三
六一七年 十月某日。
夏が終わり、秋が訪れていた。皇女マーゴットが去り、その後処理を終えたアヴァロン城は、まるで真夜中の世界のように静かになった。
旅立った彼女は無事「岬の屋敷」と呼ばれる辺境の屋敷に到着し、新しい暮らしをはじめたという。健康で、生育に心配は無いと、ヤナが丁寧に手紙に書いて寄越した。
アヴァロンとの連絡は極力行わないことと、屋敷の場所を悟られないためにあちこち経由させる回りくどい方法をとることをあらかじめ決めていたため、その知らせがゲオルグの元に届いたのは、彼らの出立から随分時間が経ってからのことであった。
城では多くの使用人に暇が出され、城内は閉鎖された未使用の区画がさらに増えた。リゼットが毎日大切に手入れをしていたアーシュラの居住区も、姫が戻るまでの間は閉鎖とされ――少女は、クヴェンと共に、ゲオルグの側で仕えることになった。
彼の確実な味方は、もう彼ら二人しかいないからだ。
アドルフが生きていた時代から考えると、アヴァロン城は本当に寂しい場所になったと思う。けれどリゼットにとっては、毎日ゲオルグを側で見ていられる生活は、率直に嬉しいものでもあった。
ひとり残ったゲオルグは、表面上は何も変わらない様子で、摂政としての政務を、日々淡々とこなしていた。
もともと器用な方である彼は、いつの間にか仕事のやり方をすっかり飲み込んだらしい。今ではクヴェンに迷惑をかけることもほとんど無く、しっかりと大役をこなしている。忙しいと文句を言うことはあっても、寂しいと口にすることは決して無かった。
その様子は頼もしくも、痛々しくもあったけれど、クヴェンもリゼットも、慰めの言葉をかけることは出来なかった。
これから、この城で彼がひとり、待たなければならない時間は十二年。誰も、彼の代わりを務めることは出来ないのだから。
「え? クヴェンが?」
「はい。ぜひ、一度まとまった休暇をとられてはどうかと」
今朝、父からぜひお前から伝えて欲しいと頼まれたことを切り出してみる。
ゲオルグにはミラノに、婚礼以来、ほとんど帰っていない実家があった。リゼットは知らないけれど、賑やかな商家なのだと聞いている。クヴェンは、あまりに負担の重いゲオルグを気遣い、休暇を作って一度そこに帰るのはどうかと考えているようだった。
それにはリゼットも賛成だった。休暇どころでなく、彼は城の外に出ることすら、滅多になくなっているのだ。少しくらい気分転換ができないと、ゲオルグがどうにかなってしまいそうで、心配だ。
「でも、仕事は途切れなくあるし……」
手元の書類の山を見やり、ゲオルグは肩をすくめる。
「それなら、父が何とか調整すると申しておりましたので、ご心配はいりません。ぜひ……」
「……いいよ。休暇は」
毎日ちゃんと休めているしね、と、付け加えてゲオルグはやんわり拒絶する。
「家は上手くいっているって、姉さんが時々手紙をくれるから心配はないし……それに、たぶん……」
ゲオルグは困ったように微笑んでから、自嘲的に呟く。
「僕はね、一度あそこに帰ってしまったら、もう、あの子を待てなくなってしまう気がしているんだ」
「大公殿下……」
「それじゃ困るし、僕も、怖いからさ」
悲しいことは、人を変えてしまう。ゲオルグは以前と変わらず振る舞おうとしているようだったけれど、その笑顔は、少女が好きになった時の彼とは、別人のように見えた。
底抜けに明るかった彼の表情は、アーシュラが死んだ時に暗くなり、マーゴットが去った後はやけに静かに澄んだ。
「……かしこまりました。そう、父にはお伝えいたします」
それでも、彼のことが好きであることに、変わりはないのだ。
「悪いね、頼むよ。心配してもらえるのはすごく嬉しい。僕は大丈夫だからって、クヴェンに言っておいて」
「はい……」
あの日エリンに誓った約束は、まだ言い出すことすら出来ずにいる。
この件については父に話すことも憚られる気がしたので、誰にも相談することは出来なかった。
城内では上品ぶってすましていても、仕事を終えて自分達の居住区画に戻るとかしましくてあけすけな、年上の使用人仲間の間で育ったので、初心なリゼットではあったけれど、子供の作り方くらいは知っている。
まぁ、知っているだけで経験は無いのだけれど……健康には自信があるし、子供のひとりくらい産めるはずだ。
殿方は、愛は無くとも子は作れると聞き及ぶ。別に、愛してくれと言いたいわけではないのだ。産んだ子は間違いなくエリンとゲオルグに托す。母であることを声高に叫んで、アヴァロンに迷惑をかけるようなことは決してしない。
何もいらないし、子供を産んだからといって自分が死ぬようなこともないはずだ。それならば。
姫とあなたのために、すべてを了承した上でのことであると正面から伝えれば、ゲオルグも、分かってくれるのではないか。
――そう決意してはいても、なかなか、自分からあなたの子供を産ませて欲しいと頼むのには勇気がいるものだ。
