第61話 柴田剛史と不知火みこと
そろそろ始まる時間だなと、時計を見て日付が変わったのを確認した柴田は、自室のベッドから立ち上がり、財布と携帯端末をポケットに入れて部屋を出た。
いずれにせよ彼らが仕事中ならば、おちおち寝てはいられないし、仕事の発端は柴田なのだから、緊急の要件にも応えられるようすべきだろう。
こういう時は眠気も遠い。昼寝をしておいたのも理由だろうが――ともかく。
「チェシャ」
リビングに行けば、キッチン側の電気だけつけてノート型端末を見ていたチェシャが、こちらを振り向いた。
「んー、珈琲ちょうだい」
「それも良いのですが、飲みに行きませんか」
「――え?」
「外へ、飲みに」
「珍しいじゃない、柴田が外で飲むだなんて。付き合いじゃないんでしょ?」
「ええまあ、たまには良いかと」
「ん、わかった。ちょっと待ってて、上に羽織るものを取ってくるから」
「大丈夫ですよ」
少し待っていれば、ポンチョというか、ケープのようなものを羽織ってやってきたので、並んで寮を出る。一応鍵はかけるが、それ以上に怪異系が建物を守っているので、よほどの手練れでなければ問題はない。
「で、どしたの。いつも飲んでないよね?」
「ええ、仕事の付き合いくらいしか。一人で晩酌をする
「ああ、うん、まあわかるけど」
「ここでは酒も煙草も、常識の範囲内でと規則は緩いですが」
「私はあんまり」
「まだ学生ですからねえ」
進級には目途がついたらしく、来年からは無事に高等部三学年になる。
「おや、熱気が伝わってきますね」
「うん、たまちゃんが暴れてた」
「怪獣か何かですか。まあ、そういう割り振りにはなると思いますが――映像は許可を?」
「もちろん。こっそりやるの面倒だから、指揮所の映像をこっちに貰ってた」
「ああ、エリコさんが見ている」
「それなりに破壊規模も多いから、あれは事業になるでしょ」
「だから経済部の手を借りて、借りを返すかたちで介入権を渡すと、そういう流れでしょうね。夜逃げ――身内狩りは、瀬戸さんの仕事ですが、念のためは必要ですし」
「さすがに大規模なだけあって、遊園街だけじゃまかなえない?」
「厳密には、賄わないんです。独立自治とはいえ、繋がりは必要ですから」
「あえて失点を作っておいて、それをほかに任せるわけか。しかもそれを、作ってくれたんだと、こっち側は認識する」
「持ちつ持たれつです」
「そういう政治って、面倒ね」
「まったくです」
人気のない夜の街は、普段よりも人の気配がなく、昼間は喫茶店になっている酒場へ足を踏み込めば、テーブルに二人の先客がいるだけで、柴田はカウンターに座った。
「どうも、店主。ハイボールを」
「私はミックスオイル」
なんだそれはと思ったが、店主はすぐ対応する。チェシャが上着を脱いだので、柴田が受け取ってハンガーへ。席に戻れば、酒が出てくる――と。
「小さいですね?」
「あーうん」
お猪口サイズのグラスに一杯だけ。それを口元に寄せて、チェシャは舌先でぺろりと舐める。
「これ油だから」
「はあ、油ですか」
「うん、油よ。猫だもの」
猫ってそういう生物だったかと、首を傾げるが、猫族が言うのならば間違いはないだろう。ちょっと調べれば、コンロの周りをぺろぺろ舐める猫の画像などが出てきた。
「ろくろ首くらいかと思ってました」
「実際にいたら気が合うかもね」
一口、アルコールを口にしたら、どれだけ酒を飲んでいなかったのかも自覚できる。辛さを舌の上に転がせば、肩の力が抜けるような感覚もあって、外の寒さも忘れられそうな温かさもやってきた。
「昔は記憶を失うような飲み方もしていましたが、落ち着いて飲んだ方が美味しいですね」
「そりゃそうでしょ。
「そうなんですか?」
「サイン集めの時に、苦手な日本酒をあえて勧めたんだって。それ以来、会食への苦手意識は増えて大変だったとか。今はうちで軽く飲むだけらしいよ。先生が言ってた」
「ああ、リゴベルトさんからのリークですか。どうやら、こちらに落ち着いたようですね」
「うん。柊さんとも上手くやってるって。私とは違う意味で目が離せなくて困るって、この前言ってた。このまま社長つき秘書として働くか、それ以外を探すか、悩んでる」
