に瞳に映せた、その愛しい人を見つめ返した。

 

 カアー

 

 本当に今朝はやけに烏の声が近い。今も響いたそのあまりの音の大きさに冬乃はつい、沖田の向こうの障子に目を向けた。

 どこか近くでニワトリが猫あたりに襲われた後だったらどうしようと、続いて朝から悲しい想像をしてしまった冬乃は眉を顰める。

 

 最近はこの屋根の上に居ついた一羽が、早朝からよくコッココッコと小さく鳴いていたのが、そういえば今は全く聞こえてこない。単に今、烏たちの声が大きすぎて聞こえないだけならばいいのだけど。

 大体どうやってニワトリが屋根に飛び乗っているのか、冬乃にはよく分からないでいる。どうも見ているとニワトリたちは高い所が好きなようで。

 

 (あと土いじりも・・)

 冬乃の部屋の横方向、近藤たちの部屋の前方向に広がる庭園には、庭師を入れた本格的な箇所もある。それが最近、行動範囲が移動したか広がったらしきニワトリたちに、見事に耕されてしまう事態が頻発し、

 ついにニワトリも豚も侵入できないように柵が張られるようになった。そのぶん冬乃の部屋の周りに出没する数が増えている。

 

 そんなことをあれこれ思い出しているうち冬乃は。沖田に不意に抱き締められた。

 

 瞠目しながら冬乃は、沖田が忍び笑ったような振動を直に頬に受ける。

 

 「冬乃の心の声が聞けたらいいのにといつも思うよ」

 

 (え、と)

 いつも殆ど聞き取られているようなものです。いつかの時のように冬乃は心内で返しながら、

 沖田の今の台詞の真意が解らず。沖田の顔を見上げようと、彼の腕の中で身じろぎした。

 

 「考え事している冬乃も可愛いけど」

 次いで降ってきたその台詞に、だが冬乃はぴたりと止まる。

 

 カア!

 再びすぐ外で烏の声が響いた。

 

 (きゅう)

 冬乃は冬乃で心内で鳴く。見事に一瞬で心躍らされた冬乃は、沖田の次の言葉を待った。

 

 「冬乃の百面相、見てると面白いから」

 

 

 (・・んう?)

 

 ひきつづき哂う振動を受けながら冬乃は、心内で今度は唸っていた。そういう意味の可愛いは、ちょっとだいぶ期待していたのと違うような。

 

 コッケーーーー!!

 (わ)

 

 烏の喧噪の中に唐突に鶴ならぬニワトリの一声が混じって、冬乃は目を見開いた。

 

 「賑やかだなあ」

 愉しそうな沖田の声が続く。

 

 「何が外で起こっているんでしょうか・・」

 冬乃には障子を開ける勇気など出ないけども。

 「さあ」

 冬乃を抱き締めたまま沖田が笑う。

 

 ニワトリがとりあえず生存しているらしいことは、これで分かったので冬乃は安心していいのだろうか。

 

 「で、俺達はどうする、もう一寝入りする?」

 この喧噪でなんと沖田は眠れるのか、二度寝の選択肢を出してきた彼に冬乃は純粋に驚いたのだが、ひとまず首を振った。

 

 「いえ無理です。」

 


 

 そういえば今日はお孝の出勤日でもあったと。

 朝寝をしなくて正解だったと、幾ばくもなくふたり思い出して起き上がった。

 

 また朝餉の前に迎えにくるよと言い置き、沖田は三千世界の烏に見送られて帰っていった、

 のだろう。ニワトリが無事らしいことは知ったものの、冬乃は未だ障子の向こうをしっかり見る勇気が無く布団に座り込んだままだったから詳細は知らない。

 

 今朝はそんなに気だるくはない身でやがて冬乃はやおら押し入れへと向かい、行李を取り出す。

 

 沖田が口にした、冬乃の心の声を聞いてみたいというのは、もしかして冬乃がいつも一人で抱えて黙したまま語らないからなのだろうか。行李から仕事着を出しながら冬乃はそんなふうに思い至り、小さく溜息をついた。

 

 きっと相当に心配をかけてしまっているに違いない。

 

 (・・大丈夫ですから。私なら、総司さんのおかげで)

 

 沖田の存在そのものに、冬乃は救われている。だから大丈夫なのですと、どう伝えたらそのとおりに伝わるだろう。

 冬乃は今一度溜息を落とし、騒がしい鳥声のなか仕事着へと袖を通した。

 

 

 

 

 にわにはにわにわとり??

