二十. 壊劫の波間④



 将軍家茂の死去が公になり。次いで長州征伐停止の勅命が下った。

 

 長州が、天皇および朝廷の敵であるという“汚名” を解かれたわけではない。

 だが。

 

 

 「あの制札が抜かれただと?!」

 

 ようやく夜に向けては過ごし易くなってきた八月の末、

 夕虫の音色をかき消す近藤の声が部屋じゅうに鳴り響いた。

 

 部屋の中央に坐す近藤と土方の背後で、冬乃は二人の茶を用意していた。

 なぜ冬乃がこの場に留まるよう土方に言われたのか、冬乃には謎だったが。

 

 

 「ああ、いま急ぎ新調している」

 「で、犯人は?!」

 「どうせ長州派浪士共に決まってるさ」

 

 忌々しげに吐き捨てた土方が、冬乃の差し出した茶を手にとり一気に飲み干した。

 

 「奴ら、いい気になりやがってッ・・」

 

 先の戦は幕府の敗北も同然に終わり、今や長州は、幕府などもう取るに足らぬと高笑いしているに違いなく。

 

 「開戦すべきでない状況で開戦したからだ!本来ならば、幕府が長州ごときに後れを取るはずがなかった!」

 憤懣やるかたない近藤が、茶を持たぬ側の拳を握り締めた。


 いま闘っては敗戦も起こり得ると懸念していた近藤の読みは正しかった。かといって一度抜いた剣を納めるに納められず開戦を迎えた幕府もまた、この現状下、同じ想いでいることだろう。

 

 「ああそうだ。今回は奴らに運が回ったまぐれにも等しい。にも関わらず制札に手を出してくるとは、随分と調子に乗ってやがるじゃねえか・・!」

 土方がドンと湯呑を横の畳に置く。

 

 

 彼らが言っている制札とは、長州が天皇の敵つまり朝敵である旨を公示した立て札で、三条大橋西詰に掲げられていたもの。

 それを引き抜くということは、

 長州がすでに今上天皇である孝明帝の赦しを得て戦争停止になったのだと、世間に印象づけることにもなる。

 

 実際は、孝明帝は戦争継続を望んでいたものの、これ以上つづけても勝ち目は薄いからの、やむなき停戦であり、

 決して孝明帝が長州を赦したからではない。

 

 それがため、この件においても幕府側の悔しさは察するに余りある。

 話は、ただの制札へのふざけた狼藉ではないのだった。

 

 

 冬乃は縮こまったまま、膝の上の拳を見つめた。

 

 「おい、」

 

 そんな冬乃を。突然、土方が振り返った。

 

 驚いた冬乃に、土方の鋭い眼ざしが向かい来る。

 

 「おまえが知っているこれからの流れを全て教えろ」

 

 

 冬乃は目を見開いた。

 

 土方のその眼は、

 

 全てを受けとめる覚悟を深く内に秘めたような、力強い意志の眼で。

 

 

 「・・歳」

 近藤が制止する声を出した。

 

 「いや、」

 土方が冬乃を睨んだまま、さらに近藤へ制止の意を返す。

 

 「聞かせてもらう。近藤さん、俺達にはどうやら、この先の歴史を知っておくべき時が来ているようだ」

 

 

 冬乃は、

 土方が冬乃をこの場に留めた理由がこれだったことに、気づくとともに。

 

 膝で握り締めていた両の手を。

 前の畳へと降ろした。

 

 

 「申し訳ありません」

 

 土方の意志の強さに負けないように声を圧し出したはずが、掠れ。

 

 「お話することは、できません」

 

 畳についた冬乃の手が震えた。

 頭を下げたのは、彼らの顔を見ることができないからでもあり。

 

 (申し訳ありません)

 

 「てめえ、これは命令だ!」

 「ではご命令に背きます!御手討ちにしてくださって構いません!」

 

 「おまえ・・!」

 

 

 この先の歴史を伝えても、

 

 抗いようのないその大波に、呑まれてゆく運命を、

 聞いたところで彼らにも誰にも、どうすることもできないというのに。

 

 近藤も、土方も、沖田たち新選組の皆も。

 彼らがこの先の幕府の崩壊を知っても、その沈みゆく船から降りてはくれないことなど、冬乃には分かりきっている。

 彼らの正義と信念と、誠の忠義が、それを許さない。

 

 死へ向かう道を当然のように受け入れるだけ。

 

 

