一八. うき世の楽園⑩



 目が覚めた冬乃の目はいきなり、褐色の逞しい胸板を映して。

 声をあげかけた冬乃は、

 次には、すっぽりとその腕に包まれていることに気づき、

 

 (え?・・え?!)

 

 はだけた襟から覗く、冬乃の大好きなその視界を超至近距離で堪能してしまいつつ、

 懸命に記憶を探るも。目の前の愛する男が、一体いつのまに冬乃の部屋に来たのか全く思い出せず。

 

 そうこうするうち。

 「おはよう冬乃」

 冬乃を覗き込む気配に、

 

 どきどきと見上げた冬乃を。

 「昨夜、夜這いした」

 悪戯な眼が見返してきた。

 

 (よば・・っ!?)

 

 「抱き締めて寝ただけ。安心して」

 

 何が安心してなのかよく分からないが目を瞬かせた冬乃に、

 「冬乃の寝てる間に何かしたりはしてないから」

 と聞いてもないのに答えた沖田が。

 

 「予測通り冬乃が寝ててくれてよかった」

 

 じつに爽やかに笑った。

 

 「起きてたら、襲ってた」

 

 極めつけにさらりと続けられたその台詞に。お決まりの如く冬乃は、朝から一瞬で発熱を遂げる。

 見えない湯気を出しはじめる冬乃の、髪には優しく口づけがおちてきて。それは辿って額へ、頬へと次々に。

 

 「美味しい夜食を有難う」

 

 冬乃のあいかわらずの反応が面白いのか、くすりと笑った沖田の息がちょうど冬乃の耳朶に口づけられる刹那に掠めて、

 ぞくりと身の芯を震わせた情感に冬乃は、慌てて目を瞑る。

 

 だが沖田が体をずらし降りてくる気配がして、すぐにそっと目を開ければ、穏やかな優しいまなざしがそんな冬乃を迎え。

 そのまま片頬を温かな手に包まれた冬乃は、近づく沖田の顔に再び、目を瞑った。

 

 

 「ン…」

 慈しむように優しいその口づけは、まもなく常のように冬乃を夢見心地なひとときへといざない、

 冬乃の首の下に回された太い腕は、ゆっくりと冬乃の背を降りて、冬乃を優しく強く抱き寄せる。

 

 透ける朝の光は冬乃の瞑った視界をも柔らかに照らし、どこからか小鳥たちの歌声が届きはじめるなかで、

 冬乃はもうまるで天国にいるような心地さえしてきて。

 

 幸せな夜を過ごした次の朝に彼の腕のなかで目を覚ますこと、冬乃がすでに中毒のように求めてしまうひとときは、これなのだと。

 

 そして昨夜に寂しい夜を過ごした今朝ですら、力強いぬくもりに抱かれた途端こうなのだから、

 彼の腕のなかはよほど冬乃にとって、“うき世”の楽園なのだと。冬乃は打ち震えるほどの幸福感に溺れるように、陶然と身を委ねた。

 

 

 こんなに幸せでいていいわけない

 

 

 だから、不意に。

 鎌首を擡げた、いつかのような罪悪感に。

 

 (・・・え?)

 

 冬乃は、咄嗟に唇を離していた。

 

 

 「冬乃?」

 心配そうな眼が、冬乃の呆然と開いた瞳に映る。

 冬乃は身を奔った震えをごまかすべく、只々沖田の首元へ顔をうずめた。

 

 「・・・」

 何も聞かずにあやすように冬乃の髪を撫でる沖田に、ほっと小さく息を吐きながらも冬乃は、目の前の沖田の着物をおもわず握り締めた。

 

 

 この罪悪感は。どこか、あの疎外感のもたらした底知れぬ不安にも似て。


 けれどもう、幸せである喜びなら素直に受け止めて享受することに、とっくに慣れ得たはずなのに、


 (なんで・・・)

 

 真っ先に心に浮かんだ千代の顔なら、今だってかわらず微笑んでくれるのに。

 

