四
リゼットのベッドサイドには、二つ、人形が並ぶこととなった。
もう少し心に余裕ができたら執務室に飾りたいから、しばらくの間、預かっていて欲しいと頼まれたのだ。机の引き出しには、先日の薬も隠したままだ。
少女は無力で、ただ、時間が流れ、想いだけが募っていく。
そして、いつしか、秋が終わっていた。
「昼食の支度が調っております……ゲオルグ様」
変化したこともあった。
ゲオルグの心を知ったリゼットは、勇気を出して、彼を名で呼んでみることにしたのだ。
「ああ、ありがとう。これだけ終わらせてから行くよ」
そのことについて、ゲオルグは何も言わなかったけれど、嬉しそうな顔をしてくれたように思えたので、少女はそれを、二人きりの時にだけ続けることにした。
家族も使用人も減ったとはいえ、家令として、仕事の増えたクヴェンの代わりに、彼女がゲオルグの側で細々とした補佐の仕事をすることも増えていた。
呼び名が変わったからといって、関係が変化するわけではない。本当の友人のように(リゼットには、それがどういうものであるか分からなかったけれど)親しい言葉を交わすわけでもない。だけど彼女には、それで充分だった。
冬のはじまりのある日、岬の屋敷からの便りが届いた。
やはり、ヤナの優しい字で、皇女の日々の様子について記されていて――そして、次の頼りは、半年後になるとあった。
「……順調だってことだね」
手紙を読み終えて、ゲオルグは小さくため息をついた。やりとりは少ない方が、皇女の居場所を知られる危険が少なくなる。
アヴァロンを離れることは元々賭けなのだ。今の皇女の住まいには、ひとりの警備兵すらいない。万一居場所を知られ、大勢で攻められるような事態が起きたら、エリンひとりで守り切ることは難しいだろう。
勝利は、皇女を隠し通せるかどうか、ということにかかっているのだ。
「……ヤナ様、写真くらい送ってくださってもいいのに」
寂しそうなゲオルグを見かねて、リゼットは不満の声をあげる。
「仕方ないよ。せっかく名前を伏せて手紙を書いているのに、写真にあの子の目が写ってしまったら意味が無いからね」
皇女はあと少しで一歳を迎える。きっと、日に日に成長していることだろう。映像でも、写真でも、彼女の姿が見られればいいのに。
「ですが……」
「いいよ。当分会えないことには変わりないから。僕の方も忙しいし……まだ果たせてない約束もあるし……」
ゲオルグは憂鬱そうに天井を仰ぐ。
「皇女殿下の剣……ですか?」
ドキリとしながら、話題を繋げてみる。
「うん……まぁ、クヴェンに頼んで、孤児院や乳児院をあたってもらってもいいのだけど、話が話だし、僕に責任があるかなぁって……」
何とか都合をつけて、自分で施設を訪れるべきだと、ゲオルグは言う。しかし、やはり、乗り気ではないようだった。
眠れない夜が多いらしい彼が、酒を飲むようになったのは、ちょうどこの頃のことだった。夜が遅くなればなるほど酒の量が増え、それなのに翌日は朝から起き出してくるので、クヴェンはとても心配していた。
そしてその日は、クヴェンが岬の屋敷へと届ける手紙を出すため、珍しく城を空けていた。ジュネーヴの外の、都度違う遠い街から、手紙は出されることになっていたからだ。
「……失礼いたします」
執務室でなく、寝室を訪れるのははじめてだった。
「リゼット……?」
明らかに驚いた様子で、ソファで新聞を眺めていたらしいゲオルグが顔を上げる。クヴェンの言葉通り、部屋に持ち込んだブランデーを飲んでいるようだった。
「……夜、深酒なさるのをお止めするようにと、頼まれております」
「クヴェンかぁ……」
