空魚
海玉
第1話
王立自然研究会の研究員となってから、早12年が過ぎていた。南方の湖の研究所に5年、東方の森の研究所に3年、王都の環境研究所に4年。次の配属先に決定したのは“空魚”だった。
空魚。それは、古くから王国のはずれを飛ぶ巨大な生き物である。魚と名がついているものの、どちらかといえば鯨に近い。ひれではなく長い爪のはえた手足は数年に一度しか動かず、苔が生えている。薄灰色の腹はかろうじてわかるほどゆっくりと波うっていて、それがなければこの魚が生命活動をしていると信じることは難しいだろう。背中には白い棘が何十本と生えていて、その間を縫うように、古代の遺跡が残っている。おおかたは取り壊されて小さな街に変わっているものの、わずかばかり観光地化されていない遺跡もあるらしい。
私の胸が高鳴るのも当然だった。空魚の研究がしたくて、この仕事に就いたのだ。はるか昔から空を悠々自適に泳ぐ生き物。買ってもらった図鑑を擦り切れるほど読み込んで、できることなら実物を目にしたいとため息をついたものだった。
その夢が、いまかなう。
一刻も早く空魚に行きたい私は、あいさつ回りもそこそこに王都を離れ、王国南端の街に立っていた。
空魚に行くには、渡し船しかない。ここの港から帆船に乗って空を飛ぶのだ。
航空用帆船の技術は開発されて久しいが、いまだに墜落の事故の話は聞く。渡し守の腕ひとつで生命の安否がわかれるのだ。
危険は墜落だけではない。空魚は人を食べるのだ。
ごくまれにだが、制御不能になった帆船が空魚の口元に近づいてしまうことがある。普段はなにも口にせず、大空をたゆたっているだけの空魚だが、なぜか人の乗った船だけは飲み込む。私は空魚の研究がしたいのであって、空魚に食べられたいわけではない。
帆船選びは慎重に行わなければならない。私は帆船が墜落しなそうかどうか、自分の目で確かめることにした。
怖いから空魚には近づきたくないが、姿には興味がある。そんな輩は多いのでこの街は観光客でにぎわっていて、もちろん港は常に人でごった返していた。
あいにくの雲で空魚を拝むことはできなかったが、これからの期待が高まると自分を鼓舞する。
「曇ってるわねえ」
「なんだい、噂の化け物が見えないじゃないか」
空魚は化け物ではない。と怒鳴りつけてやりたかったが、なんとか我慢した。失敬な。少々生態が解明されていなくて、少しばかり人を食うだけで、化け物呼ばわりとは腹が立つ。
「旅人さん、空魚にいくの?」
観光客をにらみつけていると、ふいに袖を引かれた。
見れば、12、3の少年が立っていた。ツンツンした短髪と同じこげ茶の目、白い肌。身なりが良いとは言えず、薄汚れたコートを着ていた。革の靴は何年も履いているのだろう、ボロボロだ。
こんなところに子供がいるのは珍しい。私は首を傾げた。
「ここいらの渡し守はみんなダメだよ。空魚に食われる可能性がある。その点、おいらのところなら絶対安心。過去に一回も事故はないよ」
なるほど、この少年は客引きということか。値段を尋ねれば、ほかのところよりも幾分か安い。事故が本当にないかどうかは疑わしいが、とりあえず話だけでも聞いて損はないだろう。
「じゃあ、案内するよ、こっち」
少年は元気に歩き出した。大きな船を素通りし、港のはずれに突き進んでいく。大きな船ではないということか。多少不安なのだが、安いし仕方ない。私は後に続いた。
「お客さん、どうして空魚に行くの?」
「私は研究者でね、空魚のことを調べに行くんだ」
「ふーん。それって面白いの?」
「同僚たちはあまり行きたがらないな。王都から遠く離れた辺境にあるし、行くには食われる可能性があるときた。私は最高に面白いと思うんだが」
「お客さん、変わってるねえ」
