二
知らせは唐突にやってきた。
「ほ……本当なのですか!? 皇女殿下を城外へだなんて……!!!」
「声が大きい……!」
驚きに声を荒らげたリゼットを、クヴェンが慌てて制する。ハッと口を押さえる娘に、父は元々深い眉間の皺をさらに濃くして、声を潜めて言った。
「……今、密かに準備を進めているところなのだ。殿下の御出立の日取りも、身を寄せられる先も。城内の者にも伝えないことになっている」
クヴェンから密かに伝えられた話によると、近々、皇女はエリンと、数名の使用人の手によって、城を離れるという。
それも、一時的なものではなく、次代の皇帝として堂々と世間に披露できる年齢に彼女が無事に成長するまで、隠し育てるというのだ。
「た、大公殿下は……?」
「もちろん、了解しておいでだ」
「そんなこと……」
ゲオルグ・アヴァロンにはこの城で、摂政としての務めがある。娘に付いて出て行くことはできない。
つまり、彼はひとり、この城に残るということ。
「姫様は……いつ、お戻りに?」
「おそらくは、十二の誕生日を迎えられる頃に」
「十二年……」
十八歳のリゼットにとって、それは永遠のような時間に思える。そんな長い時間を、ゲオルグは、娘と離れて暮らすというのか?
「お父様……それは……それではあまりに……大公殿下が……」
「……わかっている」
喘ぐように答えた父の言葉にも、苦悩の色が滲んでいた。承知の上だと言いたいのだろう。けれど、だとしても、到底納得できる話には思えない。
「だったら……!」
アーシュラを失ったゲオルグから、マーゴットまでが奪われるなんて。そんなことが許されていいはずがない。
「他に……他に方法はないのですか? こんなのは、あんまりすぎます!」
「リゼット……」
「了解されているなんて、嘘です。そんなこと!」
エリンやゲオルグ、クヴェンが決めたことに対して、少女が口を挟むなど、許されることではないのは分かっている。それでも、控えることはできなかった。
「アーシュラ様は……あの方は、大公殿下のために、お子を……」
彼女は願っていたのだ。自分の代わりに、マーゴットがゲオルグの側に居てくれれば、彼はきっと大丈夫だと。リゼットはそれを知っている。いや、クヴェンだって、分かっているはずなのに。
アヴァロン城の中で、真に皇女マーゴットの味方になるのは誰か。
今回の事件で、それが本当に分からないのだということを、クヴェンと、エリンと、ゲオルグは思い知ったのだ。この広い城で三人だけでは、とても彼女を守れない。
だからこその決断。だからこその別離。アーシュラの願いを知っているから、彼らは皇女の安全を最優先にした。
父の話は理解できる。確かにそうだ。けれど……けれどそれは、ゲオルグがひとりになっても良い理由になるのだろうか。
それから、彼のことが心配で、度々、執務室の近くまで足を運んだ。
ひどく落ち込んでいるのではないかと、悪い想像ばかりが膨らんだけれど、彼と顔を合わせることは中々なかった。部屋を訪ねる勇気もなかったので、何日も、ドアを見つめては引き返す日が続いた。
こんな時、自分が無力なメイドではなくて、何か、役に立てる人間だったら。自分だって、絶対に姫の味方なのに、蚊帳の外なのは辛い。
「私は……」
『この姫のために……あなたは不幸になっても構わないか?』
「!」
あの夜の、エリンの言葉がよぎった。あれはつまり――自分は、蚊帳の外ではないということ?
