一二. 朱時雨②

 

 

 夕餉が始まっても、沖田は現れなかった。

 土方も近藤も。

 

 (新見様も、いない)

 

 芹沢が何も知らないのか、周囲に侍らせた隊士達と陽気に話しているのを目に。冬乃の耳奥では、昼間沖田が告げてきた言葉が甦ったきり残響している。

 

 『新見局長を糾弾する手はずでね、今夜にでも』

 

 (きっと今、沖田様たちは・・)

 

 「冬乃ちゃん、」

 (え)

 横に座っていた藤堂に不意に声をかけられて、冬乃ははっと振り向いた。

 

 「沖田達しらない?」

 (冬乃”ちゃん”、て)

 苦笑してしまいながら、冬乃は呼ばせたままに頷く。

 「存じません・・」

 「山南さんも井上さんもいないし・・急の仕事かな?」

 

 近藤、土方、沖田、山南、井上、という、近藤一派の中でも最も中核を成すこの五人が、揃いも揃って居ないというのは、さすがに妙に不穏なものを感じさせるのか、

 藤堂も、その隣の原田も見れば落ち着かなそうにしていて。その向こうには、常以上に黙したままの斎藤がいて。

 そして向かいの席では、永倉と島田が歓談しながらも、やはりどこか気にしたふうで、広間の入口に不在の彼らが現れるのを待つかのように時おり視線を走らせている。

 

 

 「あ・・」

 やがて藤堂が声を挙げ。

 

 (来た)

 

 不在だった五人が、自然に談笑しながら姿を現した。

 

 「なんじゃ、遅かったのう」

 芹沢が持参の酒で少し蒸気した顔を上げて、近藤達を出迎えて。

 

 ほっとしたように藤堂たちが彼らを見上げているのを目の端に、冬乃は、彼らと一緒に居たであろう新見が続いて来ないことが気になった。

 

 (まさか、まだ・・・亡くなってはいないよね・・)

 

 「芹沢局長、」

 近藤が座しながら芹沢を向いた。

 「後でお話が。お時間頂戴できますか」

 

 「うん?」

 芹沢が盃を膳に置いた。

 「ここでよかろう」

 

 近藤の声はごく自然に小さく発せられたものだったが、芹沢は地声なのか大きな声で返したものだから、周囲は何事だと一斉に視線を寄こして。

 近藤は一瞬、困ったような表情を浮かべたが、すぐに芹沢へと膝を向け直した。

 

 「それでは。新見局長のことで」

 

 冬乃は息を呑んだ。

 

 近藤を囲うように山南と沖田が左右に、その後ろには井上が座し。土方がまだ立ったままで、入口に背を凭せかけて腕を組んだ。

 

 

 「・・新見が何だ」

 

 新見の姿がみえないことに気が付いた様子で、芹沢が近藤を睨む。

 

 明らかに、灯った不穏な空気に、場は静まりかえった。

 


 「新見”元”局長は、本日付けで脱退なされた」

 

 

 (・・え?)

 

 もしかしたら切腹という言葉が出てくるのではないかと不安になっていた冬乃の耳に飛び込んできたその予想外の台詞に、

 冬乃は驚いて近藤と、その隣で近藤を見守る沖田を見つめた。

 

 脱退?

 

 「どういうことだ?新見は今どこにいる!」

 芹沢の苛立った大声が場に落ち。

 

 「芹沢局長もご存知のように、」

 落ち着きはらった近藤の声が、朗々と響いた。

 

 「新見元局長は、これまで数々の私用目的の金策、酒の席での狼藉、暴行を繰り返されてきた」

 

 山南が、おもむろに懐から数枚の書類を取り出し、芹沢の膝元へと並べる。

 それへ目をやった近藤が、改めて芹沢の目を見て。

 「これらはほんの一部ですが、新見元局長の金策の証しとして押収した借用書です。これらの殆どはつい先程、守護職へ渡して参りました」

 

 (じゃあ、あれは、会津の守護職へ提出するための・・)

 昼間、沖田が選別して持ち出していた書類の類いは、そのためだったのか。

 

 「ただちに、これらの証拠をもって最終判断とされ、守護職から我々へ新見元局長を罷免するよう下知が下された。我々は先程、新見殿へその旨を伝えて参りました」

 

 

 新選組を召し抱える身として守護職会津が、仮にも一局長である新見のこれまでの所業を良しとしていなかったのは明らかで、

 おそらく近藤達は、糾弾のための決定的な証拠を求められていたに違いない。


 そして、それを入手できても、できなくても。責任を取らせ詰め腹を切らせることも。

 

 土方達はそのために実行日を定め、計画していたはずだ。  

 

 (なのに、脱退・・って?)

