04

 約束の土曜日が、いよいよやって来た。

 いつもなら慌てて学校に出かけていくような時間だけれど、今日は同じく遅めに出勤する父親と朝食を共にして、色々なことを話した。反抗期というものが実際に存在して、それが大人の使う自己弁護の道具なのでないとするなら、私は今が反抗期であることを認める。私は早く大人になりたいと思うようなことは少なくて、それは他でもない私の両親の姿を見てきたせいなのだ。

 家族というものが何よりも尊重されるべきで、そこでは一切の争いは許されない。実際、今までこの家族が空中分解してしまいそうな大きな出来事は何もなかった。ただ、それはあるものの搾取の上に成り立っている。

搾取されているものは、私の怒りだ。

 母も父も人間だから、失敗することやしてはいけないことをしてしまうことがある。それはもちろん私もそうだ。でも、多くの場合、母や父は家事や仕事の疲れなどを理由にして、最悪の場合は責任を他人に押し付けて、そうした問題をうやむやにする。けれど、私の場合はもう高校生なんだからといった曖昧な理由で怒られ、まだ高校生なんだからといった矛盾する理由で色々なことを禁じられる。

 そんな不均衡を私は許せなかった。一度だけ、母に向かってありのままの感情をぶつけたことがある。そのときの母の言葉と表情を、私はもう二度と忘れることはできないだろう。


「そんなことで怒らないで。あなた、今とっても醜いわよ」


 母は覆ることのない優位を笠に着て、私の怒りという感情の発露を塞いでしまった。それ以来、私は両親の言うことに唯々諾々と従うように、した。

 悲しいのはそうした屈辱を強いる相手が、必ずしも悪ではなかったことだ。父は私にはまだ想像もできないような社会の仕組みや動きをよく教えてくれたし、母は冷蔵庫の余り物を使ってよく料理を教えてくれた。

 私はそんな彼らを相手に、どうすべきだろうか。この閉塞感を抱えたまま、生きていかなければならないのだろうか。

 電車の時間が近付いてきたので食事を済ませ、玄関を出る。外の冷たく乾いた空気に触れた瞬間、不幸中の幸いというべきなのか、答えの出ない悩み事が一度に吹き飛んでしまった。これはナオミが送り込んでくれた、一陣の烈風だったのだろうか。


「駅まで送るよ」

「……大丈夫、今日は一人で歩いていかないといけないように思えるから」

「気を付けろよ」

「うん、ありがとう」


 私は久しぶりに父にお礼を言ったような気がして、父の方も少し驚いたような表情をしていた。

 二人ともがおかしさを噛み殺して、それぞれの道を歩んでいくのだった。






 水色の家はその日も美しかった。朝とも昼ともつかない時間の日光を浴びて、少し錆びた赤いポストのある表札のない家は、間違いなく光り輝いていたのだ。それを見て、私の気持ちは自然と引き締められた。

 この家には表札がないばかりか呼び鈴さえないようだった。時間を打ち合わせておいたからナオミは私が来ることを知っているはずだけれど、それでもいきなり小さな門の奥に踏み込んでいく勇気はなく、しばらく門の前でまごついていた。永遠とも感じられる時間は、それでも随分と短かったようで、中からナオミが出てきたのは私が到着してから五分くらい経ってからのことだった。


「どうぞ、入って」


 ナオミは私が門の前で不審な姿を晒してしまっていたことには構わず、また待たせてしまったことを気にしているような風でもなかった。それはとてもナオミらしいと思えた。

 小さなノームの置物が対になって迎えてくれる門を潜って、木製の扉を開けると、玄関の中にはアンティーク調の椅子に座るナオミの姿があった。切れ長の瞳の生気のなさと皮膚の冷たい調子が目にわかったので、それが人形であることが初めて分かった。それくらいに人間のナオミと瓜二つだった。

 人形のナオミは童話の中に出てくるようなゴシック風の洋服を着ていて、両手を膝の上に乗せて規矩正しく座っている。長いスカートから爪先の方まで眺めていくと、足首の関節が人間のものとはまるで違っているのが分かった。また、再び頭の方に視線を向けると、黒い長髪の質感が乾いているような感じがした。

 そうして見ていくと、人間のナオミとは大きな違いがあることに簡単に気付けるのだけれど、玄関に入っていきなりその顔が目に入ったものだから、人間のナオミがそのすぐ傍にいるというのにナオミがこの世に二人も存在しているのだという錯覚が起こった。