しかし……――
「リゼット」
「え?」
不意に、手首を掴まれる。人が近づいていた気配に、少しも気が付いていなかったらしい。振り返ると、そこに居たのは、怖い顔をしたゲオルグだった。
「たっ……大公で……」
「ちょっとこっち来て」
少女の驚きを遮り、ゲオルグは彼女の手を掴んだまま早足に廊下を渡って、執務室に入ると、バタンと扉を閉めてしまった。
「あっ、あの……その……」
肩に置かれた大きな手が重たい。こちらを見つめるゲオルグは、怒っているように見えた。何か自分は、彼を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。少女は恐怖したが――
「ごめん」
彼の口から出たのは、予想に反して、謝罪の言葉だった。
「何を……」
「……エリンが、君に何か言ったでしょう」
「えっ……」
今考えていたことを、言い当てられたような錯覚に陥り、パッと頭に血が上る。
けれど、ゲオルグはゲオルグで、彼女の様子に気を配る余裕は無いらしい。リゼットがうろたえているその真意に気付く風は無く、ただただ、申し訳なさそうにうなだれる。
「本っ当に、ごめん……」
「大公殿下、何を……」
「気にしなくていいからね。あいつ……人の気持ちってものを、全然分かっていないんだ」
ゲオルグは、エリンに憤っているようだった。
「君がそんな犠牲をはらう必要はないから。絶対、思い詰めないでよ」
あの夜のエリンの言葉には確かに驚いたけれど、『犠牲』だなんて思いもしなかった。
「ひ……姫様を守る剣は必要……だと……おもいます……」
少女は弱々しい声で、ようやくそれだけ口にする。そして、言ってしまってから、都合の良いことをかさに着る自分の浅ましい心根を情けなく思った。
その大義名分を口にすることが憚られる理由は、それが自分に犠牲を強いるものだからではなく、口実を与えるものだからだ。
「それは……」
けれど、ゲオルグはやはりそれには気付かない。彼は、メイドの立場のリゼットがエリンからそのようなことを頼まれたら、命じられたと受け取っても仕方がないと危惧しているらしい。
「僕は、マーゴットにもエリンみたいなのが必要だと言われても、まだ納得は出来ないんだけど……」
苦々しげに目を伏せて、言いにくそうに続ける。
「でも……百歩譲って、あの子にも剣が必要なんだとしてもだよ。それを君が産む必要はないし、それが、その……僕の子である必要も、無いと思うし……」
ゲオルグの言葉は、彼女を純粋に気遣う気持ちから出たものであったのだけれど、そんな風にハッキリと拒絶の意志を示されるのはやはり辛いものだ。
「た……大公殿下……私は……」
目の前がみるみる暗くなっていく。
そして、少女は悟る。
「私では……お役にたつことはできないと……」
産みたいのだ、私は。
「私は……」
剣となるべき――彼の子供を。
「そっ! そういうことじゃなくて……!」
ゲオルグは慌ててリゼットの肩から手を離す。
「あああもう、違うって……」
頭を抱えて、ゲオルグは困り果てた様子だった。
「泣かないでよ……リゼット」
言われてはじめて、自分の頬を涙が伝っていることを知った。
「君がアーシュラに対して、すごく忠誠心を持ってるってことはさ、知ってるよ。だから、こういうことも……受け入れようとしてしまうんだとは思うけどね。けれど、僕はさ、今でも君のことはメイドとかじゃなくて……友達だと、思ってるから」
あくまで真剣に、あくまで誠実に。
今はもう手の届かない人が、自分のことを友と呼んでくれる。だけど、ああ、違うのだ。この涙は、そういう理由で流れたものじゃない。
「殿下、私は……」
今、アヴァロン家の確実な味方といえる少ない身内の中で、都合良く女の身である自分を犠牲にするだけならば、簡単だ。そんなことは厭わない。未来の皇帝たるべき、幼い皇女殿下の未来のために、どうかその役目を自分にくださいと、堂々と述べることが出来ただろう。
だけど――今の自分には、言えない。
