五. 本当の願い
「冬乃はん・・?」
呼びかけられて、冬乃は振り返った。
「どこへ行くんや?」
この家の子供、為三郎が、目が覚めたのか、厠へ起きた冬乃を床の中から見上げている。
「厠だよ」
小声で返すと、ややあって為三郎は自分もと言って起き上がった。
「どこが厠か、冬乃はん知ってんの?」
ふたり廊下へ出て、聞いてきた為三郎の言葉に、冬乃は肩を竦ませてみせる。
「ううん、知らない。探すつもりだった」
「うっとこの家は大きいんよ。戻ってこれへんよになるで」
(そ、そうだったかもしれない)
しかも間違って隊士たちの寝ている部屋なぞに入りこんだら、気まずいもいいところだ。
胸中で苦笑しつつ、冬乃は為三郎について庭に出た。
夜虫たちの歌声がとんでもなく賑やかだ。
「先に入っていいよ」
冬乃は為三郎を先に厠へ入れて、ふと座敷側を見やった。冬乃の視線の先、縁側に沿って障子が並んでいる。
(そういえば沖田様はやっぱり離れの部屋なのかな?)
離れがあるだろう遠くの闇を眺めながら冬乃は、ふと自分がいま、彼の居るすぐそばに泊まっているということに改めて思い至った。
(嬉しい・・)
つい頬が緩む。
きっと、この先もここに居られれば当たり前のこととなるその事実が、いまの冬乃には、ただひたすら嬉しかった。
(明日は早朝から慌しくなるし、私もきちんと寝ておかないと)
出てきた為三郎と交代で厠へ入りながら、そんなことを思う。
冬乃は、早くもここに馴染んできた自分を感じていた。
ざわついた音、遠くで姦しい人の声が、冬乃を眠りから引き戻した。
「ん・・」
体が重く、ひどくだるい。
布団にすっぽりくるまったまま冬乃は覚醒していく頭の隅で、ここが何処だったかをじわじわと思い出す。
(そうだ、ここは壬生・・・)
もう皆、起きてるかな・・?
起き上がろうと布団をよけた時、おでこに不意に手が置かれた。
(為三郎?)
にしては、大きい手・・・
「大丈夫?」
手が離されるとともに冬乃の視界が広がってゆく。
目に飛び込んできたのは、白衣に聴診器をつけた、まだ若い男だった。
(・・・・?)
一瞬、目に映った姿の意味がわからず、冬乃は言葉が出なかった。
「どこか苦しいところ、痛むところは?」
「・・・」
ぼんやりと首をふりながら、冬乃は周りを見渡す。
部屋の片隅の椅子には冬乃の剣道具や着てきた私服、バッグなどの荷物が置かれてあり。
(?)
ふと、かちゃりと音がして、向こう側の扉が開かれた。
「冬乃・・!?」
「・・・千秋?」
起き上がっている冬乃を見て、慌てて駆け寄ってきたその姿に。
冬乃はここが何処であるかを、はっきりと知った。
「気がついたんだ・・!!よかった・・冬乃、いきなり倒れたの覚えてる?!」
「倒れた・・」
「そぉだよ!」
「これまでにも倒れたことはある?」
白衣の男が追わせてきた問いに、冬乃はふたたび首をふった。
「冬乃さんには外傷も脈の乱れなども無いので、極度の疲労が原因だと思う。ゆっくり休ませてあげて」
「あ、はい。ありがとうございました!」
白衣の男へと千秋が礼をする。
「・・と、冬乃、わたし真弓よんでくんね」
手にしていた洗面器を置いて、千秋は扉のほうへ引き返し。
「冬乃のお母さんに何度電話しても通じなくて、真弓がさ、冬乃のお師匠さんをいま代わりに探しにいってんだけど・・もう必要ないよね」
千秋は言い終わるや慌しく出て行った。
白衣の男が、聴診器や体温計を適切な引き出しにしまってゆくのを冬乃はぼんやりと眺めた。
「じゃ、俺はこれで」
ここの医務室勤めの研修生といったところだろうか。
彼は、冬乃のベッドわきまで戻ってきた。
「何かあったら俺のケータイにかけて。まだ暫く、下の大会場で後片付けしてるから」
「はい・・」
番号のメモを渡され、冬乃はぺこりと会釈する。
(消えてたんじゃ、なかったんだ・・)
ドアの向こうに去ってゆく彼の背を見送りながら、
冬乃は溢れてくる安堵感に深く胸を撫で下ろした。
自分がこの世界で霧のように掻き消えたのだと、
思っていたのに、自分は確かに、此処にきちんと存在しているのだ。
(よかった・・・)
込み上げる安堵のなか、だが同時に、冬乃は迫るような虚無感をおぼえた。
(沖田様)
心に想い浮かぶのは、目に焼きついている彼の姿。
・・・あの彼は、夢?
