一二. 朱時雨⑥

 

 心臓がやかましい。

 

 

 ハタキを手に、つい、冬乃は正眼に構える。

 幸い今、誰もこの隊士部屋にいないのを良いことに。

 

 先程までの興奮が、まだ冬乃を包んでいた。

 沖田の繰り出した突きの剣筋を想像しながら、障子の外から煌めく淡光に漂う、白い埃を。

 タンッ

 冬乃の足が畳を鳴らして、

 片腕を伸縮させ。突いて。

 

 

 (沖田様、)

 今日を。冬乃はきっと一生、忘れることは無いだろう。

 

 

 (あるいは貴方の盾になれたらと、思っていました)

 

 でもそれは叶わないことを、思い知らされた。

 

 

 (貴方に盾なんて要らない)

 

 

 貴方を護ろうとする存在など居なくても、

 

 貴方は強すぎて。

 戦場で死ぬことはない。歴史が残したように。

 

 

 (きっと、)

 

 彼自身は、近藤の盾となり、白刃の下に死ぬことが。

 本望であっても。

 

 

 (貴方は畳の上で死ぬことを、望まなかったでしょうに)

 

 

 

 

 障子の外から話し声がして、冬乃は顔を上げた。

 隊士の誰かが戻ってきたのだろうか。

 

 冬乃は、邪魔にならないよう掃除道具を片付けるべく、隅へと寄ろうとした。

 突如、

 目の前を、濁流のような霧が広がって、

 

 (・・・え?)

 

 外の話し声は、

 

 

 ――――冬乃さん

 

 

 どこかで聞いたことのある呼び声へと。

 

 すりかわった。

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬乃は、薄目を開けた。

 無機質な天井と蛍光灯がそこに在る。

 

 「冬乃さん」


 もう一度、その声は冬乃を呼んだ。

 

 顔を向けて。冬乃を運んでくれたという、あの白衣の男が、申し訳なさそうな表情で冬乃を覗き込んでいた。

 

 

 「寝たばかりで起こしてごめんね」

 

 さらに視線をずらし見ると、少し離れた位置から千秋達が困ったような顔のまま、冬乃を見つめ返した。

 

 「俺いったん大学戻らないといけなくなって、俺がいない間この医務室を貸し出すためには貴女のサインが要るんで、ごめんね。いいかな?ここと、あとここに連絡先も」

 

 ぼんやりと、冬乃は差し出されたペンと紙を挟んだボードを手に取った。

 「あと二時間半くらいはここ使えるから。また、寝ててくれて大丈夫だから」

 記入する冬乃の手元を見ながら、男がもう一度すまなそうに言った。

 

 

 (私・・・どうなってるんだろう)

 

 さすがに二度めは、慣れたのか自分で驚くほど冷静でいる。

 

 (こっちで今みたいに起こされたら、戻ってきてしまうっていうコト・・?)

 

 これではまるで。本当に只々夢でも見ている状態と変わらないではないか。

 

 「あの、・・」

 

 いつかの蔵で、ふと思った疑問を。

 「私、何か薬打たれたり飲まされたりしてますか」

 おもわず尋ねた。

 

 「薬?」

 

 「はい。会場で私が倒れた後に・・」


 白衣の男は、千秋達のほうを振り返った。

 千秋と真弓が顔を見合わせて、それから、白衣の男へ首を振って返し。

 

 「・・いや、何もないはずだよ」

 俺は与えてないよ。

 男は答えて。

 千秋達も頷いた。

 

 「・・そうですか」

 

 

 (また戻れるんだろうか)

 

 ふたたび急速に胸内を締めつけ始める、その不安に。

 

 冬乃は息を震わせた。

 もう、こんな不安に、

 帰ってくるたび苛まれるのは耐えられない。

 

 (よく考えて・・)

 

 冬乃は思考を巡らし。

 

 薬などの作用では無いのだとすれば。

 純粋に、寝ている状態で引き起こされるタイムスリップ、ということになる。

 

 (ここで普通なら、よくできた夢を見ている、ってハナシになるんだろうけど)

 夢などで片付けられるものでは到底ないことを、当然もう冬乃は信じて疑わない。

 

 

 (また寝たら、・・・戻れる?)

