二十一. 再逢の契り③




 


 庭園に面した離れの部屋を得たとはいえ、石畳みを十歩も行かない距離にある本館とは、塀などで区切られているわけでもない。

 

 旅先の解放感も伴ってか早くも自制を解き放ってしまった冬乃が、途中から手ぬぐいで猿轡をされるはめになった昨夜を、

 朝に目覚めて途中まで思い出しながらつい叫びそうになったところで、

 

 沖田が起きていたのか起き出したのか、顔を伏せている冬乃の前で大きく動いた。動いたのは今の冬乃の狭い視界では例によって逞しい胸板だけだが。

 

 (し、鎮まって心臓・・!)

 

 冬乃の胸のほうでは例によって鼓動がやかましい。

 

 つと。いつかのように髪を梳かれる感覚を受けた。

 

 (・・あ)

 その手は、そして穏やかに冬乃の後頭部を撫でながら、ひどく優しい手つきで再び髪を攫ってゆく。

 

 さらさらと彼の指の間を零れ落ちるさまを。冬乃はきゅっと目を瞑りながら想像した。

 

 いつまでも顔を上げない冬乃が現在たぬき寝いり中なのを、

 当然気づかれていることも。

 

 

 

 「おはよう、冬乃だぬき」

 

 (や、やっぱり・・!)

 

 「どこまですると目覚めるかな」

 

 いつかに聞いた台詞に、冬乃は観念して身構えた。

 

 また来るであろう、くすぐり攻撃に対し。

 

 

 

 なのに。

 

 

 

 

 「っ…、…ッ」

 

 冬乃のうなじから、常の如くいつのまにか着せられていた寝衣の、奥へとすべりこんだ温かな手は、つうと冬乃の背中をなぞり上げ、

 

 息を呑んだ冬乃の、うなじまで戻ってきてするりと片の肩先から寝衣を落としてしまうと、

 冬乃をうつ伏せにさせ。

 

 露わになった側の首すじから背へと、器用な舌遣いが下りはじめた頃には、冬乃は漏れそうになる声を必死に布団で止めていた。

 

 冬乃の左右に腕を突いて冬乃に覆い被さっているであろう沖田のほうは、勿論まだ着衣のままで、それでもゆったりと着られているのか沖田の動きに合わせてその着物は、冬乃の裸の背を擽るように掠ってゆく、

 

 「…ふ、…ん…っ…」

 その刺激さえ。沖田の舌先の愛撫で敏感になった冬乃の肌には、酷で。

 

 時折、沖田の太い指先が冬乃の下に潜って、胸の頂から喉元まで撫で上がってきては、

 布団に片頬を押しつけ乱れだす息をつむぐ冬乃の、唇をなぞり、歯列を割って、口内へと侵入し冬乃の逃げまどう舌を揶揄い、

 

 ふたたび下ってその濡れた指先で、冬乃の頂を擽る。

 もう、

 「…ぁ…あぁ…」

 しまいに冬乃はそのたびに啼きだして。

 

 「随分と可愛い声で鳴くたぬきだね」

 沖田なら、

 「それとも寝言かな」

 完全に愉しんでいるというに。

 

 冬乃のほうは、昨夜の反省で声を押し殺そうと必死で。

 

 (総司・・さ・・っ)

 「んン…ッ」

 

 こうなったら負けまい。冬乃は懸命な抵抗を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 結果は。

 

 (惨敗・・・)

 

 

 はぁ、と幸せの溜息をついた冬乃の後ろで、くすりと沖田の笑う息遣いがした。

 

 「何。その艶っぽい溜息は」

 

 いま今朝のひとときと同じように背後から抱き包められている冬乃は、

 沖田に聞こえるほど思い出し笑いならぬ思い出し溜息をしてしまったことに、慌てて首を振る。

 

 尤も目下に広がるは、荘厳な赤と黄の紅葉吹雪に、太い霧の滝。

 