(まさか)
そんなはずがない。
彼も、あの世界も、決して夢なんかじゃ・・・
「冬乃!!」
真弓が部屋に飛び込んできた。
「よかった、もうこのまんま意識なかったらどうなっちゃうのかと・・」
「・・私どのくらい、意識無かったの」
「五分くらい。ああもう、ほんと良かったぁ・・」
ぎゅううと真弓に抱き締められながら、冬乃のほうはおもわず耳を疑った。
(五分・・・・??)
「・・って五分前に私、大会場で倒れたってこと、だよね?」
「・・そう、だけど?」
何でそんなことを確認するのかと訝しげな表情で、真弓は冬乃を腕から離す。
「さっきの人がぁ、たまたまあの場に居て、冬乃をここまで運んでくれたんだよね」
ベッドに腰かけながら千秋が言う。
「医者の卵ってカンジの人らしいよ。てか思ってたんだけど、ちょっとかっこ良くない、あの人?」
「千秋。あんた、これ以上はマジ目移り禁止だから。」
真弓の指がピッと千秋の小鼻に当てられた。
「にゃあん」
「・・・・?」
あいかわらずな二人のやりとりを聞きながら、冬乃はすっかり混乱した頭を抱えた。
あの、壬生での出来事を冬乃は、今も克明に思い出せる。
それに、ここに戻ってきたと知った直後、冬乃の脳裏に浮かんだのは、『帰ってきた』という感覚だった。
(そう、”帰ってきた”のであって、夢なんかでは)
夢と言うには。
あまりにも、はっきりと記憶に根付いている。
夢を見ていて目が覚めたような、あの感覚とは明らかに違う。
体感さえ残っていた。
為三郎と厠から戻ってくる間の、足の裏に踏み締めた冷たい廊下や、
少しお線香の匂いのする布団の重さ、
共に食べた食事の味までも。
(だけど・・)
その間、自分がこの世界から消えていたわけではなく。
この医務室のベッドに横たわっていた。
(どういうこと?)
なにより、
五分、という時間。
「冬乃、なんか顔色よくないけど、大丈夫?」
「うん、・・」
(・・・・戻れるの?)
強く胸に去来するのは、その疑問だった。
「冬乃?」
千秋たちが心配そうに冬乃を覗きこむ。
(この二人にもう一度、逢えてよかった)
本当に良かった。
そう思うのに、
それでも、・・
「冬乃、本当に大丈夫?」
もうあの世界に戻れないかもしれないことが、怖い。
「・・ごめん、心配かけて。大丈夫」
「大丈夫ならいいけど・・。でももうちょっと寝ときな」
言われるままに冬乃はベッドに再び身を横たえた。
「うちら、ついててあげるからさ。ね」
「ありがと・・」
一度はあれだけ帰ることを焦がれたこの世界。
「冬乃はぁ、がんばりすぎ。これからは無理しちゃだめだよ」
「うん」
なのに帰ってきた今、心を埋め尽くしてゆく想いは、
いますぐ彼にもう一度逢いたい、そればかりで。
「今日くらいゆっくりしておこ?」
「うん・・」
もしも、
あの世界に戻れないのだとしたら。
(もう逢えない・・・・)
「ちょ・・冬乃、どうしたの!?」
「・・っ」
一気に涙が溢れて。
「冬乃、」
「平気・・ごめ・・」
(ごめん、二人とも)
今はっきりと思い知った、
自分の本当の願いに。
冬乃は慌てて涙を払いのけ、布団を顔まで引き上げた。
(私は)
この世界を捨ててでも、
彼の傍に居るほうを、選びたいのだと。
「じゃあ本当に、沖田さんに逢ってきたと思うの・・?」
真弓の言葉に、冬乃はしっかりと頷いた。
涙の止まらない冬乃を心配したふたりは冬乃を問いただし、冬乃はついに折れて、ここでの”五分間” に体験したことを伝えたのだった。
真弓と千秋は黙って聞いていたが、最後に困ったように顔を見合わせた。
「けどうちら、冬乃の傍に、ほとんどずっと居たんだよ?」
千秋が戸惑ったように同調する。
