一九. 愛の記憶②




 このところめっきり日中の蒸し暑さが増してきたというのに、梅雨明けまでは未だかかりそうな、なんとも折り合いの悪い季節を迎え。

 

 一方で冬乃の恋わずらいはなんとか折り合いもついて、日常に酷い支障まではきたさず付き合ってゆけるようになってきた頃、

 

 江戸から着物が届いた。

 

 

 沖田との“外デート” に、そろそろ昼間のお高祖頭巾は辛くなっていた冬乃にとって、願ってもない贈りもので。

 

 通常なら一月以上は優にかかる仕立てが、こんなに早く上がったのである。

 

 真っ先に浮かんだお鈴と太兵衛の顔に、冬乃は男物づくりの見事な質感の着物を手に、心のなかで深々と頭を下げていた。

 

 勿論、冬乃の想像のお鈴はつんとそっぽを向いていたけども。まあ当たらずといえども遠からずだろう。

 

 

 

 そうして、霧のような雨の続く昼下がり。

 着てごらんと早速沖田に促され、冬乃は部屋へいったん戻り、頭から爪先までの男装に嬉々として挑んだ。

 

 

 結果は二度目だけに、良好。

 

 「可愛い」

 

 (・・・良好?)

 

 

 男装したのに可愛いはどうなのかだが、沖田から見れば元々ほかに感想しようがないのだろうと。

 本日非番の沖田の部屋にて、くるりと回転してみた冬乃は、ぴたりと止まりつつ思いなおす。

 

 「一応、男性にみえますか・・?」

 

 念のためはっきり聞いてみた冬乃に、沖田が微笑った。

 「じっと見なければ、たぶん」

 

 冬乃はひとまず胸を撫でおろした。

 

 

 (傘さしてれば、よけい大丈夫だよね)

 

 前回は若衆らしさを醸し出していた前髪が、今回は無い事が効いているはず。

 

 冬乃はあれから前髪を伸ばしていた。そうしてこのたび晴れて前髪を全て上げることが叶い、沖田達のような総髪にできたのだ。いわゆるオールバックの長髪であり。

 

 尤も、沖田の髪の長さはかろうじて後ろで結べる程度でしかないので、比べたら冬乃の場合はとんでもない長さだが。

 

 

 

 「総司さん」

 

 冬乃は沖田を見上げた。


 (これからこのまま一緒に歩きたい・・)

 

 

 沖田に歩調を気遣わせてしまうことなく。さくさくと一緒に散歩がしてみたい。  

 

 

 

 

 

 

 

 「お散歩、いきませんか?」

 

 仔犬のように瞳を輝かせて見上げてくる冬乃の、背後にはぶんぶん振れるしっぽがまるで見えるようだ。

 

 沖田は、この目の前の、前髪のない若衆。でかろうじて通るか通らないか微妙なところの彼女を見つめ返した。

 

 

 冬乃を冬乃として見慣れすぎているせいなのか、そもそも無理があるのか、前回もそうだったが沖田にはどうしても男装したおなごにしか見えない。

 

 (まあ、これで帯刀すれば少しはマシになるか?)

 

 

 「いいね。行こう」

 沖田はにっこりと返す。

 

 「ただし見る者が見れば女の男装と気づくだろうから、一応、一緒に出かける時は笠をかぶってほしい。今日は雨だから差す傘でいいが」


 

 上手く男装できたつもりらしい冬乃には悪いのではっきりとは言わないが。かえって目立つというか、

 あまり一緒に歩いて、彼女がのちに一人で町に出た時に識別されるほど周囲に覚えさせてはならない危機感はどうしても残る。

 

 

 「はい!」

 冬乃がそれは嬉しそうに返事をしてきた。

 

 可愛さについ冬乃の頬に手を伸ばし、包む。

 (この恰好も・・これはこれでそそる)

 

 心に思った事は、秘匿しておく。

 

 

 

 

 

 

 笠なら、お高祖頭巾よりずっと風通しがあって涼しいだろう。冬乃は一緒にのびのび外出できる機会が増える予感に、嬉しさを隠せず、

 温かな沖田の手を頬に受けながら、その頬がおもいっきり緩んでしまった。

 

 

 なにより今日は、近藤が昼から寺の住職のところへ行っているため、部屋の掃除も終えてあるこの後は冬乃も非番で。

 

