二十. 壊劫の波間①








 千代がもらい病に罹っていると。

 

 甘味屋への誘いに千代の家を訪ねた冬乃が、出迎えた喜代から聞かされたのは。五月も終わりの頃だった。

 

 

 「・・て、え?」

 慌てた冬乃を、さらに喜代の背後から出迎えたのは歩き回っている千代本人。

 

 「寝てなくていいのですか?!」

 

 「やだわ、」

 少し青白い顔を苦笑させて、千代は招き入れた冬乃へ微笑んだ。

 

 「母は大げさなのよ。私はこのとおり、なんとか元気よ。今もこれから患者さんのところなの」

 「え、でも」

 「もう冬乃さん、寝てるように言ってやってくださいな。この子、痩せ我慢が得意なんですから」  

 喜代がそう溜息をついてから茶の用意をと土間に向かうのを見送り、冬乃は千代の、お世辞にも元気そうとはおもえない顔色を覗き込む。

 

 「もらい病って、患者さんから・・ですよね。何の病かは、わかってるのですか・・?」

 

 「きっとただの風邪よ、ちょっと重めの。私なら多少の熱と喉の痛みがあるだけ」

 「・・・」

 

 冬乃は脳裏で咄嗟に、千代の発病時期と想定されるのはいつだったかと思いを巡らせた。

 

 そして、今の時期である線は薄いはずだと。

 本当に今回は、ただのもらい風邪かもしれない。冬乃は少しほっとして。

 

 「でも熱まであるなら、やっぱりお仕事も休まれて、治るまでゆっくり休養を・・」

 「ありがとう。ですけど今そんなわけにはいかないのよ」

 

 

 即答された冬乃は。

 胸に奔った一抹の不安に、息を呑んだ。

 

 

 「今、労咳の患者さんもかかえているの・・貴女には散々避けるように忠告をいただいてながら申し訳ないのですけど・・でも私しか看てあげれる人もいないのよ」

 

 

 

 ああ。

 この時だったのだ。

 

 冬乃は突き刺した痛みに震える心内で、茫然と千代を見つめた。

 

 

 もしも、このとき千代が療養を優先していたら。

 

 もしも、もらい病に罹らなければ。

 

 もしも、その患者を看ていなければ。

 もしも・・・・

 

 

 (・・・きっとお千代さんが労咳に罹患したのは、このとき・・・)

 

 

 

 人が選択を振り返って後悔するとき。

 先に何を分かっていたなら、違ったのか。

 

 

 その時には、まだ。

 

 

 「お千代さん。貴女が今その体調の良くない状態で、労咳の患者さんに長く接したら、貴女が労咳を患うことになりかねません。どうか今は療養されてください」

 

 

 ―――知るすべもない。

 

 

 「ほんとにね、私は労咳にならない体質なのよ。どうかもう心配しないで」

 

 労咳は、この時代、傍に行けばうつるものと思われていただけで、

 体内の免疫が落ちている時に罹患しやすいものという細かな知識など無い。つまり、

 

 うつるのなら、もうとっくにうつっているはずで、

 うつっていないのなら、うつらない体なのだと、

 

 そんな方向に考える千代のような人も一定数いる。

 この時代では致し方のない事。

 

 

 

 「なら言い方を変えます、・・今、お千代さんがその患者さんと接していたら、必ずお千代さんは労咳にかかります。私は先の事が観えるんです、・・占いの家系なんです!」

 

 冬乃は、いつかに安藤に使った台詞を最後に口奔った。

 千代は目を丸くし。

 

 次には、弾けるように笑い出した。

 

 「やだわ、冬乃さんたら、突然何をおっしゃるのかと思ったら!」

 

 「お千代さん、」

 「蘭学も御家で習ってらして、そのうえ占いの御家系って、いったい冬乃さんの御家は」

 

 「お千代さん、信じてくださいっ・・、」


 冬乃は、必死に縋っていた。

 

 

 「私が今お伝えしていることは本当に起こることなんです・・!」

 

 

 「冬乃さん・・」

 千代の困ったような声が返った。

 

 「そんなに心配してくださるのはありがたいわ。でもほんとうに・・看ないわけにはいかないの」

 「ですがっ・・せめてお千代さんが完全に快復されてから・・」

 

 千代は首を振った。

 

 「あの患者さんはご家族にも会ってもらえなくて、か細い体でご自分では何もできなくなっているのに、面倒をみる人が誰もいないのよ・・一日も放っておけない」

 

 悲しそうに溜息をつく千代に、

 冬乃は、言葉を失い。千代がその清い菩薩のような微笑みで冬乃を見返してくるのへ、胸奥の動悸で息を震わせた。

 

 (お千代さん)

 

 もう、避けることはできないの

 

 その運命を

 

 

 (山南様の時と同じ・・・)

 

 

 深く強い意志。己の信じたものを貫くその生き方は、

 

 未来を知る冬乃にも、変えることなど叶わない。

 

 

 

 「・・・わかりました」

 

 冬乃は震える声を必死に抑えた。

 

 

 「私の杞憂である可能性は、まだ残っていますから・・・それでも・・もし、もっと熱が出たり、もっと喉がひどく腫れたり、・・そうやって悪化したら、やっぱりどうしても休んでいただきたいんです」

 

 きっと、

 

 「気をつけるわ。ありがとう」

 

