二十. 壊劫の波間③




 ほどなくして帰屯した近藤に、休憩していいと言われた冬乃は。

 (総司さん・・)

 逢いたい想いのままに部屋を覘いてみたがすでに沖田はおらず、うろうろと探してしまい。だが幹部棟の周りで出会ったのは、暑そうにしている豚たちだけだった。


 冬乃は沖田が一番居そうな道場へ向かってみることにして、昼前の照りつける日の下を歩み始めた。


 夏も終わりを迎えているとはいえ、日中が真夏と変わらないのは平成と同じで。秋の便りは未だどこにもない。

 当然いろづく気配も全くない銀杏の大木を向こうに見ながら、冬乃は早く軒下へ入ろうと足早に道場へ急いだ、

 

 そのせいで不意に目の前に飛び出してきた男に、冬乃はぶつかりそうになって。

 

 「ご」

 ごめんなさい

 言いかけた冬乃は硬直した。


 「新選組の女中か」

 男が。

 抜き身の脇差を突然、冬乃の首元に向けたからで。



 屯所の周囲には常に見張りがいる。


 いったいどうやって、この見るからによそ者の男が侵入し得たのか。


 「・・・違います」


 冬乃は、慎重に返していた。

 下手に新選組と関わりがあると知られないほうがよさそうな気がして、首を振ってみせる。

 「此処には旦那様に商いのお使いを頼まれて来ただけです」


 「おまえ京者じゃないな」

 冬乃の発音にぴくりと眉を上げた男に、

 「出稼ぎに来たんです」

 冬乃は咄嗟に繕う。


 「あの、もうお許しください・・」

 怖がっているふりも勿論、忘れない。


 いや、いま刀を首元に当てられているのだから怖がらないほうが変だ。


 とか思っている時点で、冬乃は怖がっていないのだが。


 (白刃を見慣れちゃったのかな・・)

 それが良いのか悪いのかどちらにしても、およそ現代を生きていたならありえない心境である。


 「駄目だ、おまえには悪いが、このまま来てもらう」


 どこへ行く気なのか。

 (早く総司さんに逢いたいのに)

 冬乃は内心溜息をつき、男が促すのへ素直に従いながら今来た道を引き返し始めた。


 隙あらば簪を引き抜くつもりで、冬乃は横を行く男に気を向けるが、それなりの遣い手なのかもしれず全く隙が見当たらなかった。

 冬乃は機会を得ぬまま、二人はやがて蔵構えの建物に着いた。

 

 (ここ・・)

 存在は知っていても冬乃が足を運ぶことのない界隈。

 捕らえた浪士達を一時的に入れておく仮牢で。

 

 「・・あっ」

 二人に気づいた牢の番の隊士達が声をあげた。

 広間などで何度か見たことのある平隊士達だ。彼らも当然冬乃を認識し、冬乃が脇差を当てられている状況に驚愕した顔を向けてきた。

 

 「この女、組に使いで来たと言っているぞ!」

 

 男が大声で隊士達へ叫んだ。

 

 「組の客を殺されたくなくば、その牢を開けろッ」

 

 無理があるんじゃないかな

 冬乃はもう一度、内心で溜息をついていた。

 

 本当に冬乃が使いの女中であったとしても、組の客と言ったとて相応の身分でもないただの女中のために、いちいち組として対応するわけが、

 「分かったッ、分かったからその人に手を出すなよ!!」

 

 (え)

 

 隊士達がいずれも大慌てで牢の錠を開けにかかった。

 

 (うそ)

 

 

 冬乃が唖然とする前で、隊士達によってみるみるうちに厳重な封印が外されてゆく。

 鎖の部分が解かれ、錠がいよいよ外されようという時。

 

 「おい、余所見してんなよッ」

 

 突如、冬乃達の背後から鳴った声と共に、咄嗟に振り返った男へヒュンッと石のような物が飛んだ。

 慌てて男が、冬乃に向けていた脇差で払おうとし、

 

 冬乃は、脇差が離れた刹那に男から飛び離れて簪を引き抜いた。

 と同時に冬乃の前で、男が声の主の一撃を脇差を捨て大刀でかろうじて受け止め。

 