 外は穏やかな霧の梅雨。紫陽花の残る京の昼下がりを沖田とまた散歩できるなんてあまりに嬉しすぎて、もし自分にしっぽがあれば今ぶんぶん千切れそうなほど振れているだろうと冬乃は想像する。

 

 

 「じゃあ前回のように竹光と長脇差でいいね」

 (あ)

 沖田が刀を用意してくれる様子に、そして冬乃は「はい!」と飛び上がる手前で返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この散歩は、男装じゃないほうがよかったかもしれない。

 今更、冬乃は溜息をついていた。

 

 

 しとしと雨の続く路地。道ゆく人々に、沖田と冬乃“武士ふたり” は遠慮されるようにして道をあけられてゆく。

 

 そんななか斜め前に沖田の背を見ながら冬乃は歩む。

 

 この距離。

 

 そう、すぐ手をのばせば触れられる距離にいながら、

 

 届かない。

 

 

 (だって武士どうしだから今は・・)

 

 

 この時代、男性同士の恋愛自体は、珍しいことでも忌むべきものでも全く無く。

 後継ぎを遺さなくてはならない側面などでは時に禁止されることもあったものの、社会一般的には認められており、

 

 西洋の文化が入り込んで久しい平成の現代でのような、(今なお根深い)偏見には、当然に曝されてなどいない。

 

 だからといって、いまここで手をつないで歩いたり、

 どころか、あの時のように相合傘で抱き寄せられて歩いたり、

 

 なんてことができるわけでもなく。

 

 男女の組み合わせの時だって、それが人前で恥ずかしいのは同じだというのに、

 武士同士なら、なおさらである。

 

 

 (でもまだ男女のままのほうが・・)

 

 せめてそっと手くらい繋げただろうに。

 

 武士同士が人前で手をつないでいたら驚愕の事態だろう。

 武士は忍ぶ恋こそ何たら、とさえいうではないか。

 

 (て、それはちょっと意味ちがうか)

 

 

 はあ。

 そして冬乃は。何度目かの溜息をついた。

 

 「・・・どうしたの」

 

 (あ)

 ついに沖田が振り返って苦笑し。そんなに声に出ていたのかと冬乃は赤面する。

 

 「なんでも、ありません」

 冬乃は大きな和傘の下、慌てて俯いた。

 

 貴方にすこしでもふれていたい

 この往来でそんな希望をぽんぽん言えるほど、俄かながらの武士らしさを放棄できる心持ちではない。

 

 「なんでもないように見えない」

 だが立ち止まっていた沖田が、次には近寄ってきて、

 冬乃はすぐ前の地面に映りこんだ沖田の袴に、どきりと顔を上げた。

 

 ・・もう少し、嘘をつくのが上手になりたいものである。

 冬乃は諦めて。弱く微笑んだ。

 「お手を、つなぎたいのを我慢してます」

 

 「はい」

 

 あっさり。浅黒い大きな手が、目の前に差し出された。

 

 

 

 (え、ええ?)

 

 あいかわらず冬乃の度肝を抜く沖田に、冬乃が目を白黒させていると、

 その武骨な手は冬乃の手を攫って、

 しかもそのまま冬乃は引き寄せられ。

 

 「・・いいのですかこんな・・」

 

 「大丈夫」

 

 何が大丈夫なのだろう。手を繋ぐどころか今や腕まで絡められそうな近距離で、冬乃は傘を擡げてはらはらと沖田を見上げた。

 

 

 

 

 可愛い“稚児” と沖田が、手をつないで散歩しているさまは、そう不自然でもあるまい。

 これが大の武士同士なら少々問題だが、

 

 冬乃は幸いに、遠目で見ても年端のいかない美少年どまりな以上、ひっそり手を繋いでいようが周りの目には、沖田のそういう相手だと見えるだけ。

 成人武士に見えているつもりらしい冬乃には悪いので、やはりこれを言う気はないものの。

 

 

 この繋いだ小さな手さえほんのり熱を帯びてゆく、それだけでも沖田の心内を擽るような彼女を隣にして、

 長く触れていられないひとときなど望まぬのは、沖田とて同じだ。

 

 それでも沖田のほうから行動を起こさず抑えていたのには、それなりに理由があり。

 

