【第二部】 

一二. 朱時雨①

 

 

 




目の前には。

沖田の、江戸紫の着物襟と。

少しはだけた、その先にのぞく、

褐色の、分厚い胸板。


背には、

ひんやりと壁の感触。


息づかいの届き合う距離で。

冬乃は、

痺れそうになる心を

奮い立たせながら。


(・・どうして)


思い巡らす。


何故こんな事態になったのか。



「このまま黙って」


太い片腕を、冬乃の、顔の横に突いた沖田の。


「・・じっとしてて」


押し殺した、その低い囁きが、


冬乃の鼓膜を甘く刺して。


まるで冬乃の奥へと、

墜ちてゆくようで。



冬乃は。

浅く、吐息を

ひとつ零し。目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時遡ること四半刻 ─────





 コト。という物音に冬乃は顔を上げた。


 昼下がりの休憩時間に、冬乃は汗をかいた肌着を着替えるため、八木家に戻っていた。

 八木ご妻女から冬乃のために宛がってもらった行李を開けていたところに、今時分誰もいないはずの隣の部屋から物音がしたのだ。



 (隣って、・・新見様たちの部屋なはず・・)


 耳を澄ましてみても、

 母屋の先に建てられた道場からの、野太い掛け声だけが、邪魔だてするように響いてきて。


 (気のせい・・じゃないよね、でも)


 抜き足で玄関までまわって、音のした部屋へ続く閉ざされた襖を冬乃は凝視した。



 (ねずみ・・とか?)


 音の原因が、この母屋の一階の半分を占拠している芹沢や新見たちで無いことは確かだ。

 彼らが、町へ繰り出す後ろ姿を冬乃は先程見たばかりで。

 彼らが帰ってくるときは、いつも騒々しい。仮に引き返してきたなら、すぐわかるはず。



 カタカタと。

 そして、また襖の向こうから、その音は聞こえてきた。



 何かを、開けて回っているかの音・・・

 

 (泥棒??・・・あ)

 

 これこそ、隊内に潜んでいるかもしれない密偵という類いなのでは。

 冬乃は今思い至ったその可能性に、とくとくと心臓を高鳴らせた。

 

 (姿を確認しなきゃ・・)

 

 だが、下手に動いたら危険なことも明らかで。

 

 冬乃は、せめてもの護身用にそっと簪を引き抜き。差し足で、部屋へ近づき。襖をそっと開ける・・・はずだった。

 

 内側から、冬乃よりも早く。

 すらりと開けられた襖の、その向こうに立っていたのは。

 

 

 「沖田様・・!?」

 

 瞠目した冬乃の前、シッ・・と、沖田が悪戯っ子のような眼で、口元にその節くれた人差し指を立てた。


 

 「どうしてこちらに・・」

 最早なんとなく想像がついたものの、小声で尋ねてしまった冬乃に、

 沖田が微笑って、手招いた。

 

 

 縁側を障子で締め切った、薄暗がりの部屋の中へと。冬乃が入ると、

 沖田が腕を伸ばし。不意に近づいた距離にどきりとした冬乃の、真後ろの襖を閉じた。


 「少々、調べなくてはならないものがありましてね」


 言いながら沖田が、探索の続きを行うべく、部屋の隅まで戻ってゆく。

 彼の向かう先には、行李やら文箱やらが開けられて半ば散乱していて。

 

 

 冬乃は手にしていた簪を髪に再び添えながら、沖田が書類を幾つか選別しては懐へ仕舞ってゆくのを見つめた。

 

 沖田が、恐らくは土方の密命を受けたのだろうが、芹沢たちの部屋でこんなことをしている理由など冬乃には大方想像がついても、

 驚いたのは、沖田が冬乃に見つかっても平然と続けていることだった。

 

 いや、驚いたというより。まるで信頼されているみたいで嬉しさすら。

 

 (沖田様・・・お手伝いしましょうか)

 つい、そんなことまで思ってしまって冬乃は、実際どうしたものかと立ち尽くす。

 

 

 新見がこれまでの目に余る狼藉の咎により、切腹を申し付けられることになる日は近い。

 

 その決行日に向け、いま最後の詰めとして、沖田がさらなる証拠となるものを片っ端から集めているのではないだろうか。冬乃はそんなことを一抹の哀感の傍らで考えながら、沖田の悪びれない探索姿をぼんやり眺めて。

 


 「新見局長を糾弾する手はずでね、」

 だが不意に、

 沖田のほうから打ち明けてきた。

 

 「今夜にでも。局長の座から引きずり下ろす為に」

 