 川音を頼りに渓谷を見下ろす此の場所までやってきたふたりを邪魔する者はやはりおらず、昨日のように再びふたりじめな絶景を堪能しているさなか。

 

 

 此処へ辿り着くまでも冬乃は、足場の悪い所や坂道の続く時などにはその都度なんと沖田におぶられてきて、もうあいかわらずの幸せの絶頂に浸り、抜け出せていないまま。

 

 「・・ほんと、かなわないです」

 

 ぼそりとついに冬乃は零した。

 

 「総司さんには何から何まで」

 

 

 沖田が微笑った振動を冬乃は背に感じて、同時に冬乃を抱き包める腕の力がそっと増すのも感じた。

 

 「俺もだよ」

 

 何度も繰り返されたそんな返事に、冬乃ははっと背後を見上げる。

 

 「俺も冬乃にはかなわない。己で己に呆れるくらいに」

 

 「うそ・・そんなの」

 見上げた先、一瞬息を忘れたほど優しさと愛しさを湛えた眼に、吸いこまれそうになりながら冬乃はむりやり声を圧し出す。

 

 「嘘ではないよ、」

 ふっと今度は沖田が溜息をついた。

 「今朝も冬乃にはかなわないと思ったばかりだ」

 苦笑しながら言い足す沖田を冬乃はもはや茫然と見つめ。

 

 「・・でも、だって、」

 

 惨敗だったのに。

 冬乃は胸内で呟く。

 

 どうがんばったって、沖田の深い愛情表現をまえにして溺れずに留まれるはずもないのだ。

 

 ちょうど、あの滝壺の水のように底へ底へと。引きずり込まれてゆくように。

 

 それはまるで、

 

 

 「底無しのよう」


 「え」

 どきりと冬乃は瞳を見開いた。

 

 「冬乃を想うと」

 沖田の両の手が優しく冬乃の肩を支え、冬乃の体を向き合わせた。

 

 「この世に未練をおぼえる程。貴女だけは俺をこんなふうに変えてしまえる」

 

 (総司さん・・)

 

 近距離でまっすぐ見つめ合う状態になって冬乃は、いつもならば恥ずかしさで目を逸らしてしまうのに、今はその言われたばかりの台詞に、視線も心の臓も深く掴まれたように身動きひとつできなかった。

 

 

 紅葉を舞わせる風に、さらさらと冬乃の髪だけが揺れ流れる。

 

 その髪をそっと沖田の手が動き、梳いた。今朝のように、それは穏やかに愛情に満ちて。

 

 沖田を見つめたままでうっとりとすこし目を細めた冬乃の、前で沖田が懐から何かを取り出した。

 

 「これを受け取ってほしい」

 

 (え・・?)


 差し出された物は、美しい装飾にふちどられた櫛。

 

 (・・たしか・・これって・・・)

 

 高鳴る音を胸に、冬乃は再び櫛から沖田へ視線を戻す。


 変わらず冬乃の心奥まで掴んでしまうその眼差しが、強く深く冬乃を見つめ返し。微笑んだ。

 

 

 「めおとになろう、冬乃」

 

 

 赤紅や黄金、色とりどりの光を煌めかせ、風がまるで祝福を唄うようにふたりを包みこんだ。

 返事のことばよりも先に、冬乃の瞳には涙が溢れ出て。

 

 

 冬乃の頬を零れ落ちた涙をそっと沖田の指先がぬぐった。

 

 「以前に話したように、然るべき時が来るまでは、内縁の形ではあるが」


 冬乃はなお溢れる涙もいとわずまっすぐに沖田の優しい眼を見つめていた。

 

 「俺の妻になってほしい」


 「は・・い・・・」

 

 冬乃はそして声をつまらせながら、やっと喉奥から声を押し出した。

 と同時に、冬乃の体は抱き寄せられ。

 優しく撫でられた冬乃の後頭部から、沖田の手のぬくもりが移動して、簪の横に櫛が挿しこまれるのを感じた。

 