そして、誰にも何も言い出せないまま時だけが過ぎていくのに耐えられなくなったリゼットは、大胆な行動を起こした。
「男の子が欲しい?」
診察室で、リゼットの話を聞いた女医は、脳裏に浮かぶ疑問符を隠せない様子で口を開いた。少女は、それを無視したのか気付かなかったのか、そうですと言いながら深く首を縦に振った。
「あなた、まだとてもお若いと思うけど……」
「わ、私はもう十八歳の誕生日を迎えておりますので……若すぎるということは、ありません」
「それは……そうですね」
医者は問診票に目を落として、やはり腑に落ちないようだ。
リゼットは、空き時間を利用して、下の街へ降りて、産科の医者を訪ねることにしたのだ。もちろん、まだ子供を授かるような可能性は一切無いのだけれど、これでも、彼女なりに考えに考えての行動だった。
務めを果たすためには、男児を産まなければいけない。女性が剣になれるのかどうか、リゼットは知らなかったけれど、エリンも『弟を』と言ったのだし、これから作るのだから、体力的に劣る女児よりは、男児が良いに決まっている。
そのためには、あらかじめ医者にかかっておかなければいけないだろうと考えたのだ。腹に宿った後で、子の性別を変えるわけにはいかないのだから。
医者は、カルテに目を落としたまま言った。
「パートナーは男性?」
「はい」
「なら、年齢から考えても、第一選択は自然妊娠ね。薬を使っての産み分けは比較的簡単に可能だけど……二人で、きちんと相談は出来ていますか?」
「そっ……それは……」
相談なんて、出来ているはずがない。そもそも、自分を受け入れてもらえるのかどうかすら定かではない。
だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。リゼットは怯みそうな自分に必死に言い聞かせる。使命があるのだ。これは自分のためじゃない。だから――
「その証明が無いと、薬を処方して頂くことはできないのでしょうか?」
そう、必死で突っぱねた。
「……それは、必須ではありませんね。あなたの意志を確認できれば、処方は可能です」
「では、ぜひ、お願いします。私の意志は……決まっていますので」
少女の勢いに気圧されたのか、医者はそれ以上何も言わず、事務的な問診をして、望む薬を処方してくれた。
その薬を使っている時に身に宿した子は、ほぼ必ず男児になるという。世界中で幅広く使われているものだが、地域によっては、性別分布に偏りを生みすぎるということで、規制されている場所もあるらしい。副作用、胎児への影響、その他服用に関する雑多な注意やら何やら、渡された小さな冊子を、城に帰る道すがら、熱心に隅々まで読んだ。
(失敗は許されないのだから、しっかりしないと……)
バスの車窓を、身近なのに見慣れない街が流れていく。通りを歩く人々が、映像のように思えてしまう。アヴァロン城で暮らしていると街へ出る必要なんてほとんど無いから、こんな風にひとりで出かけるのなんて、とても久しぶりのことだった。
ひとりで病院へ、それも産科に行くなんて経験が無く、恐ろしかったし、色々と思い詰めて出てきたけれど、帰り道は少しだけ気持ちが晴れていた。外出するというのは、予想外の効能を持っているのかもしれない。
父がゲオルグを里帰りさせたがっているのは、そういう理由もあるのではないかと、ぼんやりと思いながら馬車に乗り換えて、半日ぶりに城へ戻った。
「仕事なんかして大丈夫なのかい?」
「え?」
午後、執務室の掃除に入ろうとしたところを、ゲオルグに呼び止められた。不思議そうに首をかしげたリゼットだったが、次の台詞で疑問はあっさり溶解する。
「病院へ行ったと聞いたけど」
「あっ……」
彼にそれを話したのは父だ。今朝、どこへ行くのかを訊ねられた時に正直に話すことができず、少し調子が悪いからと微妙な嘘をついてしまったのだった。
「も、申し訳ありません……もう大丈夫……」
「だめだよ。君のそういう台詞は信用できない」
「でも、本当に……」
口ごもるリゼットの手から、ゲオルグは笑って掃除道具を奪う。
「いいから、部屋に戻って。掃除なら僕がやっておくし」
「なっ……ちょ、いけません!」
「いいからいいから」
「大公殿下!」
聞く耳を持たないゲオルグを追いかけて、奪われたモップの柄をはしと掴む。
「し……仕事は、させてください。体調はもう悪くないので……その、大丈夫ですので……」
本当のことは話せない。少女はただ懇願した。
「…………」
ゲオルグは真面目な顔で黙り込んで、しばらく思案した後に、モップを少女に返す。
「……そこまで言うなら、もう何も言わないけど、くれぐれも無理をしないでね。君に倒れられたら僕は困るし、悲しいんだ。覚えておいてよ?」
ゲオルグは昔から優しかった。以前はそれを素直に受け取ることができなかったけれど、今は嬉しい。嬉しすぎて、こういう一つ一つの些細なやりとりにも、正直どうにかなってしまいそうだ。
