夜狐草
泉谷
夜狐草
夜の帳が連れて来た狐は人を惑わす
ゆめゆめわするることなかれ
夜の狐を恐るることを
黄昏れ時の木造の校舎には怪談が似合う。一人の少女は連れの友人へ向けて意地悪く、口の端をあげて見せた。紺の冬物のセーラー服を箪笥の奥に仕舞って大分経つ初夏の頃。夏物の白に紺の襟と袖とスカートに身を包んだ少女たちは、少女特有の甘い柔らかさと少しの狂気を孕んで笑いながら家路へと向かう。
「めゆめわするることなかれ、夜の狐を恐るることを。って知ってる?」
なぁに、それ。声を落として、彼女にしてはやけにゆっくりとした口調で問うてくる。
「夜の狐に魅入られると、何かをなくしてしまうんだって。昨日お祖母ちゃんが言っていたの。気をつけなさいねって。」
「どう気をつければいいかしらね」
そう笑いながら、思っていたほどの怪談ではなかった残念さを隠して応じたところで、彼女と分かれる道へと辿り着いた。じゃア、といつもと同じ微笑に手を振って彼女もいつもの甘い笑みで返し、私は背を向けて自分の家路へと向かう。
家に着くまでの道の脇に小さな林があった。その前を過ぎるのが今日はなんだか少し恐ろしく感じた。心なしかいつもより暗くさえ感じた。笑って流したはずの友人の話がどうにも過ぎるのだ。と、視界の端で林の奥のほうに光を捉えた。林に入るのを躊躇いつつも光が気になり恐る恐る林の草を踏みしめる。その光はぼんやりとやわらかく、美しかった。思わず近づかずにはいられなかった。ただただ衝動だけで林の中へ入っていく。
光っていたのは木の根元に生えている花の蕾だった。初めて見た花だった。そもそも光る花の蕾など聞いたこともない。
ふと、思い出した。
友人の怪談はあれで全てだっただろうか。私はもっと知っているのではないか。そう、大好きだった祖母がしてくれたこの村に伝わる伝承を。祖母にせがんで何度も話してもらったではないか。古い民謡から始まるあの話を。
ゆめゆめわするることなかれ
光りたる花に近寄るかし
ゆめゆめわするることなかれ
夜の狐を恐るることを
この蕾は民謡の花だと直ぐに理解した。花が開いてしまったら、夜の狐が迎えに来る。そういうものだと祖母はさんざん私に聞かせてくれていた。遠くの方に動物のおそらく狐の目が光った。
それから毎日取り憑かれたように、否、夜狐草に取り憑かれて、花を見に林へ入っていった。普通の花のより幾倍もゆっくりと、じんわりと花弁を開いていく花は美しいとしか形容できなかった。きっと明日には花は開ききる。そう思った。狐はもうすぐ近くまで来て、私を無感動な動物の目で見つめていた。
その日は急いで家に帰り、滅多に開かれない蔵を漁り、祖母が結婚した時に着たと聞いた白無垢を持って林へと走った。日は落ち始めたところだった。林で白無垢を纏っていた私は私ではなかった。和服の着付けなど今まで一度も教わったことなどなかった。それなのに、私は白無垢を纏っていた。
そして花の前に丁寧に正座をして待った。何を、など考えるまでもなかった。すでに思考はまともに働いてはいなかった。空はまだ赤い。花は完全に開ききっている。
と、サーっと雨が降ってきた。晴れて夕日がよく見えるのに。あぁ、これだ。私は納得した。狐の、嫁入り。
雨は数分と降らずに止んだ。まもなくあたりも暗くなり、夜の帳が降りた。
ざわ、ざわ、ざわ、林が蠢く音がして私はそっと目を閉じた。
やっと、来たのね。
夜狐草 泉谷 @85mg
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