古い話
泉谷
古い話
大学時代の友人たちと飲み会の席で誰かが酒の勢いのまま発言した旅行は、素面で決行されることとなった。
酒の勢いのまま適当に九州の田舎の温泉街へと行き先は決まり、そして私たちは都会の電車から飛行機とレンタカーを乗り継いで、遠い街へと訪れた。誰が言い出したのかもよくわからぬまま訪れた九州の田舎の温泉街は、都会で生まれ育った私にはフィクションの具現化された景色に見えた。立ち並ぶ宿場はどこか古臭く、新しく建てられた都会的な外装の、ホテルと看板を掲げていても周囲の古い建物と街独特の時代違うようなどこか異国めいた空気によって田舎の温泉街の一つとしてそこへ馴染んでいた。
夕方前には予約したホテルに入り、各々自由行動に出た。元々同行者のほとんどが単独行動を好む傾向にあり、それ故に、大学卒業後もそれとなく付き合いが続いていたのだ。結果として、旅行は酒の勢いのままの適当さで、行き先と往復の時間とホテル以外は要するに自由行動という旅程になった。
自由時間ともなればホテルから出ずに己の時間を過ごしてもそれはまた、自由である。そして同行者にその自由を責める者もいなかった。慣れぬ長距離の移動に疲れ、移動中に眺めていた景色で私の観光気分は凡そ満たされていた。このままホテルから出ずに休暇を穏やかに過ごすつもりでいたが、ホテルの窓から同行者が連れ立って観光に向かった後ろ姿に当てられたのか、見慣れぬ田舎の温泉街の空気に飲まれたのか、おそらくはそのどちらもが作用し、財布と携帯電話をポケットに押し込み、少しだけ外に出ようという気になった。
ホテルから出るつもりのなかった私は、先に出ていった同行者たちと違い、予め周辺の下調べなど当然のごとくしていない。そして縁もゆかりもない土地について知っていることも驚くほどになかった。詰まる所、成り行きに身を委ねるしかなかったのだ。
ホテルから出て少し歩くと錆びたバス停のポールが目に入った。田舎は電車も少ないがバスも少ないとよく聞くが、時刻表を見る限り確かに少ない。昼間だろうが一時間に一本も止まらぬ時間があるようだった。時刻表の空欄に感心していると少ない本数のバスが止まる時間だったようで、時刻表を見ていた私は当然、バスの運転手にはバスを待っているように見えたのだ。私以外にこの場所には誰もおらず、私のためだけに停まったバスの運転手に、すみません時刻表を見ていただけですと言う度胸がないのも、私の性質上、致し方のないことだったのだ。
成り行きに身を委ねた旅らしいと言えばその通りだとバスに揺られながら眺める景色は、初めて目にする現実の田舎の静かで穏やかな世界であり、それはまた、喧騒が日常の都会しか知らぬ私にとっては真新しく、心地の良いものだった。
夢見心地でバスに揺られて、いつしか本当に夢の世界へと落ちていたらしい。バスの運転手の「終点」の言葉に覚醒しきっていない私は慌ててバスを降りた。
覚醒していたのなら、あるいは運転手に、ここはどこですかなど情けない問いを発していたかも知れぬし、そもそも何もわからぬ土地に一人降り立つことすらなかったであろう。今更己の失態を悔いたところでどうにかなることではないと思い、早々に成り行きに身を委ねた宿命を受け入れることにした。一先ずと、ポケットに突っ込んだ携帯電話を取り出すが、ここで初めて携帯電話を定期的に充電するという行為の重大さを思い知った。なんと無情なことか。現代人の頼みの綱は黒しか知らないようであった。何度か電源ボタンを強く押してはみたものの、最初の一瞬の明かりを最後に、ただの静かな機械と成り果てた。
仕方なしに、と言えば少しは救われるような気がするが、他に手立てがなく、の方がこの場合に適切であろう。まず終点と降車を余儀なくされたバス停の周辺を見回す。なるほど、地方出身の知人が田舎なんてなにもないだけだと嘆くわけだ。錆びたバス停のポールと風雨に晒され、誰が好んで座るのかわからぬベンチと、都会しか知らぬ私にとってはえらく狭い道路が暗闇から暗闇へと続いている。バスを見送った道の遠くにぽつぽつと続くのは、人家か街明かりか。私は遠くに見える明かりの方を目指した。反対側は真っ暗でしかなかったのだ。明かりがあるのなら人もいるだろう。