 

 いいかげん井戸に顔を洗いに行かねばと。冬乃が勇気を出して開けた障子の向こう、闊歩するニワトリの数は。

 

 (多すぎない?!)

 

 庭に二羽どころじゃなかった。

 ニワトリもだが、そもそも先程からの喧噪の主たる烏たちもやっぱり多い。

 

 (ナニゴト・・・?!)

 

 冬乃の部屋の斜め前、近藤達の庭の方にかけての一帯が、大きなふさふさの茶(赤冠付き)やら黒やらで溢れていた。群れている茶はニワトリで、その周囲を廻る黒は烏。どちらもそれなりに大きいので、この数が集合していると迫力が激しい。

 

 カアー!!

 ガアー!!

 烏たちの声(一部ダミ声)がひっきりなしで数倍煩いため、ニワトリたちの声は全く競り負けているが。

 

 「あんれまぁっ」

 烏に負けないその素っ頓狂な声に、冬乃が驚いて見やった先、いま角を曲がってきた様子のお孝がその場で棒立ちしていた。

 たしかに当然の反応である。

 

 しかしさっき出て行った沖田は、この状況を全く気にせず普通に此処を通過したのだろうか。

 冬乃は首を傾げた。あいかわらず彼は謎すぎる。

 

 「って・・あ!」

 急に、烏がニワトリの群れる中心へ飛び込もうとしたので、冬乃は声をあげた。が、次の瞬間、一羽のニワトリが見事な蹴りを烏にあびせた。

 

 クガーッ

 

 蹴られた烏が飛び上がって退散し、また遠巻きの位置に降り立った。

 すごいものを見てしまったと冬乃はお孝と顔を見合わせる。

 

 「もしかして・・」

 縁側の角に立ったまま、お孝が呟いた。

 

 冬乃も、感じていた。

 

 烏は何かを狙っている・・?

 

 

 「「・・・ヒナ」」

 

 

 冬乃とお孝の声が、重なった。

 

 

 冬乃たちの視線はニワトリの群れの中心地へと向かい。

 

 (んんん・・??)

 よくよく凝視してみれば、

 なにやらたしかに薄茶色の小さいもふもふ達が、

 

 「・・居たあぁぁ!」

 

 

 (なにあれ可愛すぎる・・!!)

 

 ぴよぴよ声が、耳をそばだてると微かに烏の喧噪の絶え間に聞こえなくもない。

 

 「なんやここ一月ようニワトリさん見かける思うてたけど、きっと近くに巣がおったんやねえ?」

 お孝が感嘆の声をあげて。

 

 冬乃も呆然と頷く。

 この離れの建物の一体どこで、いつのまに卵を温めて孵したのだろう。母ニワトリにくっついてどこかの巣から出てこられているということは、孵ったのは今朝よりも前なはず。

 

 お孝はここ数日ぶりの出勤だし、冬乃も沖田の夜番に合わせて此処に泊まったのは二日ぶり。

 それに最近もっぱら休憩時間には沖田の部屋に入り浸っていたせいで、おもえば殆ど、この部屋には戻ってこなかったのだ。

 ニワトリ家族にすれば、暫く人の存在が無くてさぞや快適だったことだろう。

 

 

 しかしこの状況、

 母ニワトリがヒナを狙う烏の襲撃を受けて、仲間に応援を要請したのだとしか思えない。

 さすが新選組のニワトリである。

 

 というより屯所にこれだけのニワトリがいたとは冬乃は知らなかった。赤い立派な冠の雄を中心にしたハーレムの群れを時々見かけたが、豚と違って一匹オオカミ状態のニワトリも珍しくなく、結局ニワトリの全体数が全く掴めなかったのだ。

 

 

 「諦めへんのね、烏さんも」

 