「……分かっております、大公殿下」
今、自分はちゃんとした顔を彼に見せられているだろうか。変な顔をしていると恥ずかしいし、気持ちを悟られてしまうようなのもいけない。
相反する様々な想いに引き裂かれるようだ。だけど、何を置いても、何をしても、私は今、あなたの役にこそ立ちたいのだと、少女は密かに心に誓うのだった。
それからしばらくして、リゼットは生まれて初めて、まとまった休暇を願い出た。まとまった、といっても、それは一週間にも満たない短いものだ。
父には、はじめての旅行に行ってみたいのだと申し出た。南エウロの有名な街を何カ所か巡って、すぐに城に戻ってくると説明して、承諾を得た。
それは半分本当で、半分は嘘だった。彼女は、ミラノを――つまり、ゲオルグの実家を、訪れてみたいと思っていたのだ。
もちろん、カルサス家を訪問することはしない。遠くから様子を見るだけで良いのだ。でも、確か、商店を営んでいると聞いたから、買い物客として訪問するくらいは許されるかもしれない。
本当はもちろん、ゲオルグが故郷に帰って欲しいのだけれど……本人がああはっきりと拒んでいるものを、しつこく食い下がるわけにはいかない。だから、せめて、自分で彼の実家を見に行ってみようと思ったのだ。――単純に、彼が生まれた家を見てみたいという気持ちも、もちろん大きいのだけれど。
ミラノまでは、特急列車なら半日かからないくらいの旅になる。いつか、ゲオルグがアーシュラのために通ってきていたのと同じ道行きだ。
世間知らずの少女にとっては何もかもがはじめての経験で、切符を買うのも、目的の列車を探すのも、指定された席を見つけるのも一苦労だ。駅では小さな商店にあらゆるものが取りそろえられていて、この店を見ているだけでも一日が過ぎてしまいそうだ。
もちろん、そんなことに限られた時間を費やすわけにはいかないので、周りの客達を観察して、軽食や飲み物などを買っているのを真似してみる。あまり自分で金を使う経験がなかったせいで、少しまごまごしてしまったけれど、無事、ジュースとビスケットを手に入れる。
長くアヴァロンの、衣食住を保障された環境で仕事をしていたおかげで、リゼットの銀行口座にはまとまった額の貯金があった。これまで使う機会がなかったせいだ。金の管理は父に頼んでいたので、自分では全然知らなかった。口座にある数字がどのくらいの大きさなのかも、自分で旅券を買ってみてはじめて何となく理解したくらいだ。
自分の金で買い物をする、というのは、なかなかに自由で、気持ちの晴れることだと思った。
昼過ぎに降り立ったミラノは、ゲオルグの言葉通り、賑やかな街だった。縫うように細い通りが張り巡らされ、どの道にも店があって、大勢人が歩いている。
「えーっと……この住所の場所に、行きたいのですが……」
タクシーに乗り込んで地図を見せると、運転手はニコニコ笑って頷いた。
「お嬢さん、アヴァロン大公の実家を見に来たんだね!」
「ええっ!?」
一発で目的を当てられて悲鳴をあげると同時に、乱暴に車が発進する。
「ご、ご存知なのですか……?」
「そりゃあ、ミラノでゲオルグを知らない奴なんていないさ、皇帝陛下と結婚したわけだろ、この町の英雄だ!」
「まぁ……」
男は我がことのように嬉しそうで、リゼットも嬉しい気持ちになった。
「カルサス家を見たいってお客は多いんだよ。あそこはもともと、変なものばっかり置いてる小さい店でなぁ、俺が子供の頃だから、先々代のじいさんが……」
運転手は、物知りなのか出任せなのかわからないけれど、機嫌良くカルサス家の歴史やら、初代当主の変人ぶりやら、最近の大公ブームのことやらを話してくれた。何もかも、ミラノの人間なら皆知ってる、と言わんばかりの勢いだ。
リゼットは、アーシュラに呼ばれてニコニコと城へやって来るゲオルグのことしか見ていなかったけれど、彼が皇女と親しくなって、やがて結婚したことは、彼だけでなく、この街にとっても大変な事件だったのだろう。
車を降りた先にあったカルサス商店は、狭い通りに面して、色々なものが所狭しと陳列された店だった。想像していたよりこぢんまりとしているが、店にはひっきりなしに人が出入りして、来る途中運転手が自慢していた通り、繁盛しているように見える。
あの明るい少年がここからアヴァロンに通ってきていたのだと思うと、奇妙な感銘をおぼえる。見るだけで帰ろうかなと思っていたのだが、誘惑にあらがえず、自然を装って店に入ってみた。
ドアが動くと、カランカランと、低めの心地よいベルが鳴る。混んではいないが店内にはほどよく客が居て、緊張して入ったけれど、居心地はよさそうだ。ざわめきに紛れ、カウンターの奥から、いらっしゃい、と、明るい声がした。
見ると、背の高い、元気そうな女性がてきぱきと何かの荷造りをしている。
(あれが、大公殿下のお姉様……?)
