川は流れる(原作:水円 岳@mizomer)
原作:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885331595/episodes/1177354054885331629
中学一年生の秋、父が川に落ちて生死の境をさまよった。
連絡を受けたとき、わたしは彼氏の部屋の三二インチテレビで、巨大な球体のオブジェがスターバックスのガラス壁を突き破る様をぼんやりと眺めていた。そのせいだろうか、実の父がいわゆる
その日きりとなる彼氏に急かされるようにして部屋を辞したのが午後三時半。清水駅四九分発の甲府行き特急ふじかわ九号を逃し、東海道本線から身延線に乗り継ぐことになった。甲府駅からさらにバスに揺られ、南アルプス市の総合病院に着く頃には午後九時を回っていたと思う。
いつか、こうなる気がしていた。
病院の待合室で、そう口にしたときの心境はよく覚えていない。看護師の同情が引きたかったのか、それとも、そう説明した方が早いと思ったのか、あるいは自覚していなかっただけで心のどこかでそう予感していたのか。
父が川にとり憑かれていることは知っていた。素人の写真家だった父は、週末になると、助手席に一眼レフが入ったリュックを乗せ、主に富士川水系の川をめぐった。コンテストに応募することもあったが、主な目的な「記録」だった。ブログの記述を信じるならそういうことになる。
ブログには川のことしか書かれていなかった。季節や天気によって、川は表情を変える。日照りが続けば細り、嵐が来れば水かさを増し、堤防まで迫ることもある。歴史に目を向ければ、氾濫や付け替え工事によって川筋が変わることさえあった。たとえ同じ川を撮っても、一枚として同じ写真にはならない。それが父の持論だった。だから、父は同じ川に何度も赴く。改修工事があると知れば飛んで行って、その様子を逐一ブログで報告する。
「だからって、まさか三途の川を渡りかけるとはね」
後に、父はそう自嘲した。昏睡状態から目覚めて二日後のことだった。淡水に一時間近く浸かっていたにもかかわらず予後は良好で、後遺症の兆候もなく、数日後には退院できる見込みだった。わたしは先んじて静岡に帰ることになり、最後に父と少しだけ話す時間を持った。
「父さんな、向こうで母さんに会ったよ」
母は川の向こうに立っていた。父も見たことがない川だった。天井川だ。土砂の堆積と堤防の増築が重なったことで、川床が周囲の標高よりも高くなってしまった川。一度、決壊すれば、川に水を戻すのは困難を極め、周辺地域に甚大な被害をもたらす。戦後になって改修が進み、徐々に姿を消しているというその天井川に、父は特に固執していた。いまなお残る天井川はもちろん、大雨でも降らなければ年中干上がったままの川とも呼べない川、あるいはかつて天井川の下を通っていたトンネルにまで興味を示し、写真を撮りに滋賀県まで出かけることもあった。
その天井川を挟んで、父は母と向かい合っていた。かろうじてお互いの姿が視認できる距離だった。父は対岸に向かって精いっぱいの声で語りかけたという。母が生きていたときのこと。仕事のこと。写真のこと。川のこと。そしてわたしのことも。
「母さんは……寂しがってるように見えた。
やがて、空を暗雲が覆いはじめたという。落雷が轟き、大雨が降りはじめた。風がごおごおと音を立てながら、川面を揺さぶり、白く泡立たせた。川の水かさがみるみる増していき、父の足先を濡らしはじめた。母の姿はもう見えない。なのに、足がすくんで動けなかった。
「そんなときポケットで携帯が鳴ったんだ」父は言った。「歩夕からだった。特売の餃子を二箱買っていいかっていう確認の電話だった」
自分はそんなことでいちいち電話をしない。そう反論すると、父は困ったように笑った。
「でも、あの電話があったから、父さんは動けたんだと思う」
父は我に返り、その場から逃れた。堤防に向かって走り、濡れた草を掴みながら駆け上がった。目の前に市街地が広がる。川が天井川であることに気づいたのはそのときだった。次の瞬間、背中から大波が襲い、父は濁流の中に放り込まれた。
川は荒れ狂い、街を飲み込んだ。父は濁流の中を漂い、ビルや民家にぶつかりながら、どこまでも流されていった。水が肺を満たし、やがて、意識が暗転して、病院のベッドで目を覚ましたという。
「僕たちはたぶん生かされてる」父は言った。「川が自らの流れを決められないように。何か大きな力に動かされて今日を生きてる」
退院してからも、父は川に出かけた。空っぽの助手席に空っぽのリュックを乗せて。新しいカメラはしばらく買えそうにない。ブログの更新も滞ったままだ。「何をしに行くのか」とは訊かない。週末の夕方、わたしは父の帰りを待ちながら特売の餃子を焼く。「いただきます」までに帰ってくれば、それでいい。
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