 櫛は、

 この時代、未来での指輪のように、プロポーズの際に贈られる物であることを冬乃は思い出していて。

 

 「ありがと・・ござい、ます」

 胸がいっぱいで今なお声がうまく出せないまま、冬乃は目の前の沖田の襟を握り締めた。

 

 (総司さんと・・)

 

 夫婦に

 

 その契りが、どれほど冬乃そして冬乃の魂にとって、大切な意味をもつかを、

 沖田ならきっとわかっているだろう。いくら冬乃と千代のことを知らなくても。

 

 「生まれかわっても、」

 

 夫婦は二世

 それを教えてくれたのは、ほかならぬ沖田なのだから。

 

 

 「俺と冬乃としてではなくなっても。必ず、また一緒になろう」

 

 (あ・・・)

 

 

 互いの魂の

 

 再逢の契りを。

 

 

 「総司さ・・ん」

 

 胸奥が締めつけられ、苦しさにも似たその痛みに冬乃は、小さく震えた息を圧し出した。

 

 (このことば、前にも・・・)

 

 でも、そんなはずは。沖田の胸元に顔をうずめながら冬乃は懸命に思い廻らす。

 

 生まれかわっても一緒になろう、そう言ってもらえたのは、どんなに思い返しても今日が初めてだ。

 

 なのに。

 

 『俺と・・・としてではなくなっても。必ず、また一緒になろう』


 ひどく懐かしい、

 その響きは。

 

 そして、ひどく胸を締めつけるそのことばは。

 

 (なら、きっと・・・)

 

 

 千代の。

 

 この魂の、記憶。

 

 

 冬乃は、再び溢れてきた涙を隠すため沖田に額を押し付けて俯いた。



 (総司さん、どうして・・・?)

 

 千代と誓ったはずの、魂の再逢。

 

 それなのに沖田は次の世で千代を残してどこへ行ってしまったのか。そして、

 もしも本当に、冬乃が感じ始めているように統真が沖田の生まれかわりなら、冬乃はいつかは統真に惹かれる時がくるとでもいうのだろうか。

 今はこんなにも、まさに魂ごと、統真ではなく沖田に囚われたままだというのに・・・?



 「前に夫婦は二世の話をしたね、」

 

 櫛を添えた冬乃の髪が静かに撫でられる。

 

 「俺は二の世があるならその先の世もありえると思っている・・・または、もっと、」

 

 さわさわとふたりを包む風が鳴っている。

 沖田は一瞬強く冬乃を抱き締めると、そっと離した。

 冬乃は慌てて睫毛を瞬かせ、うっすら残っていた涙を払う。

 

 「・・やはり似合ってる」

 櫛を髪に添えている冬乃を見下ろし、沖田が満足そうに微笑んだ。

 

 

 (・・え・・・?)


 彼は今、何か言いかけなかったか。


 「だがちょっと重いか。早くも落ちてきてる」

 「え・・あ」

 

 冬乃は慌てて髪に手を遣った。確かにその場は簪ひとつ分を支えるための髪しか束ねていない。

 冬乃は周りからもう一巻き分の髪を手早く取って、挿してくれた櫛の周りへ巻き付けて支えを強化してみる。

 

 沖田が感心したようにその様子を見届けると、冬乃の頭上に口づけた。

 再び冬乃の体は抱き寄せられ。

 

 「冬乃」

 

 力強く硬い腕にもたらされる深い安息のなかで、頬に直に伝わる大好きなその呼び声、

 

 いま確かに冬乃を包みこむ沖田の肉体の存在を感じながら、冬乃は、そっと瞼を閉じた。

 

 (二の世があるならその先も)

 

 その通りで。冬乃は千代の次の世の、そのさらに次の世での生まれかわり。

 “夫婦は二世” を超えた、何かが、次の世ののちも縁を途切れさすことなく互いの魂を繋いだのだ。

 

 (だけど)

 

 何度生まれかわってでも、貴方を見つけ出せたなら

 

