九. 壬生夜

 

 


 使用人の長である茂吉と、初老の男性で籐兵衛、冬乃の叔母ほどの年の女性でお孝、この三人が今のところ冬乃を含め、いま使用人として働いているようだった。

 茂吉と籐兵衛は使用人の男部屋で寝泊りしているようだが、お孝は家族持ちで、夕餉の支度を済ませると壬生内の家のほうへと帰ってしまうらしい。


 「冬乃はん、ほんに平気なん?」

 ぐつぐつ良いにおいのする煮物をゆっくりとかき混ぜながら、お孝が心配そうに冬乃を見た。


 (・・・?)

 冬乃のほうは炊き飯をよそっていた手を止め、首をかしげていた。

 どういう意味だろう。



 「ここは男はん達の所帯やいうて、・・若い娘さんなんて絶対、雇われに来いひんのに。」

 そんな環境で働きにくるなんて冬乃によほどの事情があるとお孝は思っているのか、気の毒そうな表情をして冬乃を見つめている。


 (なんだ・・そういうことか)


 冬乃のほうは、どう答えたらいいかわからず肩を竦めた。

 「平気、です」



 冬乃の割り当てられた前川邸の部屋は、朝早くに来て支度を始めるお孝の為にもともと用意されていた四畳半の部屋だ。


 もっとも寝泊りには、初日の夜のときのように八木家の家人たちと共に寝るよう、沖田には再三言われている。冬乃が女使用人の部屋で一人で寝るには危険だと心配しているかのようだった。

 沖田にそんなふうに心配されると冬乃には何だかくすぐったい。




 やがて用意の整った膳を三段ずつ重ねて、茂吉たちが厨房を出てゆく。


 冬乃が倣おうとしたら、お孝に止められた。


 「無茶や、一段ずつにしとき」


 「大丈夫ですよ」

 冬乃は笑って、積み上げていた膳をひょいと持ち上げてみせ。


 剣道は腕力や胸筋から足腰まで体全体を著しく鍛え上げる。  冬乃は並の女性より力には自信があるのだ。

 お孝が目をぱちぱちさせて、三段を両手に軽々出てゆく冬乃の後ろ姿を見送った。




 三段担いで入ってきた冬乃に、

 まだ準備中で使用人だけが動き回っているその広間で、茂吉が驚いたような顔を向けた。


 「冬乃はん、あんた女子なのに力持ちやな」


 (はは)

 冬乃は苦笑いを返す。


 「まあここで働くんやったら、そんくらいの力あっても意味無いわ。こない男ばっかの所に居て、あんた気いつけてなあかん」

 もう一人の使用人の籐兵衛が、たすきに括りつけた手ぬぐいで軽く汗を拭きながら、そんなことを言ってきた。


 「はぁい・・」


 (組の人たちってほんと信用無いなあ・・)

 もう冬乃は呆れて失笑して。


 いや、組内の沖田でさえ、心配しているくらいだ。

 男集団で住んでいるとそんなものなのだろうか。



 だが冬乃の心内は、今それどころじゃない。

 膳を並べながら。


 八木家のお隣である前川邸を借りた、この広い屯所で、同じ屋根の下のどこかに今も沖田が居て、

 あと少ししたら広間に現れ、冬乃の作った食事を(全部作ったわけじゃないけども)食べてくれるのだと思うと、

 それだけで顔がにやけてしまい、素面を保つのに先ほどから苦労しており・・冬乃はそんな顔面筋肉の調整に掛かりっきりなのだった。



 (幸せすぎる・・)


 こんなふうに沖田と同じ屋根の下で生活を共にすること、

 いつかそれを当たり前に想う時がくるのだろうか。


 ほんの少し前には、叶うと想像もしなかった生活。冬乃は未だ驚きを抑えられず、この”奇跡”に感謝してもしたりない想いで。



 (千秋、真弓。私、幸せだよ今)