 つまりは、

 一応ある程度の人通りがある、この往来では。

 

 

 「貴様ら、昼間から見せつけてくれる・・!」

 「新選組はやたら羽振りがいいようだなッ!」

 

 余計に目立つのも。

 

 問題だからであったのだが。

 

 

 

 (・・・まあ何してようが、どうせ来るやつは来るか)

 

 

 「総司さん」

 握る冬乃の手がぎゅっと強まった。

 

 「なるべく傘で顔を隠したまま、道の端に寄って」

 

 路地の左右から走りこんでくる男達へ眼を据えたまま、沖田は冬乃へ囁いた。

 びくりと冬乃の手が応えた、

 「私も・・」

 

 「闘います」

 

 

 そんな台詞とともに。

 

 

 

 「それは」

 遠慮する

 言いかけた沖田は、だが周りを取り囲んだ五人を一瞥し、

 

 考えを変えた。

 彼らがいずれも、たいした腕ではないと見てとれたからで。これなら冬乃を危険な目に合わせる心配は無い。

 これまで特訓した冬乃の、腕のほうが上だ。

 

 

 突如の騒動に沸く、路地の人々の悲鳴の中。

 

 「これまた随分、美味そうな稚児だな!」

 下卑た笑いで、ひとり早々に抜刀した男が、冬乃を上から下まで舐めるように見てにやつく。

 

 「わしらにも奉仕してもらおうかね・・!」

 「沖田ッ、貴様には悪いがその稚児、戦利品として頂戴するぞ!」

 続く他の男達の嗤い。

 

 

 どうやら冬乃の男装はひとまず成功しているらしい。

 彼らの目に冬乃が女に見えていないだけ、沖田は安堵した。

 

 だがここで冬乃の顔を覚えた彼らに、別の時に女の姿の冬乃を識別されずに済むとは限らない。

 

 

 全員、一人として逃がすわけにはいかぬようだと。

 

 

 「・・無駄口は終わったか」

 

 沖田は。冬乃の手をそっと離した。

 「おまえ達の戦利品なら」

 

 「一瞬の死だ。苦しまずに逝かせてやるよ」

 

 煽りの口上を投げておく。

 逃げ出す事も忘れるほどの闘争心をできれば煽るべく。

 

 「な・・んだと!!」

 「死ぬのは貴様だ沖田ア!!」

 実際のところは聴取のため、数人はひっ捕らえて牢へ放り込むのだが。

 


 「それから言っておくがおまえ達より遥かに、この“彼” のほうが腕がたつ」

 

 沖田の視界の端、冬乃がはっと沖田を見た。

 

 「ばかなッ!そんなわっぱが、わしらより遣えるわけがないだろうが!!」

 

 「刀を」

 そんな冬乃に、名は呼ばずに声をかける。

 

 「抜いて構えなさい。俺の背中を預ける」

 

 彼女の息を呑む気配がした。

 

 

 「ただし決して離れないように。これまでの稽古の実地訓練だ」

 

 

 「・・・はいっ!」

 

 威勢のいい冬乃の返事を皮切りに。男達が一斉に抜刀した。

 

 

 

 

 

 

 

 広い往来ながら、道の一方を多少でも塞ぐかのようにして傘を投げ捨てた沖田に倣い、冬乃も同じ位置へと傘を投げて、刀を抜いた。

 

 (黙って聞いてれば稚児稚児って)

 

 稚児は若衆の別称。

 つまり彼らには、冬乃が成人男子では無しに、若衆に見えているらしいことは分かったものの。

 

 (今日は前髪だって無いのに)

 どうも納得がいかない。

 

 冬乃は少々怒りまじりに刀を構えた。

 

 自分の背を、沖田の背に合わせて。

 

 二人が先ほど意図的に投げ置いた傘を避けながら男達は、もう数歩ずつ近づき、そんな二人を取り囲む。

 

 

 (この人たち・・)

 

 冬乃は構えながら男達を見回して、先ほどの沖田の台詞を思い出した。

 冬乃のほうが遥かに腕が上だと。

 

 沖田にそう言ってもらえたことで冬乃の内に生じた自信に、まるで後押しされるように力まで漲るようだ。

 そして、確かに冬乃の目にも、彼らが大した腕では無いことが段々と見えていた。

 