 そう祈ってしまう。冬乃は、冬乃と沖田として、何度でも出逢いたいのにと。

 

 輪廻のさだめがそれを許すはずもない事、

 沖田が、だからこそ冬乃と沖田としてではなくなってもと、そういう言い方をした事も冬乃には理解できても。

 

 

 肉体をもつ人の世に今この瞬間を生きている冬乃にとって、求める存在はどうしても統真ではない、いま冬乃をあたたかく包み込んでくれる目の前の沖田。

 

 その想いはいつかは変わるのか、今は想像もできない。

 肉体を離れたとき、

 人の世から離れたとき。そのとき冬乃が魂そのものに戻ってなにかを祈ることが叶うなら、

 その祈りは違うものとなるのだろうか。

 

 いまこうして冬乃であること沖田であることに囚われているのは、只々人の世に生きている“最中” だからなのか。

 

 

 

 何度も想ったではないか。

 互いの肉体が最後の障壁なのだと。

 

 やっと出逢えたのに、未だ魂と魂の、最後の距離がもどかしいほどに感じられて、

 

 きっとだからこそ求めてしまうのだと。

 肉体に囚われるこんな人の世で叶う、互いが最も近づけるひとときを。

 

 

 だったら、互いの肉体が無ければ。

 

 

 (・・・総司さん)

 沖田の温かな胸に、冬乃は頬を押しつけた。

 

 いまの冬乃にとってはどうしても失いたくないこの温もりは、互いがその肉体の中に存在する間だけのことではないか。

 

 互いが、であって。たとえば冬乃が今の瞬間に死んでしまうなら、それでも冬乃は、彼のこの温もりを失いたくないと思うだろうか。

 

 思わないだろう。

 いつのときも、その祈りは互いがどちらも欠けずに生きているからこそのもの。


 生きていてほしい、温もりを失いたくないという想いは、あくまで生きている冬乃自身のための祈り。

 互いの肉体がこの世に存在して初めて成り立つ希求。


 冬乃は冬乃自身のために、沖田に死んでほしくない、とは願っても、

 沖田のために願うことは、死んでほしくないとは少し違うのだから。冬乃が沖田のために願うことは唯ひとつ、彼の幸せであり、苦しんでほしくない、それだけ。生きるも死ぬも。

 彼が苦しまないで済むのなら、それさえ叶うのなら、そこに生きていてほしいかどうかは関わらない。

 

 きっとその場になったらまた咄嗟に、この身を盾にでも何にでもして、彼を死から護ろうとしてしまう自分がいても、


 それでも。

 冬乃の真に望むものは、彼の肉体の存続そのものではなく、

 只々、彼が苦しまない事、幸せでいる事で。

 

 冬乃が肉体をもって生きているうちは未だ、こんなにも彼の温もりを欲しながら、そしてそれが己の勝手な望みであることを自覚していながらも。

 

 

 (だから)

 いま冬乃がこうして、沖田の温もりを欲することが、互いの肉体の在る間だけの望みならば、

 

 冬乃の本当に求めていることはきっと、

 再び冬乃と沖田として肉体を得て巡り合う事でも、再び人の世に生まれかわって冬乃と統真として再逢する事でもない、

 

 もう、

 

 (生まれかわりたくない)

 

 

 何処の世にも行かず、唯ずっと永劫に魂でそばにいたい。

 

 

 “もう離れたくない”

 

 千代の魂の声を聞いた気がした、あのときの想いは。

 

 そういう意味だったのではないか。

 

 

 

 

 

 「・・冬乃?」

 心配そうに冬乃の両肩を支え覗き込んできた沖田に、冬乃は慌てて首を振った。

 

 「ただ、あまりに嬉しくて・・、」

 

 悲しい

 

 そんなどうしようもない感情の渦に圧され。冬乃は今一度沖田の胸へ頬を擦り寄せた。

 

 その時が来たら、この命を絶って今度こそ

 貴方を追いかけては、だめですか

 

 

 胸内に淀み続けるその想いごと、

 冬乃は目を瞑った。


 

