そうか、これが(原作:新吉@bottiti)

原作:

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885337326/episodes/1177354054885337347



 クリスマスを控えた年の暮れ、大学図書館の三階でフラ・アンジェリコの画集を開いていると、先輩が声をかけてきた。


「この前、変な画廊に入ったんだ」


 いきなり、そう話しはじめる。週末のことだった。先輩は急に降りはじめた雨に打たれながら、花音かのんとホテルを探していた。大宮の南銀座だったという。いかがわしい店が立ち並ぶ区域だ。先輩は、そこで場違いにも画廊の立て看板を見つけたという。雑居ビルの二階に入っているらしい。アクリル製の看板には、手作りのポスターが貼ってあり、そこにはこう書かれていた。


 <人類の堕落展>開催中


「へえ」僕は言った。「先輩がそんな高尚なテーマに興味を持っているとは知りませんでしたよ」


「俺じゃない。俺じゃ」先輩は僕の皮肉を簡単にあしらった。「花音だよ。わかるだろ」


 画廊には受付のアルバイトが一人いるだけだった。展示室に入ると、パーテーションの壁に複製画と思しき西洋絵画が飾られていたという。


「そうそう、これだ。これ」


 先輩はマザッチョの「楽園追放」を指差した。彼の記憶を頼りに絵を特定し、画集を見せてやったのだ。天使に追い立てられるようにして楽園を去るアダムとイヴ。その表情は、取り返しがつかない後悔と悲しみ、外の世界に放り出される不安に歪んでいる。失楽園の絶望をこれほどまでに痛切に描いた作品を僕は他に知らない。


 パーテーションには他にもアダムとイヴの原罪や、楽園追放をテーマとした絵が飾られていたという。


「しかし、宗教画ってのはエロいんだな。ほら、どの絵を見たってアダムはマッチョだしイヴはふくよかだろ」


「ヌードを描く口実として聖書のエピソードが使われてた側面もありますからね。そりゃ肉体美を強調するでしょう」


「そういうもんか」先輩はにやりと笑った。「まったく、人類は堕落してるな」


 先輩たちはパーテーションをめぐった。しばらくは、創世記を主題とした宗教画の展示が続いたという。カインとアベル。大洪水。ノアの泥酔。ソドムとゴモラの滅亡。ロトとその娘たち。


「最初はよかったんだ」先輩は言った。「退屈だったけど、美術館とか画廊なんてどこもそうだしな」


 ゴヤの風俗画の展示が続いた後、やがて、急に開けた空間に出た。これまでのように、パーテーションの仕切りもなく、壁一面に絵画が飾ってある。しかし、先輩たちの目を引いたのは、部屋の真ん中に設けられた掘り炬燵のユニットだった。


「なんで、そんなものが画廊にあるんです」


「俺だって知るか」


 炬燵の天板には「ご自由にお使いください」という紙が貼られていたという。先輩は面食らいながらも、花音に誘われるまま、靴を脱ぎ、すでに温まっていた炬燵に足を入れた。炬燵の上には他にも、おしぼり、電気ポット、紙コップ、それにコーヒーやココアなどのインスタントの嗜好飲料が用意してあった。ポットにはやはり「ご自由にお使いください」と書いてある。


「ドリンクフリーの画廊なんて聞いたことないですけど」僕は訝しんだ。「それで、花音とまったりしたってわけですか」


「まあ、そうなるな」先輩は言った。「掘り炬燵なんてはじめてだったよ。やっぱりいいもんだな。身体はあったまるし、そのうえ、暖かい飲み物があって、隣に女までいれば、あとはもう何もいらないんじゃないか」


「他に人がいないからって変なことしてないでしょうね」


 僕が追求すると、先輩は苦笑いを漏らした。


「なるほど」僕は言った。「先輩たちはまさに堕落展にふさわしい展示だったわけですね」


 その後、すっかりそういう気分になった先輩たちはほどなくして画廊を去り、クリスマスの予定などを話しながら、向かいのホテルに入ったという。


「でも、変なんだよ」


「むしろ、変じゃないことなんて何ひとつなかった気がしますが」


「いや、炬燵は人を堕落させるものってことで趣旨に添ってはいるだろ」先輩は言った。「でも、なあ。蠅取り紙ってのは何か堕落してるのか」


 蠅取り紙は炬燵が展示してあった部屋に垂らしてあったという。もちろん、この季節に蠅がかかっているはずもない。受付のアルバイトに尋ねても要領を得ず、首をかしげながら画廊を後にしたという。


 二四日の夕方、僕は南銀座に足を踏み入れた。その日も雨が降っていた。相合傘のカップルとすれ違いながら、先輩たちが訪れたという画廊を探した。まるで誘惑と闘う聖職者のように、いかがわしい店の前を何往復もした末、ようやくその立て看板を見つけた。


 <人類の堕落展>開催中


 狭い階段を上って、二階へと上がる。画廊の名前が書かれた紙が貼られたドアを開けると、そこはもぬけの殻だった。奥の窓から差し込む薄明かりが、蠅取り紙のシルエットを浮かび上がらせているばかり。先輩が言っていたような展示物やパーテーションはどこにも見当たらなかった。


 窓のすぐ正面にラブホテルの看板がある。その料金システムを何度か目で追った後、室内に向き直ると、蠅取り紙に蠅が一匹だけ捕まっていることに気づいた。


「そうか、これが……」


 弱々しくもがくそいつを楽にしてやってから、僕は<画廊ベルゼブブ>を後にした。

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