 なら伝えて何になるだろう。

 元より、伝えることなどあってはならない。

 

 死しても変えることのできない、希望のない未来など。

 

 

 

 

 「仮にも近藤さんの娘を、手討ちになんざできるわけねえだろが・・!くそっ・・」

 

 土方は吐き捨てると、顔を上げた冬乃から視線を外して再び近藤へと向き直った。

 

 「・・すまんな、歳」

 まるで冬乃の代弁のように近藤が小さく呟いた。

 

 冬乃が近藤の養女になった事は、隊に公にはしていない。だが土方や試衛館の頃からの仲間は勿論知っている。

 

 (土方様、近藤様・・)

 

 冬乃がもし近藤の養女でなくても、

 

 (本当に申し訳ありません)

 

 手討ちになどしないことも。冬乃は感じ取れた。あの場では本気で、そうなっても仕方ない覚悟で口奔ってしまったものの、後から思えば狡い回避だったのではないか。

 

 「申し訳ありません」

 今一度零れ出た冬乃の声に、

 

 「もういい。用は済んだ、出てけ」

 土方の背が、振り返らず一言答えて。

 

 

 冬乃はその背に再び頭を下げて、震える膝で立ち上がった。










 ただ何も聞かずに抱きしめていて


 冬乃がそう願った心の声を、まるで聴きとったかのように。

 沖田の部屋へと直行してしまった冬乃を出迎えた沖田が、冬乃の表情を見るなり黙って抱き包めた。

 硬く温かな胸に頬を押し付けて冬乃は、安心したら溢れそうになった涙を堪える。


 大丈夫だ

 言葉にされずとも、伝わるほど深く抱きしめてくれる沖田の、

 着物を冬乃は、夢中で握り締めた。

 

 (このまま時が止まってくれたら)

 もうこれ以上、進まないで、永遠にこの時に何度も戻ってこれたなら。

 

 それなら幾度未来へ帰ってもまた、繰り返せるというのに。この果てのない苦しみから抜け出て。



 「冬乃・・」


 すっかり暗くなった外から初秋の風がすべりこむ中、緩やかな行灯の光を背に沖田がそっと冬乃を離し、顔を上げた冬乃の瞳を見据えた。


 「前に言った事、覚えてる?一人で抱え込んで苦しんでほしくない、と」


 「はい・・・」

 冬乃が打ち明けたくなった時にはいつでも聞いてくれる。そんな沖田の愛情が、冬乃の沈みそうになる心を底から支えてくれている。


 「ならいいんだ」

 それでも心配そうに見下ろしてくる沖田に、

 「ありがとうございます」

 まだ少し涙が零れそうになりながら冬乃はなんとか微笑んでみせた。



 この先の歴史の行く末を、けれど彼にも打ち明ける日はきっと来ないだろう。

 でも藤堂の事ならば、相談できる時がいつかは来るはずと。あれからずっと冬乃は模索している。


 歴史の大流も人の命の刻限も変えられない冬乃に、介在できる唯一の事、

 人の、藤堂の、命の散り様を変える。

 そのために。

 

 尤もそれですら、変えられるのはその人の望みに適っていた場合だけで。だから、必ず見つけなくてはならない。

 藤堂の望む死を、

 歴史が遺した彼の散り方の、代わりを。

 

 でなければ、

 それを冬乃が用意できなければ。

 藤堂は新選組の仲間と敵対して死んでしまう。

 

 (それだけは・・藤堂様が望んでいた死なわけがない・・)

 

 

 ぶるりと震えた冬乃の体が、強く今一度、抱き締められた。そして優しく緩まり。

 「状況がもう少し落ち着いたら、」

 沖田の穏やかな声音に、冬乃は顔を上げる。

 

 「二人で温泉に行こう」

 

 

 (・・温泉?!)

 

 冬乃にすれば唐突な、その誘いは、

 冬乃のこれまでの思考を一気に逸らした。

 

 「暫くは、家の風呂で我慢してもらうけど」

 

 「え、や、そんな充分すぎるほど満足してますいつも!あ・・でも温泉は・・温泉で・・・ぜひ・・・・」

 

 沖田が笑った。

 「うん。で、今夜はこれから帰る?」

 

 (あ)

 

 そうだ。沖田は今日は朝と昼間の巡察を終えていて、今夜はもう非番なのだ。

 

 「はい」

 頬が熱くなるのを感じながら答えた冬乃を、

 「夕餉はどうしようか」

 沖田が冬乃の腰を未だ抱いたまま見下ろしてくる。

 