そう、笑いながらグラスを置く。話を聞かずに酒瓶に手を伸ばそうとするので、慌てて駆け寄って、瓶を取った。ベッドサイドの灯りを受けて、凝った意匠のガラス瓶が、シャンデリアのようにキラリと光る。
「まだ、そんなに飲んでないし」
「いけません」
「許してよ。僕、結構がんばってると思う」
「それは存じております。ですが……」
「ねぇ、リゼットー……」
酔っているせいか、子供じみた甘えた声で言いながら、取り上げられた瓶を奪おうと、青年の長い腕が伸びる。
「駄目ですっ……あっ……」
彼の手を避けて、屈んだところで自分のスカートの裾を踏んづけて……みっともなくカーペットの上に転んでしまった。
「ちょ、大丈夫……?」
白いエプロンに酒が零れ、慌てて瓶を立てて脱力し、その場にへたり込む。
「も、申し訳、ございません……」
「慣れないことをするからだ」
笑って、ゲオルグはグラスを突き出す。どうやら、注げと言いたいらしい。
甘ったるい酒のにおいと、酔いに緩んだゲオルグの瞳が、頭の奥を痺れさせる。少女はしばらく思案して……結局、それ以上突っぱねることは出来ず、手にした瓶を傾けた。
「君も飲まない?」
「えっ?」
「おいしいよ」
「それは……いけません」
「どうしてさ……」
「し、仕事中です……!」
「ふぅん……」
ゲオルグは拗ねた子供のような素振りで、注がれた酒を啜る。
「……どーしてそういうこと、言うかなぁ……」
言って、眼鏡の奥の目を細める。
「僕らの他にはもう、誰もいないのにさぁ」
冗談めかした、けれど悲しそうな言葉に、リゼットは再び迷い……けれど、答えを出すことができず、彼のグラスを固辞したのだった。
深夜、酒の染み込んだエプロンをざっと洗って干してから、何となく部屋に戻る気になれず、月光に青く染まった執務室の前の廊下で、長いこと、外を見ていた。
もう、アヴァロン城には使われていない場所の方がずっと多い。いつもであれば遅くまで灯りの点いている、仕事熱心なクヴェンの部屋すら、不在の今夜は暗い。
だから、真夜中の城はあまりに静かだった。まるで――時の流れがここだけ止まって、取り残されたよう。
自分が生まれるより以前、ここにはアヴァロン家の人々が大勢暮らしていたと聞いている。けれど、そんな彼らが居なくなり――そして、アドルフが死に、アーシュラも死に、マーゴットは遠くへ行ってしまった。
数少なくなった使用人は今ごろはみんな地下の使用人部屋で休んでいて、今、この城の住人は――あの人だけ。
(そうか、本当にここは……)
先刻の、彼の言葉がよみがえる。
(残された人の城なんだ)
改めて後悔する。こちらの心配ばかり押しつけて、彼がどんな気持ちで長すぎる夜をやり過ごしているのか、分かってやることができなかった。たぶん、私を頼ってくれたのに。
彼はもう眠っただろうか。
ゆらり、と、少女の頭が傾いで、窓辺から離れる。知らず、足が動いていた。
自分でない何かに突き動かされるような、不思議な感覚。
普段通りの彼女であれば、たぶん、必死に否定し、心の奥底へ追いやっていたに違いない衝動だった。けれど、リゼットは抗うことなく、固く結い上げた長い髪をほどく。きつい編み込みで引っ張られていた頭の緊張が解けると、心まで軽くなるようだった。
ひたひたと、足を進める。あの人の部屋の方へ。ワンピースの詰め襟が何だか息苦しい気がして、ホックを外してみる。
この黒い服はたぶん、鎧のようなものでもある。これを脱げば、出来なかったことが出来るようになるよと、緩んだ首元に触れる冷たい夜気が語りかける。その、甘い誘いに導かれるまま、少女は自らを縁取る、鎧のつなぎ目に手をかけた。