 今の想いを一番に伝えたい友の存在を、

 冬乃は胸に想い浮かべた。



 今は未だ。向こうの世界を捨てる覚悟でここへもう一度来てから、少しも経っていなくて、


 だからこんなふうに二人の事を想っても、痛みを伴うことなく温かい気持ちになれるのだろう。


 だがいつか、ずっとここに居続けるうち、冬乃は二度と二人に逢えないかもしれない想いに、打ちひしがれるに違いなく。


 それでも自分は、

 ここへ再び戻ってきたあの瞬間のように、

 沖田の傍に居られるこの世界を選ぶだろうと。


 冬乃は深く反芻しながら、

 最後の膳を用意し終わり、立ち上がった。



 母親のことを。思い返さないようにしている己の心に、そんな淡い葛藤にすら。冬乃は目を伏せていた。




 「冬乃はん、無理せえへん程度に持ってきてや」


 広間に留まって支度をしている茂吉が、出てゆく冬乃の背に声をかけた。


 「はい。そうしたら次も三段に留めて、持ってきます」

 (四段ずつくらいいけるけどね)


 冬乃は振り返ってそう告げると、今の冬乃の言葉にぽかんとした茂吉に、微笑み返した。





 その後も何度か、膳を担ぎながら厨房と広間を往復した冬乃は、


 そして最後の五つの膳を、左に三つ、右に二つ重ねて持ち、

 廊下を隊士達がぼちぼち広間へ向かっているのを見ながら、庭を横切り。


 廊下を通り広間へまっすぐ向かう隊士の誰も、庭の暗がりのほうへ目をやることなく、厨房から庭を歩いてくる冬乃に気づく者はいないようだった。


 (あ、)


 廊下をゆく隊士達の波の中、やがて、

 その背の高さで頭ひとつ抜きん出た沖田の姿が、冬乃の目に映った、


 直後。

 彼は冬乃のほうを向き。


 まさかこちらの庭のほうを見るとは思ってなかった冬乃が、目が合って慌てて頭を下げようとしたより前に、

 廊下の人波から出て沖田が、その辺の庭下駄をつっかけ、降りてきた。



 (?)

 そのまま冬乃のほうへ向かってくる。


 まっすぐ向かってくるものだから、冬乃は歩みを遅め、


 コ、

 「コンバンハ」

 どうしたものかと、緊張の中とりあえず挨拶をしたところで、


 先程別れたばかりなのに冬乃の口から出てきたその挨拶に、沖田が面白そうに笑い。


 「手伝おうか」

 と言うやいなや、冬乃が返事も返す前にひょいと片手で、冬乃の左腕の三段を取ってしまった。


 (わ)

 「大丈夫です・・っ」

 遅くなった返事を返しながら慌てる冬乃の、右腕からさらに二段が消える。



 沖田がその広い手の平に乗せ直した三段の上に、今さらに取った二段を重ね乗せ。


 「・・・」

 冬乃は呆然と、沖田の片手に積みあがった塔を見上げた。

 沖田の上背でその手に五段の膳が在るとなれば、冬乃の視界には、まさに塔のごとき光景である。



 片手に五段を安定させると、さっさと広間へと歩いてゆく沖田の後ろ背を冬乃はもう何もいえず追う。


 荷物があっても可能な場合は片方の腕を空けておく、そのへんは剣術家としての癖だろうかなどと、自分でも思いあたるその習慣を思い起こしながら冬乃は、


 (手伝うっていうか、全部持ってくれてます)


 嬉しさ半分、恐縮半分、足してつまりは幸せ、なるぐあいで、

 (ああもう)


 目の前の、どこまでも侠気で面倒見のいい沖田の、その広い背を冬乃は、胸に込みあげる想いで頬肉をゆるませながら追っていった。





 






