内気なあたしのワールドイズマイン

おだた

第1話

 デートの待ち合わせ。

 あたしはわざと、ちょっと遅れて待ち合わせ場所へ行く。待ち合わせ場所に彼がいるのを確認してから、小走りで駆けより、息を切らせながら言う。

「ごめ~ん。遅れちゃって。待った?」

 てへ、っと、舌を出して遅刻をごまかす。

「俺も今、来たばかりだから。あれ? 髪型変えた?」

「わかった?」

「わかるよ」

「そのブラウス、似合ってるね。スカート、春の新色だね。とても似合ってる。ヒール綺麗だね。似合ってるよ」

 彼が左手をさしだす。その手を、そっと握る。温かい彼の手と、優しさに満足して、あたしは笑みをこぼしながら、ふたり歩き出す。

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     `'ー '´

      ○

       O

 と思う、あたしであった。


 デートの待ち合わせには、実は三十分前に着いた。五分ごとにスマフォを見て、時刻と着信とLineを確認する。

 心臓は、バクバクとハムスターより速く脈打ち、顔は、湯気が立つほど熱く火照り、目線は五メートル先の足下より高く上げられない。

 彼と会うのは、これが三度目。

 これまでのデートで、親交は深めたはず。次は、愛情を深める。

 と、気合いを入れて、ワールドイズマインの様に思いを馳せても、現実はままならない。彼は三十分遅刻した上、

「ごめん、ごめん」

 と、心のこもっていない謝罪を発すると、きびすを返して歩き出す。

「今日は、どこ行く?」

 デートプランは、たくさん考えてきている。しかし、それを口に出して言えない。

「まかせる」

「え? なんか言った」

「まかせる」

「そう。じゃ、今日はあそこかな?」

 いつもそう。思っていることを、大きな声で言えない。いつも、蚊の泣くような声。あたしが話すと、彼が聞き返す。それにあいづちを打つところまでがテンプレート。

案の定、切った髪にも、今日のために買って着た、春の新色スカートにも、下ろしたてのヒールにも気がつかない。

 一度でいい。ワールドイズマインのミクのように、思いっきりわがままを言いたい。




「今日は一日、あたしの言うとおりに付き合ってもらうわ」

「言うこと?」

「そう」

「ふ~ん」

「まず、甘いモノが食べたいわ」

「甘いモノか…」

「さあ、連れてって」

「連れてって?」

「甘いモノよ。甘いモノが食べられるところ」

「お、おう」

 ネットで話題の、洋菓子店に着く。なんと、数十人の行列が出来て、店頭には『ただいま一時間待ち』の看板が立っている。

「どうする? 一時間待ちだって」

「はあ?」

「いや、待ち時間長いから…」

「待つに決まってるでしょう!」

「じゃあ、並ぼうか」

「はあ?」

「なに?」

「並ぶのは、あなただけ」

「え? それって途中から列に割り込むって事?」

「誰が割り込むって?」

「君が」

「ちがう! 全部、テイクアウトで買って来るの! イチゴの載ったショートケーキと、こだわりたまごのとろけるプリンね。よろしく」

「まったく、わがままなんだから」

「誰がわがままですって?」

「君が」

「はあ? 彼が彼女のためにスイーツを買ってくるなんてあたりまえでしょう」

「なんでも自分の思い通りになるって思ってるそれ、君の欠点だよ」

「バカなこと言わないで! あたしに欠点なんてあるわけないじゃない! ホントにあたしの思い通りになるなら、今度は白馬で迎えに来なさい。そして、かしずいて手を取って、お姫様って言うのよ」

「わかった、俺が悪かったよ。ごめん」

 彼はひとり、列に並ぶ。そのあいだ、あたしは木陰でひとやすみ。

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     `'ー '´

      ○

       O

 と思う、あたしであった。


 半歩斜め前を歩く彼。

 半歩斜め後ろを歩くあたし。

「動物園なんてどうかな?」

「うん」

「良い?」

「うん」

 動物園に着く。

「チケット買って来る。ここで待ってて」

 と言って、彼は足早にチケット売り場へ向かった。

 ほどなく、ふたり分のチケットを買って、戻って来る。

「はい、これ」

 彼が、あたしの分のチケットを手渡してくれる。

「ありがとう」

「じゃあ、行こうか」

 園内に入ると、目の前に大きな公園があり、小さな起伏に芝が生え、そこに立つ大きな樹が木陰を落とす。そこに切り株のイスが置かれていて、同じ高さのテーブルが置いてあり、イスもテーブルも低めで、子供でも楽に座って、テーブルに手が届く様にできている。公園の周りには、ウサギやリスといった小動物との触れ合いコーナーや、ポニー、山羊、馬などがオープンに展示されている。