「しかし、今回の仕事は請けましたね。俺としては、打診はしましたけれど、強制にはならないともお伝えしましたが」
「殺したくないけど、場合によっては殺そうって意識は持ったみたい。私は昔から、しないけど、やる時はやるって区切ってたんだけど」
「チェシャがそういう意識を持っているのに、リゴベルトさんが迷うようでは、立場がないでしょう」
「そう言ってた」
「なるほど」
そう頷いたところで、来店があって。
――柴田の口元の笑みが深くなる。
そして彼女は、遠慮なく隣に座った。
「ビール、銘柄は何でもいい」
チェシャは小さく首を傾げて、ただ、ありのままの彼女を見た。膝まであるスカートに、シャツとネクタイ、その上から羽織りもの。髪はうなじが隠れる程度で、細身であることがわかるよう、顔も小さい――。
ビールが届いて、半分ほど飲んで。
そして。
「よう、
その挨拶は、記憶にある通り。懐かしさを感じると同時に、当時の雰囲気を作るよう、口調を思い出しながら。
「やあ、みこと」
そう、柴田は返事をした。
「相変わらず小さいことに安心はしたがお前、いつから女だって主張するみたいなスカートを選ぶ趣味になったんだ」
「うるせえよ、文句あんのか?」
「あるだろ。そいつはお前が一番知ってるはずだ」
「あー……そりゃあるか」
「もちろんだ」
「じゃ、どのあたりだ」
「そりゃ仕事だ。俺がどうなったか、気持ちも含めて、そんなのはどうでもいい。ここ二年、死んだふりまでして何をしてた」
「何って、いろいろ。いろいろだが――ま、気付いてるか」
「そりゃお前が生きてりゃ、いろいろ繋がるだろう」
「だよな。――おう、そっちのがラッコルトだろ? ぼくは
「――え?」
「かつて、お前は現場にいただろ。弾丸を二発喰らった間抜けがいたろ? それがぼくだ」
「皮肉だな、みこと。喰らってなかった現実を見抜けなかった間抜けがこっちか」
「んなつもりで言ってねえよ馬鹿」
「馬鹿はそっちだ」
「うるせえ」
迷わず殴られたが、避けなくても良いくらいには柴田も殴られ慣れた。
「チェシャ、こう見えてこの小さいの短気だから気をつけて」
「この前の仕事なんかあれだぜ? まあ、ちょっと閉鎖的な学園だったんだが、ちょい魔導書が悪さしてるからって回収に行くことになって、ぼくもう大学卒業してんだよ。それが高校生だ? ふざけんな――って身請けしてくれた人に言ったら、こうだ。ちっこいしちっぱいだし心もせっまいし、どう見ても高校生で通じる――笑ってんじゃねえ! ぎりぎりBってことにしましょうって店員も言ってたし、146センチあるっつーの!」
残りのビールを一気に飲み干した。
「おかわり!」
店主は無言でグラスを変えて、新しいものを用意する。
「米軍に間借りしてる組織があってな。今は解体されたが、ぼくが所属していたのは三番目の〝かっこう〟――敵地に潜入することを専門にした部隊だ。名づけの理由は、
「潜入をして、何をするんだ?」
「それはいろいろ。そもそも、どんな場所にだって潜入したら、最低二ヶ月って言われてる。つまり、新顔ってやつが馴染む時間だな。そこからようやく、仕事ってやつが振られるわけ」
「難易度が高いって言いたいのか?」
「いいや、各国があちこちに住人として暮らさせておいて、指令一つで行動を起こすよう潜伏させてるって事実に、信憑性が増すだろ?」
「そういう話は聞いたことがあるな」
「ぼくなら三日で済むけどな」
「自慢かよ。けど、部隊は解体されたんだろ?」
「その通り。しかもぼくは、部隊の中じゃミソッカス――そこらのトラブルは、まあいいか。今は拾われて、あー、あれだ、
「あの人なら、そのくらいやりそうだが?」
「面倒ごとは嫌いな上に、あいつまだ高校三年だぜ?」
「――嘘だろ、何の冗談だ」
「ぼくも同じことを言ったが、二度目は口にしないと決めてる」
「どうしてだ? 食うに困ってんのか」
「まさか、蓄えはある。ただな、こればっかりは犬と一緒にされると顔を歪めたくなるが――組織でも、うちの部隊と犬だけは、いくら組織が解体されたからって、生き方が変わるわけじゃない。犬は今も犬で――ぼくらは、まだかっこうのままだ」