 そもそも間合いが近すぎるのだ。読めていないのだろう。

 

 冬乃の側からは分からないものの、沖田に対面している男達も恐らく似たり寄ったりではないか。沖田の間合いの広さからすれば、すでに男達は沖田の手中の距離。

 

 今の時点で彼らはとっくに斃されていてもおかしくない。

 

 

 (・・なのに、どうして動かないのですか、総司さん)

 

 

 冬乃は、だが次の瞬間、はっと目を瞬かせた。

 

 沖田が敢えて何も仕掛けないでいる訳に、気づき。

 

 

 これは。

 冬乃のための場なのだと。

 

 実地訓練。彼はそう言ったではないか。

 

 

 

 冬乃は、ぐっと柄を握り締めた。

 低く、息を吐き出し。絶好の機会を見極めるべく男達を見据えた。

 

 インフルエンザになった日のあの稽古以降も、何度か折を見ては沖田に特訓を受けてきた。

 これまでに教わったすべての事を冬乃は脳裏に奔らせる。

 

 否、

 心で思い起さずとも。体が、もう覚えているはず。

 

 

 「おらア!」

 目の前の男が、痺れを切らしたのか突いてきた、

 

 その瞬間、

 冬乃は事実、自然と動いて。男の剣を擦り上げた最上部で手の甲を返すなり、

 

 滑らせるように男の手首を払った。浅いとはいえ激しく噴き出す血と悲鳴の中を、

 冬乃の返した剣はそのまま、男の隣から慌てて打ち込んでくるもう一人の肩先を斬りつける。

 

 と同時に飛び下がり、沖田の背へと冬乃は戻った。

 

 「ぐ・・うわああぁぁ・・!!」

 

 斬られた二人とも、もはや痛みで剣を握っていられず取り落とし。傷を押さえて悲鳴をあげ続け、

 「次、こっち」

 背後の沖田が囁く声に冬乃は、彼と背を合わせたまま入れ替わるように動いて、

 

 沖田が負傷の二人へ峰打ちでとどめを加えたのを目の端に、冬乃は残る三人の男と対峙する。

 

 「こンのやろう!!」

 

 忌々しげに顔を引き攣らせた男と、いま憤怒に叫んだ男が、同時に振りかぶってきたところへ、

 冬乃は彼らの剣が振り下ろされるよりも早く、逆袈裟を繰り出し、

 彼らの腕を下から大きく薙ぎ払った。

 

 刹那に、

 悲鳴をあげ出す男達の横合いから、最後の男が勢いよく斬りこんできて、

 

 冬乃が急いで護りの体制をとろうとした時、だが男はガクンと崩れ落ちた。

 

 (え)

 

 崩れる男の後ろで、男から刀を引き抜く沖田が、冬乃の瞳に映り。

 

 いつのまに沖田は男の背後へ移動したのか。見れば冬乃が今しがた腕を斬りつけた二人も、すでに沖田が峰打ちした後なのか倒れている。

 冬乃は次には、恥じ入って小さく息を震わせた。

 

 その瞬間毎の目の前ばかりを見ていて、全体をまだまだ見れていなかったことに。

 だからこそ横合いから男が斬りこんできた事にも一瞬反応が遅れた。

 

 

 「よくできました」

 

 なのに、

 続いて落とされた優しい声の賛辞に。

 

 冬乃はおもわず、血糊を払い納刀した沖田を見つめた。

 

 「・・でも」

 

 「二人で援けあって闘っていたのだから、貴女ひとりで全員対処する必要はない」

 

 「え」

 (援けあって・・)

 

 「とても良い動きだった」

 「あ・・ありがとうございます・・!」

 

 正確には、冬乃が沖田に援けられて闘っていたといったほうが正しいだろう。

 

 いつかは本当に、沖田と援けあって闘える日がくるのだろうか。

 (・・まさか)

 きっと、そんな夢のような日は来るはずも無いに違いない。

 

 それでも。

 

 

 尊敬してやまない、剣豪、沖田総司に。

 

 二人で援けあって闘っていたと、

 

 (そんなふうに言ってもらえるなんて)

 

 背中を預ける、

 そう言われた時の感動がなお残る冬乃の胸には激しい歓喜が、一気に押し寄せて。

 

 

 

 

 不意に、沖田が近寄ってきた。

 

 つと顎に指を添えられ。

 次には、そっと持ち上げられた冬乃は、驚いて目を見開く。

 

 

 ここは、町中。

 

 まして今。遠巻きの人だかりの中。

 

 そんなこと、全くお構いなしのように更に近づいてきた沖田の、

 

 (・・え?)


