一二. 朱時雨⑧
「ごめん、質問に答えてなかったね」
ふと沖田が思い出したように言い出した。
「綿入れは袷を冬仕様にしたもの、褞袍は家の中で着る防寒着です」
今から買いに出ましょう
と続けて。
(あ・・)
今からまた沖田と ”お出かけ”できるのだと。
とくんと心臓の響きを感じながら、だが冬乃は、少し困った顔をしてしまっていた。
「有難うございます、でも、先に茂吉さんに」
なぜにも、
いきなり仕事の途中で行方不明になったわけで。
「謝りに伺ってからでも、大丈夫でしょうか・・」
沖田が、ああ、と微笑い。
「そうだね、先に顔を出しておこうか」
まあ、でも。
と、繋いだ。
「茂吉さんには、貴女がご実家へ急用のため帰っていると言ってあるから怒ってはいないはずですよ」
(そうだったんだ・・)
「有難うございます・・」
なら、やはり八木家に行李を残しておいてくれたのも、沖田なのだろう。
「八木さんにも同じように・・?」
「ええ。貴女がいなくなったことが分かったあたりで、土方さん以外には、そう伝えてありますよ」
冬乃はぺこりと頭を下げた。
さすがに、冬乃が土方にまで断らずに帰省するのはおかしな話なので、土方に対しては、帰省したことには出来なかったのだろう。
「本当に何度もご迷惑おかけしてごめんなさい」
「だって貴女の意志でないのでしょう?」
冬乃は顔を上げた。
「はい・・」
信じてくれている。
冬乃という存在を。
いまや沖田の言葉の端々から受けるその実感に冬乃は、胸に沸き起こった幸福感で自然と顔を綻ばせた。
微笑んだ冬乃を見下ろす沖田の目が、僅かに開き。そしてすぐに穏やかに細められた。
「じゃあ行こうか」
その上掛けを羽織るようにと、言い足す沖田の視線が、畳に散らかる服のひとつを差して促し。
冬乃は急いで残りの服を行李に戻して、生地が他のものより厚いその上掛けを羽織りながら、小庭へ出てゆく沖田の後に続いた。
男使用人部屋で休憩をしていた茂吉に、今回の急な留守を詫びると、
家の用事やったらしょうがおへんと、沖田の言ったとおり怒っている様子もなく、冬乃は内心恐縮しつつ、
今日は一日彼女を借ります、と茂吉へ言い置いた沖田に連れられて、屯所を後にして。
今夜の事へ、意識が行かないようにと
冬乃は道の先を睨むようにして唇を強く結びながら、沖田もとくに言葉は無く、二人は黙ったまま壬生菜畑の一本道を歩んだ。
(あれ)
ふと、冬乃は空腹感をおぼえて。一瞬に、最後に食べたのはいつだったのかと、
混乱した。
(朝ごはん食べてから、沖田様達の試合を見て、隊士部屋を掃除しているうちに平成に戻って、・・だからあの朝から食べてない)
と、
採るべきなのか、
平成で、大会の前に少し食べた、その時が最後となるのか。
(だって、・・幕末で食べていた時が最後とするなら、)
ここでの時間は、すでに十五日はそれから過ぎている。
平成では数時間であっても。
(・・・・??)
冬乃は、目を瞬かせていた。
いっそ平成での冬乃の胃を覗いてみれば、幕末で食べたものがあるのか、否か、はっきりするだろう、
だが、ここでの服装が、平成での冬乃には影響していなかったりするのだから、同じくここで食べたものが平成の冬乃の胃へ入るとも考えにくい。
平成に戻った時に冬乃の身に確実に残っているものは、まるで残り香のような五感の感触だけ。草木の香りだったり、食事の味だったり、踏みしめた畳の冷たさだったり。
(それらの五感の感触が残ってるだけでも不思議なのかな)
自然に考えれば、幕末での食事は、
平成の冬乃の体にとっては、『意識の中だけでの食事』。
(ええと、・・だから?)