 聞いてくれたのは、常に冬乃が家に帰るときは夕餉を作りたい事を知っているからで。

 ただ。

 「今夜はこれから作ると遅くなってしまいそうなので、こちらで食べていくのでもいいでしょうか」

 「もちろん」

 沖田が予想していたかのように頷いた。

 

 早速広間へ向かう様子で、冬乃の体をそっと解放し、刀掛けへ大刀を取りに向かう沖田を見ながら冬乃は、つと、

 

 先程までの涙も収まっていて、それどころか今夜の二人きりで過ごせるひとときに向けて心が躍っていることに、気づいた。

 

 (・・もしかして総司さんは、私がこうなるように・・?)

 

 

 大刀を腰に差し、沖田が振り返る。

 

 「じゃ、行こうか」

 

 「はい・・!」

 

 (ありがとうございます、総司さん)

 

 癒された胸内で、そっと囁く。

 

 大丈夫だと

 きっとまた、抱きしめてくれる何度でも。

 

 

 繋がれた力強い手に引かれ。冬乃は一歩、踏み出した。











 制札の事件が、終結を経た翌朝。

 

 「嬢ちゃんおはよう~」

 秋の朝の気持ちの良い空気を堪能しながら井戸場へとやってきた冬乃を、原田のげっそりした顔が出迎えた。

 

 あれから何度も制札は立て直しては抜かれ、ついに新選組は夜通し見張ることとなり。

 

 昨夜は原田ら率いる見張りの隊が、犯人の出現を待ちくたびれて酒まで飲みだした頃に、彼らは現れたのだった。

 そのまま戦闘になって敵方には死傷者も出る結果となった。

 

 

 「・・おはようございます原田様」

 

 眠そうに目をこすっている原田に、冬乃はおもわず眉尻を下げて挨拶を返す。

 明らかに疲れが取れていなそうだ。

 

 「おうサノ。昨夜はお疲れ」

 幹部棟を出て向かってきた永倉が声をあげる。

 「冬乃さんもおはよう」

 「おはようございます」

 

 「なあ新八っちゃん、聞いたかよ?犯人ども、またも土佐っぽだぜえ。やってらんねえよ」

 

 (そうなんだよね・・)

 原田の悲鳴まじりの溜息を耳に、冬乃は井戸の前へ立ち、釣瓶を引き上げる。

 

 

 土佐は、今こそ水戸ほど悲惨な政情ではないものの、家中で思想が真っ二つに割れている藩のひとつで。

 

 藩主や上級武家の後藤象二郎などは親幕派なのだが、下級武家の中には長州寄りの者や、坂本龍馬や中岡慎太郎などの国抜けまでして志士活動をしている者も多かった。

 

 尤も龍馬の思想は追々、親幕派(佐幕派)とも、のちの討幕派とも、一括りにはし難いものとなり。そのせいで双方の激派から敵とみなされることになっていってしまう。

 

 

 (伊東様も・・もしかしたら、この後の龍馬と同じ境遇だったんじゃ・・)

 

 冬乃はずっと伊東の言動を観察しているが、未だ全くといって分からなかった。

 只あれこれ考えれば考えるほど冬乃は、伊東がある時点から、近藤達に“誤解” されていったのではないかと、疑い始めている。



 (大丈夫、まだあと少し時間はあるから。もっとよく観察して)

 

 冬乃は自身に言い聞かせながら、桶に汲んだ水を手に掬った。顔を洗いだす冬乃の後ろでは、原田達が話を続けている。

 

 「しっかし、土佐は上下で割れてるとばかし思ってたけどよ、昨夜ひっ捕らえた宮川って奴は上士だとよ。どうなってんでえ」

 原田の更なる溜息も続く。

 

 宮川は土佐の上級武家出身にしては珍しく、長州寄りの活動家だ。

 

 「ああ、俺も聞いたよそれ。近藤さんなんざ、あれだよ、器がでかすぎるから、奴が切腹させろと堂々言い出した態度見て、すっかり“武士の情け” の気分になったらしい。土方さんがぼやいてた」

 永倉の、心情複雑そうな声が追った。


 (ぼやいてた・・)

 

 土方もじつは温情において近藤並みに、いやもしくは近藤以上に慈悲深いのだが、

 隊を統率する立場として、沖田も揶揄するほどの“鬼” の一面を貫いている。そんな彼だから、近藤が宮川の処分を穏便にと言い出したことに、色々とまた困った気分なのだろう。