蜃気楼のように遠い明かりにいい加減うんざりし始めたところで、明かりを背にぼんやりとこちらへ向かってくる人影が浮かんだ。私はその人影に砂漠を流浪する旅人の水を有難がるのときっと似たような感謝の念を抱いた。
「お兄さん観光の人?迷子?」
有難い水は私の姿を見つけてゆっくりと速度を変えずに近づくなり、そう訪ねた。地方の田舎はみんな知り合いばかりとの件の地方出身の知人の言葉はどうやら虚言ではないらしい。ブレザー姿の少女にさえ自然と身についている文化のようだった。
「ああ、うん、そう、うっかり、バスで乗り過ごしちゃって」
迷子であることをこの年で認めたくはなかった。
「こんな時間じゃもうバスも電車もないよ」
「そうだよね、携帯も充電切れちゃって。タクシー、どこかで拾えないかな」
「街まで出れば拾えるだろうけど、ここからじゃあ遠いよ」
来た道を振り返りながら答えてくれる少女の言葉は、田舎に多少は憧れを持っていた私が消滅するのに十分すぎた。
「うちだったら街より近いし、電話くらい使えばいいよ。案内してあげる」
絶たれかけた望みに頭を抱えそうになる私を笑いながらも救済してくれる少女はやはり、有難い水であった。
少女は変わっていた。
最近の若い子や田舎の少女などとは違う独特の雰囲気を纏っていた。出会い頭からそういえば少女はとてもきれいな標準語を使っていた。ホテルの受付や、街中、バスの中で聞いた方言のイントネーションとは無縁の、聞き慣れた標準語をさも当然のように少女は使っていた。
遠くの、少女が言うに、街明かりを背にして私の一歩前を歩く少女の長い髪は夜の暗闇の中でも、つややかに揺れていた。どこか楽しげな歩調に合わせて揺れるプリーツスカートは現代の制服のデザインで、私が日常に街中で見かける女子高校生のものと特別変わったものではなかった。そのはずなのだが、妙に浮世離れしているような、なんとも言い難い不思議な印象だった。
道すがら、少女は楽しそうに、嬉しそうに、ひたすら話していた。私も少女の紡ぐ楽しげな言葉たちに釣られるように話した。
「君は都会へ行きたいとは思わないの?」
「思わないよ。若い人はみいんな都会へ行ってしまうとか、同級の子たちも都会に憧れてるみたいだけどね」
少女のつややかな若い唇はなめらかに言葉を紡ぐ。
「あたしはね、ここで死んでやるの」
ざあと強く吹いた風が木々を揺らし、私の首筋を撫でた。妙に冷たかった。
私の一歩先を歩いていた少女はいつの間にか私を真正面にして立ち止まっていた。
「あたしはここが大嫌いなの。だからここで死んでやる」
宣戦布告するかのような少女の言葉は先程までの弾んだ口調とは明らかに異なった。
暗闇の中で風に舞う少女の長い黒髪とプリーツスカートの影の輪郭に縁取られた少女の表情は、冷たく、ただ、笑っていた。
私はしばらくの間呼吸を忘れていた。暗闇につややかに溶け込み笑う少女がとても恐ろしく、そして何より、美しかった。
くるりと背を向けてまた歩き始めた少女に私は呼吸を思い出して、後を追って歩みを再開しようとした。このまま、この少女について行っても良いのか、急に不安になったのだ。これは間違いなのではないのかと。持ち上げかけた右足が急に動かなくなった。首筋を汗が流れた。少女は再び振り返って私を見た。そこに先程の冷たさは微塵もなかった。どうしたのと尋ねる声色のままの、不思議そうな顔だと思った。
「いや、ええと、なんというか、」
何故か言い訳をせねばならぬような気になった。やっと続けた拙い言葉は狐に化かされた気になった、などという我ながらなんとも馬鹿馬鹿しい言い訳で、今度は慌てて打ち消す言葉を探した。挙動不審であろう私を見て、少女はけらけらとなにそれと言いながら楽しそうに笑った。その声色に私は不思議と安堵した。
「ここの山の狐は人を化かすなんて、いくら田舎のここでももう年寄りしか言わないよ」
楽しげな笑い声に乗せられた少女の言葉に何かがまた私の首筋に触れたような気がした。
「なあに、そんなの、古臭い伝承だよ。本気にしないでよ」
けらけらと笑いながら呆れたように少女は言った。私の足はやっと歩みを再開してくれた。
「あたしね、長女なの。田舎の。田舎の娘は嫁に行くためだけに育てられるからね、いい子でいなきゃいけないんだって。ね、古臭いでしょ。でもね、大人たちのただのお人形になってやるなんて私は嫌なの。だからね、間違ってやるの」