なぜそんなことをしたのか、あるいは出来たのか。考えて分かるようなことではなかったように思う。
義務感も、罪悪感も、その瞬間は感じなかった。ただ、この静かで寂しい夜に取り残された、あの人の所へ戻りたいと思ったのだ。
夜に紛れてしまいそうな、小さなノックの音に、ソファで眠りかけていたゲオルグは目を覚ました。酔いの抜けきらぬ身体を起こして、のそのそとドアノブに手をかける。真夜中に一体誰が、なぜ、と、疑問が浮かばなかったのは、たぶん、酒のせいだろう。
しかし、そんな彼のぼやけた思考は、廊下に立ち尽くしていた少女の姿に、一気に覚醒させられることになる。
「ちょ……っと、え……と……」
はじめは、幽霊でも立っているのかと思った。
下着同然の、白い素朴なコットンのワンピース姿。そういえば今まで見たことの無かった、髪を下ろした少女。見知ったお仕着せ姿でなかったこともあって、目の前にいるのがリゼットであることに気付くのに、ちょっと時間がかかってしまった。
ハッとして廊下を覗くと、彼女が脱ぎ捨てたであろう黒い服が目に入った。凝った影のようなそれを見て、あらためて、少女の様子がおかしいことに思い至った、刹那のことだった。
躊躇いがちに伸ばされた手が、青年の腕に触れる。
「……お願いがございます」
少女は俯いて、けれどすぐに顔を上げて、ゲオルグを見つめる。
「皇女殿下の剣を……あなた様のお子を、私に産ませてください」
「な……」
耳を疑うような言葉。しかし、リゼットの瞳には、彼女らしく戸惑いと恥じらいがゆらゆらと揺れている。彼女が狂っているわけでも、酔っているわけでも、冗談を言っているわけでもないのは、その表情を見れば明らかだった。
「…………」
ゲオルグは長いこと、二の句を告げずにいた。
つい数時間前、部屋を去ったときの彼女とはまるで様子が違う。
「……風邪をひいてしまう。とりあえず、部屋に――」
どうにかそれだけ口にして、彼女を部屋に招き入れようと伸ばしたその腕の中に、少女の冷えた身体が滑り込んだ。準備の出来ていなかったゲオルグは面食らってよろけ、そのままカーペットの上に倒れ込んでしまった。
「ご、ごめん……」
押し倒された格好で謝るゲオルグだったが、リゼットは彼の胸に顔を埋めたまま動かない。
「もうしわけ……ありません……」
震える声。別人のようだと思ったけれど、やっぱりこれはあの、真面目なリゼットなのだ。ゲオルグは色々と察したようで、少しの間、困った様子で考えていたが、
「……別に、謝ることはないけどね」
ゲオルグは観念したように微笑んで、おののく背中を優しくさする。起き上がって彼女を引き離すことはしなかった。
「前に僕が言ったこと、覚えてるよね?」
痩せて小さく、子供のようだった彼の妻と違って、健康な彼女の肉体は重くて柔らかい。若い彼女の肢体は魅力的だったけれど、男を誘惑するにはちょっと経験が足りない。
「僕にすれば君は大切な友じ……いや、今は……家族かな。うん」
そう、優しく諭すように続ける。
「……家族みたいに思ってる。だからね、そんな大切な人に、こんな真似をさせるわけにはいかないんだ。君のことを可愛がっていたアーシュラだって、きっと怒ると思うし。……リゼットもさ、そう思うでしょう?」
可哀想に、忠義心から勇気を振り絞って来たのだろうと、ゲオルグは思っていた。それは確かに、一面では正しい。だが、いや、だからこそ。少女の心が別の色に染まっていることに、彼はずっと気付くことが出来ずにいたのだろう。
「……許されないことで……あることは、わかっております」