 そして千代から受け継いだ、この魂からの、

 使命感が。

 冬乃に今も確かに訴えているというのに。


 沖田との、この関係は、

 

 千代の願いであるはずだと。

 

 

 なのに幸せをさらにこのうえなく強く噛み締めた、この瞬間に、

 何故ふたたび呵責の念が覆うのか。

 

 

 どうして、まるでこれ以上幸せになってはならないと。留めるように。




 「冬乃」

 

 冬乃の背を抱き締める硬い腕が、つと緩められた。

 

 「俺が夜這いだ何だと言ったせいで、不安にさせた・・?」

 

 「え」

 唐突に言い出されたその台詞に、冬乃は驚いて沖田を見上げた。沖田が冬乃に目を合わせてゆっくりと冬乃の頬を包みこんだ。

 

 「あの時と、同じ顔をしたから」

 

 (あの時・・)

 冬乃に。勿論、それは伝わって。

 

 沖田は冬乃が“禁忌” をまえに怯えた時の事を言っているのだと。強烈な疎外感が全く消えてはくれずに言い知れぬ不安に駆られた、あの時。

 

 

 (・・・と・・・同じ・・?)

 

 いま心奥で蠢く、この罪悪感は、

 

 幸せになってはならないと留めるかのように、冬乃の心を縛り付ける箍は。


 

 あの不安と、

 冬乃の心を解放から縛り付ける箍と。

 

 

 (同じもの・・・・だとしたら原因も、同じということ・・・?)

 

 

 だがそれが何なのか。冬乃に思いつくものなど無い。

 

 

 

 

 「冬乃・・大丈夫か」

 表情を強張らせたままの冬乃を心配そうに見つめる沖田に、

 その優しいまなざしに。冬乃は、

 涙がこみ上げそうな想いを隠して微笑み返した。

 

 「ごめんなさい、大丈夫です。また、・・幸せすぎて怖くなったみたいです」

 

 冬乃は握り締めたままの沖田の襟に気づいて、慌てて手を離す。

 

 「私なら、総司さんにこうして来てもらえたことは嬉しいんです。それに私は、ほんとうに早く貴方と」

 

 結ばれたい

 冬乃は口にしかけて、噤み。

 

 

 (言ってどうするの)

 

 彼とこれ以上近づくことは、許されていないと。もう、嫌になるほど思い知った。

 

 抱いてください

 あのときの想いは。きっと二度と、口にできない。

 

 

 冬乃は唇を噛んだ。小鳥の声はいつのまにか聞こえなくなっている。

 

 こんなに幸せでいていいわけない

 幸せになってはならない

 

 代わりにそんな声が、心奥で聞こえたまま。

 その響きは、

 もっと以前から。

 もう長く聞いていた感覚。

 

 

 “私なんかが、愛されるはずがない、幸せになれるはずがない”

 

 (これ・・は)

 

 

 “だって私はお母さんにさえ愛されないのに”

 

 

 (・・・・あの頃の)

 

 

 “そして愛される資格なんか無い”

 

 

 “私を愛してくれないことを―――お母さんを、許せない私なんて”

 

 

 

 

 「冬乃?」

 

 目尻に指が這わされ、冬乃はびくりと震えた。

 

 気づけば一気に溢れ出ていた涙が、沖田の指を尚も伝い。

 

 

 「あ・・」

 

 

 

 この罪悪感の、―――不安の。

 

 原因は。

 

 

 

 (お母さん・・・・なの・・?)

 

 

 

 

 

 

 

 沖田が、冬乃の涙をその指に伝わせたまま溜息をついた。

 

 「全然、大丈夫じゃないだろ・・」

 

 冬乃はとめどなく流れ落ちる涙を抑えるすべを持たずに、ただ目を瞑って。力無く首を振った。

 

 「冬乃が今、思っている事は」

 そんな冬乃の頬の涙を優しく払い、沖田が、

 「俺に話せない事?」

 困ったような声を出した。

 

 冬乃も困って、そっと目を開ける。

 「そういうわけじゃ・・、」

 

 「でもこんな事は・・」

 