 喧噪の中、お孝が固唾をのんで見守っている。

 冬乃は助太刀すべきかおもわず悩んだ。ニワトリ側の、である。

 

 こういうことは本来なら自然の摂理に任せるべきなのだろうとはいえ、一応ニワトリの管理は組全体で負っている。貴重なヒナを烏に奪われてはたまらない。

 

 (ていうか)

 烏だって可愛いけども、ヒナの愛くるしさを見てしまった以上、あの子たちが血まみれになるなんて避けたいのが人情で。

 

 (うう)

 

 冬乃は、決心した。

 

 部屋の奥へ引っ込むと押し入れから木刀を取り出し、戻ってきて縁側に立った。

 当然に。お孝が目を丸くして、そんな冬乃を見上げてきた。

 

 

 冬乃はそんなお孝へ苦笑いしてみせる。

 

 とはいえど。

 

 (どうしよ?)

 

 烏に木刀を当てるわけにはいかないし、かといって近くで振り回すだけで逃げていってくれるものだろうか。

 ニワトリから蹴りをくらっても退かないくらいなのに。

 

 (でもやってみるしかないよね)

 

 冬乃は意を決すると木刀を手に石段の草履へ足を通した。

 

 「冬乃」

 

 「え」

 「あ」

 不意の沖田の声に、冬乃もお孝も振り返って。

 

 いま角を曲がってきた様子で沖田がそこに居た。

 

 「おはようございます、お孝さん」

 沖田がその爽やかな笑みで、己を振り返ったお孝に挨拶する。

 

 「おはようさんどす沖田様」

 お孝がほっこりする会釈を返した。

 

 朝餉の迎えに来てくれたのだろう。いつのまにかもうそんな時間だったのだ。未だ冬乃は顔も洗えていないのだが。

 

 

 「物騒だな」

 冬乃が木刀を持ち出しているのを目に、沖田が笑った。

 「ニワトリへ加勢?」

 

 「ハイ」

 冬乃はどうしようもなさげに頷く。

 

 

 「いいよ、俺がやるから」

 (え)

 

 告げるなり鳥達の近くへ向かってゆく沖田の背を、冬乃もお孝も彼がどうするのかと見やって。

 

 刹那。

 

 ビリッと鋭い気を感じた冬乃は、激しく総毛立った。

 

 (あっ)

 

 

 それは、まさに一瞬。

 

 

 バサバサと一斉に烏たちが舞い上がり、今まで聞いたこともないような鳴き声を発しながらあっというまに黒い集団となって飛び去っていった。

 

 

 (わ・・・・わ・・)

 

 ぽかんとしているお孝と違ってさすがに冬乃は、今なにが起こったのか理解して。

 

 平和そうにコッココッコと地面をつつき出すニワトリ達を背に、沖田が戻ってくるのを。

 

 (・・・総司さん、)


 冬乃は目を瞬かせて、迎えた。

 

 その場で剣気を叩きつけて烏たちを追い払うとは・・・・



 (一番物騒なの、総司さんですから!!)

 

 

 「近づいたら勝手に逃げていってしまいましたね」

 沖田の台詞に、

 まさに狐につままれた表情になったお孝に、沖田は続けてにっこり微笑む。

 

 剣をたしなむ冬乃ほどでなくても、お孝も何かしら体に感じたはずだが。そこはごまかすらしい。

 たしかに剣気をつかったと説明してもお孝には通じないだろうけど。

 

 「もう飯、行ける?」

 沖田が石段に立ち尽くしたままの冬乃を向いた。

 

 冬乃ははっとして、ふるふると首を振る。

 「すみません、まだ顔を洗ってなくて」

 

 「あ、うちも支度せな」

 お孝が弾かれたように、わたわたと石段を上がってきた。

 

 冬乃も急いで木刀をしまいに部屋へ戻る。

 「井戸場まで一緒に行くよ」

 ニワトリやヒナの声が漸くしっかり聞こえるようになった中で、沖田の穏やかな声が冬乃を追った。

 








 「そういえば」と横で冬乃が呟いた。

 

 その声に沖田が冬乃を見下ろすと、

 