 

 

 

 

 夕の橙光に優しく背を押されるように、ふたりは山道を下ってゆく。

 

 尤も殆ど沖田におぶられてばかりの冬乃は、いまも沖田のがっしりした背のぬくもりに、ひとりうっとりと身を凭せ掛けているのだけども。

 

 

 途中、小川に寄って、きらきら煌めく冷たい水を両手にすくって飲んだ。

 このままずっと、こうしてふたりきりでいられたらいいのになんて、冬乃は飲み終わって横で水面の魚を目に追っている沖田をそっと見上げたりして。

 

 そのとき沖田はちらりと冬乃の視線に微笑み返すと、「遅い昼飯だが食べていこう」と言った。

 

 「え?」

 驚く冬乃の前、沖田が突然、手を伸ばし水面を掠め取った。

 その大きな手の内では、何が起こったのか分からなかった様子で一瞬制止した小魚が、次にはパタパタと尾をはためかせ始めて。

 

 沖田は魚を手に立ち上がり、その辺に落ちていた細木の枝で魚を串刺して絶命させると、砂利にその枝を刺した。

 彼は拾い上げた数本の小枝を手に、冬乃の横に戻ってきて再び水面を見やり。

 

 冬乃がすぐに目を瞬かせたのも当然で、沖田の手はそれからまたあっという間に二匹目、三匹目と小魚たちを口から尾までの串刺しで捕らえていき。

 

 水に入ることなく下手に濡れることもなく。小魚が水面近くまで昇ってきた一瞬の隙を狙い捕らえる手際の良さに、驚きながら冬乃は、

 そののち沖田によってやはり手際よく熾された火でこんがり焼いた、獲れたての新鮮な魚を有難く堪能し。

 

 

 (美味しかったなあ・・)

 冬乃は沖田の背に頬を寄せながら、頂いた命へと今一度心で感謝する。

 

 ちなみに沖田が魚を捕っている間、魚の匂いにつられたのか、なんと熊が二匹ひょこんと川の向こう側に顔を出したのだが、それに気づいて目を丸くする冬乃に、沖田が魚を捕る手を止めぬまま「心配しないでいい」と微笑ったことも、

 思い出しながら冬乃は小さく息をつく。

 

 おもえばこれまでもきっと、冬乃が気づかなかっただけで色々な野生の動物たちが周囲をうろついていたに違いない。

 冬乃たちは行きも帰りも、人が普段全く入らないような獣道を来ているのだから。

 

 沖田がいるから冬乃は少しも恐怖を感じないでいるが、これが独りならどうなるか定かではない。

 

 動物は人よりずっと敏感だろう。きっと冬乃には感知できなくても、沖田の常に纏い放つ気が、野生動物を警戒させ、近寄らせないでいるだろうことは。冬乃にも想像できて。

 

 

 「寒くない?」

 

 つと頬を伝う温かな声が冬乃に届いた。

 

 「はい・・!」

 ぴたりと頬をつけたまま冬乃は答える。

 

 「もう少しで里だ」

 

 「はい・・」

 今度は残念そうな声が出てしまった。

 

 そのあからさまな声音の変化に沖田が微笑ったのを、冬乃は頬から感じた。

 今回はさすがに心の内をよまれても仕方ないだろう。

 

 「宿に帰ればまたふたりきりだから」

 

 やはりよまれていたけれど、嬉しいその言葉に。冬乃は、そしてもう一度「はい」と明るい声で答えた。

 

 

 


 

 

 

 これって新婚旅行状態・・?!

 

 

 冬乃が漸くそう気がついたのは、戻った旅籠で着替えを手に温泉口へ着いた頃のこと。

 

 昨日と違い今日は誰もいない女性用脱衣所で、沖田に付けてもらった櫛をそっと外して胸に抱く。

 

 ついに冬乃は沖田と夫婦になったのだ。

 未だ実感が追いつかないままに、冬乃は蕩けた心でぎゅっと櫛を握り締める。

 

 (付けて入っちゃだめかな・・?)