 

 冬乃の願いもむなしく、

 

 千代は自分よりもずっと症状の重い、その労咳の患者を優先するのだろう。

 

 

 「・・・そしてせめて以前にお伝えしたような事を守ってください・・」

 

 「ええ、そうするわ。約束します」

 千代が柔らかく微笑んだ。

 

 「今日は来ていただいたのにごめんなさい。次こそはお出かけしましょう」

 

 

 

 

 屯所への帰り道、冬乃は人目も憚らず、止まることのない涙を払い、

 視界のぼやける道をもつれる足で歩み続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これも、また。使命なのだろう。

 

 

 目を開けた冬乃が、最初に心に受けた直観だった。

 

 

 

 千代を救う

 

 たとえ、運命は、千代の選ぶ道は、

 変えられずとも。

 

 冬乃にできる全てをもって、

 彼女のこの先の道から少しでも苦しみを取り除く事、


 それが、きっと冬乃のもうひとつの使命だと。

 

 

 

 

 「・・・ご迷惑おかけしてごめんなさい」

 

 

 冬乃の脈をみる白衣の男へ、冬乃は目礼した。

 心電計の規則的な電子音が、静かな空間に時を刻む。

 

 「統真さん、」

 

 冬乃の目覚めに安堵した様子の彼を。そして冬乃は、まっすぐに見上げた。

 

 「それなのに未だご迷惑おかけしてしまうことを、どうしてもお願いしたいのです」

 

 「やっと目を開けたと思ったら、いきなり何」

 仕方なさげに苦笑する統真の表情は、

 その大きく包み込むような温かさは。やはりどこか沖田に似ていて。

 

 冬乃は一瞬、どきりとした心を隠し、息を吸った。

 

 「結核の治療薬をください」

 

 

 「・・・」

 

 統真の作業の手が止まり。

 真剣な冬乃の、気迫を籠めた眼を見下ろし彼は、

 

 やがて小さく溜息をついた。

 

 

 「冬乃さん、自分が何を言っているか分かっている?」

 

 「はい」

 

 「薬は、はいどうぞと渡せるものではないんだよ?」

 「もちろん承知してます」

 

 

 統真の目は一瞬、周囲を見回した。誰も周りに居ないことを確認するかのように。

 この病室は個室の様子で、冬乃がつられて見やった先の引き戸も閉まっている。

 

 「・・よほどの事情があるようだね」

 小さく囁いた彼の声に。

 

 そして冬乃は縋る想いで、頷いてみせた。

 「はい・・!・・お願いします。どうか、理由は聞かず、・・お願いします・・」

 

 言いながら、だが冬乃はやはりこれは、あまりに無理があるだろうと。最初の気迫を失い、声が小さくなってしまって、

 それでも統真の目を懸命に見上げて。

 

 「ごめんなさい、どうか・・投薬の仕方と一緒に、どうか・・」

 もはや、懇願になってしまいながら。

 

 

 ベッドから身を乗り出しそうになった冬乃の、肩をそっと押し留め、統真は首を振った。

 

 「悪いけど、できない。その患者を貴女が病院へ連れて行くべき」

 

 「それはっ・・できないんです・・」

 「どうして」

 

 「っ・・」

 

 説明のしようがない。冬乃は唇を噛んだ。

 只、

 統真の裾を冬乃は必死に掴んでいた。

 

 「どうか・・お願いします・・!」

 

 「・・・」

 

 統真は冬乃の追い縋るほどの懇願を前に、思案の表情を浮かべ。

 「その件は、」

 呟いた。

 

 「少し保留にさせてもらえるかな」

 

 「あ・・有難うございます・・!」

 考えてくれるという事だと、冬乃は一縷の希望のほうに賭け、おもわず礼を口奔った。

 

 「・・あの、ところで今日っていつでしょうか・・」

 幕末でも此処でも、同じ質問ばかり繰り返していると思いながら冬乃は尋ねる。

 カーテンの向こうが暗いので、今が夜ということなら分かるのだが。

 

 「今日はまだ土曜、昼間貴女が倒れてすぐ俺の病院に運んで、いま様子を見に来たら目が覚めた。今の時間なら10時くらいかな」

 

 (・・俺の病院?)

 「ここの病院って京都のどこかですよね・・手続きとか、治療費とか、どうなってますか・・?」

 

 「俺の大学は京都にも支部を持ってて、ここはその付属病院になる。・・言ってなかったけど、俺はここの医大の創設者の息子」

 

 (え!?)

 

 「後で書類に保護者のサインが必要だけど、緊急だったし、俺のほうで一時的な処理はしたからひとまず細かい事は心配しなくていいよ」

 

 統真が点滴の確認をしながらさらりと進めてゆく説明に、冬乃は目を見開く。

 

 「それと貴女のお母さんの連絡先がわからないから、千秋さんたちに伝えてもらうよう電話してある」

 「あ・・」

 

 (そういえばケータイ・・!)

