一四. 禁忌への覚悟④
夕餉の席、
冬乃の顔を見た藤堂に、抱きつかれるかの勢いで歓迎された冬乃は、
周囲でやはり一様に驚いている男達の視線を、激しく浴びていた。
あれから事情を土方から聞いているらしい幹部達と違い、嫁に行ったと未だ思っているままの平隊士達からすれば、半年で“出戻ってきた”冬乃へ、いったい何があったのかと同情の念を禁じ得ないのだろう。
食事を終えて間もなく、山野と蟻通がやってきて、先の厨房での会話をほぼ同じように繰り返し、随分とほっとした様子で去ってゆく二人の次には、安藤が声をかけてきた。
「土方殿から聞いたでござる。またお会いできて何より」
「こちらこそ!」
安藤は助勤職なので、やや末席ながら幹部の一人だ。すでに土方から、隊の女中、つまり冬乃が、家の用事から帰っている旨を聞かされたという事だろう。
「長い間ご無沙汰して申し訳ありません」
冬乃は頭を下げた。
下げながら。
一瞬に思い出した、安藤の、
ついに迫った、この先もう短い命に。冬乃は、まだ頭を下げたまま顔を強張らせた。
(安藤様)
「あの、お話があります」
自分で口にしながら、何を言うつもりかと、自身に問いかけつつ冬乃は。胸内を掴まれるような苦しさに喘いだ。
急に声音が変わった冬乃に驚いたふうで安藤が、「いかがした」と聞き返すのへ、顔を上げながら冬乃は、少し周囲を見やって小声になり。
「半刻後に、厨房へ来てはいただけないでしょうか」
「・・・それは構わぬが・・」
冬乃の様子に心配そうに見てくる安藤に、冬乃は無理に微笑んでみせて「それではまた後程」と背を向けた。
(馬鹿・・何を、話すつもり)
だが、放っておくことができない。
安藤が、五日後の池田屋事変で致命的な深手を負ってしまうことを、知っていながら。
何も言わぬままなど。
(だけど五日後の大捕り物は、まだ誰も予想だにしていない)
当日の早朝から昼にかけて急速に動き出す事だ。今の時点では未だ何も知られていない事について、
冬乃が何を言及できるというのか。
(どうすれば・・。でも、当日になってからじゃ、騒ぎでとても声を掛けられる機会があるかわからない)
今のうちに、なにか伝えておけることはないものか。
(だけどそもそも、何かを伝えることは)
それにより安藤が深手を負わないで済んだ場合、
冬乃は、完全に安藤の『歴史』を変更したということになる。
(許されること・・・?)
冬乃は。小さく息を吐いた。
(いまさら)
もう、ずっと迷ってきた事だ。沖田の迎える命のさだめに、何か冬乃が出来ることはないのかと、探りはじめたその時から。
かけるべき言葉を考えながら、何度も食器を洗う手を止めてしまっていた冬乃は、
時間になって戸口に来た安藤に、顔を上げた。
そして、
「私の家、じつは占いの家系なんです」
悩みに悩んで、思いついたものは。これだった。
(未来から来た、って訴えるよりは、ずっと信じてもらえそうだし)
苦肉の策である。
「占いの御家でござられるか」
珍しいのだろう、というより、いきなり何の告白なんだ、とびっくりしたのかもしれないが、目を丸くしたきり黙ってしまった安藤に、「それでですね」と冬乃はむりやり続ける。
「五日の夜、北東から東の方角にかけて、安藤様に不吉な相が出ているんです」
「はあ・・」
「私にもこれが何なのかはよく分かりません。ただ、」
我ながら言っていて、不審がられないか気が気でないが。
「最近、捕り物が頻発しているそうではありませんか。ですから、これも捕り物に関するものではないかと思うのです。ねんのため、五日の夜の捕り物では、頭のてっぺんからつま先まで、厳重に隙なく装備してください。くれぐれも、いかなる時も軽装にはなられませぬよう」
「・・・・」
(だめ、かな)
無理がありすぎた・・だろうか。
「承知した」
だが、返ってきたその返事に。冬乃は激しい安堵とともに、こんなんで本当に信じてもらえたのだろうかと、むしろ訝って。安藤の目を覗き込むようにして凝視してしまった冬乃に、
安藤はにっこりと微笑んだ。
「仏の道も、占いの道も、救いの道につき、さして変わりはせぬ故。貴女の見立て、信じます」