途切れ途切れの細い声。ゲオルグの体温をはじめてその身に感じ、リゼットがどんな気持ちでいるのか、自身の無自覚なその言葉が、どんなに彼女を絶望させるのか、彼には分からない。
「エリンはどうかしてるんだよ。だから……」
「エリン様は……関係ありません」
「じゃあ」
「私が」
「?」
「私が……望んで……」
「嘘だな」
「ちがいます……」
「君は真面目すぎる。顔を上げてよ、リゼット」
言葉に従い、少女はおずおずと身を起こす。艶ややかな頬は赤みが差して美しかったが、その表情は苦しげで、いかにも思い詰めていて――
「私は……」
唇を動かすと、言葉より先に、涙がひとしずくこぼれ落ちた。
「あなたが……好きなんです」
彼のヘーゼルの瞳が、驚きの色に染まっている。
ああ、やっぱり気付いていなかったのだ。今まで、他のことにはやたら鋭かったくせに……いや、これはむしろ、今までの自分が上手くやれていたのだと、褒めてやるべきなのだろうか。
惨めさと、ちょっぴりだけの可笑しさが混乱した意識の端に引っかかって、自分が泣いていることに、少女は気付いていなかった。
「……ごめん」
頬に触れる、湿った青年の指。そしてそれが、己の涙であることを知る。
これまで、妹をなだめるくらいの気分でいたらしいゲオルグだったが、今発した言葉からは、そんな余裕は消え失せていた。
「気付いてなかった」
罪悪感が音になったみたいな声で、少し申し訳なく思う。だけど、今このまま言葉を発すると情けない泣き声になってしまいそうなので、どうにか落ち着いて弁明しようと、必死で呼吸を整えようとした。
「僕は、君のこと……ずっと、傷つけていたんだね」
それは違うと言いたくて、声が詰まる。ふるふるかぶりを振る少女の耳の後ろに、長い指が滑り込んだ。
「だったら余計に、君にそんなことはさせられないよ」
触れられた部分に、火が付いたような感じがする。ゾワゾワと背筋が粟立つようなその感覚の正体を、少女はまだ知らない。
「……愛してくれとは、申しません」
やっとのことで、それだけ告げる。ゲオルグは困惑した表情で目を細める。
「そういうこと言わないで」
「かならず丈夫な子を産んでみせます」
「だから、そういうことを言っちゃだめ」
「私は味方です」
「知ってる」
「そんなに……お嫌でしょうか……」
「違うよ」
途方に暮れたように言って、ゲオルグは、彼女の後ろ頭をぐいと引き寄せた。抱き寄せられると少女はうろたえ、大人しくなり――青年は嘆息した。
「僕に都合のいい話を並べられると困る。アヴァロンの都合で君を傷つけたくないって思ってるのは本当なのに……」
苦しげに言葉を紡ぐ、ゲオルグ・アヴァロンの表情は見えない。
「口実があると、逃げたくなるよ。君のことは……大好きなんだから」
抱きしめられて、優しくされて、気が遠くなりそうだった。開いたままのドアの隙間から、冷たい空気と共に忍び込んできた目に見えない悪魔が、これから口にする言葉の罪について、分かっているかと少女に問う。
ああ、そうだ、分かっている。かつて自分の想いをエリンが利用したのと同じように、この人の孤独に、私はつけこむんだ。
「ならば、お逃げください。それで私は……幸せです」
少女の掠れた囁きに、背に回された腕はギクリと硬直し、それから溶けるように力を失って――やがて、ゆるゆると力を取り戻す。
「……ずっと側に居てくれる?」
叶ってはいけない想いが、報われることなくひび割れた心の隙間に忍び込んでゆく。これが罪だというのなら、なんと甘く、愛おしいものであるのだうか。