 

 幕末の世で壊れた事を思い出し、冬乃は慌てて枕元の棚を見上げた。

 冬乃が倒れた場所で統真が拾ってくれたのだろう、バッグの上に乗っているのが見える。

 「見てもいいですか」

 「もちろん」

 点滴のチューブが繋がったままの腕を動かさないよう気を付けながら、冬乃はゆっくり半身を起こした。

 自由なほうの手で、携帯を手に取る。

 

 (壊れてない)

 きちんと正常に点灯し、ロックを解除してみるが変なメッセージも現れなかった。

 

 そういえばそうだった。

 財布の時と同様、手にしていた物が向こうへ移動してしまうわけではなかった。壊れたのは、向こうへ持っていった“コピー” のほうなのだ。

 

 

 見ていくと、母からの数回の不在着信があった。

 『まだ外にいるの?ホテルについたら電話しなさい』のメールも。

 

 千秋達からは『とーまさんから電話あったけど、まだお母さんにはうちらからは何も伝えてないから安心して。とーまさんがいれば大丈夫だとおもうけど目が覚めたら即連絡』のメール。

 

 

 冬乃はちらりと統真を見た。

 

 一刻も早く冬乃は、幕末へ戻らなくてはならない。

 それも、今度こそもう最後まで。

 

 薬の件だけでもとんでもないお願いなのに、冬乃はこれから統真に、暫く様子を見に来ないで放っておいてほしいと言わなくてはならないのだ。

 

 その一方で薬をもらうまでは何が何でも統真にくっついて回らないといけないだろう。一度遠くに離れたら、次に会った瞬間にすぐにタイムスリップが発動してしまうのだから。

 

 (どうしよう)

 

 「千秋たちは未だ母には伝えてないようです。これから電話しますので、まだ傍にいていただけないでしょうか」

 

 「いいよ」

 

 ひとまず統真を確保した冬乃はほっとしつつ、さっそく母へ電話を掛ける。

 数回の呼び出し音で母はすぐに出た。

 

 もちろん正直に言うしかない。

 冬乃は覚悟を決めた。

 

 「連絡遅れてごめんなさい。また倒れて、こっちに統真さんがいて、統真さんの病院で入院した」

 「なによそれ、だから言ったじゃない・・!」

 「ごめんなさい」

 当然の叱り声に、冬乃は謝るしかない。

 

 「今は、具合は大丈夫なの?!」

 「うん、もう平気」

 「明日そっちへ行く。今そこに統真君はいるの?」

 電話を代わりなさいと言われ、冬乃は気まずい表情で統真へ携帯を差し出した。

 

 統真が場所や手続きの説明をしている横で、冬乃は情けなさに溜息をつく。自分がひどく子供に戻ったような気がしてしまう。

 

 (あした・・)

 

 しかも明日、母が来た頃には、冬乃はまた昏睡状態なのだ。

 

 (ごめんなさい、お母さん)

 

 

 「じゃ、まだ俺は学校のほうで調べものしているから、何かあればすぐに電話して」

 

 統真から返された電話で母に再度叱られつつ、話を終えて携帯を置いた時、統真が立ち上がった。

 (あ)

 

 「待ってください!」

 

 昏睡から目覚めたばかりとは思えないほどの大声だったのか、統真が驚いた顔で冬乃を見下ろしてくる。

 

 (いま離れるわけには絶対にいかない・・!)

 

 「お願いします、まだ傍にいさせてください!」

 

 追い縋る冬乃に、当然、統真が解せない顔になる。

 「・・どうして」

 

 (どうしてもです!)

 「薬の、お返事をいただけるまでは・・」

 

 「それは保留にしてと」

 「ですが、いいと言ってくださるまで、離れるわけにはいきません・・!」

 

 自分で言ってる事が滅茶苦茶なことは分かっているが、どうにもならない。冬乃は困りながら「お願いします」を繰り返して、

 統真も困った様子で、立ち上がったまま動かなくなった。

 

 「・・・・治療薬は渡せない」

 

 「っ・・」

 「保留と言ってごめん。正直に言うと、時間をおけば頭を冷やしてくれるかと思った」

 

 「・・いえ、私が勝手なこと言ってるんですから」

 すまなそうに言う統真に、冬乃は首を振りつつも。

 「でも本当に私が投薬するしか方法がないんです・・!」

 

 「だとしても、素人治療で扱える病気ではないよ、下手をすれば死期すら早める。なんとか医者に診せるようにしてほしい」

 「どうしても、だめですか・・?!」

 

 統真は固い意志を示す表情で頷いた。

 

 「貴女のすべきことは、何が何でもその人を病院へ連れてくること、・・・て、」

 

 「泣かないで」

 困りきった統真の表情を受けて、冬乃は急いで涙を払った。

 「すみませ・・勝手に涙が、」

 

 (本当に・・どうしたら)

 

 「・・・事情はよく分からないけど、連れてくることができなければ、その人は・・」

 

 いずれ迎える肉体の蝕みに耐え苦しんで、やがては命を落とすことになる

 

 統真の言わんとする言葉が、冬乃の心に浮かぶようだった。

 

 千代を救う方法は、本当にもう何も無いのだろうか。

 

 

 

 冬乃の布団を握り締めた拳を見下ろし。統真が小さく溜息をついた。

 

 「なんとか渡せるとしたら痛み止めだよ、・・それはだけど最後の手段にしてほしい」

 

 冬乃は顔を上げた。

 

 「病院へ連れてくることを諦めないで」

 

 

 (痛み止めでも・・)

 

 無いよりかずっと、千代を苦しみから救えるだろう。

 

 「・・・ありがとうございます」

 

 お願いします

 冬乃は震える拳で布団の端を握り締めたまま、深く頭を下げた。

 