 母親のことを許せないなんて事。

 

 

 あのとき沖田に導かれて、母と話せて僅かでも再び心を通わせることができて、

 

 仲違いした後もほんとうは、まだ愛されていたのかもしれないと。思えるようになっているというのに、それでも忘れられないのだから。

 あの頃を。

 

 

 (こんな心の狭い私なんか・・・)

 

 実の母のことさえ許せないでいる、そんな罪悪感を抱えて、

 

 

 (こんな私が。幸せになっていいわけないに決まってた)

 

 

 いままで、どうして気づけなかったのか。今となってはむしろ不思議にすらなる。

 

 

 「こんな事は、・・・誰も聞かされたくないと思います・・」

 

 「だったら、俺はそれを聞きたい」

 「・・え」

 

 顔を上げる冬乃を迎えた沖田の眼は。どんな冬乃の想いも受けとめてくれると、いつかに冬乃を確信させてくれた沖田の愛情が、そのとおりに満ちたようなまなざしで。

 

 (総司さん・・)

 

 「話してみて」

 

 そっと冬乃の体を支えながら、互いの身を起こす沖田に、

 

 

 冬乃は。

 

 小さく、頷いた。

 

 

 「私は母のことを・・許せていないんです」

 

 震える声が、喉を抜ける。

 

 

 「今までの事を・・・親なのに、許せないなんて・・よくないのはわかってます」

 

 「それは違う」

 即座に、沖田が否定して、冬乃は驚いて沖田を見返した。

 

 「親だからこそ許せないことがある。許せなければ、許せなくていい」

 

 

 (あ・・・)

 冬乃は、起き上がったままの居ずまいを正すのも忘れ、彼の深い愛情の篭った眼を見つめた。

 

 そうだった。沖田はあの時も、言ってくれていたではないか。

 受けた傷に苦しんだなら、それを無理に許そうとしなくていいのだと。

 

 無理に親を許さなくてもいい、すでにそれを意味していたのではないか。

 

 「重要なのはあくまで、冬乃が、できうるかぎり親御さんへの負の感情に囚われずに済むようになる事。許す許さない自体が重要なのではなく」

 

 

 言葉を選ぶように沖田の、気遣う眼が冬乃を静かに見据えた。

 「そもそも子は、産まれながらに親を無条件に愛する一方で、その逆は残念ながら親による」


 「子が親を愛せなくなったとすれば、そんな結果を招いた親の側に問題があったのであり、子の側がその事で罪悪感を抱える必要など無い。つまり、親を許したくとも許せない事にも同様に」

 

 

 冬乃は、再びこみ上げた涙を隠すように慌てて頷いた。

 

 沖田の言葉が、冬乃の強張っていた心に沁みわたる頃。冬乃は抑えきれなかった涙を素直に手の甲で払って、

 もういちど、静かに頷いた。

 

 

 さいわいに冬乃は、完全に母を愛せなくなるよりも前に沖田と出逢えて、

 そしてこの奇跡によってはからずも、母の側が冬乃を喪う恐怖を実感し得たことで、

 冬乃と母は向き合い。冬乃の心は留まれた。

 

 それでも、これまでの事を全て洗い流すことなど叶わず。

 これまでの憤りも悲しみも苦しみも。全てを、母に打ち明ける日がいつか来るのか、それさえ冬乃はわからない。

 

 

 もっとずっと前から、

 冬乃が・・母が、一日一日を、或いは互いの最後の日になるかもしれないと。少しでも思ってみることができていたのなら違ったのだろうか。

 

 

 (・・どうして)

 

 子がただ生きていてくれるだけで、幸せなことだと。

 

 そうして子を大きく包み込むことのできない親が、存在してしまうのか。

 

 それができない親の矮小な器量を、

 剥き出しにぶつけられたまま育った子が。また親になれば、

 そのあまりに不完全な親としての有様を、やっと許せたような気になってしまう転化さえ起こりうる。

 

 否、確かに許すことができたならば、いいかえれば、親のその罪はその程度で済んだまでのこと。だがそれですら、往々にして忘れることはできないもの。

 