 

 

 「ま、もう奴の治療は終わったんだろ。これから早々に御奉行へ引き渡してくるさ」

 

 「ああ、俺らはとっ捕まえるまでが仕事だしな」

 原田がそう締めくくって肩を竦めると。

 

 ぐわあと盛大な欠伸をした。

 

 「やっぱ俺もういっかい寝よ・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前回は結局、皆の予定が折り合わず、千代からは「悪くなってしまう前に」と佃煮になった山菜が届けられ。

 再び山菜の束をもらったと、千代から嬉しそうな連絡を受けたのは、その僅か半月ほど後だった。

 

 律儀な酒井のことだから、前回に都合が合わなかったことを申し訳なく思ったのかもしれない。

 (あの方だったらありえる・・)

 都合が合わなかったのは当然酒井だけのせいではないし、なにより元々自分の持ってきた土産なのだから、気にすることではないというのに。

 

 (ほんと良い人なんだなあ・・)

 冬乃が感嘆したのはいうまでもない。

 

 これは冬乃からも前回予定していた以上にきっちり御礼しなくてはならないと、ついに決まったお呼ばれの日の早朝、冬乃はむくりと起き上がった。

 

 沖田が未だ寝ている横で、気だるい体に鞭打って起き出すなんて初めてではないだろうかと、冬乃はこっそり思いながら、

 秋晴れになりそうな澄んだ朝空の下、井戸の水を汲んで早速準備を始める。

 

 カステラを作ってみようと思い至ったのだ。

 もちろん、江戸時代版である。茂吉に頼んで調理指南書いわゆるレシピもしっかり入手した。

 

 昨夕までに行商に驚かれながら買い占めた大量の卵と、茂吉から分けてもらったうどんの粉、そして沖田に頼んで組いきつけの料亭から分けてもらった上質の白砂糖を並べて、冬乃はいざ袖を捲った。

 戦闘開始、である。

 

 (失敗しても時間はあるし・・)

 

 ここは奮闘あるのみ。

 

 

 そして。

 少量ずつの試行錯誤の末、四度目にしてついにそれらしきものが出来たのは、すっかりお日様が頭の上まで昇った頃。

 

 時間があるなんて高をくくっていた己に、もはや冬乃は呆れていた。

 

 沖田が、途中何度か様子を見に覘きに来るたび、冬乃は「次こそは大丈夫ですっ」とすっかり煙で焦げ臭くなった台所で苦笑いしてみせていたが。

 いいかげん本当に、のんびりしている場合ではない。お呼ばれしている昼の予定時刻までに冬乃は終わらせなくてはならないのだ。

 

 (昨夜のうちにやっぱり練習しとけばよかった~!)

 

 やっと二人して迎えた非番の今日一日。このところの情勢の悪化は、巡察強化中の沖田にも、近藤について仕事をしている冬乃にも、多忙をもたらし、昨夜も久しぶりに家へ帰ってきたくらいで。

 

 そんな積もった疲労を言い訳に、

 朝早くに起き出してがんばればなんとかなると楽観的なことを考えた昨夜の自分に、今さら後悔しても遅い。

 (あうう)

 四度目でやっと成功した方法を腕が覚えているうちに、今度は全ての材料を投入して完成させなくては。

 

 

 冬乃は、まともに食べる時間なく残したままだった朝餉を立ち食い状態で口に運びながら、覚悟を決める。

 

 (うまくいきますように・・・!!)

 

 

 

 

 

 

 「・・・え」

 

 喜代からの飛脚の手紙を届けてくれた井上を前に、

 香ばしい香りがいっぱいに広がる台所で、冬乃は声をなくした。

 

 千代が熱を出したと、

 手紙には、今日は中止にしたいとの詫びのことばが記されていた。

 

 (お千代さん)

 

 「あの、私お見舞いに行ってきます」

 沖田を振り返り、冬乃は口奔ってから、行ったところで何ができるのかと次には思ったものの。

 まだ鎮痛薬を使う時期でもないというのに。

 (でも)

 「・・このかすてらを渡してきます。卵で滋養があるので、・・」

 熱が出ているなら食欲も無いかもしれないが、冬乃は何か少しでもできることをしたかった。

 

 冬乃の泣きそうな顔に、沖田が少し訝しんだ表情をみせたが、彼は黙して頷いてきた。

 (・・あ)