 

 「じゃあ行くよ」

 

 今度こそ去ろうとする統真を、冬乃ははっと見上げる。

 「待っ・・」

 

 まだ何かあるのかと振り返る統真の目には、慌ててベッドを降りようと動き出す冬乃が映り。

 

 「いまっ、その痛み止めをください!」

 

 必死な形相でスリッパをつっかけて点滴スタンドを掴む冬乃に、

 もはや統真は失笑しそうになってしまった。

 

 「そんなに慌てなくても、後でちゃんと渡すよ」

 「いえ!どうか今ください!いただくまでは統真さんから離れるわけには・・!」

 

 「・・。」

 

 統真の傍をテコでも動かぬ気迫を出す冬乃に、母犬が離れようとすると突進していく仔犬の姿が重なる。

 

 「だけど今から薬を取りに保管庫へ行くのは、ちょっと・・」

 「お・・お願いします・・!」

 「俺、ここの息子だからって好き勝手できるわけじゃないんだけど」

 「ごめんなさい、本当にごめんなさい・・・でも、急がなくてはいけないんです」

 

 統真のついに呆れたような表情を見上げながら冬乃のほうは、手に掴んだ点滴スタンドを進ませる。

 

 「本当にいろいろ勝手を言って申し訳ありません・・!」

 

 統真のすぐ前で、そして大きく腰を曲げて冬乃は頭を下げた。

 

 「これには深い事情があるんです・・!私は、薬を頂いたらそれを手にしたまま、統真さんからいったん離れます。・・次にお会いした時、たぶん倒れます、そしたらその薬は回収していただいて構いません。いま、その間だけでも、貸していただきたいんです・・・!」

 

 「ごめん、意味がわからない」

 

 「お、仰るとおりです、申し訳ありません・・!」

 冬乃はもう平謝りするしかない。

 

 だがタイムスリップの現象を説明すれば、今度は別種の精密検査に回されかねないだろう。

 いやそれは構わないが、只々冬乃は、信じてもらえるはずもない事を説明している時間すら惜しい、それが本音だった。

 

 急がなければ。そればかりが冬乃を突き動かしている。

 

 

 「もうひとつ、お願いがあります・・私が次に倒れた後は、暫く・・様子を見にいらしてくださらないで大丈夫です・・少なくても、一週間くらいは・・」

 

 「冬乃さん、」

 統真が宥めるような眼で冬乃を見据えた。

 

 「覚醒したばかりで、今は少し錯乱しているように思う。もうベッドに戻って、今夜はしっかり寝てほしい」

 「私なら大丈夫です、こんなの慣れてますからもう」

 

 「・・確かに慣れるほど倒れてるね」

 統真の溜息が再び続いた。

 「貴女の症状は色々と説明のつかないことが多い」

 

 「・・・」

 「じつは今夜調べようと思っていたのは貴女の発作についてでね・・。明朝には東京へ戻るから、続きは向こうですることになるけども」

 冬乃ははっと目を瞬かせた。

 「東京へ、ですか?」

 

 「そう。学会が今度はあっちであって、急に俺も駆り出されることになったんで」

 「此処へは暫く戻られないのですね?」

 「・・そうだけど」

 

 冬乃はひどく安堵した顔をしてしまっただろう。訝しんだ様子の統真に、冬乃は慌てて微笑んでみせる。

 「お薬を頂戴したら、おとなしく寝ます。そして朝、お見送りさせてください」

 

 「薬はどうとして、見送りなんか必要ないよ。出る前に一度様子を見に来るつもりでいるし」

 「ぜ、絶対お願いします・・!」

 

 冬乃はまたも大きく頭を下げた。

 忘れて東京へ帰られてしまったら、冬乃は大急ぎで彼を追わなくてはならなくなる。

 

 「それで薬も・・どうしてもお願いします・・」

 頭を上げながらの上目遣いになってしまいつつ、冬乃は重ねてお願いする。

 

 「・・・」

 「・・・」

 

 そうとう変な子だと思われているに違いない。とりあえずそれだけは分かる。

 冬乃は手に点滴スタンドと汗を共に握りながら、上げきった顔をまっすぐ統真に向けた。

 

 どうしても。

 どう思われようとも。遂行しなくてはならないのだから。

 

 

 痛み止め、それは妥協でしかないと最初は思った。だけど確かに、無理が叶って結核の薬を手に入れたとして、複雑な投薬を冬乃に正しく扱いきれたかやはり自信は無い。


 本来ならば検査を幾度も伴わせ、菌が薬に耐性をつけてしまっていないか細心の注意を払いながら、各種のアレルギーや副作用にも対応して慎重に治療してゆくもの。

 

 (それに・・)

 

 たとえ冬乃が治療に万一にも成功でき、千代の結核が治っても、彼女の死期を変えることはできない事に変わりはない。

 乱世とはいえ戦さに関わるような生活をしていない彼女に、他に起こりうる死が何なのか、冬乃には想定もできないものの、

 

 それが何らかの闘争に巻き込まれる死なのか、もしくは他の病気での死なのか、

 いずれにせよ彼女が死の運命を避けられない以上、

 

 それならば。現代医学の結晶ともいえる強力な鎮痛薬で、彼女が痛みに苦しまずに済む死を、初めから用意できるというのなら。

 