青白い部屋で、ベッドサイドでゆらゆらと揺れる小さなランプの光が、夢と現実の境界を一層あやふやにする。心地よい弾力で身体を支える広い寝台がふわりと揺れて、少女は緊張で身を縮こまらせた。こんな時どうすれば良いのかなんて知らない。暗がりから伸びた手が頬に触れる。
「心配しなくていいよ。無理にしたりしないし」
「そ……それでは……だめです」
暗いせいで表情は見えなかったが、この期に及んで生意気な口をきくリゼットに、彼がクスリと笑った気がする。
「頑張るなあ……君らしいか。でも――」
ふいに近くなったゲオルグがいつの間にか眼鏡をかけていないことに気が付いた次の瞬間、暖かい感触が吐息を塞いだ。
「僕は……怖いよ」
それは少女の唇を柔らかく啄んで離れ、そして、再び重なる。
触れているのが目の前の、ゲオルグの、好きな人の唇で……そして少女はようやく知る。今、自分は、彼と口づけを交わしているのだと。
静寂に溶ける二人分の吐息。濡れた唇は柔らかくて、暖かい。部屋は暗いのに目の奥がチカチカと光って、胸の奥が重い喜びに疼く。感覚に翻弄されて、理解が追いつかない感じ。無論、上手に応えるなんてできやしない。挨拶の範疇を超えるキスなんて知らないのだ。
「ん……っ、ん……」
行儀良く丁寧な接吻は、しかし重なる度に青年の心の枷を外していくようで、深く、激しく変化していく。歯列を割って入り込んできた舌が、少女のそれを絡め捕り、貪るように吸った。
息が苦しい。これは愛じゃなくて、孤独だ。
だけど、それでいい。いや、そうでなければいけないのだ。
濁流に翻弄され、岸辺を探すように彷徨う白い手のひらを、長い指が捕まえて、滑らかな褥に柔らかく縫い止める。少女を組み敷くと口づけは唇を離れ、首筋をなぞるように降りてゆく。
「あっ……」
ぞくぞくと背筋を走る未知の感覚と共に、触れられた場所から順に、別の生き物に変化していくような気がする。怖いと呟いたきり、何も言ってくれないゲオルグは優しかった。唇が、鼻先が、舌が、指が。少女の命の稜線を確かめるように辿る。
衣擦れの音に、時折、少女の控えめなあえぎが甘く混じる。目が慣れてしまった後は、夜はぼんやりと白く、光っているように見えた。届かない人の体温が、リゼットの中で溶けて、混じり合い、もつれあって、浮かび上がる。それは、弱くてずるいふたつの魂の形。
美しいとはいえない。愛されてもいない。だけど、生きていて、熱を帯び――目を閉じ、耳を塞いで、互いを許した。
翌日。
目が開くと、地下の、自分の部屋だった。
状況を思い出すことができなくて、見慣れた天井をしばし眺める。昨夜のあれは……夢、ではない。自分がここにいるのは、行為が終わった後、逃げ帰ってきてしまったせいだ。
「……!」
覚醒するにつれ、昨夜の出来事が生々しく思い出される。身の置き所が無いような心地を、しばし膝を抱えて布団に潜り込んでやり過ごす。
いつか、自分にもこういう朝が来ることを、想像しないでもなかったけれど、いざ、その線を越えてみると、喜びとか、恥ずかしさとか、そういう単純な感情で片付けられない、いたたまれない衝動が、行き場無く身の内を駆け巡っている。
もちろん、望んでああなったわけだし、後悔なんてしていないし、罪は――背負う覚悟をきめている。だけど、今の気持ちを表現する言葉が思い浮かばない。
私は、嬉しいのか?
(嬉しいなんて……思っちゃいけない)
身を焦がそうとする歓喜を押し殺すと、代わりに不安が襲う。
昨日は、あれで、良かったのだろうか。初めてだったことは、たぶん、彼は気付いていただろうけれど……それにしても、首尾良くできたとは到底思えない。ゲオルグは今ごろ、つまらない娘を相手にしてしまったと、失望しているのではないだろうか。
(今……?)
