03

 ナオミは、いつかのときと同じように少し私を見下ろすような目の色をしていた。それは実際に私が坂を登ってきたところで、ナオミよりも低いところにいたせいもあるのだけれど、心理的にどこか格上の存在を見上げるような気持ちで私はナオミを見つめ返した。


「ご、ごめん……」


 私は今までバカヤローなんて呼んでいた相手を前にして、つい縮こまってしまった。


「いいの。どうせ、近所からは鼻つまみ者だから」


ナオミはあっさりとそう言って、首を微かに傾げた。


「それで、どうしてこんなところに?」

「えっと、それは私も同じことを考えていたんだけれど……」

「ここが私の住んでいる家だから」


 ナオミはあの水色の家を指差した。その横顔の儚さと、爽やかな空のような、または清らかな水の流れのような家とは、どこか結びつきにくく感じられた。きっと、この偶然に驚いているのは私ばかりではなかっただろう。それでもナオミは超然として見えた。


「私、ずっと前からこの家のことが好きだったの」

「この家が、好きなの」

「そう。あなたと同じ、美しい家」


 ナオミは僅かに表情を硬くした。それは芳しい反応ではなかった。

 その気まずさに黙った私に向かって、ナオミは小さな声で、


「見た目だけは美しいかもしれないわね」


 と言った。

 私はその意味を測りかねて、また先生から私の連絡先を聞いたかどうかを尋ねようとしたのだけれど、ナオミはもう話をする気はないというようなそぶりを見せた。


「私、あなたともう一度話したかったの」

「そう、でも私にはもう話すようなことはないわ」

「今じゃなくてもいい。先生から連絡先を聞いてるはずよね。だからきっと、話したいと思えるようになったら、またここで会いたいの」

「こんなところで?」

「うん」


 困ったような様子のナオミは、それでも適当に相槌を打つようにしてこう言った。


「分かったわ。そのうちに、きっと」

「信じていいのね?」

「……」


 今度はナオミが黙る番だった。


「私、あなたと何を話せば良いのか分からないわ」

「何だって良いの。人でも建物でも花でも、好きなことを何でも」

「好きなものなんて何もないわ」

「自分自身も?」

「ええ」


 そう言い切るナオミに、私は慈しみのような何かを感じた。


「もしそうだとしても、好きなものを見つけていけば良いじゃない」

「でも、どうしてあなたと一緒に?」

「私はまだまだ子供だから知らないことも多いし、知っていても間違えることがある。そのことに気付くきっかけになったのがあなたの一言だった。だから、私はあなたに感謝してる。もちろん、怒ってることもあるけれど」

「……」


 ナオミは何かを考えていた。


「私に怒ってるって、どういうこと」

「同情しないって言葉があまり鋭すぎるから、私と有希は傷ついたの。だから、そのことは謝ってほしい」

「それはつまり、私のことが嫌いなのね?」

「そうじゃないの。怒ったからって嫌いになるなんて、そんなことはないのよ」


 話しているうちにナオミは見た目よりもずっと柔らかい、ある意味では幼い部分があることが分かってきた。いつかのような鋭さは、今は認められなかった。


「少し、考えるわ」

「そうしてもらえるのなら嬉しい」

「ええ、きっと……」


 いよいよ話すことがなくなって、私は人様の家に押し入るようなことはできないから、元来た道を帰ろうとした。その私に向かって、ナオミはこう言った。


「ねえ、あなたのことはどう呼べばいいの?」

「リサ、でいいわ。私もあなたのこと、ナオミって呼んでもいいよね?」

「……うん」


 ナオミは、ためらいがちに頷いた。






 それからの私の生活は、ナオミと再会するまでの熱狂が嘘だったかのように静かなものになった。周囲の他人や環境が変わったわけではなくて、私自身の心の状態が変わっただけなのだけれど、ふとした瞬間に感じる風の流れや水道から流れ出る水の音が静かに、そして強く実感として感じられた。ふわふわとした気分はどこかへいったのだ。

 そういうわけだから、今度は落ち着いてナオミからの連絡を待つことができた。日々募る寒さも心に秘めた熱い想いのおかげで乗り越えることができた。

 その冬の初雪の日、ナオミからの電話がかかってきた。


「もしもし」

「こんばんは。あの、私、ナオミだけれど、分かるかしら」

「もちろんよ。ありがとう、約束通り連絡をしてくれて

「うん、それは構わないの」


 電話越しのナオミの声は明瞭ではなくて、それでも間違いなくナオミの口から発せられた言葉だった。その実感が無性に嬉しかった。


「それで私、あなたともう一度話しておくべきだと思うの。だから電話をしたのだけれど」

「うん、どこで話をしたい? あなたに任せるわ」

「……そうね、本当は別のところで話したいのだけれど、ちょっと事情があるから私の家に来てほしいの。そうすれば話も早いだろうし、あなたさえ良ければ」

「もちろん! 憧れの家に入っていけるのなら、それ以上に嬉しいことはないわ」


 少しの沈黙の後で、ナオミは今週中に会おうと言った。


「ごめんなさい、今週は少し忙しいから、来週でも構わないかしら」

「こちらこそごめんなさい。そうよね、あなたは学校があるから忙しいわね」

「……うん。ともかく、電話をくれて良かった。ありがとう」


 打ち合わせを済ませてから私は電話を切った。それからすぐに別のところへ電話をかけることにした。それは有希の番号だった。


「もしもし」

「もしもし、どうしたの?」


 私はナオミが電話をかけてきたことを有希に伝えた。


「良かった、先生はきちんと連絡先を教えてくれてたんだね」

「そう、疑ったことを先生に謝らないといけないかもしれない。それはそれとして、本当なら三人で話をしたかったのだけれど、二人で押しかけるのは悪いから、来週は一人で出かけてくるね」