安藤の坊主頭を冬乃は、おもわず見上げる。
「あ・・有難うございます・・!」
「こちらこそ、有難う」
安藤がぺこりと会釈して。
「しかし、この暑い中、五日の日は拙者ひとり重装備となると笑われそうでござるな」
ふふと微笑む彼に、冬乃は押し黙る。
(大丈夫です。その日は皆さん、それなりに重装備になりますから)
それでも、装備の仕方はまちまちだろう。だからこそ、安藤も致命傷を負うことになってしまうのではなかっただろうか。
(でもこれで、安藤様が、たしかに隙の無い着込みをしてくれれば・・)
きっと、
彼は助かる・・かもしれない。
または――助からないかもしれない。どちらにしても。
歴史が、どこまでの変化を受け入れるものなのか、
冬乃には未知なる事でしかなく。
(どうか、池田屋から安藤様が無事に帰ってきますように)
安藤が隊士部屋へ戻ってゆく背を見つめながら、冬乃は祈った。
「冬乃さん、」
襖ごしに聞こえてきた沖田の声に、どきりと冬乃は顔を上げた。
お孝が帰り、冬乃はひとり、女使用人部屋で、沖田が先刻運び込んでくれた布団を広げていた。
「開けて大丈夫?」
沖田の声がさらに続いて。冬乃は、はい、と答えながらどきどきと襖を見つめる。
襖のすぐ向こうは局長部屋で、
その局長部屋と続きの副長部屋の間は、冬乃が以前推測したように、夜は開け放って、そこに近藤、土方、山南、沖田が寝泊まっている。
時々、藤堂も遊びに来るようだが。
まもなく開けられた襖の向こうに、行灯の穏やかな橙光を背にした沖田が立っていた。
もう幾度と見た、その着流し姿は。だが何度見ようとも、冬乃を強く惹きつける。
もっとも、着流し姿に限らないが。
頬が紅くなりそうな感に、慌てて顔を背けてしまった冬乃に、沖田が「何か足りない物はある?」と尋ねてきて。
すぐに見返した冬乃は、恐縮して首を振った。
「全て揃ったと思います。有難うございます」
沖田達の部屋には、先刻風呂に行く気配があった後、まだ誰も戻っていないようだ。
沖田だけは早朝と夕方の巡察を終えてすでに、風呂は済ませていると、土方達と会話していたのが聞こえていた。
(てか、)
これほど筒抜けなのに、前回のように何やら会議の時になると、とたん襖越しに全く声が聞こえてこなくなる仕組みが、冬乃にはどうも分からない。
会議は庭に面している副長部屋のほうで行うのだろうが、それにしても、
(背を向けているとか・・よりも、声の落とし方なのかな、やっぱ)
「眠そうだね」
ぼんやりとして見えたのか沖田が、気遣うように冬乃を見下ろす。彼は襖の手前に立ったままだ。
「手短に聞くよ。潜入捜査の件だけど、」
その言葉に、はっと目を瞬いた冬乃を、
沖田のいつもの穏やかな眼差しが迎えた。
「無理してない?」
「え・・」
(もちろん無理なんて)
「してません・・」
「・・そう」
まあ、ならいいけど
彼の低い声が呟き。
そこに少しばかり不思議そうな表情を、冬乃は見て取った。
(沖田様だから、いいんです)
それを言うわけにもいかないから、冬乃は、
「新選組のお役に立ちたいんです」
返して。
だからって・・
冬乃の台詞に却って、明らかに不可解そうな表情になった沖田が目を細めた。
そりゃそうだ。雇い主の組のために、男と恋仲のふりをして旅籠の一つ部屋に泊まる女中など、普通に考えたら並の神経ではない。
組の役に立ちたい、よりかは。まだ例えば、信頼できる沖田と一緒だから、のほうが自然だったかもしれない、と冬乃は今さら思うが、それでも恥ずかしくて言えたものではなかった。
お互い黙ってしまった状況に、冬乃はいたたまれなさに俯く。
沖田がやがて、どこか仕方なさそうな声音で「おやすみ」と言うのへ。
その、もしかしたらもう、此処へ戻ってこれず一生聞けないかもしれないと一度は危惧した、彼のその台詞を耳に、
冬乃は「おやすみなさい」と小さく囁いて。
閉められる襖の音に、やがて顔を上げた。
(沖田様・・)
好きです
言ってしまいたい衝動に、駆られる。もう幾度も。