はっとして布団から顔を出す。そういえば、今は何時だ? 疲れていたせいか、かなりよく寝てしまった感覚がある。慌てて手を伸ばして時計を手に取った。
「え……!」
時計の針は、昼過ぎを指していた。
慌ててベッドから転げ出す。午前中、やるべき仕事はたくさんあったのだ。真面目な少女は仕事を無断で休んだことなんて無かったから、こんな時どう償えば良いのか分からない。とにかく着替えて、クヴェンの元へ急いだ。
「申し訳ありませんっ!」
執務室に飛び込んできたリゼットを、父は憮然とした顔で迎えた。
「大公付きのメイドが城内を走らないように。他の者に示しが付かんだろう」
「え? あ……は、はい……申し訳……ありません……」
予想と違う角度で叱られ、きょとんとして詫びる娘に、クヴェンはクヴェンで、不思議そうに言った。
「それにしても、何を急いで来たのだ。まだ時間はあるだろうに」
「え?」
「大公殿下から、昨日無理をさせたから、半日休ませるようにと伺っている」
「は……?」
「急ぐことはなかっただろう」
もちろん、初耳である。しかし、忙しいらしい父は、娘が面食らっているのに、少しも気付かない様子で続けた。
「私の他に、もうひとりくらい殿下のお側に従僕がいれば良いのだが……今、それを任せられる者がいない。苦労をかけてすまないな」
「えっ……いえ、そのようなことは……ありませんので……大丈夫です……」
ゲオルグが父に何か話してしまったのだろうかと焦ったけれど、どうやら、その心配はなさそうだ。
忙しそうに書類の仕分けをしながら、クヴェンは言った。
「仕事は後まわしで構わないから、まず執務室に行くように。殿下がお呼びだ」
今日、ゲオルグを避けるわけにはいかないことは、わかりきっている。
だけど、あんなことをしてしまった後なのだ。どんな顔をしてドアを叩けばよいのか、それが難問だった。
執務室の前まで来て、立ち止まり、しばらく悩んで、行き過ぎる。ぐるぐると二、三度同じことを繰り返して、どうにかこうにか覚悟を決めてノックした。
「おはよう」
恐る恐る部屋に入ってきた少女に、彼はそう、ごく当たり前の挨拶を寄越す。変わりなく仕事をしているようだった。
「おはようございます……」
まるで何事もなかったような調子に、ホッとすると同時に少し落胆する。けれど、青年の方は別に、そんなつもりはなかったらしい。
「来てくれないかと思った」
「え……」
「後悔、してるかと」
ゲオルグは言いにくそうに口にした言葉に、ドキリと心臓が揺らぐ。
「あ……と、その……」
二人で、大きな過ちを共有している。その事実が、罪が、重くて――重いのに、甘い。
片付いた執務室で、いつも通りの、きちんと身支度をしたゲオルグは、確かに彼女が仕える主人の姿をしているのだけれど――リゼットにとって、今日の彼は、昨日までとは別の人だ。
「昨日はどうかしてた。ごめん……って、謝った方がいいかな」
伺うようにそう言って、こちら見つめるゲオルグの瞳はしんと落ち着いていて、迷っているようには見えなかった。
「それは……」
呼吸するたびに、頭がぼうっと熱くなるのを感じる。彼はたぶん、逃げ道を作ってくれたのだろう。
「……謝らないでください」
戻れる道を、しかし、少女は戻らなかった。
変化したのは彼ではなくて、自分たちの関係なのだ。
「じゃあ……そんなところに突っ立ってないで、こっちに来てよ」
ドアの前で固まったままだったリゼットに、ゲオルグはそう言って手招きする。少女がおずおずと近づくと、彼はペンを置いて手を伸ばし、少女の手首を掴んだ。
「あ……」
穏やかな言葉とうらはらの、強い力。
「あんな風に部屋から逃げられたんじゃ、寂しい」
陽光を受けた塵が、影の中を光りながら揺らいで、二人の間を飛んでいる。熱のない、冬の陽光の中で、しかし二人はまだ、あの青い夜の中に居た。