 (それも・・・きっと救うことのひとつになるのかもしれない・・)

 

 

 「冬乃さん?」

 

 無理に己に言い聞かせていたせいか、歯を食いしばっていた冬乃は、

 「・・あ」

 統真に覗きこまれて我に返った。

 

 「本当に、よほどの事情のようだね・・」

 

 ふっと、先ほど見たような苦笑が落とされた。仕方なさげに微笑う、その懐深く包みこむような、温かくもある表情は。

 

 (総司さん)

 

 やはり似ているのだ。

 冬乃は、とくんと鳴った胸音に小さく息をつく。

 

 「・・俺が行って説得しようか?」

 

 「え」

 予想もしなかった言葉を受けた冬乃は、次には瞠目した。

 

 「何か・・医者嫌いになる酷い事でもあったのだとしても、結核の疑いがあるのにそのまま治療もしないままでいけばいずれ死に至る可能性を、その人だって分かっているんだよね。だから貴女に薬をもらってくるように頼んだのかな」

 「は、はい」

 冬乃は慌てて頷く。

 

 「結核の治療薬を渡さないのは貴女の為でもある。素人治療で薬に耐性がついてしまった場合、その耐性をもった菌で周囲が感染すれば厄介なことになる。その人の傍に居るだろう貴女も危ない」

 (あ・・)

 「家族が医療ミスで亡くなり、医者を信用できなくなった人が、大病に罹っても頑として病院へ行かなかった話を人伝に聞いたことがある。命の選択にどうこう言うつもりも無い。ただ、もしそれが周囲へ感染させる病気である疑いがあるなら、やはり適切な治療を受けるべきだと俺は思う」

 

 「その人が誰とも会わず、家に籠りきりでいるならいいよ。もし病院へ来ないまま、それこそ最終手段として渡す痛み止めで凌いで死を迎えるなら、それはその人の選択の自由と言える。だけどもし過失であれ周囲へ感染させる行動をした場合には、もはや個人の自由とは言ってられなくなる。法的な責任にも問われるだろうね、・・まあこの話はおいといても」

 

 統真は今一度、冬乃を困ったような表情で見下ろした。

 「泣くほど貴女ひとりで抱えこむことはないよ。俺も協力するから」

 

 冬乃は頭を垂れた。

 「ありがとうございます・・」

 「痛み止めは渡すけど、さっきも言ったように病院へ来てもらう事を諦めないように」

 「はい・・」

 

 「本来こんな事自体してはならないから、俺から渡せる量は少しになるけどいいね」

 

 「あ・・の、どうか、もし病院へ最期まで来なかった場合を想定した量をください」

 

 

 「・・・」

 

 諦めないようにと言われたばかりでそんなお願いをしてのける己の神経の太さに、冬乃は我ながら呆れつつも。

 

 「さっきお伝えしたように、朝お会いした後に回収してくださっていいんです・・」

 

 「・・・それの意味が、本当に分からないんだけど」

 「すみません・・!でも、いったん可能な限りの量をください・・」

 

 「まさかと思うけど、何か悪用とかは考えていないよね?」

 「もちろんです!!」

 

 「・・“死ぬまで” の間の分量をとなれば、もう治療と同じだよ。さっき言った事はもののたとえであって、本当に一人で家に籠って痛み止め・・鎮痛薬で凌ぐというのは無理がある。麻薬が危険なことは分かるよね?強い鎮痛薬はそれと同じもの。素人判断での使用は、量を間違えやすく危険なんだよ」

 「でしたらっ、正しい使用量をぜんぶ教えてください・・!」

 

 「冬乃さん」

 やはりまともな思考状態ではないと、疑われているに違いなく。遂には心配そうに見返され、

 

 冬乃は。

 

 「夢で約束したんです・・!その人を救わなきゃいけないんです!」

 

 

 むしろ、その方向を採った。

 

 

 「夢・・て?」

 当然、戸惑った返しが来て。

 

 「薬を、その人へ持っていかなくてはいけないんです・・!」

 冬乃は一時の錯乱に陥っているふりを突き通す。

 

 「冬乃さん」

 「お願いします!」

 

 「今までのって、夢の話・・・?」

 

 「夢ですけど夢じゃないんです・・朝にお返ししますから、今は、私の手に可能な限りの量を持たせてください、じゃなきゃこのあと寝つくことなんてできません、何も持って行かずにまた夢に戻るなんて絶対に無理です・・!」

 

 「・・貴女はやっぱり今一時的な錯乱の状態にあるように思う。まあ・・今の時点では貴女のほうで心配しなくていいけど、ただ、今そういう状態だということは、なんとなくでも知っていて。それと混乱した状態の患者に・・つまり今の貴女に、容態には不要な薬をしかも大量に手渡すことはできないって事も。貴女がそれらを後で自覚なく誤飲する危険がある」

 

 「で、でしたらっ、何か保管用の、鍵のついたケースに、入れてくださって構いません。私じゃ壊せないようなケースに・・・鍵は掛けて統真さんが持っててください。それならいいですよね・・?それと、ここの個室の鍵も外から掛けてください、私がケースを外へ持ち出さないように」

 

 言い終えてから、これだけ適切な条件提示をしては思考が正常だとバレないか、冬乃は一瞬ひやりとしたが、

 「夢で待ってるんです、あの人が!この手に薬を持って眠れたらそれでいいんです!そしたら落ち着いて夢へ帰れるんです・・・!」

 

