教室の獣(原作:芥流水@noname)
原作:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885334077/episodes/1177354054885334150
高槻牧師と話した一週間後、お前は三峯神社に参ることにした。
ちりん ちりん
お前はいつもと同じ時間に家を出た。今日は徒歩だ。七分袖のシャツにチノパン、ランニングシューズ、ワークキャップ。大き目のリュックには、熊除けの鈴がぶら下げてある。
ちりん ちりん
自転車の同級生たちに追い抜かれながら、西武秩父駅を目指す。駅に着くころには、もう始業の鐘が鳴る時間だった。十五分ほど待って、西武観光バス三峯神社線の始発に乗り込む。
ちりん ちりん
四〇分もあれば、大輪に着くはずだった。不意に欠伸が零れる。一限目が終わるまでは、友奈から連絡が来ることもないだろう。そう判断して、アラームのアプリを起動した。三〇分後に設定してから、スマートフォンをストラップで手に固定する。バイブで目覚めるよう、両手でしっかり握るようにして、目を閉じた。
狼の夢を見ないことを祈りながら。
1
戦兎が死ぬ少し前、彼と話す機会があった。土曜授業の帰りに、大宮児童公園の前で戦兎の後ろ姿を見かけ、声をかけたのだ。
「お前、またサボったろ。一学期からこの調子じゃ、進級も危ういぞ」僕は言った。「友奈が心配してることくらい知ってるだろ」
戦兎はしばらくの間、フェンス越しに公園の敷地内に目を向けていた。やがて、口を開き、こんなことを言う。
「夢だよ」と戦兎は言った。「智兄の夢を見たんだ」
智兄は友奈の兄だった。僕らより五つ上で、子供の頃よく遊んでもらっていた。一緒に街はずれの廃工場で捨て犬を育てていたこともある。僕や戦兎とは次第に疎遠になってしまったけれど、友奈には自慢の兄だった。三年前のバレンタインも、友奈はチョコを用意して智兄の帰宅を待っていた。その兄が、学校をサボって妙法ヶ岳に向かったことなど知りもせず。
「俺は教室にいたんだ」戦兎は言った。「ガキの頃に行った民俗博物館だ。ほら、聖地公園の、旧秩父駅舎の隣に洋風の建物があっただろう。あれはもともと学校だったんだぜ。第一小の旧校舎だよ。この公園に建ってたのを移築されたんだ。すごいよな。県内で二番目のモダン洋風建築とやらの校舎だったそうだ。明治時代に、フランス人からの寄付で建ったんだぜ。見ろよ、公園の中にそのことを書いた札が立ってる」
戦兎は公園の中へ顎をしゃくった。フェンスを掴み、もたれかかるようにする。
「その教室で、俺は見た。いや、感じたんだ。血の匂いを。そしたら、智兄が床に転がってたんだ。血の海の中に。内臓をぶちまけて。まるで……デカい獣に食い荒らされたみたいだった。そして俺は……俺は……そいつが後ろにいることに気づいた。そいつが智兄を喰い殺したことに気づいた。そいつが……でかくて臭い、青黒い狼が……」
智兄は獣に食い荒らされた状態で発見された。バレンタインから一週間後のことだ。この日本で、人間を襲って捕食する野生動物なんていったら熊くらいしかいない。いくら、冬眠の時期だからって狼に襲われたなんて考える人はいなかった。
「夢は夢だろう」僕は言った。「まさか、それで学校が怖くなったとでも言うんじゃないだろうな」
戦兎は端正な顔を歪ませ、薄く笑った。
「狼はいまも俺を待ち構えてる。あの場所で、あの教室で、涎を垂らしながら、臭い息を吐きながら、舌なめずりしながら」
僕はさすがに気味が悪くなった。戦兎はもしかしたら、学校に出て来れるような状態ではないのかもしれない、と。僕は彼にカウンセリングでも受けるように勧め、友奈とちゃんと話すように釘を刺した。