 

 「本来ならば、新見元局長は咎を負って、罷免のち、切腹を申し付けられる筈でしたが、」

 拳を戦慄かせている芹沢に、諭し聞かせるように。近藤が続けた。

 

 「酒癖さえなければ、あれほどの人物。死なせるには惜しいと、恩情を求めるその筋の訴えをお聞き入れになった会津公により、内々に脱退させるよう申し付けられ、新見元局長は追放と致しました」

 

 芹沢の眉間は激しく狭まった。

 「その筋とは誰ぞ?」

 「それは今この席でお伝えする事ではござらぬ故」

 近藤の、穏やかながら追尋を許さぬ断言が返った。

 「・・・」

 

 場に流れる緊張の糸が。今にもぷつんと切れそうで。

 冬乃は、息を凝らして芹沢の動向を見守った。

 

 「・・・この話は、真か?ならば何故、新見はわしに別れの挨拶にも来んのか」

 「世話になった芹沢局長に、恥を知った身で顔を合わせるわけにはいかぬと言って去られた」

 

 「そのような話、信じられるか!!」

 

 芹沢の一喝に、部屋の隅で縮こまって食事をしていた藤兵衛が、小さく声を漏らして飛び上がった。


 「さては主ら、謀ったな!?新見はそんな殊勝な男でないわ!追放なんぞにも応じるわけがない、今頃どこぞに捕らえられているのではないのか!?」

 「そのような事、」

 近藤が、諫めるように芹沢を見据えた。

 「有り得ませぬ」

 

 「芹沢局長」

 つと、今まで黙っていた土方が、

 戸に立ったままに、口を開いた。

 

 「貴方の仰りようは、いかにも我々が会津公と示し合わせ、新見元局長を陥れたというふうに聞こえる。お言葉を慎まれたほうがよろしい」

 

 「・・・貴様」

 「そもそも、新見元局長は、腹を召されてもおかしくなかったのですぞ」

 土方が、その秀麗な眉ひとつ動かさず。

 言葉に詰まった芹沢を冷えびえと見下ろした。

 「それでも我々を中傷なさるおつもりなら、芹沢局長といえど、捨ておけませんな」



 ───刹那。

 ガタンッと膳が乱暴に退かされる音とともに、

 芹沢の周りで殺気立っていた芹沢一派の隊士達が、中腰の態勢で大刀を引き寄せ。

 それを受けて近藤の左右で、山南と沖田が、そして藤堂達が、片膝を立て同じく大刀を引き寄せ、

 場は一触即発となった。

 

 「芹沢局長、」

 

 悠然と懐手でありながら、隙の全く無い近藤の。低く制するその声音が、殺気の満ちた空間に響いた。

 

 「我々は、謀ってなどおりません。隊の誰にとっても、新見殿が脱退されたことは重大な損失であり痛恨の極みです。ましてや、昵懇であらせられた芹沢局長の御心中、如何ばかりか測り知れません」

 

 

 近藤の目をじっと睨んでいた芹沢は。

 ふっと息をついた。

 

 右腕であった新見を失い、今夜で芹沢派閥の勢力は大きく傾いた。その上、ここで闘争を起こせば、もし本当に守護職からの下知であった場合には取り返しのつかないことになる。

 納め時だと悟ったのだろう。

 

 「御前達、静まれよ」

 己の周囲で柄に手を添え構えていた、残る腹心達へと。そして芹沢は声をかけた。

 

 

 忌々しげに、彼らは座り直して大刀を置き。

 山南達も態勢を解いて、土方は空いていた席へと向かい座った。

 

 


 「・・・」

 (さっきの土方様の)

 挑発にも近い台詞は、わざとなのではないか。

 

 冬乃は、涼しい顔で食事を始める土方と、

 もはや無言で酒を手酌しだす芹沢とを交互に見やった。


 

 新見を失った芹沢の怒りを行き場の無いままにせず、一度爆発させ、

 それを近藤に鎮めさせた。


 (なんでだろ。そんな気がしてならないんだけど)



 あの場での、近藤の重厚な態度は当然、ここに居た隊士達の目に際立って見えたことだろう。


 その効果を土方が十分に狙っていたとしたら。



 (・・土方様、お見事です)


 収まった場に少しずつ安堵が広がった様子で、息をひそめていた隊士達がまた歓談へと徐々に戻ってゆく。

 

 (新見様も、本当に追放なら、これで切腹しなくて済むのかな?)