 

 (あ・・)

 

 いきなり腹を切らせはしないのだ。

 局長の立場のままでは外聞も悪い。ゆえに前段階として、身分を剥奪するということか。

 

 いま確かに最終準備が着々と為されてるのだと。

 冬乃は理解して。何も言えず。

 

 「・・・」

 言葉を発しない冬乃へ、ふと沖田が視線を向けてきた。

 彼は目を細め。

 冬乃の無言を賢明だ、とでも言うかのようだった。

 

 冬乃は、もしかしたら自分が悲しげな顔でもしてしまっていたのではと、頭の片隅で思い、

 彼の目を見ていられずに、逸らした。



 八木夫妻の声が、玄関口から不意に聞こえてきたのは、その時だった。




 おもわずぎくっと身構えた冬乃の前で、

 沖田のほうは慌てる様子もなく。ただ、引き時だと踏んだのか、開いていた行李と文箱等を片付け始めた。

 

 手際よく片付けてゆく沖田の手元を見ながら、

 冬乃は、八木家人たちが、ここ芹沢新見たちの部屋へ入ってくるはずもないのだと思い至り。

 

 部屋へ入るどころか、できるならば関わりたくもないだろうと。芹沢達が武士としての最低限の礼節こそ持っていようとも、それでも彼らには母屋の一角を占拠されたあげく、女を連れ込まれたり深夜まで酒盛りされたりと、好き勝手に振舞われているのだから。

 

 

 「さて、出ますか」

 まもなく片付け終えた沖田が、刀を掴んで立ち上がった。

 

 「私は庭から出ます。言わずとも御察しでしょうが、私をここで見たことは他言無用で」

 

 「はい」

 冬乃は慌てて頭を下げた、時だった。

 

 

 何が起こったのか、わからなかった。

 

 沖田に突然、腕を掴まれ。

 

 そのまま、強い力に為すすべもなく引っぱられ、目前の床の間へと上がる沖田に続いて引き上げられて。


 その刹那。冬乃の視界は回転し。

 

 床の間の壁に、背を押しつけられたと気づいた時には、

 目の前に、沖田の着物が迫って。

 

 

 「沖」

 「静かに」

 眩暈がするほどすぐ真上から、押し殺した声が降ってきて、

 冬乃は顔も上げられず。

 (どうして、)

 こんな事態になったのか、

 思い当たらないうえに、いま沖田の腕のなかに囲われている、この状況を頭が認識すればするほど、心が追いつくのに精一杯で。


 「このまま黙って・・じっとしてて」

 続いて低く囁かれたその言葉は、

 そんな冬乃に、はなから拒む選択肢など与えず。


 それでいて不安も恐怖も、与えることなしに、

 代わりにその言葉はまるで、強く穏やかに冬乃を抱き包むようで、ただ彼のなすがまま成り行きに任せていればいいと、

 そんな不思議な安堵感すら、一瞬にして冬乃に与え。

 

 (沖田様)

 冬乃を囲う彼の、体温の熱を感じながら冬乃は。そして震える息を押し出して、そっと目を瞑った。

 

 同時に、

 すらりと襖が開かれる音が響きわたった。

 

 

 (え?)

 

 冬乃は目を開けた。もちろん床の間の奥にいる冬乃からは、襖の側が全く見えない。

 八木家人がやっぱり入ってきたのだろうか?

 これまでとは別の意味で心臓が鳴り出す冬乃の前、

 

 冬乃を右腕で壁に囲ったまま、左手には刀を持っている沖田の、その指が、静かに刀の鯉口を切ったのを。冬乃は目の端で捉えて。


 息を凝らした冬乃の、耳には、

 誰かが襖の側の部屋で、行李を開けているような音が聞こえてきた。

 

 (・・・)

 冬乃達が今いる、床の間のあるこの部屋は、

 冬乃が先ほど入ってきた、玄関前の襖をあけてすぐの部屋からみると、ひとつ奥に位置する。

 二つの部屋の間の襖は、開け放ったままであり。

 あとちょっとでも、音の主がこちら側の部屋まで歩いてきてしまえば、この床の間もその視界に映るだろう。その時、沖田がいったいどうするつもりなのか、

 冬乃は、鯉口の切られた刀を目に、いやでも想像がついて。

 

 (誰だかわからないけど、こっち来ないで・・・!)