 ここでの、二回めの夕餉。



 しかも沖田があたりまえのように冬乃を隣に座らせ、

 おかげで冬乃はもう、隣に意識が引っ張られてばかりだ。


 まわりでは各々が席について食事を始めている。



 隣の沖田が食べ出すまでは、なんとなく膳に手を伸ばさずにいる冬乃なのだが、・・

 沖田がいったい何を待って食べ出さずにいるのか、冬乃は暫く考えてから得心がいった。


 近藤が席につくのを待っているに違いないと。



 沖田は十代のはじめから近藤の道場 “試衛館” で世話になってきた。

 沖田にとって、近藤はまさに父のような存在で、大事な恩師なのだと。恩師より先に食べ出すことはしないのだ、


 冬乃がそう思ったとおり、やがて写真に残っている近藤そのまんまの顔の人がまさに広間に入ってきて、沖田の斜め隣の上座に座り。


 「近藤様、お初にお目にかかります。冬乃と申します。どうぞ宜しくお願い致します」

 冬乃が礼をこめて沖田の隣向こうから、挨拶するのへ、


 「お、貴女が冬乃さんか。ここで働いてくれることになったと聞いてます。こちらこそ宜しく」

 そんな嬉しいことばをかけてくれながら近藤が、椀のふたを開けて食べ始めると、

 沖田もようやく食べ始めた。


 冬乃も自然なそぶりで椀のふたを開けて、食べ始める。


 自分で作った味噌汁を啜って、味は大丈夫そうだなとほっとしていると、


 「総司、どうだった今日の外回りは」

 近藤が聞いた。



 局長である近藤は、沖田たち助勤職を直接に管轄してはいない。彼らの実際の指揮は副長である土方達がやっている。


 だから、近藤がそんなふうに聞いた場合は、しかもこの食事の場では、なかば世間話のようにも聞こえるのだが、

 その実、近藤は隊士達の仕事をとても気にかけているに違いない。と、


 「ふむ、それで、どうだ五条の一件は」

 「そうか。投げ文の件は、では片付いたのか」


 ずいぶん詳しく聞いてくる近藤と、これまた詳しく答えている沖田のふたりの会話を耳にしながら冬乃はそんなふうに思って、ひとり心温かになっていた。


 (近藤様は人柄が良いって、表情見ただけで感じ取れるくらい)


 冬乃が初めてここで夕餉を食べた時は、仕事に出ていたらしく席に近藤は居なかったから、こうして近藤と沖田が一緒にいる姿を見るのは冬乃にとって初めてだ。


 写真の通りに、強面なのにとても愛嬌のある顔を今ももぐもぐ飯を噛んで動かしている様子を

冬乃は沖田の隣から覗いて、嬉しさにこぼれそうになる笑みが抑えられない。



 近藤は恐らく冬乃と同じくらいの背だろう。

 だがやはり、近藤もまた沖田と同じく十代の頃から試衛館の太くて重たい木刀で鍛えてきただけあり、がっしりした体つきをしているさまが見てとれる。


 (そして、雰囲気に重厚さがある)


 冬乃の師匠もそうだが、剣の道を究めてゆく過程で身に帯びてゆく、独特の雰囲気というのがある。

 近藤も沖田も、剣を手にしていない時でさえ、それを纏い、存在そのものでまわりを圧倒できてしまう。


 同じ剣の道を歩んできた冬乃にとって、それは憧れだった。


 そして、この幕末の時代には、そんな男たちが多くいるのだと。



 (ほんとに、かっこいい・・)

 冬乃はそんな想いを感じて、


 ふと、


 これから時代がさらに進み、混沌の渦へと堕ちた時、

 そんな男たちの多くが命をおとすのだと不意に。そんな知っていたくもない事が胸に急襲して冬乃は、いたたまれない苦しさに俯いた。


 ───そう、


 (あと五年で沖田様は・・・・)




 冬乃は思考を止め。


 顔を上げた。



 (たった五年。でも、それでもまだ、ずっと先の事だから。・・)

