一八. うき世の楽園⑨



 

 少しまえ目が覚めた沖田は、まだ起き上がりはせず、

 伸びのついでに頭頂部で両手を組んだまま、ぼんやり昼下がりの天井を見上げていた。

 

 こうしていると思考にあがる存在は、当然のように冬乃であり。

 

 生殺しの日々に、いつまで耐えうるものやらと嘆息するも、冬乃の心が真に解放されるまで待つ想いにも変わりは無く。

 

 そんな折、ふと廊下を来る冬乃の気配を感じた。

 「総司さん・・」

 まもなく襖ごしに掛けられた声は、ひどく遠慮がちで。

 

 寝たふりをして彼女が傍まで来たら布団へ引き込んでしまおうかとも思ったものの、

 あの様子では答えなければ入ってこなそうだと。沖田は仕方なしに、入っておいでと返事を返した。

 

 襖がそろそろと開き。

 「もしかして起こしてしまいました・・?」

 まだ仰向けている沖田を目にするなり、冬乃が申し訳なさそうにその瞳を揺らした。

 

 

 「大丈夫。もう起きてたよ」

 沖田の返事に、ほっとしたように冬乃は息をついて、襖を閉めると、やはり遠慮がちに近寄ってくる。

 恋仲なのだから、いちいち遠慮しなくてもいいものを。

 沖田は滲む苦笑を隠さず、半身を起こしつつ冬乃を手招いた。

 

 「あの、近藤様から総司さんへこれを返してくるようにと・・」

 沖田の布団の横に両膝をついて正座した冬乃が、沖田の表情に戸惑った色をみせながらも、訪問のわけを告げてくる。

 

 「・・先生が?」

 冬乃の差し出す物を見遣れば、確かに数日前から近藤に貸していた根付だが。

 

 (妙だな)

 近藤は、たとえ弟子の沖田からであっても借りた小物を、他人に返しに行かせたりはしない。

 

 その手にある黒曜石よりもずっと美しい瞳を擡げ、沖田の様子に小首を傾げた冬乃に。沖田は僅かに目を眇めた。

 

 近藤がわざわざ冬乃を寄越した理由があるはずだ。

 

 小さな手から根付を受け取りながら沖田は、冬乃が伏せ気味の睫毛を揺らして、どことなく切なげな吐息を小さく零したのを目に、

 (・・・ああ、なるほど)

 そして、すぐさま思い至った。

 

 「何か考え事してた?」

 

 「・・え」

 再び睫毛を震わせた冬乃を、沖田はそっと見返す。

 「仕事に集中できてなかったのでは」

 

 何故わかるのかと聞きたげに、冬乃の瞳は見開かれ。

 

 「はい・・」

 一寸のち、その瞳は再び伏せられた。

 「ごめんなさい・・」

 

 「咎めてるわけじゃない」

 

 俯いてしまった冬乃へ、沖田は腕を伸ばし引き寄せた。傾いた彼女の「きゃ」と鳴る鈴声が、沖田の腕の中に落ちる。

 

 「ただ、先生は心配してるようだから」

 腕の中で驚いて顔を上げてきた冬乃を、沖田は間近に見下ろす。

 

 「その考え事は、もしかして俺のせい?」

 

 

 沖田を可憐に見上げる顔が、みるみるうちに紅色に咲いた。



 (・・・)

 

 仕事も手に付かなくなるほど、好きな女が己で一杯になる。なんぞ男冥利に尽きる、

 

 のだが。

 近藤が困る。すなわち沖田も困る。

 

 「・・冬乃、」

 愛しさはいったん押し遣り、今しがた無言の肯定を示した桜色の面をそのままにしている冬乃を、沖田はそっと腕から離した。

 

 「どんな事」

 代わりに、片頬を手に包んで冬乃の視線を持ち上げ、揺れる瞳を見据えれば、

 すぐにその眼は恥じらって沖田から逸らされ。

 「なんでも・・・ありません」

 