「エリンの言うことなんて、断じて聞く必要はないんだ」
念を押すようにゲオルグは繰り返す。
「僕は、マーゴットにどうしても剣が必要なら、どこかの孤児院で身寄りのない子供を引き取って育てるのがいいと思ってるんだ。クヴェンからも、そういう例が過去に無いわけじゃないって聞いたし……だから、今度あいつに何か言われても、そう僕が言ってるって、言ってくれればいいから。君を巻き込むことはしたくない。どうか、心配しないで」
壁際で俯いて小さくなるリゼットの気持ちを勘違いしたまま、ゲオルグは彼女を気遣うように優しく言うのだった。
歴代の剣達がどこからやって来たのか、確か、父から少し聞いたことがある。
エリンのようにいずれかの貴族の家からアヴァロンに来た者の他に、孤児だった者、親しい者の産んだ子など、出自をたどれば色々な者がいたという。
誰が次の皇帝の剣となるのか、それを決めるのは周りの者ではなく、常に時の皇帝か、あるいは皇太子自身であった。剣の存在も、その一生も、仕えた皇帝の人生の一部として、アヴァロン家の歴史に刻まれる。
だから、それがたとえ拾われた孤児であっても、ちゃんと姫に忠誠を捧げる剣に育つならば、それで何の問題もないはずだ。
それなのに、エリンはどうして、あんなことを言ったのだろう。それを訊ねたいと思った。
「……やっぱり、ここにいらっしゃったのですね」
普段は探してもなかなか見つかるものではないエリンだけれど、今日は簡単に見つけることができた。きっと彼は今、皇女の様子が確認できる場所にいるのだろうと、予想がついたからだ。
ひとつ下の階の空き部屋から、外壁側に思い切り身を乗り出して仰ぐ。石造りの装飾と、しんとした青空の間に、凝った影のように身を縮めてエリンが座り込んでいた。彼は、少女が随分危険な姿勢で自分に話しかけていることに気付くと、少し慌てたように身を起こす。
「危険です。落ちます」
「お訊ねしたいことがあります」
エリンの言葉を無視して、リゼットは言った。
彼は一瞬黙り込み、それから、黒いマントがひときわ大きくはためいたと思うと、ひょいと廊下に降りてくる。
ほんの少しの足場と、軽く掴んだだけのようにみえる手掛かりひとつ。いつ見ても曲芸じみた身のこなしだ。日の光が強いせいで、窓から落ちる影は深く暗い。そういう暗い場所に、エリンはまるで溶けるように見えた。
「何でしょうか」
ゆらりと立ち上がったエリンを見上げて、リゼットは一呼吸だけたじろいで、すぐ気を取り直して口を開く。
「……なぜ、私なのでしょうか」
彼に声をかける前、何と言って質問をしようかと色々台詞を考えていたつもりだったのに、いざ目の前に立たれると、出てきたのは何とも舌足らずな言葉だった。だけど、言いたいことはちゃんと伝わったらしい。
「あなたは、信用できる。それに……」
エリンは切れ長の目を揺らめかせ、少し考えながら、言葉を選んでいるようにみえた。
「あなたならば……アーシュラはきっと許す」
それは、何についての許しだというのだろう。けれど、エリンの言葉から、それ以上の意図は計り知れない。
「……ですが、大公殿下は、孤児を引き取って育てれば良いと仰せでした」
「それは、聞きました」
「怒っておいででした」
「知っています」
「……エリン様は、それでは駄目だと?」
「はい」
「それは何故でしょうか?」
「…………」
リゼットの問いに、エリンはしばし沈黙し、そして、
「彼らの人生には、他の可能性があります」
そう、ポツリと言った。
「他の、可能性……?」
「以前、アーシュラの即位前に、何度か孤児院の慰問に出かけたことがあります。そこで会った子供達は皆アーシュラに、自らの未来の夢を語りました」
その出来事なら、リゼットも覚えている。アーシュラの体調の良かった時期のことだ。彼女はあの頃、あちこちの施設にエリンを伴って出かけていったものだ。
「自らの人生に希望のある者には、務まらない役目です」
「希望? どうして……」