 最後に言い足した台詞で。取り繕えたらしい。

 

 「・・・本当に、それで落ち着くの?」

 

 「はい!!!」

 

 


 このまま喚かれ続けているより、いいと。

 

 なんとか思ってくれたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 (我ながら無茶苦茶だ・・)

 

 冬乃は点滴スタンドを押しながら、統真の後について廊下を行く。

 

 夜ももう遅い。廊下の電気は点いたままとはいえ、通り過ぎる各病室からは物音ひとつせず。

 

 

 適当な薬をケースに放り込まれてはたまらない。

 離れるわけにいかないのも勿論なのだが、冬乃は統真が薬を用意するところまで確認しておきたかった。とにかく一緒についていきたいと縋りついた。

 

 諦めたように許可してくれた統真は今、むずかる子供をようやく宥めたような気分でいるだろう。

 

 (ごめんなさい統真さん・・・)

 全てを終えて戻ってきた時、もし冬乃が生きてゆく気力を残していたなら、向こう一年くらいのフリーパスで食事を奢るというのではだめだろうか。そう自嘲に溜息をついて冬乃は目の前の背を見上げた。

 

 タイムスリップを引き起こす特殊な何かを持っていること確実な彼に、「ところで超能力が使えたりしますか」と先ほど冬乃は単刀直入に尋ねてみたのだが、

 何をまた言い出すのかと笑われた上に、

 「俺を夜中に保管庫へ忍び込ませる貴女に、そのまま返すよ」と言われてしまった。

 

 違いない。

 

 

 

 やがて保管庫として割り当てられた部屋の前で、二人は立ち止まった。

 

 もし見つかった場合の言い訳も打ち合わせしてある。冬乃はそれでもドキドキと心臓を打ち鳴らしながら統真が鍵を開けて入るのへ続いた。

 

 「ここで待ってて」

 

 上半分が強化ガラスになっていて内部屋の中が見渡せるような壁で区切られた手前で、冬乃は止められた。

 さすがに薬のラックが立ち並ぶ内部屋にまでは入らせてもらえないようだ。

 

 冬乃は統真が内部屋の隅まで行ってそこに置かれた事典を開いているのを、ガラス越しに眺めていた。

 やがて彼は二列目のラックへ向かうと棚を開け、薬を取り出した。

 続いて三列目、そしてさらに移動して五列目。

 

 

 戻ってきた統真の手に持たれる底の浅い幅広の入れ物の上に、それらの薬は大量に並んでいた。

 

 戯言状態な冬乃の願いに真面目につきあって全てを用意してくれたらしい統真を、冬乃は感謝の想いで見上げて、「教えてください」と最後の願いを続ける。

 「それぞれの薬を使う時期と、量を・・」

 

 統真が頷いた。

 

 「しかし何だかんだで、貴女の希望を聞きいれてみて良かった。重度の結核患者の治療は実習したことが無いから、これらの鎮痛薬も、癌治療と座学知識からの応用になる。期せずして勉強させてもらったよ」

 

 (統真さん)

 そんなふうに言ってくれた彼に、冬乃は自然と頭を垂れる。

 

 「肝心の、貴女の症状については全くといっていいほど不明だけどね・・現状も。覚醒後の一過性の思考障害は症例もあるから様子を見ているけど、その夢の話を除いては、貴女の思考は至って正常に思える」

 

 どぎりとした冬乃はおもわず目を泳がせた。

 

 「まあとりあえず、“薬の使い方” だけど、メモに書いていくからそれでいい?俺自身、整理していきたいから」

 「あ、はい・・!」

 

 統真は近くの椅子を引いてテーブルへ向かって座った。冬乃も遠慮がちに隣の椅子へ座る。

 胸元の万年筆を取り出してさっそく書き出す彼の手元を冬乃は覗き込む。症状や時期別に薬の名前と分量を丁寧に書き出してくれていた。

 

 冬乃は、統真の真剣な横顔をつと見やる。

 

 まさかとは思う。

 だが、沖田がもしも、生まれ変わってこの世に居るのならば、

 

 一番にその像に当てはまるのは統真ではないか。

 沖田の桜木の話に想い巡らせたあの朝から、冬乃は徐々に心の片隅でそんなふうに感じ始めていた。

 

 このタイムスリップの現象も、それならばいっそ納得もできよう。千代の生まれ変わりである冬乃の魂が、沖田の生まれ変わりである統真の魂と近づくことによって、何かが起こっているのだと。

 それが一体どんな力で、どうしてこんな奇跡を起こせるのかまでは、尚わからなくても。

 

 

 (だけど・・・)

 

 そう思ってみてさえ、そうして感慨をもって統真を隣にしてさえ、

 やはり根本から違うのだ。冬乃の、求める人は、

 

 ただひとりだけで。きっと後にも先にもそれが変わることは無い。

 

 

 (恋愛ドラマや映画だったら、生まれ変わりの彼との再逢なんて超感動シーンなはずなのに)

 

 冬乃はふっと息を吐いた。

 

 

 姿かたちも違う、記憶も無い。

 あるのは、どこか“似ている”、

 その感覚だけ。

 


 (もし)