 厩舎に白い馬が見えた。そこには、『乗馬体験コーナー』の看板が掲げられている。

「乗ってみる?」

「うん」

 小さくうなずく。

 大きな白い馬を目の前にして、これで迎えに来てもらうのは止めようと、本気で思った。

 馬の背まである段を昇り、手をさしだしてくれたのは、カウボーイの様なかっこうをしたインストラクターのお姉さんだ。

「さあ、しっかり捕まって」

 彼女の手をしっかりと握り、馬にまたがると、お姉さんが後ろからあたしの身体を支えてくれる。手綱を握って、軽く振ると、馬はゆっくりと歩き出す。

 ポッカポッカと歩き出した馬は、意外なほど上下に揺れる。

「鐙にかけた足に体重を乗せて、腰は馬の上下に合わせテンポ良く」

「はい」

 馬の乗り方に慣れてくると、突然、周りの景色が目に飛びこんでくる。その光景は驚くほど高く、晴天の青空が近く感じ、頬が風をなでる。緊張しているが、恐る恐る馬の背を撫でると、馬が嬉しそうに耳をフルフルさせる。芝を踏み、馬の匂いを嗅ぎ、周りを見回しているうちに、乗馬コースは一周を終える。

 馬を下りてホッとした時、そこに彼がいる。

「楽しかった?」

 顔が赤くなるのが自分でもわかった。顔を下に向け、彼に気取られないようにして、小さな声で言う。

「た、楽しかった」

「そう。それは良かった」

 園内を歩きながら、いくつかの動物を見て回る。

「お腹すかない?」

 彼は突然、言った。

「べつに」

「そう…」

 その時、あたしのお腹がぐ~と鳴った。

「やっぱりなにか食べようか。なにか食べたいものある?」

「なんでもいい」

「なんでもいい、か…。じゃあ、あれにしょう」

 くそ~! あたしのお腹、どうしてこんな時に鳴るの! 恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 彼はスイーツの店に入った。

 店内に入るや、甘さと、砂糖の焦げと、バターや生クリームの香りにむせかえるようだ。

 彼は甘党だったっけ?

 聞いたことがない。

 窓際の席に案内され、メニューを開く。

 お腹がへっているのは確かだけど、食べたいものは何かと訊かれ、すぐには思いつかない。

 メニューには、シンプルなショートケーキやチーズケーキから、モンブラン、フルーツ盛りだくさんのパフェ、バニラアイス、抹茶アイス、宇治金時、白玉あんみつ。豊富なレパートリー。

「どれにする?」

「…」

「これだけたくさん、レパートリーがあると、目移りしちゃうよね。動物園の中にあるお店なのに、この多さはすごい」

「…」

「ふと疑問に思ったんだけど」

「?」

「ミルクとか、玉子とか、食材もこの動物園で採れたモノかな?」

「…」

「俺は、『こだわりたまごのとろけるプリン』にしようかな」

「あ、あたしは、ショートケーキ」

「え? ここまで来て、ショートケーキはシンプルすぎない?」

 あたしは、メニューに書かれている、ショートケーキの紹介文を指さした。

『このショートケーキには、園内で栽培した採れたてのイチゴと、生クリーム、バター、たまごを使用しています。濃厚なケーキにあっさりとしたイチゴの奏でるハーモニーをお聴きください』

「なるほど、お目が高い」

 あたしは、彼の注文したメニューを指した。

『こだわりたまごのとろけるプリン』の紹介文にはこう書いてある。

『たまごは、隣接する地鶏養鶏場からわけていただいた有精卵を使用。牛乳は前日に搾った生乳を、長時間かけて低温殺菌した新鮮なものを使用しました。濃厚なたまごとミルクの味をご堪能ください』

「もしかして、知った?」

 動物園のデートは、彼の提案だ。

 彼は、最近評判だという理由だけで、この動物園を提案したようだった。

 しかし、あたしは知っていた。彼とつき合い始めた時から、いつかここに来たいと、デートプランをシミュレーションしていたから。

 動物園は、広大な土地に、自然に近い動物を生態展示していて、隣には養鶏場や牧場、農場を誘致。動物の生態を観察するのと同時に、食卓へあがる家畜についても、同時に学習できるシステムになっている。

 あたしは、ケーキにフォークを入れ、イチゴと一緒に口へ運んだ。口の中に、イチゴの甘酸っぱさと、濃厚な生クリームの甘さが広がり、イチゴの汁がスポンジに染みて、柔らかな舌触り。とても美味しい。

 ふと、彼が食べているプリンに目がいった。

 カラメルソースも、生クリームも、なにもトッピングされていない、ドーム型のプリンにスプーンが入り、すくわれた一片が彼の口へ運ばれる。

 美味しそう。

 その視線に気がついて、彼は言う。

「一口食べる?」

 あたしは思いっきり、左右に首を振った。

 でも、食べたい。

 スプーンで一口分すくって、あたしの前にさしだす。

「どうぞ」

 待って!