 キイインと火花の散るようなその幕開けを、

 

 飾った声の主は。

 なんと山野で。

 

 「新選組に単身で乗り込んでまで・・」

 

 すっと男から一旦離れ、山野がチャキリと正眼に構え直す。

 

 「牢破りさせたい仲間は誰だよっ・・と!」

 

 その台詞の終わりが山野の二度目の攻撃の瞬間だった。

 

 「うわああぁぁッ」

 勝負は、一瞬についた。


 男は斬りつけられた両腕から刀を取り落とし、地に膝をつく。

 

 平隊士達が急いで男の止血と捕縛を始める中、山野が冬乃を見やって、にっと微笑った。

 

 「俺、こう見えても強いの」


 もちろんのこと、そんな表情も常ながら美しい。


 「知ってます」

 

 冬乃は、これは助けてもらったうちに入ると次には気づいて、

 「ありがとうございました」

 頭を下げた。

 

 「さて、と」

 どこか照れたような声に、冬乃が顔を上げると、

 

 「俺から報告しとくから何で冬乃サンが捕まってたのか教えて」

 山野が、連絡に走る平隊士の一人を目で見送りつつ、そんな業務的な台詞を告げた。


 「屯所内を歩いてたらいきなり脇差を突き付けられました」

 

 「弟をッ・・弟を返せ!!」

 すっかりお縄にされた男が喚いた。

 

 「弟?」

 山野が男を向く。

 

 「そうだ!田道権右衛門だ!俺の弟はおまえらなんかに捕まるような事はしてない!!」

 

 「それはこれから調べれば判る事だ」

 山野が憤然と返すのへ、

 

 「拷問にかけて無理矢理ありもしないことを自白させるんだろうが!!」

 男は涙さえ浮かべて叫んだ。

 

 

 (この人、新選組を誤解してる・・)

 

 平成の世ではあってはならない拷問という仕組み、しかも冬乃も拷問されかけた身としては、男の抱く恐怖も理解できるものの。

 

 組はなにも捕らえた者を誰でもかれでも拷問にかけたりはしない。

 組にも体制側としての制限がある。

 

 

 組が拷問で問いただす時は、濃厚な嫌疑が存在しながらも証拠が薄い場合、

 または政治的活動なり破壊的活動なりの現行犯であったり、組の人間を襲ってきたような場合であり。

 

 いいかえれば、裁きの場に引き渡すために一時的に身柄を預かる立場の組が、必要以上に労力を割くことはない。

 

 

 「我らは国抜けしてきたが、お上にたてつくような事などしていないッ」

 男の訴えは続く。

 

 「この動乱に、何か我らにもできないかと居てもたってもいられずに京にやってきただけだ!!新選組にだって入れるなら入りたいと思っていたんだ!!それなのに・・ッ」

 

 (え?)

 「なんだって?」

 冬乃の心の声と山野の声が重なった。

 

 「いったい何を誤解されて弟が捕まったのかはしらんが弟は無実だ!!返してくれ!!」

 

 男に繋いだ縄を手に、左右の平隊士達が戸惑った顔を山野に向けた。

 

 

 「・・誤解があったなら、それも調べればわかるさ」

 一呼吸おいて山野は、男に宥めるような声を出した。

 

 「だが俺達だって意味もなくひっ捕らえたりしねえよ。あんたの弟は何か誤解されるだけの事をしたんだ」

 

 山野の言葉に男は一瞬歯を食いしばる。

 

 「それでも簡単に拷問などしない。あんたのこともだよ」

 

 はっと男が顔を上げた。

 そして、がくりと項垂れた。


 組に侵入してきて、冬乃を人質にとって騒ぎを起こしたのだ。男も弟同様、これから拘束されるのは当然だった。

 

 

 (・・・でも本当に誤解だったなら、早く解けるといいね・・)

 冬乃は溜息をついた。

 

 冬乃がひたすら胸に想うことは変わっていない。

 

 

 早く総司さんに逢いたい。

 

 

 


 まもなく人数がやってきて、男の腕の血が止まるまでは部屋のほうで監禁するのか、それぞれ男を囲うようにして縄を引くと屯所の中心へ向かっていった。

 

 「で、おまえはどこ行くつもりだったの」

 と山野が冬乃を向く。

 

 「俺これから報告に行かなきゃならないし、そこまで念のため送るよ」

 

 「いえ、さすがに屯所内ですし・・」

 「侵入されたってことは、安全じゃねえだろ今」

 

 「あ、安心してよ。俺もう女できたし」

 

 (ん?)