「次は逃げないでくれる?」
熱っぽくこちらを見る、彼の目にもまた、自分は昨日までとは別の存在として映っているのだと感じる。
「…………はい」
身の内を焦がす暗い歓喜に翻弄されながら、少女は頬を染め、頷いた。
彼女の答えを聞いたゲオルグはするりと手を離し、そして、その後は彼女に触れることも、その話題を持ち出すことは無かった。リゼットは、とても平常心で居られた気はしなかったけれど――少なくともゲオルグが平然としていたから、二人は、大公とメイドの関係を保つことが出来た。
彼らは一線を越えつつ、関係は変わらない。変えてはいけない。言葉で決めたルールではなかったけれど、それが
少女は必死だった。喜びと、罪悪感と、羞恥と、不安が、代わる代わる彼女を襲ったから。だから、自身とはまた別の形でぬかるみに足を取られつつあったゲオルグの心には、気付くことはできなかったのだ。
ひたひたと、夜の廊下を忍んで、彼の寝室を訪れる。呼ばれたわけではなかったから、受け入れてもらえる自信がもてたわけではない。けれど――叩いた扉は開かれる。
「……待ってた」
硬い表情で戸口に立った彼は、短くそう言ってから、溶けるように笑顔になった。
「どうぞ」
招き入れられて、おずおずと進む。段取りを解せぬリゼットは、てっきり、すぐにそういうことになるのだと思っていたけれど、ゲオルグは手にしていたグラスを振って見せた。
「今日は付き合ってくれるでしょ」
少しだけ拍子抜けして、けれど、断る理由も無いので、目を丸くしたままコクリと頷いた。そして差し出された、いつも父が磨いているグラスを手にする。
「苦っ!」
上等なブランデーだったけれど、それでも苦いやら、熱いやら、辛いやらで、少しも美味しくはなかった。酒なんて、甘い食前酒を多少飲んだことがある程度で、飲み慣れないのだ。
「あははは、やっぱり」
むせるリゼットを、ゲオルグは面白そうに眺めて言う。
「な……やっぱりって!」
「ごめんごめん。僕もさぁ、これは、最近ようやく美味しいかなーって、思えるようになってきたところ」
ワインはもとから好きだったんだけどねぇと、言いながら少女の隣に腰を下ろして、自分のグラスに酒を追加する。とぷとぷと注がれる琥珀色の液体は、美味しくはなかったけれどとても美しく映った。
「毎晩……召し上がってるんですか?」
「身体に悪いとか言う?」
「言います」
「大丈夫だよ、僕まだ若いし、死なないし」
「そ……そういう……飛躍した話をしているわけでは……」
「でも、君たちが心配してるのは、そういうことでしょう」
「それは……」
彼の言うことは正しかった。リゼットが深刻な表情で口ごもると、ゲオルグは慌てて首を振る。
「ごめん。困らせるつもりじゃなかった。クヴェンにも、君にも……感謝してるよ。僕は、マロゥがちゃんと即位するまでここで頑張るのが仕事だからね」
大丈夫、と、明るく酔っているように見えて、ゲオルグの目は素面だ。それが何だか苦しくて、リゼットは一口飲んだきりだったグラスをパッと手に取る。
「飲むの?」
「飲みます!」
「やめときなって」
「大丈夫です」
言って、苦い酒を喉に押し込んでみせる。やっぱりまずい。無理しないでよと言いながら、ゲオルグは立ってサイドボードの前に行くと、ごそごそと酒瓶の間を探して、あったあったと言いながら、ハニーボトルを持ってくる。
「蜂蜜?」
「そうそう。一緒に食べてみて」
大きなスプーンにたっぷり蜂蜜を注いで、舐めながらブランデーを口に含んでみる。喉が焼けるような苦みが甘さに中和されて、まるでボンボンチョコレートの中身を飲んでいるみたいで、飲みやすい。
「おいしい……」
「でしょう」