 考えるなと────



 顔を上げた先で、

 楽しそうに会話しながら食事をしている隊士達と目が合い、冬乃はとっさに目礼し微笑んだ。


 目の端に、新見の姿が見える。

 ・・・彼の命が、残り少ないことも冬乃は知っている。



 「冬乃さん」


 「はいっ・・」

 突然、隣から掛けられた沖田の声に冬乃ははっとして振り返った。


 「山南さんともまだ会ってませんでしたね」

 そう言った沖田の斜め背後、

 いつのまに来ていたのか男が立っていた。


 「組のもう一人の副長、山南敬介先生です」


 「初めまして」

 穏やかに微笑した優しげな顔を、冬乃は慌てて箸を置きながら見上げた。


 (この方が山南様)


 「初めまして、冬乃と申します。宜しくお願い致します」


 ───山南の纏う雰囲気もまた、剣を修めた者のそれで。



 山南も、近藤も沖田も。

 向こうに居る芹沢も新見も、そして今ここに居ない土方も藤堂も、皆、


 (この人たちは本当に、すごい)


 剣豪が集まっている、その密度の濃さ。



 のちに新選組が、泣く子も黙ると恐れられるまでに強大な組織になるのが今から目に見えるように。



 (そういえば、)

 初めてここで夕餉を食べたときと比べて、また人数が格段に増えている。冬乃が向こうに戻っていた間に新たに入隊した人達がいるのだろう。


 こんなにたくさん人が居ては、前川邸の隊士部屋は足の踏み場もないのではないか。


 (使用人女部屋、夜は空いてるんじゃなんかもったいない・・)

 とはいえ、お孝が朝に来て使うので冬乃がどうこう言えることでもないのだが。



 (それにしても、沖田様はどこで寝てるんだろう?)


 十日前にここに来た時から変わっていないかぎり、沖田達はまだ八木家を使っていることは確かだ。

 伝承では離れを使っていたようだが、小さい建物だったとも聞いている。それでも少しは居心地のいい部屋を確保できているのだろうか。



 どちらにしても、屯所をここの前川邸および八木家から、広大な西本願寺の一角へ移すのは、ずっと先の話なので、暫く大変な混雑状態が続きそうである。



 だが、西本願寺移転───

 それまでには池田屋事変と、禁門の変、


 (・・・そして、その時までに、今はここに居る人の何人かは亡くなってしまう)


 今、ここでにこやかに話をしている山南も、また。




 (もぉ、考えるのやめなってば・・!)


 ガンッ

 とおもわず勢いづけて膳へ叩き置いた椀が、音を立てた。


 どうしたのかとこちらを見る沖田達に、すみませんと謝りの表情を向けて、冬乃は胸の痛みに震えそうになる手を握り締めた。



 あるのは。


 (この時代に来て、)


 良かった事だけじゃ、無い。



 (これからたくさんの、人の命と向き合わなくちゃならない)

 耐えていけるように、がんばらなくては、



 そしていつかは────沖田の命とさえ。

 向き合う時が来る。











 皆が食事を終えて、和気藹々と語り合う、

 そんな夕餉後の穏やかなひとときの中。


 そろそろ厨房に戻らないといけないかなと、席をたつきっかけを計りつつ、

 隣では沖田が近藤山南と政治の話をしていて、冬乃は正直驚いていた。


 沖田の後世のイメージというと、

 むしろ政治には関わることを避け、あくまで沖田自身は近藤と土方を武でもって護る懐刀の存在───近藤を仁、土方を智、沖田を勇とした三幹───であるからで。


 その三幹の精神ならば確かに、沖田と近藤のやりとりから明らかに見て取れる。


 だがその互いへの根本での親愛とともに、この時代の若者らしく、政治や思想の面での信頼もまた、共にあったのだと。

 おそらく沖田は、この手のはなしには普段は黙して語らないのだろうが、近藤や山南などの前でなら自由にふるまうのだろう。


 新選組とは敵対関係にある、多くの若い反幕府側の志士たちが、指導者的存在の思想に深く共鳴し、その指導者の思想をもとに行動していたように、

 沖田もまた、近藤達の思想に深く共鳴しているようだった。


 冬乃はその姿を隣に見ながら、目が開ける想いだった。


 (そういえば、新選組や近藤様に、政治や思想が無いなんて、そんな間違ったイメージですら、まだ後世に根強く残ってるくらいだっけ・・)