 

 返事を聞かずに歩き出した山野の背を見ながら、冬乃は瞠目した。

 安心、って。冬乃が躊躇したことで、送り狼だと疑われた・・とでも思ったのだろうか。


 なんにせよ、山野に恋人ができたならめでたい。

 というよりも元々激しくモテる山野だ、できるほうが当たり前なのだ。

 

 後ろについてきた冬乃を振り返って山野が、冬乃の横に並ぶように歩調を落とした。

 「どこに送ればいいの」

 「・・道場へお願いします」

 もはや冬乃は素直に返す。

 満足したように山野が微笑った。

 

 向けられたその可愛い笑顔は、だが確かに以前と雰囲気が違う。

 冬乃のことを、

 

 「おまえのこと本気で好きだった」

 

 その頃と。

 

 「・・知ってます」

 

 二度目の知ってますの返事を返しながら、冬乃は。

 もう山野が冬乃を振っきっていて、確かに今その恋人のことを好きなのだと、なんとなく感じ取れて。

 どこか安堵する想いのままに、

 

 「って、なんですか突然」

 山野を細目に見やる。


 山野が笑った。

 

 「いやさ、言っとくけど、これからは俺に惚れたって遅いからって言おうと思って」

 

 「大丈夫です、惚れません」

 

 あいかわらずこの手のやりとりは、この先も続くようだが。

 

 

 「あの隊士の方達が私を助けようとしてくださったのは有難いんですが・・」

 冬乃は仕方なく話題を変える。

 もとい気になっていた事だった。

 

 「あんなに簡単に牢の錠を開けようとしちゃって大丈夫なんでしょうか?」

 かりにも人質だった身でおかしな心配をしているかもしれないが、それでも組に関わる一人として、あれでは気がかりである。

 

 

 「そりゃ、自分の採った判断のせいで冬乃サマに何かあったら、生きた心地しねえし」

 

 「・・へ」

 

 冬乃サマ?

 

 間抜けた声を出してしまった冬乃を、山野が何故か呆れたように見つめてきた。

 「あいかわらず鈍感だな。わかんねえの」

 

 わからないって。

 眼で訴える冬乃に、山野が溜息をつく。

 

 「おまえが沖田さんの女だからだよ」

 

 

 (ええ!?)

 

 「そんなのっ・・」

 てか、そんな理由で?!

 

 「総・・沖田様が、もし私にあの場で何かあったって、それで隊士の方々を責めるわけが無いじゃないですか!」

 

 「そんな事は分かってるけど、こっちの気持ちの問題だよ」

 

 「・・・・」

 

 「わかったら、気をつけろよもっと」

 (う)

 

 どうやら叱られたらしい。

 気をつけろと言われても屯所内で刃物で襲われるとはまさか思わないから、と言い訳しそうになって冬乃は口を噤む。

 

 確かに、何があるか分からない時世。屯所の中だからと注意を怠っていた冬乃が悪いのだろう。

 

 

 しょんぼりした冬乃に。

 「まっ、何も無く済んだんだから良しって事よ」

 山野は少し慌てた声で、そんな慰めの言葉を紡いだ。

 

 「それはそうと、道場に何の用だよ」

 今度は山野が話題転換を図る。

 

 冬乃は顔を上げた。

 

 (総司さんに逢いたいからです・・)

 

 とは勿論、言えない。冬乃が仕事の休憩中に、沖田に逢いたい一心で屯所を歩いたら人質になった。なんていう恥ずかしい報告など断じて為されてはならない。

 

 「み、皆様の稽古を拝見して、学ばせてもらおうかと」

 

 「・・ふうん?」

 山野特有のツッコミが来ないかハラハラしておもわず目が泳いだ冬乃を、山野はじっと見てきた。

 「そういや沖田さんなら、道場にいないと思うけどな」

 言い添えて。

 

 (えっ)

 そうなの?!