 

 肌身離さずにいたい。

 未来での結婚指輪のように。

 

 (付けてよう。)

 

 あっさり決めてしまって、冬乃は外したばかりの櫛をまた元通り挿すと、一度裸になった上に羽織った入泉用の浴衣一枚の姿で、脱衣所を出た。

 

 流れてくる湯気の霧の中、石畳を歩む。この露天の温泉は完全に自然のままで、文字通りに湧き出でる温かな泉。

 熱めだが晩秋にはちょうどいい水温で、硫黄の臭いが殆どしないのも特徴的だった。


 そして、男女混浴になっており。広い泉とはいえ、湧き出でている所はこの温泉町で此処だけなので当然といえば当然である。

 昨日も沖田と隣合わせて、というよりほぼ彼に抱きかかえられた姿勢で、二人して茹でダコになるまで浸かっていた。

 

 もちろん他の湯治客のほうが恥ずかしそうに視線を逸らしていたのも、いつもどおりである。

 

 

 (あ・・)

 

 温泉の手前で待ち合わせた場所に、同じく浴衣姿で沖田が立っていて、冬乃はどきどきと胸を高鳴らせて歩み寄った。

 

 あいかわらず冬乃は、何度彼を見てもそのたび惚れ惚れしてしまう心持ちを日々更新し続けている。

 

 今は二人が降りてきた山の向こうへと日が隠れたばかりの時分、

 観光客は恐らくとうに各々の旅籠へ戻っているのだろう、沖田の背後、湯気に包まれた泉に目を凝らして見渡してみても、人の気配は無く。

 

 (ここでもふたりきり・・!?)

 

 嬉しさに冬乃の舞い上がった心拍は、まだとうぶん収まりそうにない。

 

 

 

 

 脱衣所の小屋から向かってくる冬乃を見ながら、沖田はすでに疼き出した情欲に、自身で苦笑せざるをえなかった。

 

 まもなく目の前まで来た冬乃が、温泉をじっと見つめている。


 少し離れた場所に一つだけ置かれる篝火は、広い泉の隅々まで照らす力は無く。

 それでも他に人がいないことは分かったのだろう、大輪の花が咲くように嬉しそうな笑顔になった可愛い新妻を前に。

 沖田が、疼くその情をわざわざ抑える努力など当然、不要で。

 

 昨日は日の落ちる前でなにより女性客も他にいたので、おとなしくしていたが。

 

 「今日は、」

 櫛ごと冬乃の頭をひと撫でし、沖田は冬乃の腰をぐいと引き寄せた。

 

 「湯の中で何かすると思うが」

 いきなり初めから宣言しておく。

 

 冬乃がびっくりした顔で、と思いきや、すぐに、どこか期待済みな表情をくゆらせて沖田を見上げてきた。

 

 何か、が何なのか。きちんと理解できるまでになっているらしい冬乃に、沖田は内心笑ってしまいながら、

 

 「覚悟はいい?」

 

 いつかの台詞で、戯れに聞いてみれば。

 

 恥じらいながらも艶をおびた瞳が、大きく見開き。長い睫毛が、そっと頷くように、伏せられた。

 

 

 

 

 

 覚悟、したのに。

 

 ふたりの姿は湯気の目隠しに、冬乃の息遣いは風の音に、隠れて、

 「ぁ…ンン…っ…」

 それでも尚、辺りに零れゆく艶やかな調べには、

 「・・冬乃」

 覚悟がたりていないと、示されるかのように。幾度も、沖田に手で唇で、交互に口元を覆われては立ちのぼる情感に身の芯を震わせて、

 冬乃は。

 

 懸命に、耐えていた。施されるすべてに、

 もうなけなしの理性なんて解放してしまいそうになりながら、

 

 この露天で、いつ誰が来てもおかしくないなかで。

 

 「冬乃の覚悟が」

 

 いじわるな愛しい人なら、

 