 まして、『その程度』ではなかったのに許した気になった場合の問題は、計り知れない。

 

 親を許す理由をあれこれ己へ言い聞かせたことで、

 そうして実は自身がその言い訳を得て、我が子へと同じ事をしてしまっても、そんな己をも許してしまうことへと繋がりかねず。ときにそれに気づくことすらなく。

 それでは、自分の代で変えなければ。連鎖は止まらないというのに。

 

 

 許せないならば許せなくていい

 それが、これらの断ち切るべき呪縛をも示唆していることに、冬乃は思い至って。

 

 (あるべき連鎖は)

 

 沖田の言葉を、冬乃は思い出す。


 こうあってほしいと願って援ける事と、

 要求し強要する事は違う、と。

 

 (願い援ける愛のほう・・)

 

 

 願い援ける事が、そうして導く事が、子への大きな愛ならば。

 

 要求し強要する事は、子への愛のふりをした別のもの。それはいわば親の内にはびこる自己愛であって。“親の責任” という名の隠れ蓑を被っていることに、ときに本人も気づかぬほどの。

 

 

 (私が欲しかったのは、大きな愛のほうだったのに)

 人なのだから、自己愛が言動を支配する瞬間があるくらいは、仕方のないことで。冬乃はとうの昔にもう、完璧な親としての人間像を求める事など、そうと知らぬうちに諦めていた。

 

 それでも一方で冬乃は、餓え、求め続けた。親がそんな自己愛に翻弄される時があっても、それを超えた、それ以上に強い愛で最終的には包んでくれることを。

 

 どんなに、親の自己愛を満たせない子だろうと。無条件に。

 

 

 

 (そして同じように・・『親』でいてほしかった)

 子が親に、そう求めてしまうことはいけない事なのか。

 

 母が親でも大人でもある前に、ひとりの女性として悩み苦しんでいたことを理解できてからも。冬乃にとっては、

 

 それでも最後には親でいてほしかったと。思うのは。

 

 

 

 (総司さんなら、・・きっと、そんなふうに求めすぎるなと言うのかな・・)

 

 沖田は以前、互いにこうあってほしいと何かを“要求” して不和を呼ぶのなら、互いにそうしないことを奨めた。

 

 

 こうあってほしいと願って援ける事と、

 こうあってほしいと“要求” し強要する事は違う


 冬乃は自戒のように、胸内に繰り返す。

 

 

 (・・・私がお母さんにこうして、親でいてほしかったのにと思うことは、要求し強要するほうだ)


 冬乃も、また。いつからか母を“大きな愛” で包むことができなくなっている、ということ。

 

 今の冬乃の母への愛情は、幼い頃に母へ懐いていた愛情のようにはもう大きくない。

 そうなった原因なら、沖田の言うように母の側にあるとしても、

 

 おもえば親とは、なんと報われない立場だろうか。

 

 

 親は数々の援助と時間を子に捧げても、

 

 それが赤の他人の施しであれば、深い恩義とされるはずが、

 親であるがゆえに、それらは時に義務として、時にまさに無償の愛として、当然のものとさえ見なされるのだから。

 

 

 (・・・それでも。)

 

 人は、その覚悟もなく親になる道を選んではならないのではないか。

 

 

 ましてそれらを親の恩義として、いずれ子に押し付けて苦しめることになるくらいなら。



 だが、

 本来ならば親の側もまた、子へ自然と感謝が生じるもの。

 子の存在そのものに、

 子から向けられる無垢でまっすぐな、本物の無償の愛を受けて、その子の傍で生きていける幸福に。

 

 決して、一方的な恩ではありえない。

 

 

 

 

 

 

 冬乃は小さく肩を震わせた。

 

 母の意に逆らわず素直だった幼い頃には、確かに愛されていた。そしてそんな条件つきの愛は、冬乃が成長するにつれ、少しずつ欠けて。

 冬乃を大きく包みきれなかった母の愛は、

 