 と山野を見返してしまった冬乃に、山野が次には噴き出した。

 「おまえ分かりやす・・!」

 

 ぐうの音も出ない。

 冬乃は仏頂面になって、顔を背ける。

 

 ミーーーンジジジッ

 通りかかった木の蝉にまでなんだか嗤われた。

 

 「たぶん藤堂さんと壬生じゃないかな」

 

 その言葉に、冬乃は驚いて再び山野を向く。

 

 「沖田さんや藤堂さんが八木さん家の子供と遊んでやってるのを、時々見かけるから」

 

 (・・・あ)

 そういえばその可能性があったではないか。まさか今日この残暑真っ盛りの中で、とは思いもしなかったけれど。

 

 それにしても。

 「壬生によく行かれるんですか?」

 時々見かけるほど山野も行っているのかと冬乃はつい首を傾げる。

 

 「まあな」

 美麗な顔が、またもニッと微笑った。

 「何を隠そう、俺、壬生にある茶屋の娘と恋仲だからさ」

 

 あ、なるほど。

 

 「しかし同じ女を好きでも、互いに友垣のままでいるなんて凄えよな」

 

 

 「・・・」

 山野のその台詞には、冬乃は押し黙るしかなかった。

 

 でもなぜ山野が藤堂の気持ちを知っているのだろうと思ってから、そういえば前に藤堂は江戸から帰京した時、皆の前で冬乃を抱き締めたのだったと思い出す。

 いや、冬乃に関するあの頃の山野の観察眼でなら、もっと前から気づかれていたのかもしれない。

 

 

 「ちょっと憧れるわ」

 ふうと山野は汗を払いながら溜息をついた。

 

 「俺も中村と同じ女を好きになったらなったで・・どっちに結果が転んでも、あいつとならうまくやっていけるもんなんかな。あんまし想像したくもねえけど」

 

 

 (・・藤堂様)

 

 『わかってたよ。元々、冬乃ちゃんは沖田のことしか見てないってさ』


 まだ覚えている。

 藤堂のその声。清々しいほど、明るい声音だった。

 

 『冬乃ちゃんが幸せだったら、俺はそれでいい』

 そう言ってくれた優しい笑顔も。

 

 冬乃は、一瞬きつく目を瞑った。

 

 あの明るい笑顔をどうしても失いたくない

 

 藤堂が冬乃の幸せを願ってくれるように、冬乃もまた、藤堂の幸せを願う気持ちに偽りはない。

 

 

 藤堂の運命へと、またも想いが向かっていることに次には気がついた冬乃は、慌てて思考を閉ざした。

 

 「沖田さんのためにも藤堂さんのためにも、おまえのこと潔く諦めた俺のためにもさ、頼むから気をつけてろよホント」

 

 少しぶっきらぼうな声で、今一度そんな念を押してきた山野に、

 

 「はい」

 冬乃は素直に答えて。

 「これからは気をつけます」

 深く頭を下げた。  

 

 

 

 

 

 取り調べによって男とその弟は、後日解放されたらしい。

 

 しかし容易に、でもなかったらしいが、なんにせよ外部の侵入をゆるした事態は、

 やはり問題になり。


 屯所の周囲の警備が強化されるとともに。

 

 

 冬乃には木刀が持たされた。

 

 これから屯所の中をゆくにしても冬乃はそれを持って歩き回ることになる。

 少々物騒な光景だろうが、致し方ない。

 

 

 「冬乃はん、それ何」

 

 厨房に近藤の部屋食を取りにきた冬乃を見た使用人たちが、皆一様に目を見開いたのも。

 「護身用です・・」

 致し方なく。

 

 「護身用って、冬乃はん剣術わかるん?」

 お孝が驚いたままの瞳で問いを投げてくる。

 

 「少しだけ心得ならあります」

 微妙に濁した回答をする冬乃に、

 