店は今でも家族経営だと聞くから、きっとそうなのだろうと思うけれど……あまりジロジロ見るのは失礼だし、そそくさと隅の棚の方へ移動する。
店には色々な種類の民芸品が並んでいた。どれも個性的で、どこのものかはさっぱり見当も付かないが、少なくともこの近くで作られたものでないことは分かる。きょろきょろ見回していると、見覚えのあるものが目に入った。
「鳥のお面……」
壁に、木や金属で作られているらしい、奇妙なオブジェが並んでいた。同じものではなかったけれど、アーシュラがはじめてゲオルグに会った時、彼女が彼から買ったという奇妙な面によく似ていた。
あの面は、彼女がずっと大切に部屋に飾っていて──今は、その墓に納められている。
「そのお面、面白いでしょ?」
「ひぇっ?」
「これが鳥で、その隣のは牡羊、反対側は火の精霊なんですって」
突然声をかけられて、驚いて振り返ると、先ほどカウンターにいた女性が隣に立っていた。
「あれ、ごめんなさい。驚かせました?」
親しげで、優しくて、ほんのちょっとだけ押しの強い感じのする物言い。感じのいい人だ。
「い、いえっ、こちらこそ……」
「一生懸命見ていたから。ミラノへは、ご旅行?」
「ええっ? どうして……」
「だってその大荷物」
言って、女性はリゼットが引きずるトランクを指す。
「あっ……」
確かにこれで旅行者ではないと言ったら、ちょっと不審かもしれない。
「あははは、まぁ、ゆっくり見ていって。手が届かないのは、言ってくれれば下ろすからね。遠慮なく!」
ああ、これはあの人の家族だと、もう訊ねなくても分かった。少女が知っている、かつての彼と同じ笑顔だった。
今はもう、ゲオルグはあんな風には笑わない。だから彼は、この家に戻れないのだろうか。
ミラノでの時間は新鮮で楽しかった。どこを見に行っても感動したし、あらゆる店に入って口座残高全部使って買い物をしてみたかった。
けれど、彼女は休暇の予定を少し早めに切り上げて、アヴァロン城へと戻ることにした。
楽しいよりも、ゲオルグに会いたい気持ちが上回ってしまったせいだ。
彼の実家は大家族だという。あの賑やかな街の、和やかな店で、生まれ育った彼が、今はたったひとり、広大な城の主人として、孤独すぎる時間を耐えている。
煌びやかな夜の光の中で、そのことを考えると、居ても立ってもいられなくなった。
彼は自分のことを、今でも友人だと思ってくれているのだ。だから、今、あの人の側に居ることは、どんなことよりも大切なことだ。
務めではなくて、願いとして。
「おかえり、リゼット」
大急ぎでアヴァロンへ戻った彼女を、ゲオルグは普段通り穏やかに迎えた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
嬉しいのを押さえつつ頭を下げる。城に着いたのは夕方近かったし、そもそもまだ休暇中の予定であったから、クヴェンから今日はそのまま部屋で休んでいいと言われたのだけど……休みをもらった礼を言いたいと言って出てきたのだ。
「何を言ってるんだい。休みは大切だし、そもそも、もう少しゆっくり旅行をするんだって聞いていたけど……良かったのかい?」
優しい声を聞いて安心する。やっぱり、帰ってきて良かった。
「大丈夫です……その、あまり、城を開けると色々気がかりもございますし……」
たった数日でも、すごく久しぶりに会話をするような気がする。恥ずかしそうに口ごもるリゼットに、ゲオルグは苦笑する。
「前から思ってたけど、ちょっと熱心すぎるんじゃない?」
「そ、そんなことはありません!」
仕事は好きだが、仕事をしたくて帰ってきたわけではない。気がかりなのはあなたのことだ。そう、言ってしまいけれど、
「これが……普通です……」
無論、言えはしない。
「あはは、本当に君には頭が下がるなあ。僕も見習わないと」
「大公殿下は……とても、立派です……」
「うわぁ、珍しい。君が僕を褒めてくれるなんて」