「趣味が悪いでしょ」


 ナオミは吐き捨てるようにそう言った。


「あなたには負けるかもしれないけど、とても綺麗だわ」

「……そう。残念だけど、褒め言葉にはなっていないわ」


 そう言ってナオミは奥に進んでいったものだから、その人形について詳しくは教えてもらえなかった。ただ、眺めていたいようないたくないような、強い印象が後に残った。

 リビングに通じる扉に辿り着くまでに二つの角を曲がり、一つの扉の前を通り過ぎた。まるで昔の城下町のような、外敵を阻むような造りだと何故か思った。私は招かれざる客なのかもしれないという不安が、そう思わせたのかもしれなかった。リビングに入ると、独特の臭いが漂ってきた。


「このにおいは?」

「父が油絵を描くの。ほら、あそこ」

 手前の方には食事のときに使っているらしいテーブルがあり、奥の方にはテレビや装飾品の並んだスペースがあって、その左側の壁に向かってイーゼルが置かれていた。その絵具の臭いが、この家に独特の臭いだった。

 それにしてもナオミの家族のことについては何も知らなかったから、彼女の父親がどんな人なのか、また母親はどこにいるのか気になった。けれどそうした質問をいきなりぶつけるのは良くないと思ったし、徐々に分かっていくことだろうから黙っていた。

 するとナオミが少しずつ父親のことを語りはじめた。


「どう思うかしら、何の変哲もない壁に向かって絵を描くなんてことを」

「さあ、私も家族も絵を描かないからよく分からないわ」

「無機質の壁に向かって風景画を描くような人を家族に持たなくて正解だったわね。あの人はそれに加えて壁に向かって話すこともできるし、人形に対してもそうなんだから」

「それは、つまり……?」

「狂っているのよ」


 狂っている。

 その言葉がいつかのように鋭い口調で発せられたのを私は聞き逃さなかった。ナオミの心の中に渦巻く星雲は、どこまでも鈍い色がしていそうだった。


「玄関の人形もあの人の趣味。十年くらい前に将来の私を夢想して造られたものだけれど、あのときから既にあの人は現実を見ていなかった。五年前に母が死んだとき、決定的に何かが噛み合わなくなったけれど、それは原因ではなかった。人の死よりも重いものがあるなんて、そのときまではまるで知らなかったわ」


 ナオミは何かに酔ったかのような調子で語り続けた。その言葉の奔流は、そしてこの家独特の絵具の臭いは、私をも酔わせ始めていた。

 ナオミが口を閉ざしたのは、そんな私の調子に気付いたためらしい。


「ごめんなさい、少し退屈だったわね。私はあなたに語りたかったわけではなくて、あなたと話したかったはずなのに。気分が優れないなら、外に出ましょうか」


 そう言うとナオミは私の手を取った。その意外な暖かさに私は驚き、そのせいで突然手を取られたことには動揺しなかった。冷たい空気が入ってくる方向に歩いていく途中で、私の足取りが確かではないことに配慮してくれたのだと気付いた。

 裏口になるのだろうか、玄関とは逆方向の扉を通って、外に出た。黄色いブランコと小さな温室、大きな樹木とそれに寄り添う形で配置された木製のベンチ、それらが一斉に視界の中に登場した。冷たくも新鮮な空気を肺に取り込むことで、私の気分は少しずつ解れていった。


「ねえ、どこで話しましょうか。まだ時間はたっぷりあるわ」


 せっかく外に出てきたのだから、私は温室の中にこもるのは望まなかった。それでベンチに座ろうと提案した。

 ベンチは手作りをしたような不格好さがあって、それが却って私の心に響いた。ナオミが慣れた調子でそこに座るのを見ていると、何だか彼女の幼いころの様子が想像できて、彼女は人形とは違って正真正銘の人間なのだと感じられた。

 正午を前にして太陽は高いところに昇っていた。丘の頂上からの眺めは絶景の一言に尽きるもので、手前には住宅地があり、その先には商業地域が見えて、彼方にはちょうど三日月型の湾があった。背後の方からは時々電車の走る音がまるで別世界から聞こえるような風情があって、ここはちょうど二つの世界に挟まれた場所だと思えた。もし二つの異世界が混じり合う場所だとするなら、これ以上にナオミと語り合うのに相応しいところはなかった。