「生活か」
「まあな。こっちでの仕事は、この前にあった金色の一件。最初に来た時に気付いたから、鷺城に報告したらあいつ、もう知ってるってにべもねえ。実際に現場入りする前に、ぼくもこっちに来てた。どういうわけか、犬に尻尾を掴まれて、じゃれつかれたけどな……」
「エレガットさんが来てたのは、そういう理由もあったのか」
「かっこうが現場入りしてるから、ちょっと遊んでやれ――そういう連中なんだよ、クソッタレが」
「はは……さすがに俺もあの人には参った」
「で、今回の仕事がこいつだ」
スカートのポケットから、三センチほどのキャップつきシリンダーを取り出せば、そこに赤色の液体が入っていた。
「ブラッディ・ドラッグ?」
「へえ、着眼点は悪くねえな。だが実際には違う。こいつはな、闇夜の眷属用に調整された
「――それで、あの時俺に背中を見せたのか」
「おう、生き残りがこっちに住むことはないと踏んでたが、一応な。やたらと血の気が多い連中が向かってきてたのも、この薬が一因だ」
「出所はどこだ、みこと」
「ヨーロッパ連合のヤクザ」
「何故だ? 迫害されていると聞いているし、異種族への風当たりは強いだろう」
「強いからだ」
それを打ち返すために、薬の開発に着手した。本国では無理だから、ここ、ヨルノクニで。
「原価そのものは抑えてるが、どっちかっつーと、魔術的な要因が大きいな。さっき、吹雪って医者のところに渡しておいたから、解析結果も出るだろ。悪いがこいつは、ぼくが貰って鷺城に届ける」
「――だったら、最初の時は仕事じゃなかったのか?」
小さく笑いながら問えば、頬杖をついたみことは、視線を反らした。
「そこか」
「言えよみこと。どうせ謝罪なんて言葉は、お前の頭の中には入ってないんだ」
「うるせえなあ……そうだよ、べつに仕事でもなんでもねえよ。お前をこっちに放り投げるために来たんだよ、報酬もねえのに」
「死んだふりまでしてか」
「友人だろ、お節介なんてのは余計なくらいでいい。心配なんざしてなかったけどな」
「どこまでだ」
「クレイへの手配と、あとはお前に人間ってやつを体験させるために、
「そうはならなかったけどな」
「おう、そりゃ良いことだ。けどまあ、そういう成長をしたんなら、外で仕事もできそうだ。どうだ剛史、ぼくと組まないか?」
「ご免だね。チェシャを不安にさせたくはない」
「いつもさせられてるけど?」
「……これ以上、不安にさせたくない」
「そうして」
「はは、まあそれはそれで良いんだろうよ」
「けど、どうして酒を飲みに来たんだ?」
「ああ? ぼくがここに来なかったら、お前がぼくを殺しにかかってただろ? そのくらいのことはわかるぜ」
「クレイ教官殿か」
「その通り。ぼく程度の仕事だと、さすがに高ランク
「混ざってたところで、砂浜が宝石に変わるわけじゃない」
「まさにそれだ。まあ特性みたいなもんだな、術式でもなしに。身に着けるのは苦労したけど――ま、気付くだろ」
「今になればな」
「じゃ、これからも同じ生き方をするつもりか」
「こういう生き方しかできねえんだよ、馬鹿。大学はちゃんと卒業した」
「ああ、そっちは仕事じゃなかったのか」
「どこの大学?」
「野雨にあるVV-iP学園付属大学だ。あ、そういやお前、酒井景子のこと覚えてるか? あのちっこいやつ」
「同属かと思えば、お前が偉そうにチビ扱いするから、よく覚えてる。麻雀も一緒に打ったことあるだろ、どっかの教授と一緒に」
「あいつ、教職とって今じゃ学校の教員だぜ? 笑えるだろ」
「笑えるのは、四ヶ国語で〝どんぐりの背比べ〟って言葉を教わった時のお前の顔だな」
「うるせえよ……」
「じゃあ、次に逢えるのはいつか、わかりそうにないな」
「まあな。潜入なんてのは、どうしたって危険度が高い。逃げ場の確保を最初からしてたら、潜入にもなんねえ」
「――やめちまえよ、そんな仕事」
「お前な……簡単に言ってくれるぜ」
「そりゃ言うだろ。言うだけなら簡単だ、相手が友人なら、なおさらな」
「……」