 冬乃はおもわず祈っていた。

 

 もっとも音の主が八木家人であれば、沖田がこんな反応をするはずがない。

 おそらく芹沢一派の誰か一人がふらりと帰ってきたのを、沖田がその剣客としての研ぎ澄まされた勘でいち早く感知したのだと。冬乃は思い至って。

 

 

 (すごい、・・・)

 

 先程の、冬乃が襖を開けようとした時も。すでに沖田には察知されていて、先に沖田のほうが開けてきた。

 

 (あれは私が音を出してしまったのかと思ってたけど・・)

 抜き足差し足で動いていて音を立てた覚えはなかったから、沖田から開けてきた時、一瞬不思議に思ったのだ。

 

(もし音ではなくて『気配』をよまれてたのだとしたら)

 しかも気にせず開けてきたということは、あの時、気配の主が冬乃、少なくとも開けても問題のない相手であることまでは、すでに認知されていたということだ。



 剣豪達の一挙一動は、ときに常人の目には妖術遣いの如く映る。

 まして沖田のような、天賦の才の持ち主のそれとなれば。



 (・・・かっこよすぎです沖田様・・)

 

 いま息もつけぬほどの緊迫の渦中なはずが、そうして場にそぐわぬ感激で冬乃がおもわず瞳を潤した間も。

 向こうの部屋では音の主が、ガタガタとあいかわらず行李らしき物を動かしていた。

 

 その長いような短い一時の後、音の主はこちらへ来ることはなく。やがて、襖を閉めて出て行った。

 

 

 

 

 深く溜息をついた冬乃を

 沖田が体を離して解放し。

 

 「脅かしてすみません」

 手の刀を腰に佩刀しながら沖田が言った。

 いいえと首をふりながら冬乃が、

 「・・あの、今の人は」

 つい尋ねて。

 

 「平間さんでしょうね」

 

 (ああ・・)

 冬乃は目を瞬かせていた。

 

 たしか平間の家は芹沢家の古くからの近臣だ。ゆえに生粋の芹沢一派でありながらも、

 その内勤の才覚のために、勘定方等の仕事も執り行っており。今日も外回りの芹沢達とは行動を共にしていなかったのだろう。



 まるで冬乃が納得したような顔をしたのを。沖田が見とめて、ふっと哂った。

 

 「貴女は、どこまで知っているんでしょうね?」

 

 沖田のその呟きに、冬乃はどきりと彼を見返した。

 

 

 ・・新見のことも、芹沢のことも。この先、どうなるかを知っている。

 

 だけど。

 

 「何も、知らないようなものです・・」

 

 いつ、何が起こって、その史実として知っている結果へどう辿りつくのかを。やはり、細かに知るはずもないのだ。

 今しがたのように。

 

 

 「知らないようなもの?」

 冬乃の返しに、沖田がおうむ返して微笑った。


 二の次を継げないでいる冬乃の前、だが沖田はまたいつものように追及もせず、

 懐に蓄えた書類のせいでたわんでいた襟元を整え、そのまま障子を開けて出てゆき。

 冬乃も慌ててその背を追って、縁側に出た。

 

 




  

 

 


 

 

 沖田と別れ、

 縁側から、自身の行李を放置したままの部屋へと戻った冬乃は、着替えをその場で行うと、厨房へと戻るべく八木家を出た。

 

 

 歩みながら。先程の沖田との事が、どうしても冬乃の頬を火照らせる。

 

 網膜に焼きついた彼の肌、

 感じた熱。息づかい。

 

 囲われた瞬間に芳った、どこか草木のような爽かな匂いすらも。

 

 ひととおり落ちついた今頃になって、克明に思い起こしてしまい。冬乃は、

 とくとく早鐘を打つ鼓動を落ち着かせるべく、むりやり大きく息を吐いた。

 

 

 (しばらく顔、直視できないかも)

 

 沖田のほうはきっと、先程のことなんて、次会った時には忘れているだろうに。

 冬乃はそう嘆息しながら。前川屯所の裏口をくぐり抜けた。

 

 

 

 

 誰もいない厨房で独り、茂吉に指示されていた下ごしらえを行っていた冬乃は、

 包丁を握る手が疲れてきたことを感じて、いったん休憩することにした。

 

 外に出て、大きく伸びをした時。

 そして、背後に人の気配を感じた。

 

 

 沖田ほどの超人的な感知はできなくても、冬乃も多少は剣の心得があるおかげでその手の勘はある。

 

 「おい」

 はたして、背後から声がした。

 

 「女中、なんで髪を結ってない?」


 女中?