 ただの風邪ではないのかと、

 未来を知る冬乃の様子から感じ取ってしまったかもしれないと、気がついた冬乃は慌てて言い足す。

 「時々咳が出て調子が悪いと、お千代さん言ってたんです。以前の風邪をぶり返したんだと思います」

 

 尚も心配そうな眼が、冬乃を見返した。

 きっと千代への心配と、また何かを胸内に一人で抱え込む冬乃への心配が、入り混じったような、そんな眼ざしだった。

 冬乃は咄嗟に逸らした。

 「行ってまいります」

 

 成功したカステラを手に、沖田と井上を背に。冬乃は土間を出た。

 

 

 

 

 

 喜代を手伝って、眠り続ける千代の看病をしながら、冬乃は胸を刺し貫いたままの辛苦に抗っていた。

 

 血の赤が滲んだ懐紙が、千代の枕元の屑入れを埋めていた。

 喜代は恐らく薄らと気づいているのではないか。否、気づかないはずがなく。

 

 「冬乃さん、今日は本当にありがとう」

 

 帰り際、何度も頭を下げて礼を言う喜代に、冬乃はうまく返す言葉が見つからずに、早く良くなりますようにとそんなありきたりな台詞を置いて帰路についた。

 

 

 澄みわたる快晴の下を、冬乃は澱んで凍えた心をひきずるように歩んでゆく。

 

 残酷なまでに晴れやかな天は、いつかの夏の時と同じだと冬乃はつと思い出す。

 この帰路はもう何度も涙で霞んだ。あの一番最初の、沖田と酒井と共に訪ねた夏の日から、

 

 千代の選択をただ受け止めるしかなかった日も、

 

 そしてきっとこの先も。千代の最期の日まで繰り返すのだろう。

 

 

 (・・・あ・・)

 

 昼下がりの活気あふれるこの道で、談笑する母娘とすれ違いながら冬乃は、

 不意に浮かんだひとつの懸念に胸を突かれていた。

 

 

 沖田と千代が内縁の夫婦だった時は、共に暮らしていただろう沖田が千代の最も近くに居た人だっただろう。けれど千代の運命が変わっている今、千代が実家を出ていない現状で、今もこの先も千代の一番近くに居るだろう人は喜代ということになる。

 

 冬乃は喜代の寿命を知らない。しかしこのまま彼女が千代の傍に居続ければ、千代の魂が遠ざけたはずの沖田と同じ運命を辿ることになってしまうのではないか。

 

 

 (・・・でも・・ちょっと待って・・?)

 

 千代が、沖田の縁者として組ゆかりの寺に埋葬されたことが、今更ながら引っかかる。

 

 そもそも結婚が内縁の場合、制度上は、千代の所属先は未だ実家の檀那寺である。


 それなのに千代は実家の寺には埋葬されなかった。

 

 

 千代たちが江戸から京へ来る際に、檀那寺となる寺を京に移していないことは千代から聞いている。父の法要に江戸まで帰っていると、彼女は以前に話していた。

 

 (それで、お千代さんは江戸でなく京で亡くなったから、代わりに総司さんを通して組ゆかりの寺に埋葬した・・?)

 

 

 だがそうだとしても、なぜ千代は、千代の実家の名の下では無しに、沖田の縁者として埋葬されたのか。

 沖田の他に、より近い縁の身寄りがいたなら、その人が千代を家の名の下で弔うのが自然だ。

 

 けれども実際には沖田の縁者として為された。

 ならば千代には、

 ある時点から、内縁の沖田以上に近しい身寄りが存在しなかったという事にならないか。

  

 

 (・・でも、それってつまり、・・・)

 

 千代の母である喜代は。

 

 この先、千代よりも更に前に亡くなってしまうという事・・・

 

 

 

 「・・そんなのって、」

 

 おもわず声に出てしまい、冬乃は道端で立ち止まった。

 

 それなら千代は、母亡き後、本来なら沖田の縁者として供養されるはずが、

 この先も誰と婚姻するわけでもなく亡くなった時には、無縁仏になってしまうのではないか。

 

 (・・ううん、親戚が江戸に居るって、前にお千代さん言ってたはず・・!)