「いつか、かつての自分に他の可能性があったことを知ったとき、その者は皇女殿下の剣でいられなくなる。そしてその時、老いた私はこの世に居ないかもしれません」
淡々と語るエリンは、いつも通りの無表情で、何を考えているのか分からない。けれど、彼は何だかとても寂しいことを言っているような気がする。
自分だって、この城で育って、将来使用人になることは半ば決められていたようなものだったけれど……それでも、漠然とではあるにしろ、やってみたいことや、学んでみたいことはある。だからたぶん未来に、希望のようなものは持っている。
「エリン様は……希望をお持ちでないと?」
「はい」
当たり前のことのように、エリンは答えた。リゼットには、やはりそれは、とても悲しいことに思える。自身に希望を持てぬのが剣の定めなら、自分が産むかもしれない、新しい剣の子は、どんな一生を送ることになるのだろう。
「では……では、もし、私が姫殿下の剣をお産みしたとして……」
望みの無い仮定の問いを、しかし少女は発せずにはいられなかった。
「その子は……その子の一生は……幸せにはなれないということでしょうか?」
リゼットの切実な問いかけに、エリンは理解出来ないとでも言いたげに、不思議そうに首をかしげる。
「不幸な剣に、努めは果たせません」
明るい窓辺に立つ、青年のまっすぐな金髪が、陽光に縁取られて白く輝いていた。そして、優しくも、冷たくもない調子で続ける。
「皇女殿下の弟として生まれる子は、幸せな剣に育つでしょう」
「幸せに……」
「必ず」
奇妙な響きの約束だった。少女にはエリンの心は計り知れず、彼の言葉はやはり理解出来ない。母になるということの意味も、今はまだ分からない。分かるのは、ただ、ゲオルグの役に立ちたいこと、アーシュラを裏切りたくないこと、そして、それでも、彼の子を産んでみたいという想いだけだった。
皇女アーシュラの守護者エリン。彼を見た、一番古い記憶はいつだっただろう。憶えている限り、彼はずっとこの城にいるように思う。
希望は持たないと言った彼は、果たして、幸せだったのだろうか。
アーシュラの従弟であるとか、あの片目の紫色のせいで、殺されそうになったのだとか、そういう話は、少し後に父から聞いたと思う。他の使用人たちは、あまりエリンのことを堂々と話題に出すことを避けていた。
これも後で知ったことだが、彼らはエリンや、それから、その師であったツヴァイのことを、とても恐れていたそうだ。
皇帝の大切な
けれど、リゼットにとっては、アーシュラの所へ連れて行かれると、なぜか必ず一緒にいる物静かな少年、というのが、エリンに対する最初の印象である。
自分も向こうも子供だったからだろう、別に、怖いと思ったことはなかった。けれど、幼い頃から、笑ったところはあまり見たことがなかったから、彼が怒っているのではないかと思った記憶はある。アーシュラにそれを訊ねたら、そんなことはないわと言われて、そんなものか、と、不思議に思ったものだ。
エリンのことは誰も触れないし、誰にも分からない。
彼のことはアーシュラしか理解しない。
剣とはそういうもので、それで良いのだと言われたら、まぁ、そうなのだろうと思うし、納得もできる。自分や他の者の幸福と、彼のそれを比べることもできないだろう。ただ、分からないから不安なだけなのだ。
「あっ……えと……あわわわ……」
姫のために整えられた可愛らしいベビーベッドの前で、皇女を抱かされたリゼットは、完全に固まっていた。
「まあまあ、そんなにおっかなびっくり抱いたのでは、姫様に不安が伝わってしまいますよ、リゼット」
苦笑する老婦人は、ヤナ・バラノヴァ。リゼットにとっては旧知の人物である。彼女はアーシュラとベネディクトの乳母として長くアヴァロン家に仕えた後、アーシュラの結婚を機に引退し、故郷に戻っていたのだが――急遽、マーゴットの養育のために呼び戻されていた。そしてこの後、彼女はマーゴットに付いて城を出ることになっている。
旅立ち前の皇女にひと目会わせて欲しいと、出立の支度に忙しい父に、申し訳ないと思いつつも頼み込んだのだ。
