Beggar and a little girl(原作:歌田うた@utatane_999)

原作: https://kakuyomu.jp/works/1177354054885346464/episodes/1177354054885346470



 あれは何歳のときだろう。そのとき住んでいた街に大雪が降った。降りやまぬ雪の中、地上に咲く赤い花をたしかに見た。


「それっていつ? 小学校には上がってたんでしょ?」真理亜が言った。「どこに住んでたか、忘れるかな。普通」


「きっと、それだけショックだったんだって」杏奈が言った。「それで思い出せなくなってるんじゃない?」


 どうなんだろう。わたしはあいまいに微笑む。友人たちの憶測を他人事のように聞く。


「だから、どういうつながりなんだって」真理亜は言った。「でもさ、そもそもそれって本当にあったことなの? それだけ記憶が曖昧なら夢ってことも――」


 わたしは首を横に振った。そして、すぐ頭上を指差す。男物の、古びた傘。骨が折れる度に補強し直し、シートが破れる度に補修シートを貼って使い続けてきた。あの日、ビルから飛び降りたおじさんが、わたしに残してくれた唯一たしかなもの。


「雪が降ってる」


 おじさんの声は思ったより若かった。驚くわたしに傘を握らせて、おじさんは白い闇に消えていった。おじさんを探して、わたしは闇の中をさまよって、やがておじさんの体だったものが赤い花を咲かせているのを目撃した。


「心因性のものでしょう」咽喉科の先生はそう診断した。「心療内科の受診をお勧めします」


 お母さんは取り乱した。娘が心の病気を患っていることが受け入れられなかったらしい。おかしな話だ。それまでわたしに関心を持ったことなんて一度もなかったのに。


 その後、学校の先生にせっつかれるようにしてようやく診察を受けて、わたしは正式に失声症と診断された。


「関係ないよ」と牧夫は言う。「関係ない」


 そう言って、わたしを背後から抱きしめる。彼の厚い胸板を感じながら、わたしは眠りに落ちる。


 夢の中で、わたしは何度もおじさんと出会う。物言わぬおじさんが、駅の前で、銀色のボウルを前に座り込んでいるのを何度も目撃する。わたしは何度でも、そのボウルに一〇〇〇円札を落とす。おじさんは何度も駅員につまみ出され、わたしの一〇〇〇円札を突き返す。雪が降ってきて、おじさんはようやくその一〇〇〇円札を受け取り、コンビニで男物のしっかりした傘と交換する。「雪が降ってる」その言葉とともにわたしに傘を握らせて、目の前からいなくなる。わたしはおじさんを探す。クリスマスを前ににぎわう街を、カップルや家族とぶつかりそうになりながら走り回る。結果はいつも同じで、わたしは赤い花を目撃して目を覚ます。


「好きに物を置いてみて」メンタルクリニックの先生は言った。


 わたしの目の前には、底の浅い箱が置かれていた。中には白い砂が敷き詰められる。部屋の棚には、人や動物、乗り物や家、木々や花々のミニチュアが無数に並んでいた。


「どうしたの?」先生は言った。「きれいに並べる必要はないの。あなたが思うままに並べてみて」


 わたしはしばらく悩んだ後、白い砂の上に赤い花を一輪置いた。


「関係ないよ」と牧夫は言う。「関係ない」


 彼の部屋から知らない女の子が出ていくのを見た。そのまま立ち去ろうとしたとき牧夫がこちらに気づいた。古びた男物の傘に。


 牧夫が背後に迫るのを感じた。強い風の日だった。傘をさしたままでは走れない。やがて、牧夫の大きな手がわたしの腕を掴んだ。「関係ない」と繰り返す彼を、わたしはただじっと見つめていた。


「君だって同じだろ」牧夫は言った。「前の彼氏からもらったのか? いつも男物の傘なんてさしやがって」


 牧夫はわたしから傘をひったくると、地面に叩きつけて骨を折った。すがりつこうとするわたしを片手であしらいながら、何度も何度も叩きつけた。


「さすがにここまで損壊が激しいと……」修理屋のお兄さんは言った。「骨もシートもすべて取り換えることになります。持ち手以外何も残りませんよ」


 何もない部屋に、壊れた傘を立てかける。「植物でも置けばいいのに」と友人たちは言う。「ペットでも飼えば」とも。わたしはあいまいに微笑んで、首を横に振る。


 また冬が来る。華やぐ街を、わたしは新しい傘をさして歩く。新しい恋人を伴って。「雪が降ってる」恋人のそんな一声で、おじさんを忘れはじめてる自分に気づく。「どうしたの」涙ぐむわたしに優しい言葉がかけられる。なんでもない、とわたしは身振りで示して目元を拭う。


 なんでもない。

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