「ところでうちの寮には、空き部屋があってな」
「おい、――おい剛史、そいつはねえだろ」
「べつに外の仕事を辞めろとは言わない。決めるのはお前だみこと、俺がかつてそうだったようにな。けど、帰ってくる場所があってもいいだろ。たまの休暇くらい、気楽に話してもいいじゃないか」
「それは、お前の理由か?」
「友人相手に、世間話の相手をしろってのは、過度な期待か?」
「…………友人だと言ったのは、ぼくだっけな」
二杯目のビールを飲み干して、立ち上がる。
「奢りにしとけ」
「次の支払いはお前だな」
「おう。――じゃあな、剛史」
「またな、みこと」
以上の言葉はなく、片手をポケットに入れて背中を見せ、片手を上げる。そのいつもの別れに、柴田は小さく苦笑した。
「相変わらず、撤退が早いですねえ……」
「あ、口調が戻った」
「以前はあんな感じでしたが、今はもうこっちの方が落ち着いているので。生きていて良かったと――それが今の感想です」
「来なかったら殺すつもりだったの?」
「できるかどうかは別として、そうでもしないと来ないので」
「うん、たぶん逃げられたら終わりね」
「そうならなかったなら、幸いでしょう」
ようやく一杯を飲み終えれば、携帯端末にメッセージが入った。
「状況終了です」
「ん、どうするって?」
「珠都さんは朝まで飲むそうです。ゾウさんとエリコさんは帰宅」
「じゃあ帰って、夜食の準備ね」
「ええ、そうしますか」
柴田が料金を支払い、外へ。店内と違った寒さがあって――。
「チェシャ」
「なに?」
柴田は右手を差し出し、チェシャが首を傾げたので、そのまま左手を取ってコートのポケットに突っ込むよう、躰を引き寄せた。
「……なによう」
「寒いですから」
それほど長い距離でもなし、チェシャも嫌がらずくっついてくる。
「……彼女、どうするかな」
「その選択は、みこと次第です。俺としては――まあ、残念ですけれど、次に逢うことがなくても、悲しむことはないでしょうね」
「ああ、区切りがついたって感じ?」
「曖昧なものがはっきりした――と、そういうことです」
「……なんで私を見て言うの」
「そういうことですよ?」
「はっきり言って」
「仕事の方ですが、やはり身内狩りがそこそこあったようですよ」
この野郎、と思ったが密着しているので蹴れなかった。
「大きな仕事は、そろそろ落ち着くと良いんですが」
「年末はゆっくりしたいね。遊びに行くにも、遊園街があれだけど」
「そうですね、たまにの休みを作るなら、部隊の方が気楽ですねえ……」
「ああ、確かに。個人で仕事を引き受けてるもんね」
「そのあたりの進退も、全員の意見を聞いて方向性だけでも定めましょうか」
「賛成。決めるのは柴田だけど」
見上げた視線と目が合う。
「ね?」
「ええまあ、決めるのは苦手ですから」
「知ってる。でも、決めた後は手早いってのも」
「ぐずぐずしている男は嫌いですか?」
「そういう聞き方は卑怯」
「そういう男ですから」
「知ってる」
そういう理解があるのも、どうかなとは思うが。
ともあれ。
「さてチェシャ、これからのことですが」
「色っぽい話じゃないのはわかったけど、なに?」
いや、こういう理解はない方が可愛いかもしれないが。
「胃袋が空っぽになって、げーげー言いながら餌付くエリコさんに、どんな食事が良いでしょうか」
「あー……面倒だから白湯」
「スープ系でも作っておきますか。手伝ってください」
「いいけど、それも珍しいね」
「こういう頼り方も悪くないでしょう?」
「……期待しないで」
のんびりと、歩幅を合わせながら帰路につく。
そんな二人の姿を、闇夜に紛れて見ていた彼女は、やはり、そのまま紛れるようにして姿を消した。
空を見上げれば晴天。
初めてヨルノクニへ来た時と同じような、寒空がそこにある。
またな、と言った柴田と、じゃあなと言った彼女は――この場所で。
二度目の別れを、終わらせた。
人は彼らをJokerと呼ぶ 雨天紅雨 @utenkoh_601
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