仕事の受け持ちが異なるせいで、皇女には、今までほとんど面会する機会がなかった。彼女が居なくなってしまう前に、どうしても、一度会っておきたかったのだ。
気軽に会える相手ではないことは分かっていたけれど、リゼットの気持ちを何らか察したのだろう、クヴェンは娘に、皇女への面会を許した。
エリンからの頼みについてクヴェンが知っているのかどうかは、リゼットには分からなかった。まさか、こちらから訊ねるわけにもいかなかったからだ。
そして、お互いに事情を知るヤナが一人で世話をしている時間を見計らって、マーゴットの元を訪れたのだった。
マーゴットの体は小さくて、軽くて、柔らかすぎた。不思議そう(なのかどうかは分からないけれど)にこちらをじっと見る瞳があまりに無垢であけすけなので、こちらの考えていることを見透かされてしまうような、畏れに近いような感情までわき起こってしまう。赤子とは恐ろしい。
「姫殿下……」
この小さすぎる体に、アヴァロンの全ての希望と、憎悪がのしかかっている。
「大人しくていらっしゃるわねぇ」
緊張のとけないリゼットの腕の中をのぞき込んで、ヤナが微笑む。
「アーシュラ様に、とってもよく似ておいででしょう?」
そう言われても、リゼットは、アーシュラのこんな小さい頃のことはもちろん知らないから、この赤子がどのくらいその母に似ているのかなんて分からない。
だけど、この柔らかくて神々しい生き物を、産んだあの人が一度も抱くことが無かったのだということを、今更ながら思った。
これから、この子は城を離れて育てられるのだ。
帰ってくる時には、きっと、ここのことは何一つ覚えていないに違いない。彼女が大きくなって、母を知らない子になるのは嫌だ。
そっと覗くと、必ず目が合う。大きな瞳は、見事な紫色だった。
「ヤナ様……どうか、姫殿下にたくさん、お母様のことをお話しして差し上げてください」
リゼットが言うと、涙もろいヤナは目頭を押さえて何度も頷いた。
皇女に別れを告げて、人気の無い廊下に出ると、向こうからやって来るゲオルグの姿を見つけた。リゼットが驚いて足を止めると、彼も気付いたようで、手をあげて薄く微笑む。
「やぁ、君もマーゴットを見に来たの?」
「も……申し訳ございません……勝手に……」
「どうしてそんなことを謝るのさ、会ってあげてよ」
マーゴットの旅立ちまで、もうさほどの時間は残されていないけれど、ゲオルグは普段通りの彼に見えた。
「かわいいでしょう」
彼にとってこそ、辛い別離へのカウントダウンであるはずなのに。
「はい……」
「……大丈夫?」
「た、大公殿下こそ!」
余計なことを言うつもりはなかったのに。
「僕……? 僕は……」
彼女の言葉の意図するところに気付いた様子のゲオルグであったが、彼はしかし、首を振った。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのだ。そんなのは全然、信じられない。
「…………」
だけど、今言える言葉が何もないことくらい、リゼットにだって分かるのだ。
納得出来ないけれど、確かに他に道がない。マーゴットには、必ず生き延びて、成長してもらわなければならないのだから。
「じゃあ、またね」
ゲオルグは、そう言って軽く手を振り、少女と入れ替わりで、娘の部屋へと歩いて行った。
ただ普通に娘に会いに行く父親のように、扉を開けて、ヤナに声をかけながら部屋に入る彼の姿を、泣き出したいような気持ちで追いかけて、そして、リゼットは、震える肺からゆっくりと息を吐いた。
いつしか、皇女マーゴットの守護者は、やはり、エリンの言うとおり、どこかの見知らぬ孤児ではなくて、彼女の家族がなるべきだと、リゼットは思うようになっていた。
エリンの言葉に賛成できるというよりも、皇女と大公に血のつながった家族が増えることは……彼の、ゲオルグの力になるのではないかと思えたからだ。
皇女の弟の存在は、たとえ彼が、アヴァロン家の血をひかないとしても、姉と父をきっと支えてくれるはずだ。