 

 だったら突き止めておかなくてはならない。

 酒井は千代たちの親戚を知っているのだろうか。

 

 もし酒井が知らなくても、千代たちの檀那寺が発行した証文が家のどこかにあるはずで、そこから親戚を辿ることさえできれば。

 

 いや。もしそれが叶わなくても、無縁や薄縁の仏を弔う寺はここ京都になら多いはずで、組ゆかりの寺もそのひとつともいえるのだろうことを考えれば、千代の眠る場所は歴史どおりであってもいいのかもしれない。

 

 

 (だけど、それより、・・お喜代さんが)

 

 もし冬乃の予想どおりになってしまうなら。

 

 

 誰が、この先、千代に付き添って看病できるだろう。

 

 

 (総司さんとお千代さんが本来の運命だったなら、・・総司さんだった・・)

 

 

 けど今は。千代にとって、その存在はいない。

 

 そうしてしまったのは、まぎれもない冬乃だ。

 

 

 

 (私が、付き添う。)

 

 

 冬乃は震えている息を無理やり吐き出した。激しい鼓動を落ち着かせるために、大きく吸い込む。

 

 横を通った人々が、立ち止まったままの冬乃を一瞬見やって去っていった。

 

 (大丈夫、私が感染することは無い)

 

 違う。

 感染するわけにはいかないのだ。

 

 千代がその運命を捻じ曲げてまで、護った沖田を。今度は冬乃が危険に曝すなんて事が、絶対にあってはならない。

 

 千代が望んだこの奇跡に、そんな結末があるはずがない。

 

 

 そう思ってみても。

 先がわからない不安に、大きく呑まれゆくような感覚で。

 

 冬乃は、咄嗟に道の塀に手をついた。

 (こんな)

 未来がみえても、みえなくても、苦しむのなら。

 

 (みえるほうが、まだマシ・・・・)

 

 それなら、

 望まぬ未来へ向かう沈没船ならば。冬乃は今すぐ飛び降りるのに。

 もしも冬乃が感染する未来を先に知ることができたなら、

 

 沖田から離れる――のに。

 

 今度は自分自身へ、どんな手をつかってでも。

 

 

 

 (きっともう・・役目なら終えてるのだから)

 

 千代から、運命の恋人を奪い。

 彼の愛を掴んで。

 

 千代の魂から課されたその使命ならば冬乃は完遂している。

 

 

 今はきっと、沖田の傍に未だ居ることを許されているだけの、

 

 彼の最期を、

 彼がこれでもう、本来の望んだ死を確かに迎えることを、

 

 見届けるまでの。束の間の猶予期間。

 

 

 (そうまるで、“ご褒美” のように)

 

 

 そんなもの手放していい。

 それで彼さえ護れるのなら。

 

 

 

 

 冬乃は、震えたままの息を今一度圧し出した。

 

 (・・最悪の事態なんて、未だ何も起こっていないうちから悩んでいても仕方ない)

 

 

 冬乃は幼い時に結核の予防接種を受けている。それでも大量の結核菌に曝される場合は危険なことに変わりない。千代の病状が悪化した後は、できうる全ての予防をしながら鎮痛薬を飲ませるつもりでいた、

 だから当然、長居もしないつもりでいた。

 どんなに傍にいてあげたくても、その結果起こりうる事態を考えれば、それは千代の、千代の魂の、望みではないと。わかっているから。

 

 (・・・だけど)

 

 

 『あの患者さんはご家族にも会ってもらえなくて、か細い体でご自分では何もできなくなっているのに、面倒をみる人が誰もいないのよ・・一日も放っておけない』


 千代の、あの日のことばが甦る。

 

 

 (お千代さん・・)

 

 千代が結果その命を懸けて看病し通した患者と、

 同じように、いずれ起き上がることすら困難になった時、

 

 (誰も傍にいないなんて・・そんな想い、させれない)

 

 

 千代と、この千代の魂が望まなくても。

 その時が来てしまったら冬乃が選ぶ道は、かつて千代が選んだ道なのだと。

 

 

 

 ふらつく足に冬乃は力を籠めた。前を見据え。

 かわらず澄みわたる晴れやかな空、影を落とす足元、

 目の前の道は。

 ただまっすぐに続いて、此処から終点を見ることはできない。

 

 

 この奇跡から、もし千代に付き添う事さえも使命として課されていたのだとしたら、必ず成るべくして成ってゆくだろう。

 

 感染することは無いか、

 

 感染するなら、

 沖田とは――冬乃の希望より少し早く、訣別する、

 

 そんなどちらかの結末に向かって。

 

 

 すべて、千代があの日選んだ時から、もう決まっているのかもしれない。

 

 

 

 

 

   





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る