 「そないもん振り回したかて、侍に勝てるわけないやろ。まさかと思うけど闘おうなんて考えてんと、逃げられるんやったらとっとと逃げなあかんで」

 先日の事件を聞いて知っている茂吉が、心配そうに忠告してくれた。

 

 「ハイ」

 冬乃は素直に頷く。

 

 冬乃の剣術を茂吉が知らないことを差し引いても、真剣に木刀では分が悪いことには違いない。

 

 だが長脇差や匕首などの真剣を持ち歩くことには、なんと沖田が反対した。

 

 

 冬乃の剣は、人体の急所を狙わない。

 つまり殺さない剣、であって。

 

 冬乃には人を殺す覚悟など、勿論無く。そして沖田のほうも、冬乃にそれを背負わせる気など無い。

 これまでのように近藤や沖田が傍にいて護れる時ならばいい、

 

 だが冬乃が一人でいる時に、その間合いの不利に加えて急所を外した闘いをするのでは、危険すぎるのだと。

 

 

 (言われてみればそのとおりなんだよね・・)

 今まで無事だったからといって、これからも上手くいくとは限らないのだ。

 

 逆に木刀であれば、間合いの不利もなくなる上、冬乃も気兼ねなく相手の急所に叩きこめる。いや、多少の手加減は要するものの。

 

 そして冬乃に宛がわれた木刀は、竹刀よりは若干重い程度で、長脇差にも慣れた今の冬乃になら十分に扱える軽量の物。

 あとは木刀を損なわないよう気をつけさえすれば、隊士の応援が来るまでの時間稼ぎがずっと見込めるのだ。

 

 尤も、茂吉にも言われたように、逃げることができそうならそれが最優先と、沖田にも散々言い含められている。

 


 ちなみに木刀は片手持ちしている。

 

 腰に差すことも考えたけれど、毎日男装できるだけの数の服は無いし、

 かといって女の恰好のままで木刀を帯刀して歩いていては、侵入者の目にかえって悪目立ちしすぎるきらいがあると、冬乃は諦めた。

 手に持っているだけならまだ、人から預かって一時的に持ち運んでいるあたりになんとか思われるはずだと。

 

 

 片手が木刀で塞がっているのでもう片方の手だけで膳を持ちながら冬乃は、手伝おうかと聞いてくれた茂吉達に大丈夫ですと会釈をして厨房を出た。

 

 右手に昼御膳、左手には木刀、の女中。

 侵入者じゃなくても誰の目から見たって変な構図だが。

 冬乃はあまり考えないようにして、足元に注意しながら歩を進める。

 

 

 まさか警備を強化したばかりで再度侵入者に遭遇するとは思えないけども、万一遭遇してしまったら冬乃は御膳を投げ捨ててでもまずは逃げなくてはならない。

 難儀である。

 

 (そんなもったいないことしたくないから、侵入者ぜったい来ないで)

 念じながら冬乃は、可能な限り足早に歩いた。

 

 

 「・・・冬乃さん?」

 

 遭遇したのは。

 

 千代だった。

 

 

 「こ。こんにちは、お千代さん」

 ぴたりと立ち止まった冬乃に、千代が小首を傾げる。

 「その木刀、どうしましたの」

 

 「護身用・・です」

 

 おもえば千代は何度も屯所に来ているおかげで、門番と顔見知りになっている。警備強化後もあっさり入ってこれたのだろう。

 

 「護身用って・・屯所よ?」

 当然、そんなふうに簡単に通された千代からすれば、屯所内外で厳重警備中とは露ほどにも思うまい。

 「じつは先日、外部の侵入者が出て・・」

 人質になったと言うと千代のことだから心配してしまうだろう。冬乃は適当に語尾を伸ばした。

 

 「まあ大変」

 

 驚いた声で、どうかお気をつけていてと眉尻を下げた千代は、それでもまだ少し不思議そうに目を瞬かせて。

 

 「でも冬乃さん、剣術をなさるの?」

 

 やはり尤もな質問が来た。

 

 「少しだけ・・たしなむ程度です」

 茂吉達に答えたような返事で苦笑いを隠す冬乃に、

 

 「冬乃さんってほんとうに多才でいらっしゃるのね・・!」

 

 なぜか感動し出した千代の、キラキラ輝く視線が向かってきた。

 

 (た、)

 多才?