 

 可能性は、それしかないのではないか。

 

 

 「有難う。・・じゃああとよろしくね」

 冬乃からボートを受け取り、男は千秋達に声をかけるとすぐに部屋を出て行った。

 

 「冬乃」

 千秋達がベッド際までやってくる。

 

 「具合、どう?」

 (千秋。真弓)

 「ありがと。大丈夫だよ」

 

 ほっとしたように冬乃を見おろす二人に、冬乃は微笑んでみせた。

 (また会えたのが、嬉しい)

 

 もしかしたら眠ればまた幕末に戻れる。

 その可能性への期待が、冬乃の胸に強く芽生えたなかで。改めて二人のことを見納めるかのつもりで、じっと見上げた。

 

 一方で、

 これが最後なんかじゃなく、この先もまた二人に会えるような予感も、し始めていた。

 

 (だって、また、起きたら・・)

 

 ここへ帰ってくるのではないか。

 

 こちらの世界で半永久的に眠るという状態に、そう簡単に陥ることはありえない以上。

 

 

 でもそれでは、

 目覚めるたびに

 

 もう次は向こうへ戻れないかもしれない

 

 

 ・・・この恐怖に、

 曝され続けるわけでもある、ということ。・・

 

 

 「冬乃、まだ寝てたほうがいいよ」

 「眠れそう?うちら会場の片付け手伝ってるから、ここ鍵しめとくし安心して寝てて。ね?」

 

 覗き込んでくる二人を冬乃は見上げた。

 「うん。ありがと」

 

 (大好きだよ、千秋、真弓)

 

 二人に当たり前のようにこうしてまた会えたことを心から喜んでいる一方で、

 それでも、この世界より向こうの世界に在ることをより強く望んでいるままの自分に、心苦しさと呵責の念が胸内を奔った。

 

 千秋達が部屋を出てゆく。

 外から鍵のかかる音をベッドに横たわりながら冬乃は聞いていた。

 

 

 (二人ともごめん、・・・でも)

 

 沖田様のところへ戻りたい

 

 

 (とはいっても)

 想いとはうらはらに、冬乃の目は冴えてしまっていた。

 

 (どうしたら・・)

 

 冬乃は視線を部屋に巡らせ。それはすぐに椅子の上のバッグに止まった。

 

 (・・・睡眠薬)

 

 思い出したその存在に。体を起こした。

 

 母親が時々飲んでいる強い睡眠薬を冬乃も、こっそり分け取っては苦しい夜に飲んでいた。

 (まだ残ってたはず)

 冬乃の部屋には母親が出入りするために、外出時も持ち歩いていたのが幸いしたと。バッグを開きながら冬乃は自嘲する。

 備え付けの水道から水を汲んで、冬乃は口へ含んだ。

 

 (もう目覚めなくていい)

 そんなことは、願ってはいけないと。わかってる。

 

 だけど。

 

 

 

 ベッドへ横になり。冬乃は目を閉じた。

 

 

 

 

 

     

 

 


 夢すら、見なかった。

 

 

 千秋達に揺さぶられてやっと目を開けても、

 冬乃は覆い被さってくるような強烈な眠気に、瞼を持ち上げていられず。

 

 「冬乃、もしかして、この睡眠薬のんだ・・?」

 真弓の声に、ふたたび無理やり抉じ開けた視界の中、

 空になった錠剤の包装を手に真弓が、心配そうに見下ろしていて。冬乃は、そうだった、と思い出す。

 

 

 「だめだってば、・・」

 真弓達は、冬乃が時々母親の睡眠薬を服用していることを知っている。

 

 「ちゃんと処方されてないのに、勝手に飲んだりしたら危ないじゃん」

 「・・ごめん」

 冬乃はぼんやりと、小さく頷いた。

 「眠れなかったの?」

 横から千秋が溜息をついて尋ねた。

 

 「ん、・・」

 眠りたかった。

 

 冬乃はまだ、すぐにでも眠りのなかへ引き込まれそうになりながら、頭の片隅で思い起こした。

 眠れば、向こうへ戻れるかもしれないと思ったのに。

 

 戻れなかったのだ、と。

 

 

 ―――――もう、戻れないの・・・?