 広間で話をしていた者たちが、いつのまにか近藤の談義に、静かになって耳を傾けている、

 その横で冬乃はふと、茂吉がこちらにやってくるのを見て、そっと後ろへ膝で移動した。


 冬乃とその向こうの茂吉を見やった沖田へ、冬乃は目礼し席を立った。




 厨房へ入ると、すでにお孝は帰った後のようだった。

 冬乃は流しに立って、すでに片付けられていた膳から食器をとって洗いはじめる。


 (なんか・・まだ夢のようで)

 冬乃は小さく溜息をついた。


 隣に沖田が居て、話をして食事をして、

 そして、史料を読書本のようにして過ごしてきた冬乃でさえ想像がつかなかった沖田の一面を知ってゆく。



 一方で。

 沖田の纏う雰囲気は、ずっと想像していた彼のそれと寸分違わぬものだった。いや、良い意味で想像以上に冬乃を圧倒したとはいえ。


 沖田は十代の思春期を他家で大人に囲まれて過ごしたことで、

 自然に他人や年長者を気遣えて、自他共の感情の扱いに非常に長けていると。冬乃がそう思い描いていたとおりの彼が、

 あの穏やかで、よく笑っていて余裕のある物腰から、ありありと感じられる。


 それと同時に、猛者としての誇りと、若く溢れるような力強さに満ちていて。


 (きっと、だからこその、あの綺麗な目)


 冬乃は、沖田に最初に出逢ったときの、覗き込んできた澄んだ瞳を思い出していた。

 そして、彼の褐色の肌と、精悍な顔立ちを。


 一説にヒラメ顔だったとも噂される彼だけに。たしかにヒラメのあの、体に比べて小さい顔に、きりっとした面構えからは言われてみれば似てなくもない、と・・


 (違うの。かおだちが締まってるって意味でっ)

 あわてて冬乃は沖田に心で言い訳しつつ、

 彼のそんな引き締まった頬や口元を思い描いているうちに、冬乃の洗いものの手は止まってしまった。


 (だって。もう)


 あの、すらりとした細めの面立ちのおかげで、

 沖田は、あれだけの体格の良さを重苦しくさせずに見事なバランスを保っているのだ。


 (かっこよすぎて)


 冬乃は惚れ惚れと溜息をつく。


 沖田は十代のはじめから、他の江戸の大道場からは荒々しい野武士剣法と言われていた理心流の試衛館道場で身を鍛えあげてきた。

 試衛館道場は、真剣勝負を想定し、真剣と同じ重さをもたせた太い木刀を稽古に使う。

 その木刀で成長期から散々鍛えてきた体は、

 近藤と同様に、当然、筋骨隆々の逞しい体をつくりあげた。

 鍛え上げられた胸筋と、どっしりとした足腰に、鋼のような胴。


 さらに沖田の場合は持って生まれた骨格にも恵まれ、高い背丈に、逞しい上腕を支えて沖田の肩は張り上がり。



 (なのに、・・)

 沖田のあの立派な体格が、のちの病のために、四年後には痩せ始めて肉を落としてゆくのだと思うと、

 冬乃は心にどうしようもない痛みをおぼえ。



 (だから。まだ、考えないようにしなきゃ・・)




 「冬乃はん、」


 何度も止まる手を奮い立たせて、やっと洗い物を終えた冬乃が、流しを掃除していると茂吉が後ろから声をかけた。


 「はい」

 人の来る気配は感じていた冬乃がそのまま振り返ると、茂吉は不意に声を落とし、「気ィつけるんよ」と囁き。

 すぐに声の調子を元の大きさに戻し、


 「お客さんや」

 といった。



 その言葉に、戸口のほうを見やった冬乃は、

 そこに佇む二人の男を見とめた。


 確か、先ほど食事の広間で、目が合った人たちだ。


 (・・・何?)