 そのスプーン、あなたが使っていたモノじゃない!

 それじゃ、間接キスになっちゃう!

 逡巡してるうちに、彼はそのスプーンを自分の口に運ぶ。

「じゃあ、そっちのケーキ。一口ちょうだい」

 そう言って、彼はあたしのケーキにスプーンをさしだす。

 あっ!

 と、声にならない悲鳴をあげて、スプーンはケーキの手前で止まった。

「良い?」

 彼は微笑む。

 うんと、静かにうなずく。

 彼は、ケーキをちょっとだけすくって、口に運ぶ。

「美味しいね」

 うんと、小さくうなずく。

 彼は再び、プリンをすくって、あたしの口元にさしだす。

 こうなったらヤケだ!

 あたしはパックと、スプーンをくわえた。

 思いの外、口に含んだプリンよりも、スプーンの方が大きく、それでむせそうになった。

 彼がスプーンを抜くと、口の中でプリンがとろけ、濃厚なたまごとミルクの味が広がった。

 美味しい。

 と同時に、気がついて、あたしは顔を真っ赤にした。

 彼と間接キスしてしまった! しかも、彼のスプーンをなめとるようにディープな奴! 

 頭の中が真っ白になる。思うように息ができない。手も動かせない。顔から火が出ているのが自分でもわかるくらい、顔を赤くしている。耳まで赤くしたまま目線を落とし、フリーズした。

 彼はなにも言わず、自分のプリンを食べているみたい。

 彼のスプーンが、一口、一口、プリンを口に運び、皿が空になるまで、視界の片隅で呆然と見送っていた。

「どうしたの?」

 その言葉で、突然我に返って、あたしは、何事もなかったかのように、自分のケーキを食べ進める。




 あなたは、世界で私ひとりだけの王子様なのよ。

 あなたのことを、これほど想っている人は、あたしだけ。

 ホントは気がついてるんでしょう? そのことに。

 それに気がついていながら、わざと、あたしに気のない振りをする。

 無口で、無愛想な、あなた。

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     `'ー '´

      ○

       O

 じゃなーい!

 無口で無愛想なのは、あたしの方だー!

 悔しくて涙が出る。

 あなたはこんなにも、あたしに優しくしてくれているのに、あたしはあなたに、何もしてあげられていない。そんな自分が、悔しくて、歯がゆくて、涙が出る。

「大丈夫? 気分でも悪い?」

 あたしはブンブンと首を左右に振った。

 ケーキを食べ終え、フォークを置いて、あたしは精一杯、大きな声で言った。

「今度のデート。あたしにまかせて欲しい」

「それは、デート内容のこと?」

 あたしは大きくうなずいた。

「そっか。じゃあ。まかせる。どこに連れて行ってくれるの」

「そ、それは、当日のお楽しみ」

「じゃあ、楽しみにしてるよ」

 あたしは、一世一代のデートプランを提供し、彼に思いっきり楽しんでもらう。

 うん、そう…。そうしたい!




 その夜、あたしは次のデートプランを練り始めた。

 今度のデートで四回目。そろそろ、次のステップに進んで良い頃。

 次のステップってなに? それはもちろん、キスと、もしかしたらその先まで…。なーんて想像すると、顔が真っ赤になる。

 今まで行ったところは、映画館、ショッピングモール、ランチ、カラオケ、テーマパーク、動物園。デートの定番を順番にめぐった感じ。すべて、陽のある時間。

 次は…。次こそは、ふたりの関係を縮めるナイトデートに挑戦する。

 夜間、営業しているプールがあるという。場所がホテルなので、高い料金がネックだけど、白日の下で水着を晒す勇気は無い。せめて夜なら、大丈夫だと思う。

 そこで思い出した。あたしはスクール水着以外、持っていない。派手すぎず、それでいて地味すぎず、かわいい水着が欲しい。

 スマフォを手に『かわいい水着』で検索。

 しかし、このたった一言でヒットした水着には、フリル付きのワンピース、ツーピース、パステルカラーの花柄から、盛れるパッド入りまで、範囲が広すぎる。

 『かわいい水着 女子』で検索すると、露出の激しい水着ばかりがヒットする。これを着た自分を想像する…。

 無理無理無理無理。こんな水着、絶対、無理。

 『かわいい水着 女の子』で検索したら、小学生以下向けの水着がヒットした。

 試しに、『かわいい水着 女子高生』とか、『かわいい水着 女子中学生』とかで検索したら、いかがわしいサイトまでヒットした。

 水着選びって難しいorz

 でも、私は選ぶ。

 ナイトプールに着て行く水着は、これだ!