ここで得られる満腹感も、空腹感も、
『冬乃の意識が』幕末にいる間だけのもので。
ここでどんなに食べたところで、
平成に在る冬乃の胃を満たしはしないだろう、ということ。
(逆に、ここで食べないでいても、平成の私の体には影響しない)
でも、
(ここでの私はどうなるんだろ?)
どんなに平成の自分にとっては『意識』でしかなくても、
この体は今ここで確かに実体を持ち、動いている。
ここでずっといつまでも食べないでいれば、やはり死んでしまうのだろうか。
(・・何が?)
意識が、死ぬのだろうか?
なら、
平成での冬乃はどうなるのか。
(意識が、ほとんど “魂”ってことなら、意識が死ぬってことは・・)
冬乃は。いつかの時のように、ぞっとして、
小さく身震いした。
(・・・じゃなくて)
脱線していた思考を冬乃はむりやり戻す。
今感じているこの空腹感の起点がわからないのだ。
(もし)
幕末で最後に食べた、あの朝を起点とする場合。
それは、ここでは十五日も前のこととなり、
(それならフツー私いま死んでるよね飢餓で。)
冬乃は溜息をつく。
(それとも)
冬乃の “体”がある平成で最後に食事をした時が、あくまでこの空腹の起点なのだとすれば。
いま平成で意識が無いままの冬乃の体が、このまま、もはや耐えられないほどまでに空腹に陥った際には、幕末にいる冬乃にまで更に影響してくるのだろうか。
もしその時、すでにここでは食事をして、『意識』の上では満腹になっていても?
冬乃はおもいっきり顔をしかめた。
(わけわかんない)
要は、今ここで考えていても混乱するだけだ。
(もういい、考えない・・)
そして結局冬乃は思考を放棄し。
再び、道の先を睨み据えた。
隣で先程から百面相をしている冬乃を沖田は眺めていた。
沖田の視線に全く気付いている様子がない。
(面白いなあ・・・)
いったい何をそんなに悩んでいるのだか。
(彼女が本当に、今夜の事を知っているとして、)
やはり心配する必要など無いのではないか。
冬乃が余計な事を決して口にしない人であろうことは、すでに感じている。
今も、これほど一人でまるで抱え込むようにして、口を閉ざしたままに考え込んでいるような性格だ、
彼女が腹の中で言わないと決めた事は、沖田達にさえ決して言わないというのに、いったい芹沢達に何を漏らすことがあるというのだろう。
(土方さんも心配性だからな)
慎重に慎重を期す土方の性格は、冬乃にも垣間見えるように思う。
(いっそ聞いてみようか)
そんなに、
何を今、悩んでいるのか。
「冬乃さん」
沖田の半ば笑みを噛み殺したその呼びかけに、冬乃がはっとした様子で顔を向けてきた。
ふるりと揺れた長い睫毛が、上がって。冬乃の黒曜石のような綺麗な瞳が、沖田を捉えた。
(へえ)
改めて見ると、やはり端整な顔立ちだと。
そんな感想をつい抱きながら、
「どうしたの。何か悩み事」
聞いてみれば。
驚いたような表情になって冬乃が、一層その睫毛を瞬かせ。
「私、そんなふうに見えました・・?」
続いて困惑した声が零れてきた。
「悩み事というわけでは」
そのまま首を振る。
「違うの?」
笑い出しそうになって沖田は、慌てて押し留めた。
あれほど、それこそ唸りだしそうな様相で考え込んでいたのに、悩んでいたわけではないと言うつもりなのか。
「本当に?」
沖田の追求に。冬乃が観念したような顔になって、ぽつりと囁いた。
「ただ、・・おなかが空いて、それってどういう事だろうって考えてたんです・・」
それから暫く、冬乃は。
体を折り曲げて腹が捩れるほどに笑いで悶絶しかけている沖田が、その絶笑を収めるまで、
呆然と待たなくてはならなかった。
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