 

 「それをいうなら、看護の仕事もお医者さんの仕事もできるお千代さんのほうがずっと多才です」

 「冬乃さんにだってきっとできることよ」

 「いえいえ無理ですって!」

 

 首をぶるぶる振った冬乃に、千代が乗り出した。

 「いいえ、蘭学書をお読みになれるくらいですもの、冬乃さんならできますわ!」

 

 「・・って、」

 乗り出したことで千代が、冬乃の手の膳を見下ろす姿勢になって。膳に改めて気がついたらしい。

 「御膳を運んでらっしゃるってことは、・・近藤局長様の?」

 

 姿勢を戻した千代の、その問いに冬乃のほうは頷いてみせる。

 「まだお仕事が終わらないからと、ご所望されました」

 「ごめんなさい、こんな所で立ち話してたら冷めちゃうわよね。歩きながらでもいいかしら、」

 言うなり千代が早くも歩み出した。

 

 冬乃も続く。

 横に並んだ千代が、冬乃ににっこり微笑んだ。

 「まずはこのとおり、おかげさまで風邪は治りました。あのとき来ていただいたのに今までずっと伺えなくてごめんなさい・・」

 

 「なんて、じつは未だちょっと咳だけ長引いてはいるのだけど」

 (・・え)

 

 なんでもないことのように参ったわと微笑っている千代を目に、冬乃は背に奔った悪寒に震えた。

 冬乃が未来に帰っていた二か月近くも、咳が続いていることになる。

 

 (それって)

 

 「やだわ、そんな顔しないで。大丈夫よ、このところお昼はほとんど咳もなくて調子がいいの」

 「でも熱とかは・・」

 「いいえ、ないと思うわ」

 「倦怠感はありますか」

 「暑いから、それはいつもよ」

 なんだか問診されてるみたい、

 と千代が微笑う。

 

 「・・・血痰はでますか?」

 

 

 千代が、真顔になった。

 

 「・・もしかして、労咳と疑ってらっしゃるの・・?」

 

 

 

 (お千代さん・・)


 これは千代が選んだ道であり。

 冬乃はただ受け止めなくてはならない。

 

 もっと遡れば、千代の魂が、そんな己の道から愛する存在を引き離すために。冬乃を呼んだ。

 

 

 だから・・・

 

 

 「いえ。風邪が長引いてるだけかもしれないですし、滋養のあるものをたくさん摂って、少しでも休んでください・・無理をしないで」

 

 「冬乃さん」

 「すみません、変なこと聞いたりして。労咳かどうかは、私なんかよりお千代さんご自身のほうが分かるのに」

 

 

 千代が立ち止まった。

 

 「・・血痰ってほどじゃないの。咳のしすぎで喉が切れやすくなっているせいだと思うわ」

 

 

 (やっぱり血が混じっているんですね・・)

 

 内心に一気に絶望感が拡がっても、

 

 「じゃあ大丈夫ですね」

 

 冬乃は微笑んでみせた。


 きっと、うまく微笑むことができているだろう。

 千代の瞳が少し揺れて、冬乃は咄嗟に目を逸らした、ことをごまかすために歩みを再開した。

 

 

 (・・私は)

 

 千代から、引き継いだ者として。

 

 (私にできることをする)

 

 

 覚悟ならば、もう。

 

 

 「あの・・もしまたこれから熱をぶり返したりしたら使いを寄こしてください、すぐ飛んでいきますから」

 

 千代が冬乃の斜め後ろで数度小さく咳をした音を、冬乃はやりすごした。

 

 「じつは、病気のときの体の辛さを楽にする薬を持ってるんです。蘭方の薬なのですが」

 

 「今、何て?」

 聞き間違えかと驚愕するような声が追ってきて、冬乃は、そのまま再び横まで並んだ彼女を向く。

 

 「私の実家は変わってる・・ってもう御存知ですよね」

 冬乃は上手く伝えられるか分からないまま、言葉を探した。

 「よく珍しい物を長崎まで行って買ってくるんです」

 