これからも、秘めた想いは流れつくすべも知らずに。溢れそうなほどに噴き出でて、その嵩ばかり増してゆくのに。
冬乃は溜息をついて。
行灯の傍へ行って火を吹き消すと、ゆっくりと目を闇に慣らしつつ布団の傍へと戻り、無心を努めて身を横たえた。
曇り空で澱む薄光の朝、
広間で朝餉を前に、冬乃は首を傾げていた。
昨夜も感じていたが、どうも以前より、隊士の数が減っているように思う。
(きのうはたまたま大勢が巡察に出ているか何かだと思ってたけど・・)
朝餉でも、これだけ人がいないのはどういうことだろう。
(・・・そうか)
冬乃は記憶を辿らせ、まもなく思い出した。
たしか、隊からの脱走が相次いだ時期ではなかったかと。池田屋事変の当日でさえ、さらに脱走があり、
最終的にその少ない隊士の数を、屯所の護りと、巡察の近藤隊と土方隊とに分けることとなったはずだ。
(近藤様は表向き、屯所で病気が蔓延して出勤できる隊士が少なかったと、会津には伝えていたんだっけ・・)
池田屋事変当日は、その少ない総数の分割にあたって、近藤隊は少数精鋭とし、近藤、沖田、永倉、藤堂、そして安藤らの、僅か十名ほどで編成、残りの二十数名が土方隊についた。
(なんか・・こんなに広間って広かったんだ)
「沖田、斎藤、冬乃ちゃん、おはよ」
藤堂の声に冬乃が、横にきた彼を見上げる中、藤堂は大刀を腰から抜き、袴をさばいて座る。
普段は早い藤堂が遅く来たのは、早朝から巡察だったのだろう。
沖田とその向こうの斎藤がそれぞれ挨拶を返す中、冬乃も会釈する。
「おはようございます。朝からお勤めお疲れ様でした」
「うん」
にこにこと藤堂が微笑む。
「やっぱり冬乃ちゃんが居るって、いいな」
そんなふうに言ってくれる藤堂に、冬乃も嬉しくなって微笑み返す。
「もういきなり居なくならないでね?」
(それは・・私も願いたいです)
「お嫁に行った、てのは信じてなかったけどさ。・・また未来に帰ってたんでしょ?」
本当に、藤堂は冬乃が未来から来ていると信じてくれている、ということなのか。冬乃はびっくりして藤堂の目を見た。冬乃が驚いた顔を向けたことに、藤堂のほうがきょとんとした。
「え、違うの?」
「いえ、そうなんですけど・・信じていただけてるのですか」
冬乃のおそるおそる聞いてきたその問いに、藤堂が微笑って。
「もちろん。冬乃ちゃんが嘘つくようには思えないし」
(藤堂様・・・)
やばい。泣きそう。
冬乃はおもわず目を瞬かせて、「有難うございます」と頭を垂れた。
(そうだ・・)
「藤堂様、」
藤堂になら。
未来から来たからこそ、知っていることを。そのまま伝えても受け止めてもらえるかもしれない。
「お願いがあります」
「え、何」
突然お願いと言われた藤堂が、ますます微笑って聞き返す。
「あの、もしこの先、鉢金をお使いになることがあるような大捕り物の時には、汗などでも絶対に緩まないように、しっかりと固定していてください」
「ええ?」
鳩が豆鉄砲をくらったような表情になった藤堂に、
さすがに唐突すぎたかと、冬乃は一瞬反省するものの、もう腹を決めたのだと敢行する。
「未来から来たことを信じてくださるなら、・・どうか、今のお願いをお聞き入れください」
「それって、俺、鉢巻きが緩んだら何かある、って事?」
冬乃は、それでもやはり、その返しには頬が強張って。一呼吸を要した。
「・・・はい。額を斬られます・・結果的にお命に別状はありませんので残るのは栄誉の向こう傷です、ですがそんな痛いおもいを藤堂様にしてほしくありません」
「・・・」
沖田達の側からも、強い視線を感じながら、冬乃は言い切った。
目を丸くしたまま冬乃を見つめていた藤堂が。
やがて、みるみるその満面に笑みを溢れさせて。冬乃は止まりそうになっていた息を、ほっとついた。
「うん、わかった。気をつける」
藤堂の素直な声が返る。
冬乃は押し寄せる安堵で、瞳を潤ませながら微笑んだ。
「ありがとね、冬乃ちゃん」
「いいえ」
首を振る冬乃に、
「あと、また藤堂様って言った」
藤堂がつと、その目をわざと怒らせて。
「あ・・」
「もう次、様を付けたら、おしおきだからね?」
(おしおき!?)