「そう。うちらがここ出てる時も、さっきの人がちょうど入れ替わりで戻ってきてくれたし・・」
「どうして冬乃の体はここに在ったのに、向こうの世界にも存在したのかって・・不思議じゃない?」
ふたりの様子からは、やはり冬乃の言ったことを信じているようではなく。
夢を見ていたのではないかと言いたげな表情だった。
冬乃はそっと微笑ってみせた。
「千秋、真弓、」
冬乃を傷つけないようにと気遣ってくれてるふたりを心からありがたいと思う。
「むりして信じてくれなくてもいいし。ありがと」
「冬乃・・・」
「私のなかで記憶が強すぎるから夢だと思えないで、今も向こうの世界にひどく囚われてるだけ、・・」
・・・嘘。
あの世界に囚われているのは、
そんなことじゃなくて唯ひとつ、この世界よりも彼のそばに居たいと想うが為なくせに。
「心配かけてごめん。私は大丈夫だから・・」
本当は彼に逢いたくて逢いたくて、
壊れそうになってるのに。
「ねえ、冬乃、そういえば」
どうしたら戻れるかと、
意識を回復した私を喜んでくれるふたりの前で、
私はそんなことばかり、考えているくせに・・・・
「家に帰ったらさ、ねんのため、お母さんに倒れたコトちゃんと言っておくんだよ?」
「・・・お母さん?」
その響きに、冬乃は顔をあげた。
「冬乃の家庭事情は聞いてるけど・・やっぱり、ほら、親じゃん?」
不意に脳裏によぎった母の姿は、
お決まりのように、昔の楽しかった頃の優しい母の笑顔だった。
ここ数年、見たことのないその笑顔を、
今さら思い起こすのは結局、自分がこの世界を捨てる覚悟ができはじめているせいなのだろうか。
(母には、義父がいるからいい)
あんな男でも、母のことは愛してくれているから、
自分がいなくなっても、きっとやっていける。
(むしろ、私がいなくなれば、せいせいしたりしてね)
・・・冬乃のほうは母のことを、また、あの蔵の時のように恋しく想うだろうか。
(でも大丈夫、私には、あの世界がある・・)
「冬乃、もう少し寝ておきな?ね?」
冬乃は頷いて、布団を被り再び横になった。
(・・・この二人も、私がいなくなっても二人でやっていけるよね)
大丈夫だよね・・。
「おやすみ、冬乃」
どうか、
もう一度あの世界へ、
「いい夢を見てね」
行きたい。もう二度とさめなくても。
この世界を捨てることが条件ならば、
私は捨ててでも、あの人の傍へ行きたい・・・
「入っていい?」
戸口に立った姿が、不意に声をかけた。
「え。あ、」
千秋と真弓は一瞬、目を白黒させた後、
「どうぞっ」
慌てて招き入れた。
「どうも。忘れ物したらしくてね。確かそこのボードに・・」
遠慮がちに先ほどの白衣の男が入ってくる。
「あれ、無いな」
「何を探してるんですか」
「黒の携帯用のケースなんだけど、見なかった?」
「いいえ・・どのくらいの大きさですか?」
「このくらい」
男と千秋たちの会話を遠くで耳にしながら、冬乃は被った布団の下、眠りのなかへと引かれていた。
「冬乃はケース見なかった?・・って、あれ、もう寝ちゃった・・?」
「やっぱり疲れてたんだね・・」
「あ、この部屋っていつまで借りてられますか」
「六時までは大丈夫」
「じゃあまだ、時間はたっぷりありますね」
「あ、あの黒いのって、ケースじゃないですか」
「ああ、あれだ。よかった、ありがとう」
ざわざわと冬乃の耳の奥、三人の会話とはべつの音が聞こえ始めていた。
(この、霧・・・・)
薄れてゆく意識のなかで、
冬乃はいつかに見た霧を目のまえに見始めて。
行くのだと。
あの世界へ戻ってゆくのだと、
冬乃は霞む意識のなかで、安堵に、微笑んだ。・・・・
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