 「・・・・」

 

 狐につままれたような顔になっている千代を、冬乃は見つめ返した。

 「よく効くらしくて、先日実家から大量に送ってきました。夏風邪でもひいたら辛いときは使えーって」

 

 「あまりに大量なんです。余らせていても仕方ないですし、ね」

 

 「・・・すごいわ。長崎まで・・」

 「はい。我ながら変な家族です」

 二人の前を横断するニワトリを避けながら、冬乃は苦笑してみせる。

 こんな話で通じていいのか分からないが、素直に千代が感嘆しているところを見るかぎり、無事受け入れられたのだろう。

 

 「お千代さんは風邪が治ったことを伝えに今日はわざわざ来てくださったのですか?」

 

 適当なところで話を変えてみた冬乃に、千代ははっと長い睫毛を瞬いた。

 

 「ええ。それと、お誘いに伺ったの」

 千代がそのままふわりと微笑む。冬乃はその笑顔を前に、胸奥を刺したままの悲しみを押しやり、

 「お誘い?」と首を傾げてみせた。

 

 「ええ先日ね、酒井様からまた御土産をいただいて、」

 千代が両手で大きく円を描き、こんなに一杯、と表現する。

 「酒井様が御友人にも、と仰ってくださってたから、もしよろしければ冬乃さんもいかが?」

 

 「あ」と千代が付け足した。

 「山菜よ。一足先に秋の味覚」

 

 「わあ・・っ」

 歓声をあげてしまった冬乃は、すぐ恥ずかしくなって口を噤む。

 「ね、素敵でしょ?」

 そんな冬乃をにこにこと千代が覗き込んできて。

 「でね、母と私で腕によりをかけてお料理するから、ご都合の良い日をいくつか教えてほしいの。酒井様もお呼びしたいと思ってて、日程の調整をさせていただくわ」

 「そんな・・いいのでしょうか」

 「だからお誘いしてるんですもの」

 

 冬乃は、もう喜んで受けることにした。

 

 (ええと、こういう時って何て言うんだっけ)

 ごしょうなんとかだったような。

 冬乃は唸りながら、その敬語が浮かばずじまいだったので、「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。

 

 「ふふ、楽しみだわ」

 千代が明るい声をあげる。

 「沖田様もご都合があえばお誘いしていいかしら。酒井様がお久しぶりに沖田様にお会いしたいって、先日仰ってたの」

 (あ・・)

 

 冬乃は顔を上げた。

 きっと千代と沖田が恋仲であったなら、沖田はこうして酒井とも、もっと交流があったはずなのだろう。

 

 「はい、声をおかけしてみます」

 冬乃は見えてきた幹部棟を眺め、ふと今なら沖田が居るのではないかと思い出す。

 「たぶん今いらっしゃいます、これから聞いてみましょう」

 「まあ、よかった!」

 千代の鈴声が返った。

 

 

 

 

 沖田と冬乃の予定を千代が持ち帰って後日、連絡を寄越してくれることになり。

 昼番に出る沖田と別れ、冬乃は今度は空になった近藤の膳を手に、千代を門まで送ってから、引き返す道中いまや雲ひとつない空を大きく仰いだ。

 

 千代の小さな後ろ背を見送っているとき零れそうになった涙は、近くに居る門番の手前、懸命に耐えた。

 この先、千代が少しずつ病魔に蝕まれてゆく姿を冬乃はただ見ていることしかできない。運命を知っていながら非力なままの己が、恨めしかった。

 

 

 これからは、だが千代だけではない、

 藤堂も、井上も山崎も、近藤も原田も、

 そして最後に沖田も。冬乃は、彼らの死を見届け見送らなくてはならないのだから、

 

 (強く、いなきゃ)

 

 見上げている空が滲んで、冬乃は唇を噛み締めた。

 

 (大丈夫・・・)

 覚悟ならできてる

 

 

 (そうでしょ・・?)

 

 だから大丈夫と、心に繰り返し言い聞かせる。頬を伝い落ちた涙を払い、冬乃は再び歩き始めた。

 

 

 

 


 






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