一二. 朱時雨④

 

 

 まもなく夜番の見回りから帰ってきた島田と井上も食事を終えた後、冬乃は皆の茶碗を片付け、井戸場で食器を洗った。

 

 「冬乃さん、」


湯呑は部屋へ戻し、盆と皿を返すため厨房へ向かおうと庭へ降り立った時、沖田の声がした。

 

 「送ります」

 

 (え)

 つい目を輝かせて振り向いてしまった冬乃が、立ち止まったところに、沖田が横に並び。

 

 その、あたりまえのように気にかけてくれる沖田の様子に、冬乃は嬉しさを抑えきれない。

 

 (しあわせ・・)

 もう、先程までの不快な体験など、当然に霞んでいた。

 

 「ありがとうございます」

 心の底から礼を言いながら、冬乃は沖田に促されて歩みだす。

 

 

 「何かあったの」

 だが。

 突然に沖田が、そんな問いを投げてきた。

 

 「・・え」

 

 今の不意打ちに。冬乃は狼狽えてみえたに違いなく。

 冬乃が、息を呑んで横を行く沖田を見上げるのへ、沖田がどこか心配そうな眼をして見返し。

 

 (どうして)

 「さっき、そんな表情をしていたから」

 聞くまでもなく沖田が答え。

 

 ・・あの時の。

 沖田は、一瞬の冬乃の表情を覚えていて、今まで気に留めていてくれたということなのか。

 

 

 (沖田様・・・)

 

 「なんでもありません。でも、ありがとうございます」

 

 説明できるはずもない。

 冬乃はいたたまれず目を逸らした。

 

 

 「何か困った事があった時は、言ってくれていい。貴女の面倒をみるのは私の役目だから」

 

 

 役目・・

 

 わずかな寂寥感をおぼえて、冬乃は俯いた。

 

 俯いたままに。

 「ありがとうございます」

 返して。

 

 

 そのまま冬乃は沖田のほうを見れずに、自然な態を装って足元の砂利道を見ながら歩んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 不思議な人だと。

 沖田は思いながら、隣で黙り込んでしまった冬乃を見下ろした。

 

 何故かまるで仔犬のように目を輝かせてきたり、かと思えば口を閉ざして、何も言うまいと、その意志の強さを示してくる。

 

 彼女に抱える秘密が多いことは確かだった。それでも、密偵や隠密の類いだとは沖田は疑っていない。

 未来から来たというのは、まだ信じているわけでもないが、かといって、この時代の人という感も湧かないのだ。

 

 それはやはり、彼女の、この先の出来事を知っているかの言動にそう惑わされているということだろうか。

 

 

 (だが、見たこともない肌着も着てたしな)

 

 それなりに、沖田には衝撃だったので、思い出すたび哂ってしまう。

 どう脱がせるのか、かなり困惑した。

 

 (今も着ているのだろうか)

 沖田は、ふと浮かんだその疑問に、隣をゆく冬乃の体へと目が行ってしまい。

 すぐに逸らすと、今度は彼女の俯きかげんの横顔が目に入り。

 次には、彼女の先刻の表情が再び、思い起こされた。

 

 彼女の自分を見上げた、あの時のどこか泣き出しそうな顔が、何故か目に焼きついていた。

 (あれは、何だったんだ)

 

 冬乃が何でもないと言う以上、追求することではないが。

 沖田は、ひとつ溜息をつき。前に向き直った。

 

 

 

 

 

 

 冬乃が厨房の戸を開けた時、暗がりの中に、手燭を手に動く人がいた。冬乃が戸を開けたことで、その人物は動きを止めて、こちらを見やって。

 驚いた冬乃の後ろで、

 「山崎さんじゃないですか」

 沖田の声が向かった。

 

 (山崎・・丞?)

 後に諸士調役兼監察という任務につき、

 長い間、町中巡察には参加せず、京阪の町人等からの情報収集や、敵方の潜伏先へ潜り込んでの事前調査など、裏で新選組の活動を支え、また、入隊隊士の素性確認やその後の素行調査までこなしたとされる人だ。

 もしかしたら今の時期からすでに、その任務で動いているのだろうか。

 

 「お勤めご苦労様です。いつ戻られたのですか」

 「沖田はんか。いや、さっき戻ったとこですわ」

 山崎と呼ばれた男が、近づいてくる。

 

 よく見ると、その手に、夕餉の煮物の残りを入れた小皿がある。

 

 (ネズミ・・)

 

 夜にキッチンにごはんを漁りにくる人間版ネズミの存在は、いつの世にもいるらしい。

 

 

 「このべっぴんさんは、どなたはんや。沖田はんの好い人?」

 手燭を掲げ、冬乃の顔を見るなり言い放った山崎を冬乃は見上げた。

 

 「・・滅相もないです。ここで使用人として働かせていただいてます冬乃と申します」

 

 沖田や島田ほどではないが、山崎も背が高い。

 すらりとして切れ長の目の、役者絵から抜け出たような、誰がみても色男と称するような人種だ。

 (この手のタイプは・・・)