 舌先が。丁寧に冬乃の目尻を舐めとった。

 

 

 

 感動のしすぎで涙が零れていたことに、冬乃が一寸おいて気がつくよりも前、

 

 人々の歓声とも悲鳴ともつかぬ叫び声が沸いたのは、

 あたりまえである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刀を納めるのも暫し忘れた。

 

 冬乃は、ぼうっとしながら、まもなく沖田が気絶させた男達の止血と束縛を始めるのを、眺め。ややあって漸く冬乃は気がついて、慌てて刀を納め、沖田の手伝いに向かった。


 そんな間も、未だ遠巻きの人々の好奇の目には曝されている。

 

 結構な遠巻きなので、冬乃を若衆と思った先の男達と違って、人々には冬乃の顔からしてきちんと見えてはいないだろう。

 それでも冬乃の恰好ならば遠目にも武士なのだから、先ほどの行為はまさに武士同士のいちゃつきに見えたに違いなく。

 

 (い・・いのかな?)

 今さら、良いも悪いもないけども。

 

 下げ緒を手に冬乃が堪らず隣の沖田を見やれば、今も普段通りに飄々としている彼はその優しい眼を向けてくる。

 と思ったら「御免、だいぶ濡れたね」と突然、困ったような顔になった。

 

 「え、いえ」

 「早く傘を」

 

 雨は霧状なのでこれまで気にならなかったのだが、確かに意識を向けてみると、積もりに積もって、じっとりと着物が濡れていることに気づいた。

 

 なら沖田もそうだろう。冬乃は慌てて立ち上がり、道に横たわる開かれたままの傘を取りに向かった。

 

 (・・ん?)

 その傘の向こうの道を、駆けてくる番所の役人らしき姿が冬乃の瞳に映った。

 

 「お、良かった」

 呼びにいく手間が省けたと、後ろで沖田が立ち上がり。振り返った冬乃が手渡す傘を受け取ると、沖田は残る手を伸ばしてきて冬乃の肩先をそっと払い。

 

 「この後、紫陽花を見に行く前に、ちょっと服を乾かしに行こうか」

 囁いた。

 

 (乾かしに・・?)

 

 どこへだろう。

 

 

 

 

 そうして連れてこられた、一見、趣きのある家屋に見まがう二階建を、

 冬乃は沖田の隣で、心臓が飛び出そうになりながら見上げていた。

 

 ここへ来るまでに沖田に聞かされた名称。冬乃とて、時代劇から知っていた。

 通称、出合茶屋。

 

 現代のラブホテル。

 

 (わあああぁ!!)

 

 冬乃の心はもう、道すがらずっと叫んでいる。

 

 

 武士同士で手を繋ぐどころか。

 

 (こういう所に入ってっちゃうの・・?!)

 

 冬乃ははらはらと隣の沖田へ視線を移す。

 

 

 どうしたのと哂うように、沖田がそんな冬乃を見返した。

 

 「服を乾かしに来ただけだが。何か期待してる?」

 

 

 (・・・いじわる!)

 

 冬乃は真っ赤になって顔ごと背けた。「冬乃」と愛しげな声音が追ってくる。

 

 「おいで」

 

 

 (・・・・)

 

 その呼びかけに、

 わんこ冬乃は弱いということを。絶対、沖田はもう分かって使っているに違いないと。

 

 傘を閉じ暖簾を上げて入ってゆく沖田の背を見やりながら、冬乃は内心白旗を振り。まもなく彼の後へと続いた。

 

 

 

 内装も、まるで本当に普通の家のようだった。

 

 だが顔を伏せたまま出てきた、この茶屋の主人らしき人以外には、全くといって人の居る気配が無い。

 

 (なんか不思議な雰囲気・・)

 

 男の案内に導かれ、冬乃達は二階へ向かう。廊下の左右奥にそれぞれ土壁を挟んで部屋がひとつずつあるようだ。片方の部屋へと進み、冬乃達の前で開けられた襖の向こうには、

 大きく派手な屏風が、目隠しのように入口に構えていた。

 