「そうそう、この前、友奈と夏期講習の話をしてたんだ」僕は言った。「受付はまだだけど、お前も調子がよくなったら申し込んでみないか」
「ああ」戦兎は気のない様子で言った。「考えておく」
それが最後のやり取りになった。僕は戦兎を残してその場を去り、その数日後、彼は智兄の後を追うことになった。
※※※ ※※※
お前は大輪に着く手前で目覚めた。スマートフォンの電源を落として、バスを降りる。
ちりん ちりん
旅館を慌てて出てきた外国人観光客とすれ違いながら、彩甲斐街道をまっすぐに西進する。すでに三峯神社の鳥居が見えていた。参道に入ってすぐ脇にお土産屋があった。目線の先にそびえたつのは、古来より信仰を集めてきた三峰の山々だ。標高はいずれも一〇〇〇メートル以上。最高峰の雲取山に至っては二〇〇〇メートルを超えるというが、雲がかかっているためいまいち規模が判じがたい。三峯神社がどのあたりに位置するのかも検討がつかなかった。
ちりん ちりん
ほどなくして、お前は足を止める。道の右手にあるものに目を止める。
ちりん……
狛狼。
地元で「お犬さま」と親しまれる神の使いだ。
お前はその眼光に射すくめられたように動けない。
2
戦兎の死に顔を見て、少しだけ安堵した。そこにいたのはむかし通りの戦兎だった。死に化粧こそ施されているものの、その顔は穏やかで、人形のようにきれいだった。何度、羨んだかわからない幼馴染の顔。それがようやく戻って来たのだ。
「あの日、戦兎は電話をかけてきたの」友奈は葬儀の後に言った。「電話の向こうから土を踏む音がした。それにちりんちりんっていう鈴の音も……あれはきっと熊除けの鈴だったんだね」
戦兎は友奈に電話をかけてきたその日、妙法ヶ岳で崖下に滑落し、全身を強く打った。発見されたのはその二日後のことだった。友奈が戦兎の家族に電話のことを伝えていなければ、もっと遅れていただろう。「ありがとう」とおじさんたちは言った。「友奈ちゃんのおかげで最後に戦兎の顔を見ることができた」と。季節はもう初夏だ。微生物が活発に活動している。発見がもう少し遅ければ、葬儀で戦兎の顔を見ることさえかなわなかったかもしれない。
「戦兎、言ってたんだよ」友奈は絞り出すような声で言った。「最近まともに話せなくて悪かった。これからは授業にもちゃんと顔を出す。夏期講習にも申し込むからって。なのに、なのに……」
僕は友奈の肩に腕を回した。テニスで鍛えてるはずの体が、やけにか細く感じられた。
「戦兎は他に何か言ってた?」
「狼だって……そう言ってた」友奈は言った。「狼は自分を待ち構えてなんかいなかった。ずっと、後ろからつけてたんだって。あの日も、教室の外からずっと……って。ねえ、文士。これってどういう意味なの? どうして戦兎はお兄ちゃんと同じ山で……」
※※※ ※※※
ちりん ちりん
参道を左に折れると、登竜橋の真っ赤なアーチが見えてくる。渓流のせせらぎも、曇り空の下では味気ない。お前は写真も撮らずに通過する。橋を渡ると、杉林になった。灯篭が等間隔に並んだ石畳の遊歩道。登竜の滝へと降りる道を通過して、まっすぐ進んだ。
ちりん ちりん
更地となったロープウェイ乗り場跡を過ぎると、本格的な山道になる。湿った土と新緑の匂いを感じながら、黙々と歩き続ける。橋を渡り、つづら折りの坂道を上る。清浄の滝と薬師堂の東屋で体を休め、険しさを増す山道を登る。
ちりん ちりん
参道の入り口から本殿までは二時間半ほどかかる。妙法ヶ岳頂上の奥宮まではさらに一時間。登山道具は、熊除けの鈴以外はすべて家にあるもので間に合わせた。登山の経験なんてない。どこまで行けるかもわからなかった。