 そんな、冬乃にしては珍しい、どこか抵抗を醸す返事が返された。


 「仕事には集中するように以後気を付けますので・・」

 聞かないで

 と言いたげな台詞がそして、続き。

 

 「わかった」

 沖田は。追求はせず、冬乃の頬からも手を離した。

 

 あっさり引いたことに却って驚いたのか、冬乃の視線が沖田へ戻ってくる。

 

 「ただ・・」

 沖田はそんな冬乃をそっと覗き込んだ。

 もとい、

 

 「想う事がある時は、何でも遠慮しないで言ってほしい」

 

 少しばかり。想像はついていた。

 

 昼餉の席で、今夜は家に帰らず屯所に居るよう伝えた時の、冬乃の一瞬見せたひどく寂しげな表情は、言葉にされなくても雄弁だったからだ。

 常のように、

 あのとき彼女は静かにその心を抑えて、

 

 唯、小さく頷き。沖田も、彼女がそうすることを承知で。

 互いに何も言わず。

 

 

 (冬乃・・)

 

 遠慮するなと告げた沖田の今の台詞に、はっとしたように見返してきた冬乃は、だがまもなく露骨に俯くと「はい」と囁いて。

 

 そのまま黙り込んでしまった冬乃を前に、沖田は心内で溜息をついた。

 

 

 夜の巡察では、斬り合いに及ぶ頻度が格段に高く、命の競り合いは時に身を滾らせる。こればかりは、物事に激することなど稀な沖田でさえ例外では無い。

 

 心の持ちよう如何で生じなくさせられるものでは無しに、肉体の為すもの、

 つまりは性欲と同等の本能的作用だからだ。

 

 勿論、そうして生じた滾りを、

 鎮める段階になれば、それは心次第だが。

 

 

 性欲と紙一重のその滾りを内に抱えながら、冬乃を前にすれば、

 己がどういう情に駆られるか、火を見るより明らかで。

 

 抑える苦労をするぐらいならば、今夜は始めから冬乃には逢わないでいるほうがいい。

 

 

 だが、それでも冬乃がもし、想いを口にしてきたなら。

 沖田は当然に聞き入れていただろうと。

 

 しかしそれは、ありえない仮定でしかなく。

 

 

 いま、遠慮するなと伝えた後でさえ、そのことに変わりはない。

 

 

 「引き留めて悪かった」

 

 一抹の寂寥感を置き去りに。話の終了を示した沖田の台詞に、冬乃が再び顔を上げた。

 

 「残りの仕事もがんばって」

 

 

 冬乃は、弱く微笑むと。そっと立ち上がってその小さな背を沖田へ向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この時期、第二次長州征伐における、幕府と長州の水面下の交渉は、完全に難航していた。

 

 

 近藤は、幕府使節団への随行を終えて先月に帰京する際、山崎たちを長州界隈に残留させている。

 その山崎たちが送ってくる報告書も、幕府側から耳にする情報も、どれも芳しいものではなく。

 

 長州が、幕命に従った真の恭順の意を示そうとする様子は、依然としてみえず、

 このままいけば、もはや開戦は免れえぬのではないかと近藤は危惧していた。

 

 

 国元を離れた長期滞在で戦意の落ちている幕府軍とは対照的に、

 長州は外交上では恭順のふりをしつつも着々と戦備を進めており、その戦意たるや凄まじく、いま開戦しても幕府側に勝ち目は薄いと近藤は見ている。

 

 今や、第一次長州征伐の時とは変わってしまった。あの頃の勢いに欠いた今の情勢下では、むやみに戦うべきではなく。交戦にはまず幕府兵の士気を上げるための状況の立て直しが先決で。

 

