芽吹く

藤沙 裕

芽吹く




 果てしない夜の底で、小銭と混ざり合った指輪の存在を思い出す。何年も人生を共にしたというのに、こうも簡単に忘れてしまうのか。妻の寝息を隣に聞きながら、ひとり、自嘲する。


 そういえば、随分髪が伸びたな。最近、一緒に出掛けることもめっきり減ってしまった。

 原因は僕にある。仕事が忙しいと言い訳をして、わざと遅い時間に帰宅。土日は接待だとか適当な理由を付けてひとりで出掛けたり、金曜の夜に居残り残業だと言って会社に泊まったり。もちろん、それだけではないけれど。


 きっと妻はもう、僕がなにかを隠していることに気付いている。それでいて、気付かないふりをしてくれている。正直者は馬鹿を見るなんて言うけれど、正にその通り。哀れなほど健気な女、それが僕の妻。彼女に不満などない、それでも僕は彼女を裏切った。気紛れとか魔が差したとか、そんな言葉で許してもらえるとは思わないし、許してもらおうとも思っていない。叱ってほしいわけでもなく、ただ、彼女が僕のしたことを咎めるなら、それまでだろう。


 言葉や表情はいくらでも欺ける。妻もそうだし、僕もそうだ。だから、知り合って間もないあの娘を騙すなんて容易かった。「君の為に生まれてきたんだと思う」、なんて、歯の浮くような台詞は、妻ならきっと信じなかった。疲れてるんじゃないの、と言いつつ嬉しそうにするのが僕の妻だ。けれど、あの娘は。

「はやく奥さんと別れて」

 嘘を吐くというのは、つまりこういうことだった。浅はかな気持ちで欺いた言葉が、たしかにあの娘に届いてしまった。あの娘は僕を呪う。きっと。それは、僕が背負うべき罪であり罰だ。いくらでも謝るし、償うことも構わない。けれど、妻にまでその厄災が及ぶのなら話は別だ。

 あの娘の真剣な眼差しに、曖昧な返事でその場を凌いだが、もう平常心などどこにもなかった。


 妻のことは、愛している。結婚する前も、今も。気持ちはいつも同じではなかった、けれど愛しているのはたしかだ。僕にとって、妻を愛することほど自然なことはない。彼女はたしかに僕の妻で、僕はたしかに彼女の夫で。それが揺らいだことは一度だってなかった。言い訳にしかならなくても、僕の本心は変わらない。


 朝、妻が起きたら。きちんと話をして、謝りたい。このままでいてくれ、なんておこがましいことを言う権利など、もう僕にはありはしない。彼女の望むようになるなら、ほかのことはどうだって構わない。

 彼女が僕を、愛してさえいてくれるのなら。










 久々に一緒に朝食をとる、土曜の朝。妻は僕の話を聞いて尚、優しく微笑んだ。仕事が忙しいから、結婚生活が長いから、娯楽は必要だから。ようは、仕方ない、と、すべてを笑って許してくれた。

 変わらない妻の手料理を口にしながら、やはり哀れな女だと思った。心の中で、馬鹿めと呟いても、この女にはなにも分かりはしない。


 けれどそれでも、咎められなかったことに安心している僕は、どうしようもない愚か者だろう。


 ちゃんと妻を見ていなかった僕なんて、あの娘に呪われてしまえばいい。

 箸を持つ妻の薬指に、見覚えのない指輪が輝いていた。


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芽吹く 藤沙 裕 @fu_jisa

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