教室の獣(原著:芥流水さん)

 闇に包まれた部屋から金切り声が漏れていた。

「そんな……助けてください。やったのは彼でしょう? 私には関係ない」

 目から、鼻から、大量の液体が流れていた。醜くも切実な命乞いだった。

 腰を抜かしたように後退りする男の目前には、光る青みがかった二つの光点を持つ大きな塊があった。このように暗くては、その全貌を知る術はない。

 塊の、口と思われる部分が開いたような気がした。太く曲がりくねり、鋭く伸びた注射針のようなものが目前に迫ってくる。

「嫌だ、助けて……助けて……助……」


               ◇


 山鳩の声が山中に木霊した。登山道から少し外れたところに、首のもげた地蔵があった。

 それを見た男が大きな溜息を吐いた。

「……やれやれ、何処の罰当たりがこんなことを」

 網代笠、墨染めの直綴じきとつを纏い、錫杖を持っている風体から、旅の僧には違いない。

 転がっている地蔵の頭を拾いあげ、元のところに戻したところで、ぴたりと手が止まる。網代笠あじろがさの縁を親指で持ち上げ、怪訝そうな顔をしたのはどうみても老人であった。

 一度は持った地蔵の頭を足下に落とすと、錫杖で草を分け、石をほじくり返し、何やら捜し物のようである。

 錫杖がぴたりと止まった。地蔵から一メートルほど離れた草叢である。丁寧に草を払うと、そこには古びた石碑のようなものが現れる。

「よっこいしょ」

 屈んだ老僧がそれを見つめる。

 見るからに古い花崗岩の石碑——土にまみれ、草汁に着色されたそれには、不自然なくぼみが沢山ある。

 老僧は顔を近づけたり離したり、眼を細めたり凝らしたりするも石碑の表面を確認出来ないようだった。それが証拠に石碑の表面を指でなぞり始めたではないか。

「手院……打……狼……須……? ていんだろうす……」

 指先が読み取る文字を一つ一つ丁寧に口に出す。老僧の口から漏れた言葉が何度も何度も反芻される。さながら読経をしているようであった。

 白い顎髭をしごくように掴みながら軽く目を閉じる老僧。遠い記憶としまい込んだ知識を奥底から掘り出している。

 余程奥まで仕舞い込んだか、老僧は近くの巨石に腰掛けたまま身じろぎ一つしない。ただ顎髭をしごく手だけが同じように動き続けている。

 草葉が風になびき、山鳩の声が再度響き渡る。暖かな陽光が老僧の周りを包み込んでいた。

 ふう、と一息ついた老僧は隠しから煙管を取りだし、一服やり始める。のんびりとはしているが、何処かやりきれなさそうな表情かおだ。

 恐らく、自身の記憶力に嘆きを感じているのだろう。

 何度目かの紫煙を吐き出したとき、老僧の双眸がくわっと開いた。

「……『猟犬』か!」

 老僧の声には驚愕と畏怖が含まれていた。途端に山鳩の声が聞こえなくなる。

 大きな溜息を残し、またも「よっこいしょ」の声と共に立ち上がった老僧の顔が歪んだ。

「痛たたたたたっ! ……こりゃ、湯治にいかにゃぁならん。だが、先にこっちをどうにかする方が先かの。死人しびとが増える前にな」

 などと、不穏な発言をしながらも、神経痛の持病でもあるのか腰をさすっている。

「やれやれ」とばかりに老僧は荷物をごそごそとやり始める。

 どこか春風駘蕩とした雰囲気はそのままに、直綴じきとつの隠しから十五センチほどの針金を取りだす。鈍く光る何処にでもありそうな針金であるが、見事なほど曲がっていなかった。完全なる直線——そう言っても差し支えないかもしれない。その針金を真ん中から折り曲げ、鋭い角を持つ「く」の字をいくつも作り上げると、地蔵の周りにばら撒いた。

 次に老僧は行李こうりから薬壺を取り出し、中に入った真っ黒いにかわのようなものをもげた地蔵の頭に塗り付け、丁寧に地面に置く。

 老僧の手は再び行李の中をまさぐっている。今度はしばらく手を突っ込んだまま、引っかき回している。中々お目当てが出てこなかったようだが、それでもニンマリとしたところを見ると見つけたようだ。

 老僧はそれを三本指で掴んでいた。奇妙な形をした小さな壺のようなもので、それを隠しに仕舞い込んだ。

「……さて、やろうか」

 老僧が石碑から飛び退き、十メートルほどの距離を取ったかと思うと、大声を張り上げる。

 しかし、それは何処の国の言葉でもない——いや、この世の物とは思えない奇妙な声だった。

 老僧が声を張り上げてから五分が過ぎたであろう頃から、針金の角の部分から煙がにじみ出す。

 同時に酷い悪臭が一気に広がっていく。

「風邪気味でよかったかもしれん」

 常人であれば鼻を摘ままねばならないほどの悪臭である。しかし、老僧は茫洋としたままだ。風邪で鼻が詰まっていると言いたいのだろう。

 悪臭とも腐臭ともいえるその中心には、老僧が作り放り投げた針金が転がっている。そこには不浄の生物がいた。いや、生物と呼ぶのもおこがましい姿である。

 絶えずうごめき不定形であり、時折四つ足の形態を取るようにも見えるが、それがその本質とも思えない。口など確認出来ないのに、あぎとが動き歯牙を打ち鳴らす音が聞こえてくる。