少年がケラケラ笑う。私は黙って肩をすくめた。聞きなれた言葉だ。しかしそもそも空魚への渡し守に変人なんてそんなことを言う資格があるのか。
それを問いただそうとしたとき、ふいに少年が足を止めた。
「ここだよ」
そこにあったのは、渡し守と客ひとり乗ってちょうどの小さな帆船だった。帆船、というよりは小舟というほうがふさわしいだろう。つぎはぎが目立つ帆と、年期の入った船板。ところどころに見える傷がなんとも危なっかしい。
「……なあ、君。本当に大丈夫なのか?墜落したりしないか?」
「まあ、大船に乗った気でいてくれよ。小舟だけどね。ハハッ」
いぶかしむ私の視線に、少年は肩をすくめた。先ほどの私の仕草をまねているようだ。
「本当だってば。おいらの技術を信用してないのかい?」
「ちょっと待ってくれ、君が渡し守なのか?」
目の前の少年は、どう見たって渡し守ができるようには見えない。学校を出たばかりの、小柄な男の子なのだ。
「ああ、そうさ!」
かぶりを振った。空飛ぶ渡し船は、大の大人ですら扱いに困る代物だ。こんな子どもの操るおんぼろ小舟、乗って10分で墜落に違いない。
「残念だが、私に君の茶番に付き合ってる暇はないんだ。渡し守にあこがれる気持ちはよくわかるが、もう少し大人になったら修行に入るといい。それでは」
時間を無駄にしてしまった。踵を返し、港の中心部へ足を向けようとする私の背中に少年の声がかけられた。
「あーあ、王都育ちの軟弱な研究者サマには無理かー。そんなんじゃ空魚に行ったって、ビビッてばっかりでなんにもできやしないだろうなー」
カチンときた。元来、負けず嫌いの性分である。それに、空魚で何もできないと断言されて、黙ったままでいられるか。
こんな挑発にのせられて命を落とすのはバカらしいと理性が騒いでいるが、知ったことではない。私はずかずか小舟に乗り込むと鞄を足元に置き、船の中央に座った。
「そうこなくっちゃ。お代は降りるときで構わないぜ」
少年は舟のへりに立った。
「よし、行こう」
櫂の動きとともに、小舟がすうっと宙に浮かぶ。
せいぜい私の膝丈程度の高さなのだが、地につく部分が全くないというのが怖くて仕方ない。だが見栄を張った少年の手前、慌てふためくのも恰好がつかない。
震えを隠すため腕を組み、腹の底に力を入れた。
「おお、いいねえ。初めて飛ぶお客さんは大抵驚いてどたばたするから、ここで一回低空飛行して安全だって示さなきゃいけないんだけど、あんたならこのまま行けそうだ」
ふん、と鼻を鳴らした。口を開けば声が震えてしまう。
「しゅっぱーつ」
小舟はぐんぐん高度を上げていく。あっという間に家々や大きな帆船が豆粒のようになり、雲を突き抜ける。
少年はいともたやすそうに櫂と帆を操っているが、私は気が気でなかった。死んだら家族が悲しむ、やりかけの研究もある。王都の行きつけのカフェのマスターにももう一度挨拶しておきたかったし――
「ほら、お客さん」
肩を叩かれて我に返った。テットが進行方向を指さしている。私はそちらに顔を向けた。
「……空魚」
空飛ぶ魚、空魚。太古の生物。いにしえの命。大昔は神とあがめられ、近代は厄災をもたらす怪物とみられてきた存在。私はただその存在に圧倒されていた。
屹立する棘を避けるように建物が見える。空魚の街だ。私もあそこに住むことになる。50の村を破壊したという伝説を持つ腕と足はだらりと垂れていた。それでも凶暴に見えるのは、爪の大きさからだろうか。なにより惹きつけられるのは、その目だ。深い、深い、藍色。世界のすべてを見てきた目。喜びも苦しみも嬉しさも悲しさもすべてが詰まった瞳。
「そうさ、空魚だ」
少年は誇らしげに言った。私は舟から身を乗り出していた。先ほどの恐怖は微塵も感じない。腹の底が熱い。じっとしていられない興奮が私を襲う。なんて素晴らしいのだろう。こんなに胸が躍るのは学校で始めて生物を学んだ日以来だ。