 「少し話がしたいのだが、宜しいか」


 「・・・」

 男達の言葉に、おもわず茂吉のほうを見返した冬乃へ、だが茂吉が小さく眉を上げた。

 助けられない、と言いたいのだろう。



 (てか、あの二人)


 ・・・どうしたって、


 (フツーーーに怪しいんだけど。)



 返事ができずにいる冬乃へ、男の一人がもう一度声をかけた。


 「貴女の処遇についての件だ」



 (処遇?)



 男がちらりと茂吉を見る。


 「ここでは、なんだから・・・少しご同行願いたい」



 冬乃にかけられていた密偵という疑いは、茂吉たち使用人には伝えられていない。


 聞かせるわけにもいかないだろうと冬乃は仕方なく、心配そうな茂吉に軽く苦笑してみせて、男達のほうへ向かった。



 だが、人気の無いところにまで、同行するつもりは無い。


 厨房の明りをまだ背に煌々と浴びれる位置で、冬乃は立ち止まった。


 前を歩いていた男達が、冬乃が立ち止まった様子をうけて振り返る。



 「話は何でしょうか」


 その場で切り出した冬乃に、だが男は、


 「貴女に見せたいものがあるので、もう少しついてきてもらいたい」

 などと言い。


 「・・・・」


 これで警戒するな、というほうが馬鹿げている。


 冬乃は、軽く首をふった。


 「すみませんが、今まだ、やらなくてはならない仕事が残っていて・・・」


 「すぐに済む」

 「明日ではいけませんか。」


 男が片頬を歪めた。


 「おぬしが密偵だということは、分かっている。その証拠を得た。それをこちらの出す条件に従えば、不問にしてやろうと思っていたところだぞ」


 不意に言葉遣いから丁寧さが消えた男へ、冬乃はどうしようもなさげに肩を竦め。

 「私は密偵ではありませんから、証拠なんて出るはずはございません」


 「証拠はある。今おぬしをここで斬り捨ててもいいのだぞ」


 (うわ。何コイツ)


 冬乃はおもわず、ふざけんな証拠なんかあるわけないでしょうが、と反論しかけて口をつぐんだ。


 相手がすぐに扱える武器を持っているのは、やっかいなのだ。


 (素手で白刃取り・・なんてほぼフィクションだしね)

 などと、戯れたことを思える時点で、もっとも冬乃は全く応えてないのだが。



 「どうか、」

 冬乃は、怯えた様子を装って、ちらりと男達を見た。


 「それなら証拠をここへ持ってきていただけませんか・・?私がこれ以上同行できないのは、正直、私を密偵だと信じている貴方がたに何をされてしまうのか、それが怖いからなのです」

 と、正直に言ってみた。


 男達のほうは、冬乃の言葉に顔を見合わせ。

 「おぬしが密偵である証拠は蔵に残っている傷にある、だからここへは持ってこれぬ」

 さもありなん、と思わせそうな言い分だが、


 蔵に残っている、傷?


 (マジに何なの、こいつら?)