二人きりの彼らに必要なのは、きっと、そんな味方だから。
その役目を自分が、忠義者の皮を被って引き受けることは、少女の誇りと真心が許さない。かといって、誰か別の女がそのためにアヴァロンにやって来る……なんていうことも、嫌だと思ってしまう。
だって、その女はアーシュラを知らないはずで、自分の感じるこの罪悪感を理解するはずがない。そんなのは、許せない。
エリンが望んだのは罪なのだ。彼は自分に、罪人になれと告げたのだ。
罪ならば――――
少女は思った。
(罪ならば、選べるかもしれない)
八月のある晴れた夜。
約束された別れの日、皇女の旅立ちの日だ。
その日、アヴァロン城から出かけて行った者は誰もいなかった。
同行する、皇女の世話役の老使用人――ヤナと、前家令のジェームズである――は、既に何日か前に別々に城を出ていた。
今夜、養育係の目を盗んで、誰にも知られずに徒歩でここを発つのは、エリンと、マーゴットである。彼らは城を出た後、ジュネーヴ郊外で待つジェームズ達と合流して、ヤナの実家の屋敷へ向かうのだと聞いている。
皇女を誰も知らない場所へ安全に逃して、その後、ゲオルグが正式に城外での皇女の養育について発表する手はずだ。城内の誰が敵であっても、それならば、マーゴットの行方を追える者は無い。
リゼットは今夜、エリンに会わなければいけないと思っていた。
ずっと迷っていて、何も伝えられないままだったから。
彼がどこに居るのかは分からないので、仕方なく、いつか話した中庭で待つことにした。皇女の部屋のそばをウロウロするのはいかにも怪しくて父達に迷惑をかけるし、話の内容的に、ゲオルグに聞かれるのも気まずい。
だから――きっとエリンは、自分を見つけてくれると信じて、夏の夜空を見上げる。普段のリゼットなら、そんな自惚れた考えを抱くことはないのだけれど――今日だけは少し違う。エリンは自分の言葉を必要としている。この誓いを聞かぬまま、彼が旅立てるはずがない。
「リゼット」
夜に、声が響く。振り返ると、いつの間にか闇色のフードを目深に被って、その光の色の髪さえ隠したエリンが佇んでいた。
赤子を抱いたその姿は、あの夜の彼と重なる。
「まるで、姫様を盗んで行かれるみたいですわね」
リゼットは小さく笑った。心が決まっていたからか、心は不思議と穏やかだった。
「実際、そのようなものです」
「エリン様に赤ん坊のお世話なんて出来るのかしら」
「それは……ヤナに頼みますので」
「ヤナ様達はもうお年ですから、ご無理をさせないでくださいね」
「……そうですね。わかりました」
夏の夜の、涼しい風が首元を冷やす。あまり引き留めて、皇女に風邪でもひかせては大変だ。
「エリン様」
「はい」
少女はエリンの目を見上げて、意を決して口を開く。
「ご期待に添えるかどうかは……わかりませんけれど……でも、私……務めを果たす努力を、してみますから……」
もっと、堂々と約束して送りだそうと思っていたのだけれど、いざ口に出そうとすると恥ずかしく、何だか歯切れが悪くなってしまった。
情けなくなって俯いた少女の肩に、エリンは躊躇いがちに手を伸ばす。
「……自分を責める必要はない」
「え……?」
優しげな言葉は彼らしくない。少女は驚いて顔を上げる。
「罪はあなたでも、ゲオルグでもなく、私に」
淡々と、エリンは続ける。
「……あなたは、ゲオルグ・アヴァロンを愛している」
「!?」
驚きに目を見開いた、少女の肩を掴む長い指に力が籠もる。
「……知っていて、利用しました」
青年の美しい顔は僅かに歪んで――けれど、それがどんな感情によるものか、リゼットにはやはり読み取れない。
「だからあなたは……私を恨むといい」
そう呟いて、それ以上何も言わずに手を離し、踵を返す。
そして、去って行くエリンの夜風に膨らんだ外套が、ゆったりと弧を描くようにたなびくのを、リゼットは呆然と見送ったのだった。
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