 冬乃は、ふと思い巡らせた。

 

 

 史実として伝えられているのは、九月十三日に新見が切腹して亡くなることである。

 (でも、伝わっていた史実のほうが間違えていたのなら)

 

 どうせなら、間違えであってほしい

 

 冬乃はそんなふうに願っていた。

 人が亡くならないで済むのなら、それがいい。

 

 

 

 (・・だけど、・・)

 

 後世に残っている話では。

 すでに近藤達には、守護職から、もうひとつの下知が下されているはずだった。

 

 

 芹沢も始末せよ、との。

 

 

 

 

 

 (だから。今は考えちゃだめだ)

 

 何度目になるかわからないその言葉を。

 冬乃は己に言い聞かせる。

 

 

 歓談の波が大きくなる頃。

 そして冬乃は、五人へ白米と味噌汁を装うため、そっと席を立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬乃は溜息をついた。

 

 波乱の夕餉も無事お開きとなり、厨房で片付けを終えた後、茂吉と明朝のしたくについて意識合わせをしてから外へと出たところで、

 

 昼間に顔を合わせたばかりの山野が、立っていたからだ。


 そういえば夕餉の席でも一瞬見かけたようなおぼえがあるが、それどころじゃなかったので挨拶も交わしていない。

 

 (ていうか何故ここに)

 

 「・・今夜はあけません、とお伝えしたはずですが」

 

 顔を見るなり言い放った状態の冬乃に、

 山野がにやりと笑った。

 

 「ちげえよ。それについては追々。今は、ちょいとサラシをわけてほしいの」

 

 「サラシ?」

 追々とはどういうことだと訝りながらも、サラシと言われて冬乃は、気になって聞き返していた。

 

 「ああ。俺の友垣に中村ってやつがいるんだが、そいつ先日の捕り物で怪我しててな。サラシを替えてやろうとしたらもう手持ちが無いんだ。予備の類いは女側の使用人部屋に置いてあるんだが、さすがに勝手に入るのも、と思ってさ」

 

 「そういうことでしたら」

 サラシは包帯として使われる。

 冬乃は、頷いて、冬乃とお孝のために用意されているその使用人部屋へと足を向けた。

 どちらにしても一度、部屋へ寄って小物を片付けるつもりだったので帰り道だ。

 

 (割と友達おもいなんだ?)

 横並びに行きながら、冬乃は隣の優男をちらりと見やる。

 すぐに視線に気づいたのか山野が、顔を向けてきた。

 

 「おまえ、・・こうして並ぶと俺と背、変わらないな。女にしては背あるよな」

 

 そのまんざらでもなさそうな声に、冬乃が少し首を傾げた先で。

 「細っこくて背の高い女、嫌いじゃないよ」

 と山野が口角を上げる。

 

 

 (・・平成では、普通サイズなんだけどな)

 

 「背高い女みると、征服欲ってやつ?燃えるんだよね」


 「・・・・」

 

 (マジ変な男)

 あいかわらずな山野に、そして冬乃は返事も面倒になって前へ向き直った。

 

 

 「で、おまえの想い人って誰」

 

 そこにまたも直球の問いが飛んできて、

 冬乃はもはや失笑して。

 

 「言うわけないじゃないですか」

 

 おもわず答えてしまった冬乃に、

 「そりゃそうだよな」

 山野が笑い返してきた。

 

 

 その、可愛いとしか形容できないほどの愛らしい笑顔に、不覚にもうろたえた冬乃に、

 

 山野が、昼間の時のようにまた不意に手を伸ばした。

 

 今度は避けようと体を引いた冬乃の、

 仕事の後で、片方の胸前へひとつにまとめて流したままの髪へと、

 山野の手のほうが先に届いて。

 なおも体を引いた冬乃から、山野の指に絡められた長い髪が梳かれて、さらさらと宙をなびいた。

 

 「俺、おまえを落とす」

 

 そして、あろうことか。

 とんでもない宣言が、投げつけられた。

 

 

 「冗談やめてください」

 

 冬乃からの、即答に。負けじと山野がにじり寄る。

 「何だよ。そんなに好きなのか、その男の事」

 

 (だって、)

 距離を保つべく後退りながら冬乃は、大きく頷いてみせて。

 

 (沖田様しかみえないし)

 

 いまだかつて。沖田以外の男に、惹かれたことなどあったか。

 


 「早く、サラシ取りにいきませんか」

 相手にしてられないと、促す冬乃に。

 

 そして山野は、わざとらしく嘆息した。

 「これは長期戦か」

 

 もはや冬乃は無視して、足早に部屋をめざした。

 

 

 