 もし冬乃が、この魂の継承した祈りをもたずに。そうして沖田への慕情をもたずに、生きてきたなら。

 

 唯ある日ふと統真と出逢って、彼に惹かれていたのだろうか。


 

 

 (わからない・・・けど)

 

 

 わかることは。

 冬乃が今この瞬間も、全身全霊で求める存在は、

 

 ここにはいない。

 

 

 この世には、いない、ということ。

 

 

 

 

 「この薬が、メモのここの部分で」

 解説を始める統真に耳を傾けながら、冬乃は己ではどうしようもない切なさに何度目かの拳を握り締めた。

 

 やがて、よく救急箱として使われる硬い木製の鍵つきケースに、約束通りそれらは納められて、メモとともに冬乃に渡され。

 

 「ほんとうにほんとうに、ありがとうございました・・!」

 病室へ帰りながらそして病室に戻ってからも、冬乃は何度も礼をしていた。

 

 「貴女の提案通り外鍵は閉めるけど、何かあればすぐにその呼び出しボタンを押すようにして。あと、俺も電話にはすぐに出られるようにしておくから、いつでも掛けてきてくれていいよ」

 

 「何から何まで、本当に御礼のしようがありません」

 最後に冬乃はベッドの上で、深々と頭を下げた。

 先ほど統真が担当医に電話を入れて確認し、統真の手で点滴は外されている。

 

 「じゃあ、お大事に。・・・いい夢を見てね」

 

 

 病室の引き戸が閉められ、外から施錠の音がした。

 

 冬乃は手にしていた箱に視線を落とす。

 

 

 狙い通り、これで。沖田に頼めば一刀のもとに箱を両断してくれるだろう。

 

 

 (少しは寝れるかな・・?)

 冬乃はその前に病室内の化粧室へ向かうべく、いったん箱を棚へ置いた、

 

 が、すぐに慌てて手に持ち直した。

 もし統真が何かあって引き返してきても、確実に箱と共に幕末へ行けるようにしていなくてはならない。

 

 冬乃は薬箱を抱えたまま移動した。

 

 (千秋達にもメールしなきゃ)

 

 もうきっと今度こそ大丈夫だと、

 このまま朝になってから統真が来てくれるなら、その後は全てが終わるまで向こうの世に居られるだろう事を、二人にも伝えておきたい。

 

 暫く目を覚まさなくなるので、明日来る母にはひどく心配をかけてしまうだろう。今から冬乃は胸内で詫びながらも、

 やっと、途中で平成に引き戻される心配が無くなるだろう事に、冬乃はどうしてもほっとしてしまう。

 

 冬乃はベッドへ戻ると、千秋達にメールを打ち終わった携帯をバッグへ戻し、身を横たえた。

 

 

 (総司さん)

 

 早く逢いたい

 

 瞑った瞼の裏に愛しい笑顔を想い浮かべて冬乃は、眠りの世界へとやがて落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めたら文机に寄りかかっていた。

 

 

 (・・・・・あれ?)

 

 

 昼間の光のなかで見慣れた土方の部屋を見渡し、部屋の主が不在であるさまに安堵しながらも冬乃は首を傾げた。

 

 

 寝たまま幕末へ飛ぶのは初めてではなかろうか。

 

 おそらく統真が朝方、まだ冬乃が目覚める前に来たのだろう。平成の世で冬乃は寝ているまま昏睡状態へ移行したということか。

 

 

 はっと冬乃は手元を見やった。

 

 (良かった・・!)

 両腿の上にきちんと薬の箱は在り。箱に添えていた両手で冬乃は、そのまま箱を持ちあげて横の畳へ降ろし、自身は立ち上がろうとした時、

 

 突然、隣の近藤の部屋辺りからスパーンと襖が開けられた音がした。驚いて音のした廊下側を見やった冬乃の前、

 次にはその視界の襖がスパンと開いた。

 

 「総司さん!?」

 「おかえり、冬乃」


 どうして

 わかったの、と冬乃が聞くよりも前に、

 

 「冬乃の気配が急に生じたから」

 穏やかな昼の光を受けた褐色の顔が嬉しそうに微笑んだ。


 冬乃は目を丸くする。

 

 (・・そうだった)


 “超能力者” なら、ここにいた。

 冬乃は微笑ってしまいながら、急いで立ち上がって。

 

 「ただいま、総司さん・・っ」

 

 沖田の腕のなかへ飛び込んだ。

 


 「今までごめんなさい」

 硬く温かい腕に包まれながら冬乃は顔を擡げる。

 

 「でももうこれで・・・今度こそ未来へは帰りません」

 

 やっと、

 (貴方の最期まで傍に居られる)

 

 声にできない想いで見上げた冬乃を、常の優しい眼差しが迎えた。

 「今回は、どのくらい帰ってしまってたのでしょうか」

 その穏やかな眼に救われながらも冬乃は、超えた時間を感じて恐るおそる尋ねる。この肌に受ける気温は、もはや残暑のそれだ。


 「二月といったところ」

 「・・では今日は・・」


 遂に幕府と長州が開戦したのは六月の七日。冬乃が未来に戻ってしまった日は六月一日だった。

 あれから二か月、

 ならばもう。

 

 「八月の七日」

 

 

 冬乃は沖田の胸板へ頬を寄せ、目を伏せた。

 

 