調子にのって飲み進めると、胃の腑が熱くなるような感じで心地よい。身体も心も軽くなるような感覚。あっという間に酔いが回っているらしいリゼットのとろんと細くなった目を、ゲオルグは真面目な顔で横から見つめていた。
はっと目を覚ますと、部屋はすっかり暗くなっていた。
「えっ……」
さっきまで、長椅子に腰掛けていたはずがベッドの中に居て、そして、重たい青年の腕が肩に乗っかっていて――
「……!?」
自分を抱き枕にして彼が眠っていることに気付いて驚き、状況を確認しようともがく。いつの間にこんなことに。
「ん……あれ、起きた……?」
今ので起こしてしまったらしい。すみませんと掠れた声で詫びた少女を抱きすくめていた腕をほどいて、青年はのそりと起き上がる。
「喉、渇いたでしょう」
優しい声にホッとしつつも、やっぱり、何がどうなって彼のベッドで自分が寝ているのか、状況が全く理解出来ない。もしかして、知らないうちにもう、色々と実行してしまったということなのだろうか。
「あ、あ、私、そのっ……」
それだと困る。いや、違う。困りはしないのだけれど……
「えーと……」
狼狽した様子のリゼットに、ゲオルグは少し思案して続ける。
「安心して、っていうのは、まぁ……この場合おかしいのかもしれないけど。何もしてないよ」
言われてみると確かに、服は着ていた。記憶は、デザートのような酒がやたら美味しくて、おかわりしたあたりまでは覚えているけれど……
君、飲んですぐ寝ちゃったんだよとクスクス笑いながら言って、ゲオルグは枕元の水差しに手を伸ばし、グラスにたっぷり水を注いでリゼットに持たせる。確かに、とても喉が渇いていた。
「おいしい……」
冷えた水が喉を降りていくと、火照って動作不良を起こしていた頭がスッキリして、目が冴えていく。
時間は不確かだけれど、夜明け前で部屋は暗く、目が慣れているせいで窓の外がぼんやりと青白く光っているように見える。喉を鳴らして少女が酔い醒めの水を飲み干すのを見つめていたらしい青年は、空になったグラスを受け取りながら、ふと呟いた。
「マロゥ……良い子に育つのかな」
軽口にするつもりがそうならず、彼の不安が、ぽとりと落ちてしまったような声だった。ハッとして、リゼットは青年に向き直り、深く頷く。
「もちろん……そうです。決まっています」
ここで育った分、ゲオルグよりもリゼットの方が、それを信じ切るに足る根拠を持っていた。彼女を育てる乳母と、前の家令のジェームズがどんな人物かもよく知っている。だからこそ確信を持って言える。マーゴットは良い姫に育つ。
大丈夫だ。心配いらないと伝えたい。信じて欲しい。
「必ず……優しくて、強くて、美しい姫にお育ちあそばされます。だから……」
「だから、君が産んだ子を、あの子にあげてもいいの?」
青年が意地悪に繋いだ言葉に、リゼットは一瞬息をのんだ。
「後悔すると思うよ」
「それは……」
後悔は、するかもしれない。今のこの状況だって全部、ひとときの幻のようなもの。けれど――けれど、彼が今、この期に及んで自分の心配をしているのだと思うと、それだけで幸せで、どうにかなってしまいそうなのだ。
「……後悔はしません」
少女の嘘を知ってか知らずか、ゲオルグは途方に暮れたように喉で笑って、首を振った。そして、大きな手のひらで少女の丸い肩を包み込むようにして、ぬくもりの残る寝台に、柔らかい身体を優しく沈める。
「マロゥを憎まないであげて。僕のことは、恨んでいいから」
いつかエリンが言ったのと、同じ台詞を口にする。あなたのことを恨むはずが無いと、言おうと開いた唇は口づけで塞がれ――何も言えぬまま、二人の二度目の罪が、白い闇の中へ溶けていくのだった。
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