 実父の件以来、もう母と意思疎通ができなくなったまま、母の意に副うことが叶わなくなったから完全に失せてしまったのだと、愛されなくなったのだと思っていた――本当はまだ愛されていたのかもしれなくても――あの頃の日々が。胸奥を抉ったまま。

 

 それでも冬乃は、

 これまで向けられてきた数々の母なりの愛に、

 産まれてきてくれてありがとう、と言ってくれた母の、冬乃を喪うかもしれないと怖れてくれた母の、あのとき垣間みた確かな愛に。

 

 辛かった頃を許せない想いの一方で、

 

 

 (ありがとうって。愛してくれて、よかったって・・思えてるじゃない。だから・・・)

 

 

 

 たとえどんなかたちであっても。

 

 『愛されていた実感を、貴女が確かに持てているならば。それ以上を望まなくてもいい』

 

 沖田のその言葉が、いまも胸に残っている。

 

 おもえばそれも、冬乃が負の感情に囚われすぎて苦しまないための言葉だった。

 

 そして、

 冬乃が『必然的に生きるしか選択肢は無かった』乳児の時期に、

 実父と別れて独りで大変な苦労をしながら母は、懸命に面倒をみてくれた、その事実と。


 そのうえ、もしも親子の縁が今生の縁であるのなら。

 そんな儚い縁でも、幾つもの愛を受けられたのだと。そう思ってみれば尚更に。

 

 沖田に聞いてもらえたあの時から、

 冬乃はそれらを御守りのように胸に懐いて、ひとつひとつ幼い頃から今までの、母との想い出を思い起こしてみては、

 そんな想い出が冬乃には在ることに、そこに幸をおぼえ、

 

 時おり唐突に湧き起こる母への激しい感情と、どうにか向き合えるようになら、なってきていた。

 いつか胸奥の傷すら癒せる日がくるのかは、分からなくても。

 

 

 (・・・だから。もういいかげんに)

 

 

 この巣食う罪悪感から、解放される時なのだと。

 

 

 沖田の言ってくれたように、親への、負の感情に囚われず。前を向いて生きてゆくために。

 

 

 

 「総司さん・・ほんとうに」

 

 ありがとうございます

 

 再び込み上げた情感に突かれて、囁くようになってしまった冬乃の声を。沖田が受け止めるように冬乃の手の甲へと、その手を重ねた。

 いつのまにか、膝横に流した自分の手が裾を握り締めていたことに、冬乃はそれで気がついて。

 

 「冬乃が、また帰ることになるなら」

 そんな冬乃を変わらぬ優しい声音がそっと包んだ。

 

 「親御さんには何度でも、どんな些細な事でも、まだ伝えられる事があるならば、伝えておいで。何かしらの悔いがなるべくでも冬乃に残ってしまうことのないように」

 

 

 沖田の大きな手の温もりに引かれ、深く腕のなかに包まれながら、冬乃は目を閉じた。

 穏やかに拡がる安息の裏で、刺し込まれたままの痛みが再び心奥を抉って。

 

 沖田が気にかけてくれているような事には――母の居る世を離れる事には、ならないのだろうから。

 さらには此処の世への永住が、ひいては冬乃と母の世での“死” になるなど。沖田が知るよしもなく。

 

 今このときも冬乃の体が平成の世に残っていて、昏睡した状態である事、

 時空移動の、この現象を母に明かして信じてもらえるはずのない事も。

 

 

 沖田からすれば、冬乃が家族と話してくる事は即ち、

 冬乃が家族の元を離れ、沖田の居るこの身寄りのない世へと“嫁いで幸せになる” 決意を伝え、

 わだかまりを可能な限り残さないようにする事であって。

 

 まさか冬乃の世で“永久に目覚めなくなる“ 決意を胸に訣別してくる事ではない。


 

 (もしも・・)

 

 此処の世で死を迎えるまで永住すること、それ以上に、沖田を追うことすら、

 真に冬乃に叶うなら。

 

 その幸せな“平成での死” を前にして。冬乃は逆にこれ以上は、何も伝えずに済むだろう。

 