 

 「せやったら冬乃はん、今夜これから呑みにちょっと付き合うてくれへん?」

 

 ・・やっぱり。

 冬乃はげっそりと山崎を見やった。

 

 「今夜はもう遅いから駄目ですよ。彼女は朝が早い」

 何故か沖田が即答してくれて。沖田の言う駄目の理由は、冬乃からすると物足りないものの、それでも冬乃はほっと息をつく。

 

 「ほな、次の機会にどうや」

 

 「・・・」

 冬乃は返答に困って、首を傾げた。

 沖田の前で、先刻の山野に投げたような、きっぱり断る類いのきつい台詞をあまり吐きたくはないのだ。

 好きな男の前では猫かぶりしていたい心情を誰も責めないだろう。

 

 早く会話を済ませてこの場を逃げたい。

 冬乃は胸内で大きく嘆息した。

 

 「あの、山崎様、」

 冬乃はとにかく話題を変えるべく、手にしていた盆をつと持ち上げて見せ。

 

 「もう少しお早ければ、皆様とご一緒にお夜食お渡しできたので残念です。もし今夜みたいにお帰りが遅い日を前もっておわかりの時には、教えていただければ今度はお作りしておきますので」

 かつ、言い終わる前に、冬乃はそそくさと山崎の前をすり抜けて、

 盆と皿を定位置へと戻しに向かう。

 

 「それは嬉しいなあ」

 背後から山崎の声が追った。

 

 冬乃が終えて入口まで戻ると、山崎は煮物の皿を手にしたまま外に出ていた。

 隊士部屋に持ち込んで食べるつもりだろうか。

 苦笑しつつも、

 「それではおやすみなさいませ」

 と慇懃に礼をしてみせる。

 

 「おやすみ。さっきの、ほんまに考えといてな」

 (う)

 冬乃は顔を上げて、やはり答えられず。

 こうなったら社交辞令として受け止めている風を装うことにして、

 「はい、お誘いありがとうございます」

 にっこりと微笑を返し、もう一度礼をして、背を向けた。

 いや、これだけの色男なら、本当に社交辞令で誘っているだけかもしれない。冬乃はそう思うことにして。小さく息をついた。

 

 背後で沖田と山崎もおやすみを言い合い、やがて山崎が隊士部屋のほうへ向かう気配を感じながら、冬乃は再び無言になって歩を進める。

 

 

 なんか、きまずい。

 

 隣に来た沖田をちらりと見上げて。

 何も言ってこない沖田から、そしてすぐにまた視線を外して前を見据えた時、

 

 「山崎さんの誘いは気にしなくていいですよ」

 

 沖田がその僅かな時間差で切り出して、

 冬乃はどきりと、沖田を再び見上げた。

 

 「嫌ならば、断っていい」

 穏やかな声が、冬乃に届いて。

 

 「はい・・」

 

 

 武家屋敷などに仕える女中というと、普通はこの時代、どうしてもただの仕事の契約関係だけでなく主従関係を伴う。

 

 もちろん冬乃が、雇い側といえる新選組の男達に対し主従の関係があるわけではなくても、女中という立場が、この時代ではそれに近い印象を彼らにいだかせてしまうのは仕方がないのかもしれない。

 沖田も、だからこそ、嫌ならば断わっていいと、あえて言ってきたのだろう。

 

 山野も、山崎も、どこか女中に対しての世間の印象のままに冬乃を見るからこそ、軽く誘ってくるところがあるのではないかと。冬乃がただの町娘であれば、さすがにもう少し初対面での態度も違うはず、

 冬乃はそんなふうに思い、溜息をついた。

 

(そういう意味では、八木さん家にただ居させてもらえていたなら、そのほうがよかったのかな)

 

 

 もっとも、そんな女使用人の世間の印象のことなど凌駕して。

 より多く沖田の傍にいられるならば、新選組に居るほうを選ぶことに、結局変わりはない。

 

 

 

 

 「送っていただいて有難うございました」

 八木家の母屋の前まで来て、冬乃は沖田をしっかりと見上げた。

 

 

 面倒をみるという役目だとはいえ、いちいちこうして夜道を送ってくれた

 それだけで、やはり冬乃には十分すぎる幸せだということに。

 あらためて想いを巡らせ、冬乃は深々と礼をした。

 

 (ばかだ私、)

 

 役目だからという、義務的な沖田の動機を聞いて悲しくなるほどに、すでに沖田にそれ以上のことを望んでしまっていた。そんな贅沢を、

 少し前までの自分がみたら、それこそ怒るだろう。

 

 

 幸せをあたりまえに想う日がくることは、幸せであって、一方で不幸せでもあること。

 自身に訓示しながら、冬乃は、顔を上げた。

 

 沖田が変わらぬその穏やかな表情で、

 「どういたしまして。今日はご苦労様」

 そんな冬乃に優しく微笑いかけた。

 

 

 

 

 




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