 目を見開いた冬乃の、前を遠慮がちに男がすり抜けて、一度も顔を上げなかった彼はその場で「ごゆるりと」とだけ言って慇懃に腰を曲げると、一階へと戻っていった。

 

 

 沖田を見れば、にっこりと彼は微笑み返してきた。

 にこやかなくせにどこか悪戯なその眼に、あいかわらず冬乃の心臓が跳ねる。

 

 部屋へと入ってゆく沖田に続き、襖を閉めながらどきどきと煩くなる胸で息をした冬乃は、屏風の向こうに並んだ二つの布団を目にしたとき、今度こそ心臓を激しく跳ねさせた。

 

 (あ・・あからさま・・!)

 

 部屋の中央で、存在感を醸しているその布団の上には、

 昼下がりの気だるさを誘う外の薄光が、格子窓の影を朧ろにともない落ちていて、

 

 その奥には、未だ火の点されていない行灯と、申し訳程度の床の間に生けられる二輪の花。

 

 「早く脱いだほうがいい」

 

 はっと冬乃は声の沖田を見やった。床の間と反対側の衣桁の前で、すでに上着を脱いでいる。

 (あ)

 冬乃は屏風の裏で脱ごうと入口へ戻りかけた、

 

 「こっちで」

 すぐに沖田の声に捕まり。

 

 (うう)

 いつまでたっても気恥ずかしさが残る冬乃は、当然、沖田の目の前で脱ぎ出すなどということは。

 

 「全部脱ぐようにね」

 

 (できないですから・・・!)

 

 

 「し、下の襦袢は濡れてませんっ」

 

 「襟は濡れてるだろ」

 (そ・うですけどッ)

 

 「でも、そのくらいならだいじょ」

 「いいから脱ぐ」

 

 

 有無を言わさぬ“ご主人様” の命令に。

 

 冬乃はすごすごと沖田の前まで向かった。

 

 

 

 

 

 あいかわらず奥ゆかしいのは冬乃の魅力でもあるものの。

 じっとりと襟を濡らしたままでいれば、首元から冷えるではないかと。ただでさえ寒がりだというに。

 

 沖田は目の前までやってきた冬乃が自ら脱ぎだすのを待たず、結局さっさと脱がしにかかった。

 

 一瞬少しばかり抵抗した冬乃は、だがすぐに諦めたのかおとなしくなり。

 沖田にされるがままに、頬を染めて俯いている冬乃を見ているうちにそして沖田のほうは、先ほど冬乃を揶揄っておきながら本当に妙な気になってきてしまった。

 

 もとい、乾くまでには時間がかかる。

 

 その間に裸の冬乃が冷えないよう、布団の中で抱き締めているつもりだったが、そんなことをしていれば己が辛くなってくるのは、端から分かっていた事だ。

 

 だが今朝も屯所へ戻る前に、ひとしきり、

 昨夜も勿論のこと、

 今夜も家へ帰れば、またそうなるのは目に見えている。

 

 (抱きすぎだろ・・・・)

 

 己に呆れてみるが、否。どうしろというのか。

 

 盛りのついた犬猫じゃあるまいし、

 冬乃は沖田が求めれば決して拒まぬのだから、沖田の側が自制すべきなのだろうが。

 

 

 しかし考えてみれば、

 冬乃はいったい昨今の状況をどう思っているのか。

 

 元々感度が良かったが、このところは沖田が気を付けないと冬乃はほぼ毎回、気を失うほど感じて、

 相応に彼女の体の負担になっていることには違いないだろう。

 

 初めの頃と比べ、近藤に確認しても仕事が手につかないといった様子ももう無いらしいが、

 じつは気取られぬよう励んでいるだけであったりしたら。

 

 「・・・」

 

 沖田はおもわず冬乃を覗き込んだ。

 

 気づいた冬乃が、その桃色の頬のまま沖田を見上げてくる。

 

 

 

 

 冬乃は沖田を見上げたまま、小さく吐息を零した。

 

 もう幾度抱かれていても、離れてしまえば、そんな時間を昨日よりももっと強く求めてしまう。ずっと離れないで傍にいて、埋め尽くしてほしいと。

 