 「ヒナを助けてくれてありがとうございました」

 

 冬乃はその可愛い笑顔を擡げて、礼をしてきた。

 

 「それにしてもさっき、ヒナが居るってすぐお分かりになったんですか」

 大きくひと扇ぎ、彼女の長い睫毛が瞬く。

 

 「ああ。正確に言えば冬乃の部屋を出た時に」

 「え・・」

 

 その時点で分かっていたならどうしてすぐに助けなかったのかと、驚くような探るような眼が追ってきた。

 責める眼ではなく。つまり冬乃のほうでも一度は、自然の摂理に任せる選択肢も考慮したのだろう。

 

 

 沖田はというと、

 いつぞやかの子豚の時と同じで、冬乃を放っておけないから動いたまでで。

 

 ヒナ達が人間の介在でいっとき難を逃れたところで、また烏達に狙われない保障は無い。

 組がヒナを籠にでも囲って飼うように方針を変更すればいいのだろうが、それだって親鳥共々四六時中とじこめておくわけにもいかない。つまり出入りさせるぶん、人が傍について世話をする事になる。

 茂吉達も、手伝いの世話役を当番で割り振られる平隊士達も、ヒナが生まれるたびにそこまで手が回るかどうか。

 

 結局のところ、これまで通りという線に落ち着くことは十中八九、目に見えている。

 だから沖田は放置したが、

 戻ってきたら未だ烏達が居て、そして、冬乃が木刀を持ち出していた。

 

 

 先の事はともかくとして、いま目の前の状況に最善だと信じることを選ぶ冬乃の姿勢も、また決して悪いものではないだろう。冬乃がいまヒナを護りたいなら、止めることでもない。とはいっても冬乃に烏と木刀で闘わせるのもどうかなので、沖田は冬乃の代わりに烏を追い払った。

 

 

 「あ、冬乃ちゃんおはよう!沖田もついでにおはよう!」

 

 井戸場に居た藤堂がぱっと手を振ってくる。ついでには余計だ。

 

 「おはようございます」

 冬乃が早速じっと藤堂を見つめている。

 

 やはり何かこの先の藤堂に関して並々ならぬ心配事があるのだろうと、沖田は内心溜息をついた。

 

 

 その心配事、

 冬乃が昨夜明かしたような分隊の件だけならば、彼女が思い詰めたように悩む道理も無い。監察からの情報を聞いている限りは、伊東達が内々に計画する分隊自体は組に反するがゆえではないのだ。だからこそ藤堂も協力しているのだろう。

 こちらとしては望ましくはなくともだ。

 

 彼女が回避を望むような事態は、分隊の件とは別にあるに違いなく。もしくはその延長か。そしてそれは、このまま何もしなければ起こるということだ。

 

 

 だが当の藤堂が気楽な様子でいるということは、藤堂のほうには未だ何らそれと認識が無い事柄なのではないか。分隊の延長だとすれば伊東に関わる何か。その辺りを踏まえて昨夜に土方がうまく聞き出せているかどうか。

 

 (まあ土方さんなら何かしら掴んだだろう)

 

 

 「沖田、今日って昼番ある?」

 

 藤堂が手ぬぐいで顔の水気を払いつつ見上げてきた。

 

 「いんや」

 今日の沖田の当番は夕だけである。

 

 「じゃあさ、朝餉の後ちょっと道場で型みてもらいたいんだけどいい?」

 「いいよ」

 「・・ねんのため先に言っておくけど、しごかないでね?」

 「わざわざ言うってことは、本当はしごいてほしいんだろ。よろこんで」

 「勝手な解釈するなー!」

 

 「どえす・・」

 

 冬乃が時々呟くその未来語、なんとなく意味が分かってきたんだが。

 

 「おー皆おはようー」

 「あ、おはようございます井上様」

 「おはようございます」

 「おはよ井上さん!」

 井上が手ぬぐいを首にかけたままやってくるのへ、それぞれ挨拶する。

 その向こうを旅立ち前の燕が低空飛行で旋回してゆき。これは天気がぐずつきそうだと思いながら沖田は空を見上げた。

 







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