 (て、私のことしかないよね)


 振り向いた冬乃の、

 目線のまっすぐ先に、透き通るような色白の綺麗な男が立っていた。

 

 冬乃はおもわず目を瞠った。

 

 綺麗な顔立ちといえど、あの土方同様、決して女性らしいわけではなく、

 かといって男くさいわけでもない中性的な、ひどく人目を惹きつけるような美男であり。

 それに冬乃より年下ではないだろうか。


 (誰あの超絶イケメン君は?)


 「冬乃と申します。貴方は・・」

 ひとまず名乗ってみた冬乃に、

 彼は近づいてきながら、ぴくりと、その優美な曲線を描く眉を持ち上げた。

 「俺は、山野という」


 山野・・・・まさか山野八十八?

 

 隊中美男五人衆と名高い彼ではないか。

 

 (でも、この人たしか、天保十二年とかそのくらいの生まれだったよね??)

 現時点の文久三年では、とうに二十歳は超えている。


 (年上にみえない・・・)


 まじまじと凝視してしまった冬乃に、

 何を思ったか山野がにやりと哂った。

 

 「おまえ、俺の質問に答えろって」

 

 (あ)

 「ごめんなさい、ええと?」

 「なんで昼間から髪を下ろしてる」

 

 もっともな質問に、冬乃は答えに詰まった。

 もっとも、とはいえ、どうでもいいことでもあるので、

 (誰かに、あえて面と向かって突っこまれるとは思わなかった・・・)

 

 「・・おろしているのが好きなんです」

 としか、答えようがなく。冬乃は苦笑いを添える。

 沖田様にイイと言ってもらえたからです、

 なんて口が裂けてもいえない。

 

 「変な女だな」

 (う)

 山野は容赦なかった。

 

 (・・なんでココのイケメン達って、こうなの)

 おもわず天敵土方の顔を思い浮かべながら、冬乃は目を瞬かせる。

 

 「まあ、でも」

 そんな冬乃の髪をじっと見て山野は、

 だが。

 

 「ちょっと、そそるわ」

 

 と呟いた。

 

 

 (・・・は?)

 

 ・・・そそる?

 

 目を丸くした冬乃の前、山野がにっこりと花のほころぶように笑って、冬乃の髪へと手を伸ばしてきて。

 

 その予想外の動きに、更に硬直した冬乃の、

 肩先に流れる黒髪を、山野の手が、さらりと撫でていった。


 呆然としている冬乃に、

 「おまえ、今夜あけとけよ」

 山野が当然のような表情で言い放った。

 

 (え、どゆこと?)

 最早ついていけないでいる冬乃に、

 「俺も、おまえだったら喜んで相手してやる」

 さらに追い打ちが来て。

 

 混乱する頭を抱えながら冬乃が、

 「相手って・・?」

 漸う聞き返すと、

 「言わせるのかよ、それ」

 山野が哄笑し。

 

 (・・・・。)

 なんだか、だんだん解ってきた冬乃は、そして眉間に皺を寄せた。

 

 ここは、庶民の男女交遊なら奔放な江戸時代。

 まして、よほど女にもててきた男なのだろう、

 すべての過程をすっとばして誘ってくるあたり、これまでそれで問題なかったということなのだろうけども。

 

 冬乃は、溜息をついた。

 

 「女が皆、貴方みたいな美男ばかりを好きになると思わないでください」

 

 つい吐き捨てた冬乃に。山野が目を見開いて、ふてくされたような顔をした。

 

 「だって、さっき俺に見惚れてただろ」

 

 「あれは、」

 (あまりにイケメンだからびっくりしただけだし!)

 ふてくされている顔すら美しい、その目の前の男に、冬乃はしかめ面を作ってみせる。

 

 「とにかく。私には想う人がすでにいるんです。ですから今夜はあけません」

 

 「なんだよそれ」

 つん、と返した冬乃に、だが山野はかえって興味を示してしまったようだった。

 「相思か?」

 「ちがいますけど」

 直球な質問に少々あたまにきた冬乃が、おもわず投げ返すと、

 「じゃあ、俺にもまだ機会はあるな」

 おもわぬ言葉が打たれてきた。

 

 

 (・・女たらしイケメン)

 冬乃は。もう呆れて笑ってしまい。

 

 冬乃のなかのイイ男の基準は、あくまで沖田なのだが、

 山野が女性にもてるだろうことも容易に納得できて。

 

 「ありません」

 とはいえ、とりあえず返辞を投げつけ、冬乃はぺこりと頭を下げた。

 「では失礼します」

 

 

 呆気にとられた様子の山野を残して、冬乃は下ごしらえを終えるべく、そそくさと厨房へと戻っていった。

 

     





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