 冬乃がいったい、どんな傷を蔵につけたというのか。


 沖田が蔵の鍵を壊したのは覚えている。

 その時の傷なのか。


 「傷というなら、沖田先生が戸につけた傷があると思うのですけど、」


 沖田の名前に、はっと瞠目した二人を見とめながら、冬乃は続けた。


 「貴方がたの仰っている傷は、そうではなく内側にあるのですか?」


 「そうだ」

 まるで繕ったように男が即答するのを、

 冬乃は寒々と見返した。


 「組の為と思って私を疑ってらっしゃることはお察ししますけど、本当に身におぼえがないのです。どうかもうお許しください。蔵に傷なんて、存じません」

 

 「逃げるのか」


 「私は逃げも隠れもしません。せめて明日の朝、蔵に光が入ってその傷がよく見えるときに同行させてください」

 

 「ますます怪しい、火を持って入ればいいだけではないか。」


 (ああもう、っつうか、いいかげんにしろ)


 冬乃は内心キレかけながら、

 「沖田先生にこの件を通してください」

 先ほど沖田の名を出した時のぎょっとしたような反応ならば、沖田の名に縋ってみるのもいいかもしれないと、切り出してみると、

 

 「あの証拠を知られていいのか」

 「わしらはおぬしの出方によっては証拠を隠滅してやれるのだぞ」

 二人同時に口走るように返してきた。

 


 (ようするに、こいつら、沖田様に知られちゃヤバいってことにも取れなくない?)

 

 「私は密偵ではありません。ですから、知られても困りません。どうか、この件、沖田先生を通してください」

 


 男達は完全に、冬乃を説得して同行させるのは不可能と悟ったらしい。

 

 「ならばッ」

 おもいきり顔をしかめ、忌々しげに言い放った。

 

 「今ここでおぬしを斬るッ。あの証拠は動かぬものだ!」


 (このっ・・・)


 「何をもって証拠としてるのか知らないけど、勝手に裁かないでくれる?それとも斬るとか言って脅せば、私が怖がっておとなしく同行するとか思ってないよね?」

 

 「このアマ・・・ッ」

 

 「このバカさんぴん!」

 

 言い返した冬乃に、白刃が降ってきたのはいうまでもない。

 



 冬乃は抜き打ちされた刀の剣線をぎりぎりで見切って、飛びかわした。

 

 着物の裾が乱れたが、それどころじゃない。


 誰かが騒ぎに気づいて来てくれるまで、この喧嘩、負けて死ぬわけにもいかないわけで。


 (この二人相手なら、なんとかなる・・・こいつら絶対強くない)

 

 つわもの独特の雰囲気が薄かった。組の中でも下の下だろう。

 

 沖田や山南ほどの遣い手であれば、元々こんなくだらぬ事で刀を抜く自体無いが、(しかも女に向かって!)、

 たとえとして沖田達ほどの遣い手だったならば冬乃は、なんとしてでも相手に刀を抜かせはしなかった。負ける喧嘩はしないつもりだ。

 

 だが、

 (土方様、こんな程度のやつら、なんのために組に入れたの?)

 

 この二人に関しては、おもわず首を傾げてしまう。

 


 一方、男達はまさか、抜き打ちを冬乃にかわされるなどと想像もしていなかったのだろう、

 

 動揺し、次の瞬間には激昂した。

 

 「おぬし、くのいちか・・!やはり本当に密偵だったのか!」


 (くのいちィィ?)

 

 おもわず噴き出してしまった冬乃に、男達が益々激昂し。

 

 「おのれ、本当に密偵であったならば話は早い!」


 「密偵じゃないって言ってるでしょ!」

 「この期に及んでシラをきるか!」


 (ああ、うざ・・・っ)

 

 背を見せるわけにいかないから、冬乃はじりじりと後退さりながら、

 二人に囲まれるのを防ぐため、視界の端にとらえた井戸のほうへと下がってゆく。

 

 今日沖田に買ってもらったばかりの、まとめ髪の頭に飾った銀製のかんざしを引き抜きながら、

 

 冬乃は井戸の台を踵に感じて、そこで止まった。

 

 男達が笑い出し。

 

 「そんなもので、刀を防げるつもりか!」


 (あんたたちの刀だったらね)


 井戸を背後に、

 そして井戸場の屋根を支える柱に、体の左右を守らせ、

 

 冬乃はかんざしの脚側を前にして、構えた。

 





     




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