今度は冬乃が豆鉄砲をくらって目を見開くのを、藤堂が微笑いながら膳に向き直り。
(藤堂さん、藤堂さん、藤堂さん・・)
なにをされるのかよくわからないが、とりあえずおしおきされぬよう、冬乃は言い慣れるために椀を手に頭の中で唱え始めた。
それから数日は雨が続いた。
(なんで雨降ってるのに、こんな暑いの)
むしろ湿気が余計に増えただけだ。
(きもちわるい・・・)
止んではまたすぐ降って、じめじめしたうだるような暑さの中、
強化された巡察に少ない人数で励む、働き通しの隊士達は皆、最早みるからに疲れている。
(ほんとに病気になっても当然だ)
実際、山南などはついに寝込んでしまった。
この頃、会津本陣の黒谷では、中将容保も、病の床に臥せているはずだ。
近藤のはからいで、局長部屋のほうで布団を敷いて寝ている山南に、冬乃は食事や冷水を運んでは、額の手ぬぐいを替える。
すまないね、と何度も言う山南に、冬乃は首を振って。
女使用人部屋で寝泊まりしていることで、夜も寝る直前まで山南の世話ができることに感謝した。
そうこうするうちに迎えた、五日の早朝。
襖の向こうで沖田達の声がして、冬乃は目を覚ました。
なにか支度をしている様子だった。
「武田さん達数名が留まって包囲してある。中にいた桝屋の主は既に召し取り、こちらへ連行させている、」
近藤の声がした。
「付近には不審な者が居たらしい。黒谷にも連絡を遣り、探索の協力を願い出てある。それから、なにぶん家が広い、じっくり家の中の捜索もせねばならん。総司、あとは頼んだぞ」
「承知」
はっきりと聞こえたその会話に、冬乃は起き上がる。
(ついに・・始まる)
桝屋の主、と近藤は言った。桝屋への長州系人物の時折の出入りを見とめていた、山崎や島田たち監察方からの情報により、この日捕らえた、表向き“商人”であり、
池田屋事変の発端となった志士。
これから沖田は隊士を率いて、付近の不審人物の探索と、桝屋の内部の徹底捜索を行うのだろう。
それによって次々と見つかることになる書状や隠されていた大量の武器弾薬が、新選組に並ならぬ異常な事態を知らしめることとなる。
冬乃は障子を見た。
まだ暗い。
風に時折カタカタと障子が揺れ、雨の音が幽かにした。
明けてもないこの朝から、長い一日が始まる。
冬乃は再び、襖を見やった。
沖田は出て行ったようだ。
「勇さん、」
土方の声がした。
「あんたはもう少し寝たほうがいい。また今日もやる事が多そうだからな」
「ああ。そうだな」
近藤達はこの時点では未だ、まさか今朝方に捕らえたばかりの桝屋の主が、志士達の活動の中心的存在であるとは、知る由もない。
冬乃も身を横たえた。
(眠れそうにない・・)
とくとくと鳴っている心臓の音を聞きながら、冬乃は、今日のどこかで沖田に渡そうと思っている、枕元の水筒を見やる。
昨夜茂吉に断り、厨房から借りてきてある竹でできた水筒だ。すでに塩と砂糖は入れてある。
沖田達は夕刻の徹底巡察の前に、祇園の会所へ集合するはずだ。
会所についたら、水筒に水を入れて混ぜ、その後持ち歩いて時々飲んでほしいと伝えるつもりでいる。
塩と砂糖と水で、体内に吸収されやすい経口補水液になると、冬乃は聞いたことがあった。
蒸し暑い中を、記録では、沖田達は会所を出て池田屋で志士達に遭遇するまで、優に三時間近く歩くことになる。
もちろん、彼らとて水筒など無くても、廻ってゆく店から、途中で水くらい貰うようにはするだろう。
(・・でも、)
何か出来る事はしておきたい。
この夜、近藤隊に加わる永倉が書き遺した記録によれば、沖田は池田屋において、病で退くとある。
病、つまり沖田の命をのちに奪うこととなる肺結核を、医学的見地から、沖田がこの時点で発病するはずがないため、
後世では、これは屋内の高温多湿によって引き起こされた熱中症か何かの間違えではないか、と考察されている。
(それだって、いろいろ変なんだけど・・)
ただ、熱中症になる可能性が無いわけではないのなら、やはり冬乃にいま出来ることは一つだけ。塩と砂糖を入れた水筒を渡すということ。
(この後、どこかのタイミングで沖田様に出逢えますように)
冬乃はむりやり目を閉じてみる。やはり眠れそうには、なかった。
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