 あたりまえじゃない。あたしは、世界で一番、おひめさまなの。下々の者とは、身につける水着ですら、違うのよ。魅なさい、あたしの美しい身体を。

 ちゃんと観てる?

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     `'ー '´

      ○

       O

 勝負の夜。だから、あたしは、白で無地のビキニを着る。

 柄や模様は、光によって見え方が変る。ならば、夜のライトに染まる、シンプルな水着の方が良いはず。海水浴場ではシンプルすぎて、派手な水着に囲まれ、まるで下着を着ただけのように見えてしまうだろうけど、ナイトプールで一番、映えるのはこの水着のはず。

 夜。

 周りは、ライトアップされたプールに、竜や雲が浮き、それに色とりどりの水着が乗っている。水着を着ているのは、細く、白く、かわいい子ばかり。

 ありえない。

 こんなかわいい子が、普段、どこに隠れているの? そして、その子たちをナンパするイケメンたち…。

 ありえない。

 精一杯、がんばったあたしの水着が、見劣りする。この場に入った瞬間、出たくなった。でも、出なければ彼に会えない。彼に会えなければ、あたしの水着姿を見てくれない。あたしの足は、出たいという気持ちに反して、後ずさりする。

「どうしたの?」

 その時、彼の声が聞こえ、思わず、足が止まる。

「忘れ物でもした?」

 あたしはブンブンと首を振った。

「じゃあ、プールに行こうか」

 恥ずかしさを押し殺して、ゆっくると彼の方に振り向いた。

「かわいい水着だね。似合ってるよ」

 恥ずかしくて彼を直視できない。顔を上げられない。顔から火の出る思いで身体を硬直させていた時、緊張で堅く握りしめていた手を、彼が優しく握る。

「手を開いて」

 ゆっくりと手を開くと、優しく彼は掌を重ねる。

「さあ、プールに行こう」

 手を引いて、プールに向かって歩き出す。

 プールサイドに立って、手を握ったまま彼は足からプールに飛びこむ。落ちる!

一瞬、目をつぶって、息を止めて、身体をこわばらせた。しかし、握った手が少し下がるだけ。身体は微動だにしない。そっと目を開ける。彼が手を握ったまま、プールの中から微笑んでいる。

「気持ち良いよ。おいで」

 彼の手に引かれて、右のつま先を水につける。水の感覚が足に伝わる。思ったほど、冷たくない。ちらっと彼を見る。彼は満面の笑みで、大丈夫だよと言っている。

 手に体重をあずけながら、右足を水に降ろし、続けて左足をつける。

 プールは思ったほど深くない。てっきり、学校のプールと同じくらいの深さがあると思ったら、膝までしか深さはない。

 ナイトプールの深さってこんなもの?

 不思議に思って、目線を低くしたまま周りを見回す。光る浮き輪に捕まって自撮りしている女の子達。胸まで浸かって泳いでいる人もいる。

 そうか。楽しみ方に合わせた深さが、いくつかあるらしい。たぶん、ここはその中で一番浅いプール。

 あたしは彼の手に引かれるまま、カップルだらけの中を、歩いて行く。

 突然、彼がずぼっと、落とし穴に落ちるかのように、一段、深い場所に入った。あたしも彼の手をとって、一段、深いところに入った。水深は一気に、腰にまで達して、歩くのにも力がいる。