私はポケットから小さなノートとペンを取り出した。真っ白なページを震える手で探すと、心が急くままにスケッチを始めた。
空魚。その存在を知ったとき、どれほど興奮を覚えたか。本屋や図書館で書物を読み漁ったのを思い出す。詳しい姿が載った図鑑は、幼いころからの宝物だ。何度も何度も図鑑をまねて摸写をした。
いま、私は本物を見て摸写をしている。
「素敵な絵だな」
夢中で描いていたので気づかなかったが、少年が私のスケッチを眺めていた。
「気に入ったか?」
「うん、とっても」
案外可愛らしいところもあるな。私はおかしくなった。
「そうか。じゃあもう少し待ってくれ。完成させてしまいたい」
「わかった」
人に見られていると随分描きづらい。いつもより丁寧に、じっくりとノートに線を引いていった。少年は私の一挙一動を見守っている。絵を描く、というのがそれほど珍しいのだろうか。
小一時間ほどそうして経っただろうか。久しぶりに満足のいく絵が完成した。
「待たせたな、ありがとう」
「できた? 見せてくれよ」
目を輝かせてスケッチを眺める少年。ああ、なんだか照れくさいな。
「その絵、やるよ」
「……え?」
ただでさえ大きな目をさらに見開いて、ぽかんと口を開けて、その顔がなんとも間が抜けていて、私は大笑いしてしまった。
「ほら、あんまりうまいもんじゃないが、記念にもらってくれ」
ノートを破って押し付ける。私の顔と紙を幾度も見比べると、少年の阿呆面がゆっくり笑みに変わっていった。
「ありがとう! こんなに綺麗な絵を見たのは初めてだよ。ありがとう!!」
ぴょんぴょんと飛び跳ね、絵を掲げてはしゃぎまわる。
本当にたいしたものではないのに。気恥ずかしさで見ていられなくなって、私は視線を逸らした。
「ねえ、お礼にいいもの見せてあげる」
「え?」
どこからかピンを取り出すと、テットはマストに絵を留めた。風に飛ばされないようにいくつも刺す。満足そうにうなずくと、私に座るように示した。
「おい、いいものってなんだ?」
「いいから座って!!」
私が腰かけると同時に舟の速度が上がった。空魚にぐんぐん近づいていく。空の舟旅にもすっかり慣れ、頬に受ける風が心地よい。流れる雲の形を楽しむ余裕すらある。しかし、ある違和感を覚えた。空魚の港は尾の付け根にあるはずだが、この向きは……顔?
「なあ、空魚の顔に近づいてないか!?」
「そうさ」
少年は平然と櫂を動かしている。
「空魚の口元に近づくなんて正気の沙汰じゃないぞ!? 食われて終わりだ!!」
「それより、暴れると落ちるよー」
少年ははどんどん舟を近づける。私が何を喚こうが聞く気を見せない。舟を操りながら鼻歌を歌う始末だ。
もう限界だ。母さん、父さん、すまない。ここで死ぬ。私は膝に額をつけ、うずくまった。
「ひゃほーい!!」
その瞬間、船が止まった。つんのめって無様に船底へつっこむ。ますます怒りが煮えたぎる。どうしてくれよう。たとえ子どもとはいえぶん殴っても罰はあたるまい。私は立ち上がった。
目の前にあったのは、私の身長ほどもある藍色の球体だった。もしかして、見るものを惹きつけずにはいられないこの球体は。
「……空魚の、目?」
少年は満足そうに頷いた。
わずかな白目のなかに、大きな藍の光彩がおさまっている。黒の瞳は光を反射して輝いていた。絞り状のまぶたがゆっくりと目を覆って、また開いた。
それはただの藍色の球体のはずなのに、その中には様々な色が見えた。野に咲く花、地に積もった雪、生い茂る草木、険しい山肌、広がる大海原、美しい建物、人の流す血。世界のすべてがそこに詰まっていた。
私は膝をついていた。畏怖、畏敬、崇敬、言葉はなんでもいい。ただこの生き物を、はるか太古よりこの地を見守る空魚を前にして、そうしなければいけないような念に襲われたからだ。