 ゆっくりとこちらに向かって這い寄る度にその形態が目まぐるしく変わり、そこにはない紅蓮の瞳が老僧を射抜いている。

 対する老僧であるが、然したる変化はない。相も変わらずのんびりとしている。それが証拠に一つ欠伸をして、錫杖を肩に担いでいた。

「お前か? 私を呼び戻したのは」

「如何にも。……ほう、少し苛立っておるようじゃの。食事の邪魔でもしてしもうたか」

 異形のものは返答代わりに、鞭のようなものをしならせた。先は鋭く尖っている。

 老僧の錫杖がそれを軽くいなす。

「貴様……む、セラエノの完全直線を使ったか」

 恐らく、老僧のばら撒いた針金のことであろう。

「驚くこともなかろうて。御主等に殺されるだけが人間じゃないぞ? ……さて猟犬、御主に言葉を教えてやろう。『窮鼠猫を噛む』じゃ!」

 言うが早いか、老僧の錫杖が分離した。正確には先端部分を相手に向けて撃ちだした。

「馬鹿め」

 錫杖は猟犬には易々と躱され、老僧に襲い掛かるのは無数の鞭であった。しかもその先は、人の身体など簡単に貫通しそうな鋭さである。

 年相応ののろのろとした動きしながらも、老僧には鞭は一本も当たりはしなかった。

「流水じゃよ。御主の攻撃をいなすなど造作もないわ」

「果たして何時までつかな? 人間に私等が倒せぬのは分かっておろうに」

「左様。人間にゃ、御主等を倒すことなど叶わぬ。……じゃが、こいつとならどうじゃ? それ……幻獣来寇!」

 隠しから取り出しのは一枚の札であった。老僧が投げ出すと、それは一気に爆発的な閃光を発する。

 ぐるる、と唸り声を発するものが猟犬に組み付いていた。

 その姿も異形であった。寅の体躯に蛇の尾を持ち、噛み付く顔はさるのそれである——古来より奴延鳥ぬえと呼ばれる物怪もののけであった。

 異形の者どもの取っ組み合いであった。

 しかし、この奴延鳥とても、猟犬には圧され気味である。

「すぐにこやつを片付けて、貴様を喰らってやる。それまで待っておれ」

 死の宣告にも近しいが、それでも老僧は微笑みながら隠しに手を突っ込んだ。

 再び老僧が手を取り出し、掌を取っ組み合いを続ける猟犬と奴延鳥に向ける。

 その上にはあの小さな奇妙な壺が載っていた。

「……間に合うかのぉ、猟犬よ。儂の方が幾分早いかもしれんぞ」

 老僧の口角が持ち上がり、開いた口からは祝詞のりとと思わしき言霊があふれ出す。

 刹那、石碑から「黒」が滲み出す。それは次第に大きくなり、異形のものたちの包み込むほどまでになった。

「き、貴様ー!」

「解かれた封印は戻した。……猟犬よ、何時までも歪んだ時間にいるのも疲れるだろうて。御主は御主の『尖った時間』に戻るがよい。……ああ、その奴延鳥も連れて行っていいぞ? 単身で戻るのは寂しいだろうからな」

 錫杖が「黒」を突いた。

 途端に風船が割れるが如く、「黒」は消滅した。

 それを見届けるやいなや、老僧が横に置いてあった地蔵の頭を掴み、元の位置に戻す。これまでには見ることのなかった電光石火の動きであった。

「……やれやれ、何とかなったか。今度の封印は早々壊れんぞ? 何せ、『万能溶解液』と同じ組成の特性膠じゃ。簡単にゃ劣化せんからな。……それにしても庾印埜壺くらいんのつぼまで使うことになるとはのぉ。人生、何があるかわからんもんじゃて」


                 ◇


 老僧は麓の蕎麦屋でざる蕎麦をすすっていた。

「ああ、店主さん、この辺りにいい湯治場はないかね」

 地図を持ち出した店主が老僧に色々と教え出す。

 不意に老僧が店の棚の上にあるテレビに目を向けた。

「——東京都杉並区にある私立御坂みさか学園での猟奇殺人事件の続報です。生存者の少年は未だに意味不明な発言をしており、『異形のもの』が自分たちを襲ったと話しているんですが……戸坂さん、これに関してはどのような見解をお持ちでしょうか——」

 老僧が溜息を吐いた。

「……ふむ、湯治よりも先にこの子のアフターケアをせんといかんかのぉ」


                (了)


オリジナル:

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885334077/episodes/1177354054885334150

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