 母に一番に伝えたかった言葉なら、もう伝えることができたのだ。

 あとは恨み言しか残っていないようなもの。

 永劫の別れにおいてそれは、きっと重い置土産にしかならない。わざわざ打ち明けて、母を二重に苦しませることはないと。

 

 

 二重――母の“娘” を、母から奪ってしまう事との。

 

 それでも、どうしても冬乃の望む想いはやはり変わらない。

 

 (総司さんの傍に居たい)

 

 これだけは。そうして母を“捨てる” 罪悪感に、どんなに咎められようと最早、揺るぎない望みとして懐いている。

 

 所詮は望みでしかなくても。或いは、望みでしかないために。



 

 「大丈夫です・・・」

 冬乃は。

 

 平成の世との訣別、

 その起こることのない想定のなかで、答える。

 

 「総司さんのおかげで、話したい事ならもう全て、話してこれました。もうすでに、悔いはありません・・」

 

 


 (ごめんなさい)

 

 母と沖田、どちらへともなく。

 最後のことばを、冬乃は胸内に呟いた。

 

 

 

 「・・以前に冬乃が言ったように、母君から冬乃が愛情を感じることができていたなら、」

 冬乃を腕の中に抱き締めたままに、沖田の温かい手が冬乃の頭の後ろをそっと撫でた。

 

 「母君が、冬乃の幸せを願っていることもまた、信じてみていいと俺は思う」

 

 冬乃はいま耳にした事を俄かには呑み込めずに、顔を上げた。

 

 (私の、幸せ・・?)

 

 

 「つまり冬乃の望んで選んだ事は、母君の望む事でもあると」

 

 

 (あ・・・)

 

 冬乃が此処の世を選ぶ事を指しているのだと分かって、冬乃は目を見開いた。

 

 幸せになろうとして、母の居る世を離れてでも此処へ来たいと望んでいる。もしも本当に、そう母にきちんと伝えられたなら、

 

 母はそれを受け止めてくれると。

 

 (信じてみても・・・いいの・・・)

 

 

 「もちろん世の母君の気持ちを俺に推し量れるわけではないが、俺は、それが冬乃の望む幸せなら、冬乃を手放すことを厭わない。冬乃を愛する母君ならきっと」

 同じ想いだと信じている

 

 

 沖田の穏やかな声が救い上げるように、冬乃の心をふわりと軽くしたのを感じた。

 ふたたび零れ落ちた涙が、冬乃の頬を静かに伝い。

 冬乃は残る雫を圧し出してしまうように一瞬強く目を瞑った。

 

 本当にそうであれば。冬乃の内の母へのあらゆる罪悪感は、今度こそ完全に削ぎ落ち、消えてゆくように思えて。

 

 実際に冬乃の望みが叶うには冬乃と母は“死別する” ことになるなどと、沖田が知るよしもない中で掛けてくれた慰めであっても。だから、たとえそれが祈りの内を出なくとも。

 

 

 (・・こんなに)

 

 いま冬乃の心は、深い安らぎに包まれて、

 

 

 幸せで。

 

 

 (温かい・・・)

 

 この温さは、

 

 氷塊のように解けることの叶わなかったあの疎外感をも、一瞬で解かしてしまえそうで。

 

 

 

 もう錯覚ではない、その確かな予感に。

 

 冬乃は沖田の腕の中でそっと凭れ、目を閉じた。

 

 

 

 かつて冬乃の罪悪感が向けられてきた、もうひとりの存在をいま、冬乃は瞑った瞼の裏に想い浮かべていた。いつも花の綻ぶような優しい笑顔で、そんな冬乃を迎えてくれた彼女を。

 

 

 (総司さんとの事、ちゃんと伝えなきゃいけない)

 

 冬乃が使命にはっきりと気づいてからも、なお沖田との幸せな時間を前にしては、心が気にかけてきた、その人へ。

 

 

 (そうしたら、・・これで私は)

 

 

 もうひとつの『禁忌』に、

 

 

 

 きっと今度こそ。抗える。

 

 

   





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