そして、そこで気づいた。
「どうして私たちは食われないんだ?」
少年は答えない。ゆっくり櫂を動かすたびに、少しずつ、少しずつ、舟は空魚へと近づいていく。
「なあ、おい」
手を伸ばせば本当に触れられる距離まで近づいて、舟は止まった。テットは小舟のへりに腰掛け、空中に足をぶらぶらさせた。その表情は幼馴染に会うような気安さで、恐怖を感じているようには見えない。空魚もまた、なんでもないことのようにまばたいた。
私の声は震えていた。
「君は……いったい何者なんだ?」
「おいらはただの渡し守さ」
少年は朗らかに微笑んだ。最初と変わらぬ軽快さで。
それを聞いた私は、なぜだかそれ以上聞くことがはばかられて、口をつぐんだ。
まだこの王国ができてすらいなかった大昔。空魚は信仰の中心だった。人々の心は空魚とともにあり、空魚も人を食らうことは無かったそうだ。私の感情は、そのころに近いのではないか。
「空魚。これから数年、いや、もっと居座りたくなった。研究者として君の側にいる者だ。よろしく頼む」
人の言葉を解するかどうかはわからないけれど、私は空飛ぶ魚にそう語りかけた。
少年は愉快そうに眺めている。馬鹿にしているのではなく、私が空魚を研究対象として以外にも好いたことを、喜ばしく思っているように見えた。
「そろそろ行くよ」
もう空魚の瞳から離れなければならない。後ろ髪をひかれる思いだった。
これからこの背で生活するというのに、寂しく思うなんておかしいな。
私は苦笑し、空魚に向かって片手を上げた。少年も真似をして片手を上げた。
瞳に浮かんだ色を、私は心に焼き付けた。
「そーれ」
小舟は港にむけて動き始めた。
私たちはたわいない会話をしながら船旅をした。私は空魚の謎に触れなかったし、少年も説明することはなかった。
港につくと、私は少しばかり多い運賃を渡した。少年はごねた。
「いらないよ。おいら、最初に言ったぶんだけしか受け取らないからな」
私もごねた。あんなに素晴らしい体験をさせてくれたのにこれは少なすぎる。
数分の口論の結果、私が空魚を離れるときは必ず少年の舟を使うということで落ち着いた。もともとそうするつもりだったので不服だが、少年が満足そうなのでしぶしぶ折れることにした。
「毎度あり」
少年はあっという間に去ってしまった。器用に櫂を操り、風の波に乗りながら。
私はこの数時間を思い返していた。人生史上、最も忙しかったひとときといっても過言ではない。でも、人生史上最高に楽しかったひとときでもあった。
そのあと、私は研究所で空魚の研究をした。前任者の研究を引き継ぎ、自分でもいろいろ調べてはいるが、空魚について新たに分かったことはまだない。謎で構成されているような生物だから仕方ないとはいうものの、寂しいものだ。
最近、私は文献調査を始めた。生物学ではなく、民間伝承の載った考古学者や民俗学者が読むような類の本である。暇つぶしの一環として買ったのだが、その中に興味深い話があった。
【空魚の民】
その昔、空魚にしか人々が暮らしていなかったころ。空魚には、空魚の民と呼ばれる一族が住んでいた。空魚の民は空魚と通じることができ、民草と空魚の橋渡しをする祭祀のような役割を果たしていた。
空魚の民は文字や絵という情報伝達手段を持たず、そのため、血が絶えたと言われる現代において、彼らの生活を知ることは難しい。
明日、私は王都に報告に行く。その迎えは少年に頼んである。成長期だから、背も伸びているのだろう。会うのが楽しみだ。
彼は渡し守、私はしがない生物研究者。それだけで十分なのだ。
空魚 海玉 @lylicallily
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