 まっすぐ歩こうとすると、自撮りしている女の子にぶつかる。

「ごめんなさい」

 声にならない小さな声であやまる。

 右に浮き輪で自撮りしている女の子を避けると、左で泳ぐ女の子とぶつかる。

「ごめんなさい」

 こんな調子で、人にぶつかっては小さな声であやまりながら、彼の手を握って歩き続けた。

 突然、人の少ないエリアに出た。

 そこは、自撮りしてる女の子もいなければ、ナンパしている男子もいない。浮き輪やビーチボートに乗って、ぷかぷか浮いている女の子ばかりだ。

「ここからちょっと深くなるよ」

 彼は目線で同意を求める。

 あたしは、ちいさくうなずく。

 どっぶんっと彼が水に入ると、握った手が予想以上引っ張られて、思わず落ちそうになった。前かがみになったあたしを、握った手で押しとどめ、彼は微笑む。

「泳げる?」

 水深は、彼の胸元まであった。それは、水深があたしの口元まであることを意味する。泳ぎは、中学校の授業で習ったのが最後。25メートルを泳げるくらいで得意ではない。

 ふるふると首を振ると、彼は二の腕を両手で持って引っ張った。身体がふわりと浮く。足がプールの底から離れる。あたしは彼の両腕にしがみつく。彼も身体を浮かせ、足でプールの底を蹴りながら、あたしを足のつかない、夜の水面に連れ出してくれる。

 進む先に、プールサイドが見える。

「あそこまで行こう」

 プールサイドの向こうに夜の街の灯が光っている。あそこが本当にプールの端なんだろう。

 プールサイドに着いて、彼があたしの手を、プールサイドに渡す。

「ここでちょっと待ってて」

 そう言うと、彼はプールの波間に泳いで消える。

 プールサイドから眺める夜景は、ここがビルの上であることを思い出させる。光る窓のひとつひとつに、生活している人がいる。仕事なのか、家事なのか。そんな灯を見ていると、あたしが生活者とは遠く離れているような気がする。

 ぼーと夜景を見ている。どのくらい時間がたったか定かじゃない。

「彼、遅いな」

 と、思った瞬間、後ろから抱きしめられた。

「誰?」

 と思う間もなく、あたしの身体は宙に浮き、落ちたところは、浮き輪の中で、ユニコーンが優しく微笑みあたしを覗きこんでいた。

 ユニコーンの横から、彼が顔を出す。

「びっくりした!?」

 あまりにも突然の事で、あたしは自分の身になにが起こったのかわからなかった。

「君は、びっくりすると、ひゃ~! って叫ぶんだね」

 いたずらっ子のように無邪気に笑った。

 彼の手が、あたしのお腹を掴むと、あたしの身体は宙に浮き、彼の腕があたしの身体を這って、浮き輪にうまく着地させる。その密着した肌と肌の感触を思い返して、あたしは顔を真っ赤にする。

 彼の笑い声を聞いているうちに、あたしは怒りがこみあげてきた。

 ぽんっ! と彼の頭にげんこつを振り下ろした。

「?」

 という顔をしているので、もう片方の腕で、ぽんと叩いた。

 なんだか、よくわからないけど、あたしの中で、何かが弾けて、ぽこぽこ彼の頭を叩き続けた。

 その手を受け止め、彼は言った。

「ごめん、ごめん。そんなに怒るとは思わなかったよ。ちょっとびっくりさせたかっただけなんだ。ホントごめん」

 手をふりほどいて、あたしは浮き輪を漕いだ。彼とは正反対の方向へ、ひたすらに。

 追いかけているのか、いないのか、わからない。あたしは下を向いたまま、無我夢中で漕ぎ続けた。

 「あぶない!」

 彼の声が聞こえた。

 ふと目の前が真っ暗になり、なにかにぶつかった衝撃で、あたしはプールの底へ落ちた。

 ずいぶんと、ゆっくりしている。

 もがくでもなく、暴れるでもなく、あたしはごく自然と、全身の力を抜いた。開いた目に飛びこんできた水の中の世界は、こんなにも明るかっただろうか。

 水面に浮く人や浮き輪を、水の底から見上げると、それはまるで宙に浮く、カラフルな飛行船のようで、『深海少女』が海底から見上げたはるか彼方の光景も、こんな感じなのかも知れないと思った。

 そういえばあたし、いつまで息を止めていればいいの?

 息を吹いたら、ぶくぶくと泡になって空へ昇って行く。そこに、彼の顔が見えた。思わず目をつぶると、抱きしめられて、彼の体温が、接した胸板から熱く、あたしの胸を通して感じて、気がついたら水面に顔を出していた。

 彼が、心配そうな顔であたしの顔を覗きこんでいる。なにか、あたしに声をかけているみたい。まるで叫んでいるよう。

 溺れそうになっているあたしを助けてくれたんだ。ありがとう。あなたはすっごい、心配したんだと思うけど、あたしは嬉しかったよ。




 かってにどっかいっちゃって、いきなり抱きしめるなんて、

 急に、そんな、びっくりしたじゃない!

 そんな、まっすぐ見つめないで。

 あたしのが、危ないじゃない!

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     `'ー '´

      ○

       O

 彼への気持ちが無意識のうちに弾けて、彼の頬に手を当てると、あたしは彼にキスをした。

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