おどけた様子も、もう昔とは少し印象が違うような気がする。あの店を見た後だから余計に悲しくなったけれど、ゲオルグは気付かず続ける。
「それで、旅行はどこへ?」
「え……?」
「あまり遠くへ行けるほどの時間はなかったよね」
「……ミラノへ」
彼女がその名を呟いた瞬間、ゲオルグの表情が硬くなる。
「へ、へぇ……そっか……いい街だったでしょ?」
「はい。とても……」
ゲオルグの反応を見て、言わなければ良かったかなと後悔が脳裏に差し込む。けれど、彼は笑ってみせた。
「だったら、うちの店の場所とか、教えておけばよかったなぁ」
「え……」
「姉さんと叔母さんで店の面倒を見てるんだけど、変な店だから、行くときっと面白いと……」
それが彼流の強がりであったことに、気付くべきだったのかもしれない。
「行って参りました」
「……!」
「あっ……その、ご実家のご住所は……存じ上げておりましたので……」
「そ……そう……」
ゲオルグは明らかに動揺した様子で――それを悟られまいとして、がさがさと書類の束を広げて目を向ける。
彼が仕事を始めようとしたのだと思ったリゼットは、もう会話を切り上げて下がらなければいけないと、ポケットから小さな包みを取り出し、机の側に歩み寄り、そっと差し出した。
「あの、これ……」
それは、カルサス商店で買い求めた、木製の小さな人形だった。素朴な色彩と精巧なつくりが可愛らしくて、つい二つ、購入してしまったものだ。
「お土産……です。その、よろしければ……」
ゲオルグは俯いたまま、何も言わなかった。同じ品を二人で持てれば素敵だな、と、不純な動機で買ってしまった。やはり、主人に対して少し図々しかったかもしれない。そう思って少女が手を引っ込めかけた、その時だった。
無言のままの青年の手がぬっと伸びて、下げかけたリゼットの腕を掴んだ。
「っ!?」
強い力と突然の出来事に驚いた少女は、小さな悲鳴を慌てて飲み込む。
「…………」
握られた手首が熱くて、痛い。青年が黙っていた時間は、おそらく、ほんの十秒にも満たない時間であったろう。だが、二人にとってそれは引き延ばされ、重苦しく、終わりが来ないようにすら思えるひとときだった。
「……その、人形さ」
沈黙を破ったのはゲオルグだった。
「昔、僕が見つけて、はじめて店に置いてもらった商品なんだ」
リゼットから顔を背けたまま、震えた声でか細く呟く。それではじめて、少女は彼が何に動揺しているのかを理解する。
「可愛いでしょう、まだ……置いてるんだねえ……」
まるで、もう二度と帰れない場所を懐かしむように言う。彼は、いつだってミラノに戻るくらいのことは出来るはずなのに。
否、違うのか。少女は悟る。
彼はもう、戻れない孤独の道の上にいるのだ。
「…………どうして、こんなことになってるんだろう」
不幸に耐え重責を担う、若きアヴァロン大公ゲオルグ――そんな、彼という形をした革袋から、サラサラと虚勢の砂がこぼれ落ちたゆくようだった。
「リゼット……僕は……どうして……」
掴まれた手が痛い。彼を気遣っているつもりが、とても自分勝手で、申し訳ないことをしてしまった。
「どうして、ここに居る……?」
激しい後悔の念に押しつぶされてしまいそうだ。自分は彼を支えるためにここにいる。決して、倒れさせてはいけないのに。
「大公殿……」
「その名で僕を呼ぶな!」
喚いて、それから、己の発した言葉の意味に気付いて、驚いたように少女の手を離す。
「……ごめん……」
「あの……」
「君を困らせるつもりじゃなかった」
ゲオルグはゆっくりと顔を上げて、青ざめた顔でぎこちなく笑う。
「大丈夫だから、クヴェンには何も言わないで。心配をかけたくない」
そして、少女が手に持ったままの人形にそっと触れて、ごめんねともう一度謝るのだった。
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