「うん。一つだけ言っておくとね、私はもうナオミのことについてはこだわりがないの。少し時間が経ち過ぎたのかな、傷ついていたのも今はどうにも思わなくなってきて。だから、ここから先はリサの問題なのかもしれない」

「私の問題?」

「そう。問題っていうのはちょっと違うかもしれないけど、とにかくそんな風に思えるの。だから私のことは気にせずに、あなたの話したいように話してくればいいよ」

「ありがとう。私、有希と仲良しになれて良かった」


 私は偽りのない気持ちを有希に伝えた。

 電話を切り、夜も深くなってきつつあったのでベッドに入った。私はナオミにどんなこだわりがあるのか分からない。きっと、魅せられているのだろうという予感がした。あの虚ろな瞳に、あの美しい家に。

 暖かくなってきたベッドを抜け出して窓辺に立つ。来週は冷え込みが強まるようだけれど、雪が降らないでほしいとそう思った。雪の中、あの丘を登っていくのはきっと一苦労だから。




 ナオミと約束をした日が近付いてくるにつれて、私の心は次第に緊張の度合いを強めていった。ナオミへのこだわりが強い分だけ緊張をしているということらしかった。

 金曜日の夕方。次の日に約束を控えた私の心は、そうした経緯にも関わらず、不思議に平静だった。私はきっと、その瞬間がくることを宇宙が始まる前から知っていたのだと思う。電車に乗ってあの水色の家が視界の中に入ってきたまさにその瞬間、何か黒いものが私の視線を遮った。


「あの」


 見上げると、そこには見慣れない、それでいて見覚えのある顔があった。まるで知り合いがテレビの画面に映っているかのような、そんな不思議な気分で私はしばらくその顔を見つめていた。


「そんなに見つめられると照れるな……」


 彼は、いつも朝の電車で見かけるあの男の子だった。そのことに気付いたのは、彼が私の隣に座ってしまった後だった。


「あの」


 今度は私がそう口にする番だった。


「僕のことは分かりますよね」

「ええ、一応……」

「一応、か。いや、今はそれで充分です。僕はあなたに伝えたいことがあるんです」


 私はいつかのようなふわふわとした気分になりつつあった。答えの見えている問題を前にしながら、自分がどのようにそれに向き合っていくか、まるで第三者の視点に立って見ているかのような。


「好きです」


 予想通りに進んでいく時間の中で、私は身動きができずにいた。

 そう言ってくれることは、もちろん嬉しいのだ。でも。

 私、このままだと彼の気持ちを裏切ってしまう。


「どうしてですか、私のように取り柄のない人間を」


 試すようにして私は言った。もしも予想通りに物事が進んでいけば、断ってしまうだろうと分かっていながら。


「最初は嫌いだったんです」

「えっ?」


 その瞬間、魔法にかかったかのように身動きできずにいた心が、鮮やかな感情を血流に乗せて全身に運び始めた。

 それはまさに予想外の言葉だったから。


「どうして僕はあなたのことが気になるのか分からなかった。もちろん話したことはないし、特別好みの顔でもない。……僕、失礼なことを言ってますね」

「……続けて下さい」

「はい。それで僕、気付いたんです。そうやって気になってしまう感情は、嫌いなんじゃなくて、本当は好きなんだろうって」

「ごめんなさい、よく分からないのだけれど、どうしてそう思うようになったんですか。つまり、私のことが好きだってことに」

「僕も分からないんです、本当は。でもそれが恋なんじゃないですか」


 私は思わず笑ってしまった。不安な表情の彼を前にして、しばらく笑いは収まらなかった。


「私も、あなたのことが好きになってしまいました」


 ようやく笑いが収まったとき、私は自然な感情の流れに任せてそう言った。

 それが、偽らざる本心だった。


「でも、答えは今度にさせて下さい」

「えっ?」

「今は、まだあなたの気持ちを受け止める準備ができていないんです。今度の月曜日、そのときまで世界がこのまま存在していて、何事もなく同じ電車でもう一度会えたなら、それが私の答えだと思って下さい」

「……分かりました。そのときまで、どうぞお元気で」

「ええ、あなたも」


 そういう約束を交わしたのは、半ば承諾したのと同じだったのだけれど、まだ確定したわけではなかった。もしもナオミと話すことで私の中の何かが変わってしまったなら、私は簡単にこの約束を破ってしまうかもしれない。

 月曜日のそのときが来るまで、私は未確定の状態でいたかった。

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