 ゆえに近藤は、現段階での戦には反対であり。

 万が一にも、幕府という日本の屋台骨の存在が敗戦するわけにはいかないのである。

 長州が表向きに恭順を示している以上、現状はもうそれで許す方向を採るよりほか仕方がないと考えていた。

 

 

 だが、幕府が長州に求める恭順は、真の恭順、

 幕命に長州が全て従うかたちの、藩主父子の処分を含めた絶対恭順であり。


 そして幕府は、

 これに長州が期日までに従わない場合は、進撃を開始するとしたのだった。

 

 その期日まで、あと二月を切った。

 

 

 そんなさなか、ここ政局の中心地、京においても、緊迫した情勢が続いており。

 

 一早く幕府の動きを掴む為、そして朝廷内の政治工作をも狙って、必死で京に潜伏を続ける長州系志士達とその同志および配下の浪士達を、幕府側は血まなこになって追っている。

 

 新選組も一夜に巡察する箇所を拡げており、今夜沖田たちも夕餉を早めに済ませて既に出勤すべく支度にとりかかっていた。

 

 

 

 冬乃は。

 さきほど、早めの食事を終えて出てきた沖田達とすれ違ってのち、ひとり夕膳を前に、幾度めかの溜息をついていた。

 

 藤堂や斎藤もまだ風呂のようだし、近藤と土方はまだ仕事が終わらないので後から来る。

 永倉と井上が向かいで手を振ってくれたのへ目礼してから、冬乃は今一度、小さな溜息を押し出した。

 

 

 (いってらっしゃい、も言えなかった)

 

 廊下を前から来る冬乃を見て、沖田の周りの隊士達が気を利かせるように先に行こうとしたようだったのに、沖田が気遣いは不要だと制するように、さっさと冬乃の前を素通りしていったのだ。

 

 すれ違う時に、挨拶のように目を合わせてはくれたものの。冬乃からすれば寂しさが残る。

 

 (もう明日まで逢えないんだ)

 いいかげん、観念すべきなのに引きずっている。それほど、昨夜までの二夜のひとときは冬乃にとって最上の幸せだったのだと、改めて思い知らされる。

 

 

 (今からこんなじゃ、ほんとにどうなっちゃうの)

 

 しっかりしろ。

 

 冬乃は心内に自身を叱咤し。

 ・・・そして、到底しっかりできそうにない自分に。

 嘆息した。

 

 

 

 

 そして冬乃は、厨房に居る。

 

 夕餉の間じゅう、

 疲れて帰ってくる沖田に、せめて何か出来る事はないかと考え巡らせ、思いついたのはこのくらいだった。

 夜食を用意して部屋に置いておくこと。

 

 

 来たついでに食器洗いの手伝いを終えて、茂吉たちを戸口で見送った後、冬乃は広々とした厨房に佇んだ。

 

 (私の代わりに、逢って・・食べてもらって。)

 

 これから作る夜食たちに、胸内で告げる。

 

 季節の旬野菜を取りに、そして冬乃は厨房の棚へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 帰ってきた沖田の目に、部屋の隅に置かれる逆さの皿が映ったとき。沖田は風呂へ行く準備もそっちのけで、その盆へと向かった。

 

 皿の被せを外してみれば、そこには冬乃の愛情を感じられる料理がそっと控えていて。

 

 沖田はすぐに頂くことにした。

 大根と青菜の酢漬け、可愛い貝殻の上に季節野菜の卵とじ、そして握り飯と大きな湯呑に麦湯。

 

 (・・美味い)

 

 一口食むごとに、冬乃に今すぐ逢って抱き締めたい想いが強まる。沖田はしまいには困った。

 本当に実行してしまえば、あとに先の二夜以上の苦労が待っていることは確実であり。

 

 

 とりあえず、

 (風呂でついでに収めるか)

 根本的にそれで済むものでも無いが。

 

 沖田は食事を終えるや否や立ち上がり、押し入れから着替えを取り出すと、とにかく風呂へと向かった。        

 

 

     




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