 貴方で、

 貴方との愛で。

 この世での全ての記憶を。

 

 そんなことをいっそ叫んでしまいたい心を、冬乃はかわらず持て余している。

 

 

 「・・冷えるから、急ごう」

 

 何か言いかけなかったか。首を傾げかけた冬乃の、

 うなじと襟の間に、次には熱い手が挿しこまれ。冬乃はぞくりと奔りぬけた感で息を震わせた。

 

 大きな手は襦袢の襟をつたい、紐を解いて前を開きながら肩先をゆっくりと滑らせる。

 露わになるサラシを隠そうと咄嗟に交差した冬乃の腕は、背中に向かって剥ぎ取られてゆく襦袢に引かれ、むなしく後ろへと伸ばされた。

 

 ばさりと空中で冬乃の襦袢を一度広げた沖田は、衣桁にかけ終えると、さっさと自分の残りの服も脱いでゆく。冬乃は慌てて目を逸らし、再び前で交差した両の腕を強めた。

 

 すぐに冬乃の視界の端には、褐色の肌が映り。刹那に深く抱き締められた冬乃は、力強い温もりのなかであの常の幸福感に一瞬に包まれて、

 

 冬乃は心と躰に点った、もっと近づきたい感情に素直に、己の両腕を抜くと沖田の背へと回した。

 

 強く。

 硬くて安心する彼の胸へと、擦り寄り。うっとりと瞼をとじる。

 

 

 「たまには、耐えてみるかな・・」

 

 降ってきた溜息に、冬乃はすぐまた目をあけた。


 

 (耐える・・?)

 

 沖田が身を離し、冬乃の手を取って布団へと歩み出す。

 (あ)

 冬乃は再び急激に高まる鼓動に、乱れそうになった息を押して、

 「総司さ、ん」

 呼びかけた。

 

 「なにを」

 耐えるの

 

 問いかけた冬乃の、体はそれより一寸早く大きく引かれて、

 沖田へと崩れるように倒れこんだ、

 先で、逞しい腕に支えられ、視界が回転し。

 

 ふわりと。背に、厚い幾層もの敷布団を感じた。

 

 

 同時に、後ろ髪を束ねていた紙縒りを解かれ。

 濡れた髪も乾きやすいようにしてくれたのだろうと気づいた刹那、

 被さってきた沖田に、

 「…んっ…」

 首すじへ口づけられて。冬乃は高まり続ける鼓動の音に押されるように、沖田の首へと腕を絡めようと伸ばした、

 

 その手は取られ、

 

 「これで、」

 

 帯ひもを握らされた。

 

 「俺を縛ってくれる」

 

 

 

 (・・・いま何て??)

 

 

 冬乃はおそらく目がまんまるになっているだろう。

 

 これまで冬乃が縛られる事なら(多々)あった。なぜなら彼はドSだから。

 だが冬乃が沖田を縛る事など当然、皆無である。なぜなら彼はドSだから。

 

 (なのに)

 

 「聞きまちが・・」

 「ほら早く」

 

 

 聞き間違えでは、無かったらしい。

 

 

 「あ、あの」

 握らされている帯ひもを宙に留めたまま、冬乃は声を震わせる。

 

 「ん?」

 

 「理由・・をお聞きしても・・」

 「決まってるでしょ、冬乃を襲わないため」

 

 (え?)

 

 「なん、で」

 冬乃は一瞬に、先ほど沖田が口にした耐えるという台詞を思い出した。

 

 耐えるとは、そういう意味だったのだと。

 (そんなの)

 望まないのに。とは勿論、恥ずかしさの先立つ冬乃に言えるはずもなく。

 

 

 「何。襲ってほしかった?」

 

 いや、言わずとも伝わってしまったようだった。

 

 

 「・・・はい」

 

 もはや正直に答えて沖田を見上げた冬乃に、

 

 揶揄うだけで、肯定してくるとは想像してなかったのか沖田のほうが面食らったような顔になって。

 何やら思案するような顔へ変わったのちに、

 「正直に言っていい」

 どことなく心配そうな眼差しにさえなって、冬乃を覗き込んできた。

 

 「・・正直に言ってます・・」

 またも羞恥が勝りだして顔を背けてしまった冬乃の、か細くなった声が途切れるより前、

 