 女用の使用人部屋には、前川屯所のなかで贅沢にも、小庭のついた離れの一角が割り当てられており。

 隣は局長部屋、斜め隣が副長部屋で。冬乃が二度も机に躓いて倒れていた例の部屋である。一度目はここからすぐの裏戸を抜けて八木家の母屋まで運ばれて、そこで冬乃は目を覚ました。

 

 (そういえば)

 やっぱり冬乃を運んだのは、冬乃の体を調べた沖田なのだろうかと。

 冬乃は後ろに山野を連れながら、今更ながら考えを巡らせて、顔を紅らめた。

 

 その土方達は就寝には八木家離れへ帰っているために当然、この離れには夜になると誰もいない。

 

 お孝も帰った後のようだった。

 小庭をくぐり、玄関へ上がった先、あかりの消えた使用人部屋の前まで来てから、その暗がりを見て本能的に冬乃は、

 「ここで待っててください」

 と入口で山野を制した。

 

 

 「・・・」

 何か言いかけた山野を置いて、冬乃は部屋の中へ入り、後ろ手に襖を閉める。

 (・・・て、真っ暗)

 

 つい平成の感覚で、部屋に入ってから明かりをつける癖が抜けてない。

 火を使う江戸時代の世で、それは無理があった。

 

 結局すぐに襖をあけて出てきた冬乃を見て、山野が噴いた。

 「おまえ、なにやってんの」

 明かりも点けずに部屋を閉め切ったと思ったら、すぐまた出てきた冬乃を山野がからかうように笑って。

 (うるさいなもお)

冬乃は気恥ずかしさを隠して、つんと顔を背けた。

 

 今度は襖を開けたまま、外の薄明かりを頼りに、行灯のそばまで行って。

 八木ご妻女の作業を思い起こしながら冬乃は、見よう見真似で、行灯の傍らにある入れ物から火打ち石を取り出し、火口を乗せて打ってみた。

 しかし、妻女はあんな簡単そうに火を起こしていたのに、小さな火花ばかりが煌めくだけで、なかなか点かない。

 

 「・・・まさか、使ったこと無い、なんて言わないよな??」

 後ろで様子を見ていたらしい山野が、驚いた声を出した。

 

 (あるわけないから)

 冬乃は困って溜息をついた。

 冬乃のことを初めに女中と呼んできたくらいだから、山野は冬乃を最初から女中として雇われた女だと思っているだろう。未来から来た云々の騒ぎを山野は知らないはずだ。

 もっとも、未来で火打ち石は一般的でないことをどちらにしても想定しようもないだろうが。

 

 どう返したものかと手が止まった冬乃の、横まで来て山野が座りこむと、冬乃の返事を待たず彼は、冬乃からサッと火打ち石を奪った。

 

 「ここと、ここを打つの。こうやって」

 カッカッと鮮やかな音を立てた瞬間、火花が火口に落ち。そこへ山野が息を吹きかけると、火はふわっと大きく揺れ上がった。

 山野が行灯のともし油の芯へとその火口を傾けると、油は暫し後にその芯に火を灯した。

 

 「すごい・・」

 おもわず素直な感嘆を漏らした冬乃を、山野がまた何か聞きたげに一瞬見返し。

 行灯を閉じて火打ち石を仕舞うと、山野は体ごと冬乃を向いた。

 

 「おまえって・・」

 

 「さてと、じゃあ出ていてください。あの、火は有難うございました」

 いろいろ山野流の直球質問でさらに突っ込まれても困ると。冬乃は遮りながら急いで立ち上がる。

 

 「って、サラシどこにあるか知ってんの」

 そして、もっともなツッコミが。またも投げられた。

 

 (し、)

 「知りませんけど・・」

 

 (だって、なんか。身の危険を感じるし)

 立ち上がりながらさりげなく山野と距離をとったことに、気づいたらしく山野が、冬乃を見上げながらその整った顔を柔らかく微笑ませた。

 

 「そんな警戒しなくても、捕って食ったりしないから心配すんな」

 

 「・・・」

 (ここまで言うなら、信用しても大丈夫かな)

 

 「・・場所、教えてください」

 山野の綺麗な顔で微笑まれて、その邪気のなさに冬乃は、心の鎧を少しばかり外した。

 

 

 行灯の揺れる仄かな薄明かりのなか。山野も立ち上がると、冬乃を促すように反対側の押し入れへと歩んだ。

 

 押し入れを開けた先には、いくつもの行李が置かれている。

 冬乃はいつも下の段の隅を借りていて、他の行李たちの中身を知らなかった。

 「これね」

 山野が迷うことなく上の段の端からひとつの行李を取り出し。

 