 「どこまで、もつか」

 「んんっ…!」

 

 もちろん、愉しんでいて。

 

 「え、そこ、はだめぇ…っん…やぁあ…!」

 

 ついには悲鳴さながらの声をあげる冬乃を、

 

 「全然、覚悟がたりないね」

 わざとらしい溜息とその台詞とはうらはらに、ひどく愛しげに抱き包める沖田の、

 

 数えきれないほどの何度目かの口づけとともに。

 

 冬乃の身の奥をひときわ深い快感が奔り抜けた。

 

 

 

 

 時おりの風以外には、

 ふたりの息遣いだけが、湯気を揺らして、

 

 湯の中で秘められた抱擁を知るものはいま泉を囲う木々と天上の月だけ。

 

 ちゃぷちゃぷと跳ねる湯の音も、冬乃の耳には届かず、只々夢中で冬乃は目の前の沖田の首に腕を絡めて、

 幾度も閉じそうになっては見上げる瞳に、彼の優しく強く熱の籠った眼ざしを映す。

 

 

 「総司さ…ん」

 

 身も心もすべてが、愛する存在で満たされて、

 他に何も考えられなくなって、

 

 このときだけは。


 冬乃の望む本当の、ふたりきりの世界になる。

 

 

 だから。

 

 

 「ずっと…こう…してて…」

 

 冬乃は吐息の狭間に、そんな願いを囁いて、

 沖田の汗に光る首元へ唇を寄せた。

 

 

 「・・二人して、のぼせて帰りそうだ」

 

 くすりと微笑う返事が、冬乃の耳元に落とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まさに、のぼせ同然で帰った二人は。

 

 遅めの夕餉が部屋に運ばれる間に大量の水を消費したのち、

 

 「口開けて」

 こんな後には、いつものごとき体勢で。

 食事を開始した。

 

 いわずもがな、力の入らない冬乃を沖田が抱きかかえた体勢である。

 

 「美味い?」

 微笑って聞いてくる沖田に、美味しいけれど食欲の出ない冬乃は困り顔で頷いてみせる。

 

 

 縁側から吹き込む晩秋の風は、普段の冬乃になら肌寒いはずが、今ばかりは心地よく。

 

 つらりと揺れる行灯の火が、沖田の腕の中でくったりしている冬乃と、対照的に旺盛に食べ出す沖田を照らしては、二人の後ろに穏やかな影をのばす。

 

 

 『おねが…い、もっと……』

 

 あのとき幾度も、冬乃が頼んだこと。

 これもだから自ら招いた事態。

 

 美味しい食事が喉を通らないくらいは、諦めもつく。

 

 

 (でも眠いのは・・・・)

 

 最後には沖田が冬乃の限界を見極め問答無用で湯から上がったおかげで、いま冬乃はこうして一応は無事なのだけども、

 ややもすると瞼が落ちてきてしまうことには閉口しきりで。

 

 (ああもう・・)

 

 夜はまだ長いのに。

 

 沖田との旅先での貴重な夜を長い睡眠で潰したくない冬乃は、必死に瞼を持ち上げる。

 こっそり腕をつねりつつ。

 でも効果は無い。

 

 

 前に一度冬乃は、沖田は眠くならないのかと不思議になって聞いてしまったことがあった。沖田曰く一時的には眠くなることもあるものの、くったりした冬乃を放っておけぬ場ではあれこれしているうちに眠気も飛ぶらしく。

 

 (なんだか、ごめんなさい)

 冬乃は思い出して項垂れる。

 冬乃のほうはといえば、いつも深い底なしの幸福感に身ごと溺れこんで、そのままなかなか上がってこられないというのに。

 

 

 しょぼくれた冬乃を、沖田がどうしたのかと覗きこんだ。

 

 冬乃は眠気でもはや涙まで滲む瞳をもたげ、沖田を見上げる。

 

 「・・眠たい?」

 伝わってしまったらしく。諦めて冬乃は、沖田が苦笑するのへ素直に頷いた。

 