 冬乃の手からは帯ひもが奪い返され。

 

 激しい口づけが待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紫陽花を見に行く時間など、なくなった。

 

 

 (“好色” すぎるって思われてたりとか、してそう・・)

 

 衣桁の前、沖田の隣で最早しっかり乾いた服を着こんでいきながら、冬乃は今さら不安になっている。

 

 格子窓の向こうでは暮れの闇が迫り。二人は明かりをつけぬ中、薄暗がりに慣れきった視界で支度をしてゆく。

 

 「大丈夫?寒くない?」

 全て着終えた冬乃を見やって沖田が確認してきた。

 

 「はい」

 冬乃は慌てて頷く。初夏とはいえ、未だ日が落ちると辺りは一気に涼しくなる。梅雨があけて本格的な夏に突入する前の、ひとときの憩い。

 「ちょうどいいです」

 冬乃は沖田の気遣いに急いで笑顔を返した。

 

 一抹の不安を隠し。

 

 (でも)

 

 不安と言ったとて。

 内心で呆れてたりしませんか

 なんて簡単に聞けるわけがない。

 

 

 一貫して顔を上げない男に部屋代を払い、すぐにまた奥へ引っ込んだ彼を背にふたりは、すっかり暗くなった外へと傘を差して出る。

 冬乃は手を繋いでくれる沖田のとなりで、小さく息を零した。

 

 体が、

 こうして、ふれていないとたまらなくなる。できることならずっと、繋がっていられたならと。

 どうしてこんなになってしまったのか、冬乃の心が理での説明などできるはずもない。かわらぬ恋わずらいは、

 もうこのまま最後まで冬乃を苛むに違いなく。

 

 

 もしいつか、沖田が冬乃を愛さなくなってしまったら、冬乃はその苦しみに到底、耐えられないだろう。

 只々そばにいられるだけで幸せだったあの頃と、どちらが幸せなのか。冬乃は今なお分からなくなる時がある。


 

 (そんな日が来ると、思ってるわけじゃないのに)

 

 

 なぜ最上の幸せを得れば得るほど、この世は同じほどに底の観えない苦しみもまた得るようにできているのだろう。

 

 

 もう二度と離れたくない

 

 魂からのそんな祈りを

 叶え、この苦しみから真に解放されることの出来る道がもしもあるのだとしたら、それはいったいどんな―――

 

 

 「冬乃」

 

 冬乃は顔を上げた。

 

 沖田が心配そうに冬乃を見ていた。

 

 「・・御免」

 

 次に落とされたその言葉を、冬乃は刹那には解せずに、ぼんやりと沖田を見つめた。

 町の灯りを背に、冬乃を見下ろす沖田の、

 常の優しい眼は今、どこか苦しげな色すら帯び。

 

 冬乃はその色に気づいて驚いて目を見開いていた。

 

 「体、辛かったりしない」

 

 「え・・?」

 「今夜こそは控えとく・・」

 

 やっと沖田の言う意味が分かった冬乃は、

 

 「辛くなんてありません!」

 咄嗟に、

 縋るように返していた。

 

 「総司さんと、近づけないことのほうが何倍も辛いです・・!」


 「冬乃」

 「私・・おかしいですか・・その、」

 

 不安な想いのたけを打ちあける覚悟を決めて、冬乃は沖田を見つめる。

 

 「・・好色だって。呆れてませんか、本当はこんな女、嫌だったり・・しませんか・・・」

 それでも沖田の手を握ったまま、最後には項垂れた冬乃に、

 

 「まさか」

 握る冬乃の手を優しく引き寄せ、沖田が近づいた。

 「・・前に答えなかった?」

 

 愛しげな声に。冬乃ははっと顔を擡げた。


 「好色な女は、全く“お嫌” じゃないと」

 

 嫌でないどころか

 そう呟き沖田が傘ごと伸ばしてきた腕に、冬乃は抱き寄せられ。

 

 「それが冬乃なら、これほど嬉しい事はない」

 

 

 言葉通りのひどく嬉しそうな声が、冬乃の耳元へ降って。温かい腕の中に埋もれながら、

 冬乃はもう周りの視線も忘れ、

 

 とめどなく溢れだす幸福感に強く頬を寄せた。

 

 

 

       

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る