 

 次の瞬間に襲ってきた、その絶望感は。

 

 朦朧としていた意識に打ち勝つほど、冬乃を覚醒させ。

 

 

 「・・・」

 身震いした冬乃の顔色に、二人が驚いて覗き込んだ。

 「冬乃・・?」

 「大丈夫?まだ具合悪いの?」

 冬乃は唯、首を横に振るしかなく。

 

 「あのー悪いけどそろそろ出てもらえる?」

 半開きの扉から突然、係員が覗いた。

 

 「あ、そうだよ、うちらもう出ないと。そろそろ会場閉める時間なんだって」

 「どうしよ、これ」

 千秋が慌てて冬乃に、持っていた冬乃の服を差し出す。

 「着替えられそぅ・・?道着で帰るわけにもいかないじゃん?」

 「てか、立てる?」

 真弓に支えられ、冬乃は体を起こして両脚をベッドから下ろしてみる。まだ体内に残る睡眠薬のせいか、支点が定まらなかった。

 

 そんな冬乃を見た真弓が、

 「タクシーで帰ろっか。千秋、ちょっと冬乃みてて。さっき医大の人みかけたから、こっち戻ってるんだと思う、鍵どうせ返さないといけないし、呼んでくるわ。タクシーまで冬乃のコト、また運んでもらおうよ」

 「え、だいじょぶ」

 冬乃が呼び止めるより早く、出て行ってしまった。

 

 「いいじゃん、運んでもらぉ?」

 千秋が扉の鍵を内側から閉めにいきながら、

 「とりあえず着替えちゃおっか。座ったままならだいじょぶだよね」

 冬乃は諦めて頷き。

 千秋に渡された服をいったん横に置いて、座っていてもふらつくままに道着の上を脱いで、千秋に手伝ってもらいながら、なんとか稽古着袴も脱ぎきった。

 

 「ブラのストラップ、どこ?その服オフショルだよね、付け替えるでしょ?」

 冬乃の着てきた服は肩を出したデザインのために、下着の肩紐も、機能性よりデザインが重視された見せてもいい肩紐へと、付け替える必要があった。

 「うん、ごめんバッグの中入ってる」

 千秋は頷いて、冬乃のバッグをベッドまで運んだ。

 冬乃がストラップを入れてあるポーチを取り出す間、千秋はベッドに乗って、冬乃の後ろに回った。

 

 冬乃は胸の前でストラップを付け替え、繋げた先を、後ろの千秋に渡す。

 「ぁん。コレうまく引っ掛かんないんだけど」

 だがすぐに、千秋が後ろで悲鳴をあげた。

 「それ引っ掛ける部分、ちょっと変わってるんだよね・・」

 「ゴメンわかんないかも・・」

 千秋の困惑した声に、冬乃は微笑って。

 「私やるから大丈夫だよ、ありがと」

 冬乃は下着を外して手に持ち、後ろ側のストラップを取り換える。

 

 「入ってへいき?」

 そのとき扉の外から真弓の声がして。

 「あ」

 いま医大のひと一緒だよね

 早口に呟いた千秋が慌てて、

 「ダメまだ!」

 扉の外へと叫んだその声が、

 

 冬乃の耳を霞めた瞬間、冬乃の目の前は真っ白になった。


 

 

 (なに、これ?・・・)

 

 

 霧・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

     



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