 「でも、寝てしまいたくないんです・・」

 呟いたと同時に、瞼に口づけが優しく降ってきた。

 

 いいから寝てなさい

 ということだ。


 (ハイ・・)

 

 冬乃はついに観念し。沖田に凭れるまま、おとなしく目を瞑った。







 熟睡してしまった冬乃が、目が覚めて朝の光を前に嘆いていたら、

 その光を背にしていた沖田がつと、おはようの挨拶と同時に、そんな冬乃に覆い被さり、

 

 朝から激しく乱されて例に違わずくったりした冬乃と、今度は沖田も、そんな冬乃とともにすぐに眠りに落ちても問題ないこの部屋で、

 

 二人して朝から、また朝寝をしたのちの。

 

 お天道様がすっかり頭上を照らす、昼下がりにて。

 

 

 

 「こんなに長いんだぁ・・・」

 

 おもわず呟いた冬乃の手には、いま、

 沖田の下帯。

 

 念願の。

 

 

 「やっぱり洗わなくていいよ」

 

 縁側に立ち、庭先にしゃがむ冬乃を見守る沖田が、そう声をかけてくるも、

 冬乃は、ふるふると首を振ってみせる。

 

 「洗わせてください」

 「だが、明日には帰るんだし」

 

 「私の肌着を洗うついでですから」

 無理やりな理由で取り繕い、冬乃は再び手の内の洗濯物を見つめる。

 

 (総司さんの・・)

 

 下帯を。手にして喜ぶとは、もう自分は変態なんじゃないかと冬乃は胸中、認めそうになり、

 いや、あっさり認めて、いざ洗濯を開始する。

 

 

 沖田が諦めたのかそれ以上は言わず、自分も庭へ降りてくると、

 冬乃から離れた所で真剣を抜くなり素振りを始め。

 

 冬乃は、すっかり武家の旦那様と奥様つまり御新造様、の昼下がりのワンシーン状態に、頬肉をゆるゆると緩めた。

 

 ちなみに沖田の“稼ぎ” からいえば、結構に裕福な武家である。

 そんな武家の御夫人が庭先にしゃがんで下帯の洗濯をしている構図が変であることを、もちろん冬乃は失念しているが。

 

 

 (・・でもこんな幸せなのに、明日には帰るなんて)

 

 それを思うと早くも憂鬱にまで陥る冬乃は、いまも慌てて目の前の下帯に意識を戻した。

 

 のも束の間、冬乃は今の瞬間の幸せを噛みしめるほど、明日には帰らなくてはならない現実に引き戻され。

 遂には手を止めて、ぼんやりと沖田の背を見つめた。

 

 帰ればまた、沖田には忙しい日々が待っている。冬乃にとって、この旅行中のように四六時中片時も離れず傍に居られることなど叶わない日々が。

 

 

 (・・・だから、この贅沢者。)

 

 冬乃は、かつての自分の立場になって今の自分を叱った。尤もこんな自責はとうに何万回と繰り返していて。

 

 

 

 憂鬱を振り払うべく、ひとつ冬乃は大きく息を吐き出した。次に大きく吸って、

 気持ちの良い山間の風がはこんできた空気を胸いっぱいに呑み込んだ。

 

 煌めく陽光を見上げれば、空高くに弧をえがく鳥の王者たちが目に映り。気高い鳴き声を落とし悠然と舞う姿を冬乃は目で追う。

 

 (総司さん)

 

 地上の鷲を。

 

 そしてまもなく、目で追っていた。

 

 

 その鍛え抜かれた肉体と精神を、

 

 この世でそれらを纏う、

 清い魂を。

 

 

 尤も彼に操られるその刀ならば、冬乃の目にはとても追えない速さで、幾度も陽光を反射させ、神々しい光の残像だけを冬乃に見せる。

 

 冬乃は、そのうち夢でもみているような心地になって、幾重もの光に包まれる沖田の背をぼうっと眺めていた。

 

 

 

 





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