「ねえ、今度はあなたのことを聞かせて」


 ナオミがそう言ったので、私もまた家族のことを話すようにした。記憶の芽生えた瞬間から今朝の食卓でのことまで、思いつくことは何でも話した。他に邪魔する人はいないから、私は隠し事をせずに話せたのだった。自然と両親に批判的なことを口にしてしまったのだけれど、最終的にはいつか和解できるかもしれないという希望的観測を持ち出して、私は家族のことを語り終えた。

 下手な相槌を打ちながら聞いていたナオミは、その話を聞き終えて一言だけ感想を述べた。


「両親との諍いなんて、最後に勝てればそれで良いのよ。だから、ちゃんと生きていかないと」


 私はリストカットをするような子にそう言われるのは不思議でならなかったけれど、結局はナオミも家族のことで悩みを抱えていて、自分自身ではそれを矛盾なく解決する力のない存在だというのが分かった。それだけに私の感情はナオミに傾き、またその反対側に動きもした。

 遠くの方で学校で聞くようなチャイムの音が流れた。それが正午を知らせる音なのだと気付いたときには、ナオミはもう立ち上がっていた。


「そろそろお昼にしましょう」


 ナオミは私を温室へ導いた。家の中で食事をするものだとばかり思い込んでいた私は、植物に支配された空間の一画に小さなテーブルと椅子が用意されているのを見て驚いた。それはどうも特別に準備されたものではなくて、いつもナオミがそこで食事をしているらしかった。


「どうしてこんなところで?」

「あんな油臭いところで食事なんかできないわ」


 後から気付いたのは、ナオミは父親と食事を共にするのを心の底から嫌っていて、そのために食事のできる場所を家の中にいくつか設けているようなのだった。そういえば、彼女はどんな部屋に暮らしているのだろう。私は強い好奇心に駆られたけれど、それは分からずじまいだった。

 家の中に姿を消していたナオミがしばらくして運んできたのは、あのベンチのように不格好なおにぎりと、グラスに入ったレモネードだった。


「ごめんなさい、ろくな食べ物がないの。それでも飲み物だけは良いものを確保してあるから」


 私は暖かいおにぎりを口に運び、今まで得意ではなかった梅干しの味に口を酸っぱくして、レモネードで喉を潤した。ナオミが黙って食事を進めるので、私も黙々とおにぎりを口にした。

 たしかに家の中の閉ざされた空間で食事をするよりも、植物に覆われながらも青空の見える温室で食事をする方がずっと気分が良かった。そのことを口にすると、ナオミは


「ありがとう」


 とだけ言った。

 それからの時間をどのようにして過ごしたか、私はその全てを振り返ることはしたくない。それはその時間の中に思い出を封じ込めて、後から一人で少しずつ摘んで食べたいからで、公に晒してしまうことは私だけに許された楽しみを潰してしまうことになる。

 それでもこんなナオミの言葉を世界に解き放ってしまおう。


「ねえリサ、家を愛するなんてこと、人形を愛するのと何一つ変わらないわ。悲しいけれど私たちは人と人の間にしか生きられないから、その封じ込められた時間を生きることはできないのよ」


 それは特別に感銘を受けるような言葉ではなかったけれど、不思議に私の心に響いた。きっとそのときのナオミの仕草だとか、空の青さだとか風の流れだとかが影響して、私の感情の揺れ動いたところにぴたりとはまったせいなのだろう。私が自分に許した楽しみは、その言葉に全く反するものだっただろう。でも、その皮肉を私は愛することができる。

 やがて夕方になり、いよいよ別れなければならなくなったとき、世界を照らす光が最後の絶叫をしているその瞬間に、私たちは握手を交わした。


「じゃあね」

「ええ、さようなら」


 またいつか、とは言わなかった。

 私たちはお互いの連絡先を知っているし、この水色の家にナオミが住み続ける限りはいつでも会いに来ることができる。だから永遠のお別れではない。

 それでも、私たちは精一杯の演技をした。もう二度と会うことはできないかもしれないという気持ちを抱いて、私達はその握手を交わしたのだ。

 それから後のことは、ここでは沈黙という形でしか提示しない。ただ一つ言えるのは、私はきっと月曜日にいつもの時間に電車に乗ろうと思ったということ、それだけだ。

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美しき家 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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