 行李を畳に置いて、腰を屈めて蓋を開けた山野につられて、冬乃が覗き込むと、綺麗にたたまれたサラシの山があった。

 

 山野の手が数枚を取り出し、横の畳に置くとまた蓋を閉じる。

 冬乃は。初めてまともに見た山野の手をおもわず凝視していた。

 

 

 これだけ美麗な優男であっても、それはやはり剣を扱う手で。

 白い肌ながら骨張った輪郭、太い指が、剛健さを主張していて。

 

 「なんだ、俺の手がどうかした」

 

 よほど長く凝視していたらしく、山野に視線を気づかれ、

 「いえ」

 冬乃は慌てて目を逸らした。

 

 その視線を外したばかりの手が。だが直後、冬乃の視界に戻った。

 (え?)

 その太い指に顎を持ち上げられたと、気づいた時には。

 目前に迫った山野の端整な顔が。冬乃の唇に触れそうな距離にまで近づいて。

 

 「・・っ」

 間一髪で避けた冬乃の、

 両肩が、しかし次の刹那には掴まれて、冬乃の体は膝を折られるようにして背後の畳へと押し倒された。

 

 「なにし・・っ」

 「おまえ見てたら疼いちゃって」

 (はあ?!)

 容赦なく圧しかかってくる山野に、

 「待っ・・心配すんなって、さっき言ったじゃない・・!」

 この男を少しでも信用した自分を含めて本気で頭にきた冬乃が、抗って両手を突き出すのを

 山野が易々と捕らえ、冬乃の両腕はまとめて片手で頭上に組み敷かれ。

 

 優男の風貌であってもその逞しい手と同じように、やはり力は男のそれで。冬乃が逃れようとしても、びくともせずに。

 

 (このっ・・)

 「こんなことして、許されるとおもうの?!離して!」

 

 冬乃の着物の裾が、山野のもう片方の手に捌かれ、太腿へ山野の指先が触れて。

 力で退かせられないなら、言葉で諭すしかない。冬乃は手当たり次第に言ってみる方向へと、失いそうな平常心をなんとか保って頭を切り替えた。

 

 「貴方、武士だよね!ここは屯所でしょ?武士が勤め先でこういうことしていいの?」

 

 「・・おまえ、」

 何かしら訴えるものがあったのか、山野の冬乃を押さえる力が緩んだ。

 その瞬間を逃さず、冬乃は山野の腕を振り切って、

 半身を起こしながら簪を勢いよく引き抜いて前に構えた。

 

 「・・・」

 

 それが剣を構えるのと同じ所作であることに、突き出された冬乃の簪を目に。

 唖然とした様子で山野が、両腕を畳についた体勢で、瞠目し。

 

 「おい山野、何やってんだよ」


 そして。

 次に不意に降ってきた声に、

 山野も冬乃も驚いて、少し開かれたままだった襖の向こうに視線を走らせた。

 

 

 (誰・・?)

 

 現れたのは手燭を手に、呆れた表情を満面に張り付けた男で。

 

 「なんだ中村か」

 冬乃の前で、山野が呟いた。

 

 (中村・・)

 先ほど山野が言っていた手負いの友だろう。

 

 そういえば、この時期に捕り物で怪我をした中村といえば、

 (中村金吾)

 山野と一緒に、この頃、火縄銃持ちの強盗を成敗して朝廷から褒美まで受けている人で。怪我はその時受けたものだ。

 

 

 まじまじと見れば、山野と違って格段美男というわけではないものの、ひとめで実直さ溢れる好青年のさまが感じられて、

 冬乃は、ほっとして、構えていた簪をおろした。

 もう大丈夫だろう。

 

 

 「サラシを取りに行ったままいつまでも戻らんから、どうしたのかと探してみれば・・」

 

 まだ呆れたままの表情で、中村が嘆息した。

 「おまえ、その女癖の悪さをいいかげん改めろ。身を滅ぼすぞ」

 

 山野が観念した顔で、戸のほうへと起き上がって。

 「この女は別さ、」


 その背が呟いた。

 

 「どうやら俺、本気で惚れたかも」

 

 

 (え)

 聞き捨てならない台詞を置いた山野が、まだ座り込んだままの冬乃を振り返った。

 

 「覚悟しとけよ。おまえのこと絶対ものにしてやる」

 

 「・・・・」

 

 もはや返す言葉も出ない冬乃を残し、山野は戸口に立つ中村へとサラシを押しやりながら出て行き。

 中村が続いて申し訳なさそうに冬乃に会釈をすると山野を追って小庭を突っ切ってゆくのを、

 冬乃は暫く呆然と見つめた。

   

 

 

 

 

 



 


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