どうやってと訊くと少女は制服を身に纏うには似つかわしくない、生々しい、つややかで若い唇を小さく動かして、それから、笑った。それは、おんなの表情だった。
「簡単よ。あたしが正しいと思ったことをやるの。あたしはあたしのやりたいことをやりたいようにやるの。それって大人の人たちにとってはいけないことなんだって。大人の人たちにとっては間違いでもあたしにとっては正しいことなんだもの。正しさなんて、所詮、そんなものでしかないのよ。簡単でしょ。だからあたしは間違ってやるの」
少女の言葉はやはり冷たかった。けれどその言葉に私の首筋に触れる何かはなかった。
それから少女はうちより近いからと言って途中の道を指差して、まっすぐ歩いたら家があるからそこで電話借りるといいよと笑って手を降った。本当にこの少女は狐の類で、私は化かされているのではないのかも知れぬが、何故だか私は少女の言葉を、人間の、ただの田舎に生まれただけの少女のものだと確信していた。だから私はありがとう、気をつけてと少女に言い、指された道を少女の言葉通りまっすぐに歩いた。さほどの距離を歩くこともなく、明かりの灯る人家があった。バスを乗り過ごして、と少女にした事情を説明すると、家人はとても親切にそれならと、わざわざ車でボテルまで送ってくれた。車内で聴くと、どうやらバスは山をぐるりと半周して、随分遠くまで来ていたようだった。ホテルでは同行者たちが私の安否を心配してくれていたようで、案の定携帯電話の充電について、それはもうえらく説教を食らった。
ああ。
私は自分が呼吸をしていることを確認するように息を吐きだしてから、もう一度吸い込み、あの暗闇の中で出会った少女の言葉の冷たさの理由に気がついた。おそらく、あれが彼女自身だったのだろう。それはなんと冷たく、そして、孤独なのだろうと思った。だから、彼女はここが嫌いでここで死んでやると言ったのだ。彼女の精一杯の唯一彼女にできる反抗なのだろう。彼女の、己を生贄にした、呪いなのだろう。ああ、なんと、なんと寂しい呪いなのだろう。私は、今更気づいたことに後悔した。もしかしたら彼女は、私に助けを求めていたのかもしれない。私は気付けなかったのだ。彼女はきっとこれからもあの山の反対側の、彼女の生まれ故郷である土地を呪いながら生きていくのだろう。そして、土地を、もしかすると家族を、知人を、周囲を呪って、そうして宣戦布告の通りに、死んでいくのだろう。誰も彼女の呪いに、孤独に気付かぬままきっと時は過ぎ行くのだ。
帰りのレンタカーで途中途中に立ち寄って土産を買ったりと何かと観光を楽しんだ。そして飛行機に乗り込んでもまだ収まらぬ観光気分は各々自由に散策した観光地の思い出話へと移り変わり、日常へと戻っていく些細な時の流れを私に感じさせた。思い出話のひとつに、山の反対側の話が上がり、私は疲れ果てて寝たふりをしたまま、耳をそばだてた。
あの山の反対側のどこかに、夜に狐に出会った娘は出会ったその狐のところに嫁入りしなきゃいけないって伝承があるらしい。
私の首筋を冷たい何かがするりと撫でた。
少女は、どこに嫁に行くためにと、言っていたか。私は聞いたはずだった。間違いなく少女と歩いた長い山道の中で、ひたすら楽しそうに話す少女の数多の言葉の中で、少女は確かに、狐に嫁入してやると。そう、言わなかったか。上目遣いの爛々と仄暗く光っていた真っ黒の瞳を思い出した。あれは、紛うこと無く、おんなの顔だった。覚えている。確かに、彼女はそう言ったのだ。だから私は、少女が夜道を歩いていることに疑問を抱かなかったし、少女が間違いなく人間の娘であると確信したのではないか。嫁の貰い手の狐と出会うために歩いていると、だから家の人間にいつも怒られると、聞いたではないか。
少女は、亡くなった曾祖母に聞かされたと言い、楽しそうに歌っていた。
ゆめゆめ、わするることなかれと。
よるの狐をおそるることなかれと。
少女の楽しげで、今思い返すと寂しい呪いの歌は遠く、私の旅の思い出の一つとなり、過ぎゆく時のひとつとして漂う。
彼女は、狐に嫁入りできただろうか。
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