 七月末、将軍家茂が病で急死し。今は、江戸幕府最後の将軍となる慶喜が、徳川宗家を継承したばかりの頃。

 孝明帝は長州征伐の続行を命令し、慶喜はその意を受けて陣頭指揮に立つ準備に取り掛かっている時期だ。

 

 だが、これよりあと数日もすれば、その決定は覆される事となる。

 

 これまでの度重なる戦況不利の報にとどめを刺すかの、幕府軍の事実上の敗戦といえる報が、京にもたらされるからで。

 

 つまり今、残るこの数日が。

 幕府がこの先の再起を未だ信じていられた、最後の時間ともいえるのだろう。

 

 

 

 黙り込んでしまった冬乃を覗き込む気配に、冬乃ははっと顔を上げた。

 「冬乃、」

 目を合わせた沖田の視線が、促すように冬乃の背後へと向かった。

 

 「あの箱は?」

 

 

 (・・・あ)

 

 千代の病のための薬とは答えられるはずがなく。咄嗟に冬乃は、

 「念のため持ってきた風邪薬です・・未来の」

 と声が小さくなりながら答える。

 

 「へえ」

 「あ、あの」

 そういえば、あの箱を壊してもらわなくてはならない。

 冬乃はそっと体を離して、沖田を今一度見上げた。

 

 「お願いがあります」

 

 言ってから急いで箱を取りに行き、沖田の元へ戻る。「これを」と冬乃は沖田に手渡した。

 「斬って開けてもらえないでしょうか」

 

 沖田が物珍しげに、箱を回し見た。

 

 

 「ここに居て」

 つと、沖田は冬乃にそう言い置くと、箱を手に部屋を横断し障子を開け放ち、

 部屋の中央まで戻ってくると立ち止まった。

 

 (・・?)

 

 その場で冬乃に背を向け、ちょうど庭を右に見る状態に向き直った沖田は、

 

 唐突に、箱を上方へひょいと放り投げた。

 と思ったら、

 落ちてきたところを抜き打ちで横薙ぎし、同時に何かが庭へ飛んでいった。

 

 「これでいい?」


 目を丸くした冬乃を振り返った沖田の、

 その左手の平の上には、元通りの箱が降り立っていて。

 

 「え・・」

 

 差し出されている箱を冬乃は受け取った、時、

 振動で上蓋がずれ、冬乃はもしやとそれを持ちあげた。あっさりと上蓋は持ち上がり。上蓋に沿って一寸のズレも無い切り口を見せ、綺麗に留め具と埋め込み鍵の中心部分だけ消えた状態で残る箱を、冬乃は唖然と見下ろした。

 

 いま庭へ飛んでいった物は留め具や埋め込み鍵の破片だったのだ。

 

 これらは金属なのに、まさかそれごと壊してくれるとは。

 てっきりどこか木製の箇所で二つに割るのだと思っていた冬乃は、これなら当初覚悟していた中身の欠損も免れて、全ての薬が使えることに嬉しさが倍増し。

 

 「ありがとうございます・・・!!」

 

 右手に持つ刀を腰の鞘へ納める沖田に、冬乃は感激で深々と頭を下げた。

 

 「どれも変わった袋に入ってるね」

 未来の物だと割り切っているのか、薬を見てそんな感想だけ述べてくる沖田に、冬乃は頭を上げるなり「そうですよね」と慌てて頷いてみせる。

 

 「で、またその恰好」

 

 

 くすりと微笑った沖田に。そして冬乃は今の今さら気がついた。

 (わ・・わ)

 あの時と全く同じワンピースのままであると。

 

 これではまるで、冬乃の所有する服の数が少ないみたいではないか。

 「これはっ・・前回とたまたま同じのを着てて・・」

 

 焦って繕った冬乃は、だがすぐに、もうひとつの事実に気がついた。

 沖田はそんなことは露ほども気にしていないと。彼が着目している事はあくまで、

 

 「冬乃」

 

 肌の露出度。

 

 「・・このまま襲いたくなるよ」

 

 案の定、沖田に再び抱きすくめられ、

 冬乃は眩暈がして。

 

 「残念だが、近藤先生が待ってるだろうから」

 諦めるけど

 

 と、だが次には体を離された冬乃は、はっと沖田を見上げた。

 

 「さっきまで先生の書簡の手伝いをしていたからね」

 

 (あ・・)

 どうりで隣の近藤の部屋から襖の音が響いたわけだ。

 「それって私が不在にしていなければ、私の仕事だったはずの・・」

 

 ごめんなさい、と冬乃は咄嗟に頭を垂れた。

 冬乃がいなかった間、沖田が代行してくれていたのだろう。

 

 「元々俺が先生を手伝っていた仕事だから。貴女が代わりにやってくれるようになっていただけの事」

 気にすることではないと言うかのように優しく微笑んでくれる沖田を、冬乃は再び見上げて、おもわず身を寄せた。

 「では私も、今日はこれからお仕事ご一緒させてください・・」

 沖田の着物にそっと顔をうずめる。本音は傍に居たいから、沖田と一緒に仕事がしてみたいから。であることくらい、近藤にさえ見抜かれそうだけども。

 

 「それは有難いが・・・」

 

 沖田の大きな手が、冬乃の頭を撫でた。

 

 「先に、着替えてこようか」

 

 

 「・・・」

 冬乃は素直に従った。

 

 

     






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