ちりん ちりん
それでもお前は登り続ける。土を踏みしめ、熊除けの鈴を鳴らしながら登り続ける。
ちりん ちりん
3
高槻牧師と会ったのは、戦兎の葬儀から数日後のことだった。学校の帰りに、たまたま顔を合わせたのだ。高槻牧師は重病の信者を見舞った帰りらしく神妙な面持ちで歩いていたが、僕の顔を見ると柔和な笑みを浮かべた。
「戦兎君とは、春休みに話をしました」高槻牧師は言った。「大宮児童公園の前で会いましてね」
「あの公園で?」僕は自転車を押しながら言った。
「ええ。それで大叔父の話を少し……いえ、正確には曾祖叔父……曽祖父の弟なのですが……まあ、大叔父でいいでしょう。その大叔父があの公園に建ってた学校に通ってましてね。ご存知ですか。旧大宮学校といって、秩父事件の年に完成した立派な学校だったのですが……市の貴重な文化遺産ですね。現在は解体されて保管されているのですが、今後再建されることがあるのやら……少し前に保存状態の悪さがニュースになっていましたし」
「はあ」僕は言った。「それで高槻先生の大叔父が何か?」
「大叔父は狼憑きだったんですよ」
「狼憑き……ですか」
「ええ。人狼伝説、とでも言えばゲームか何かで聞いたことがあるでしょう」高槻牧師は言った。「大叔父は授業中に隣の生徒の頭に噛みついたそうです。それ以降、自分は狼だと主張するようになりましてね」
「それで、どうなったんですか」
「行方不明になったそうです。ある夜、家を飛び出してそのまま……狼と生活しているなんて噂も立ったようです。ニホンオオカミなんてとっくに目撃されなくなった時代のことですが」
やがて、教会の前までたどり着いた。高槻牧師はすぐには入らず、こう続ける。
「キリスト教圏では、狼は邪悪な生物とされています。魔女裁判ほど盛んではありませんでしたが、人狼裁判なんてものも行われていたくらいです。しかし、日本ではどうも事情が違う。むしろ鹿などの害獣を捕食してくれるありがたい生き物として祀られることが多いようです」
「たとえば――」
「ええ。三峯神社のように」
※※※ ※※※
「ああ、大丈夫だよ、友奈。だからそんなに怒らないで。悪かったよ。後で改めて謝るから」
「そうだよ。僕はどこにも行かない。絶対に帰ってくる」
「夏休みにさ、どこかに遊びに行こう。海がいいな。湘南とか、鎌倉とか……え、シー? そうだな。それもいいかもしれない。うん、わかった。絶対だ」
けっきょく、本殿まではきっかり二時間半かかった。お前はくたくたになりながら霧で煙る拝殿に参り、興雲閣奥の拝み処で願掛けをした。山麓亭三峰お犬茶屋でそばを食べ、スマートフォンの電源を入れた。友奈からの着信とメッセージでいっぱいだ。返信しようか悩んでいると向こうから電話がかかってきた。
「じゃあね、また明日」
お前は電話を切った。これから奥宮に参るのだろう、食事した店から、登山リュックの老人たちが出てきた。そのうちの一人とふと目が合って、声をかけられる。
「兄ちゃんは奥宮に行かんのか」
「ええ。準備不足でした」
「無理はせん方がええ。この前も若い子が足を滑らせとるしな」
「そうします」
お前はもう一度、鳥居をくぐった。長い階段を上り遥拝殿を目指す。妙法ヶ岳を望む見晴らし台だ。ここも霧がかかって何も見えない。写真を何枚か撮って、その場を後にした。スマートフォンでバスの時間を調べる。次の便まではまだ余裕があった。お前は霧の立ち込める参道を引き返し、ゆっくりとバス停に向かった。
ちりん ちりん
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