02
ナオミが学校を辞めた。
それを聞いたとき、私はどのような顔をしていただろう。
「まあ、お前が罪悪感を覚える必要はないよ」
担任の先生はそう言った。
「あの子はもう本当に学校には来ないんですか」
「手続きはもう済んでしまったからな。荷物も残っていないし、ここへ来る理由もないだろうしな」
ここへ来る理由はない。何だか、私はその言葉を聞いて悲痛な想いを胸に感じた。
あの日、私がナオミと交わした言葉を先生が知っているかどうかは分からない。そのせいもあって先生が本心では私に失望したのではないか、ついそんなことを考えてしまう。
先生は、また口を開いた。
「これは教師という立場から言うのとは違って、私個人の意見なんだが……」
「はい」
「お前はきっと、自分が何か悪いことをしたんじゃないか、そう思っているんだろう。彼女とは何かしらのいさかいもあったかもしれない。でもな、結局は彼女が自分で決めたことなんだ。たとえそれが自分の本心と違っていて、周りに流されてしまった結果であったとしても、最終的には自分で決めたこととみなされる。大人になるというのは、そういうことなんだ」
「でも……」
「お前の気持ちは分かる。まだ大人じゃない、自分は子供なんだと考えているんだろう。しかし、彼女はそうじゃなかった。本心は別のところにあったかもしれないが、私が何度訊いてもそれは自分が選択したことだと答えた。客観的に見れば彼女にとって残念な結果になってしまった。それでも、彼女はそうすることで一つ成長したともいえる。お前は、これまでに何かを選択したことはあるか?」
私はこれまでに何かを選択したことはあっただろうか。その答えは、自分の心に問いかけるまでもないほどはっきりとしていた。
憂鬱な気分に合わせて冬がやってきた。まだ暗いうちに家を出て電車に乗り、学校へ向かう。電車の中の様子はあまり変わらず、強いて言えば人々の装いが変わったくらいだ。私は随分前に衣替えを済ませたが、そのことは無条件にナオミの儚げな顔を思い起こさせた。
ところで、車窓の外では大きな変化が起こってしまった。夏の間は朝早くとも丘の上までよく見渡せたのだけれど、まさに冬の暗さのために風景がまるで違って見えるようになってしまったのだ。自然とあの丘の上の家は暗闇に没してしまった。それでも私は何とか目を凝らしてあの家の輪郭だけでも掴もうとするのだけれど、車窓に半ば反射する私の顔とにらめっこをするような形になってしまう。
今。
今、またあの男の子と目が合った。彼はすぐに目を逸らしたけれど、きっと私のことを見ていた。何ヶ月間も同じ車両に乗っていれば、話さなくとも何となく分かることは分かってしまう。ほのかな自尊心の高まりとそれを引きずり下ろそうとする心の働き。
だって、どうして私のような醜い女に好意を向ける必要があるだろうか? 答えはそう、藪の中だ。
……それにしても、私はあの子を傷つけた。強い罪悪感を覚えずにはいられない。
でも、その罪悪感はもっと大きな罪悪感を引き寄せる。私は高校に残り、ナオミは高校を辞めていった。そこに優越感がないと言えば嘘になる。「当たり前」のレールの上で未来への不安を貪りながら暮らしている私と、「当たり前」のレールを外れて不安を背負わなければならないナオミ。そうした対比を想像できるくらいに、私は安全な環境に暮らしているのだ。罪悪感の基礎には優越感があり、それはまたもっと大きな罪悪感によって成り立っている。
それでも私は、自分からそのレールを外れることはしないだろうし、その反対にしがみつきさえするだろう。私は、卑怯者だ。
「これは……そう、季節的なものよ」
学校を終えて家で夕食をとっているとき、母親が急に私の体調を案じてきた。顔に出ていたのだろうか。多分、そうと気付いたときにはもう遅くて、母はずっと前から私の変化を見抜いていたのだろう。その洞察力を私は憎む。
私が季節的なものだと答えたのも嘘ではない。どんなに身体が丈夫で心の健康な人でも、冬が好きだという人を除けばきっとこの季節になると憂鬱になることがあるはずだ。寒さだとか暗さだとか、そういうものが乾燥した空気を操って私たちの心の水分を吸い取っていくような、そんな感覚を持つのは私だけだろうか。
私はご飯を食べている間はずっとそんなことを考えながら、テレビを見て無神経に笑う母の横顔をじっと睨み、自分の心に仮面をつけた。食事を済ませて自分の部屋に戻り、照明を暗くしてベッドの中に潜ったとき、私はようやく安心してその仮面を外せた。ベッドの中の息苦しさに勝る居心地の良さ。私は、私の居場所はここにあるのだろうか。
少なくとも今の私にとって心の休まる場所は、空想の世界の中と、現実の世界ではベッドの中だけだ。空想の中で誰もいない世界を一人歩く、そんな時間が今はたまらなく好きだった。
けれど、すぐにその世界を侵す人物がいた。ナオミだ。
空想の世界はナオミの、姿の見えない彼女の気配で満たされていて、空間を針で突けばすぐにでも破裂してしまいそうな緊張があった。私はその気配に脅かされながら高いビルの屋上を歩く。人もいなければ動物もいないその箱庭世界は、最初から完全で最後まで完璧なはずだった。車が走らず風さえ流れない静かな世界の中で唯一の不完全な存在が私で、だからこそ私には存在意義があるのだ。
そこへ今、ナオミの気配が入り込んでしまった。この高いビルの屋上から地下まで、または隣のビルのオフィスからトイレまで、すべての場所にナオミの気配が充満している。私はその正体を暴こうとするのだけれど、決してどこにもナオミはいない。私は世界を見下ろすためにここまで昇ってきたはずだったのに、今やこの殺風景な屋上の一角に追いやられているようなものだった。後ずさりするのと足場が無くなっていることに気付くのとは同時だった。不思議な浮遊感が、次いで落下する感覚がやってきて、気付いたときには消していたはずの照明が点灯していた。
私をベッドの中に探り当て、それでいて頬を撫でることさえしない母親の手は、ためらいがちな彼女の感情をよく表していた。
「どうしたの、ずっと唸っていたわ。……ごめんなさい、勝手に入ってしまって。でも、あんまり深刻そうな顔をしていたから」
そう言って覗き込んでくる母親の顔が、ちょうど照明を隠してしまっていた。それは太陽への道を塞がれているような感じがして、つまり私はまだ寝ぼけていたので、
「何でもない」
とだけ言って再びベッドに潜ることしかできなかった。
私はどうにかしてナオミともう一度だけ会いたかった。
最善で最短の道は、先生に頼み込んで取り次いでもらうことだったのだけれど、でもそれは簡単な方法ではないように思えた。先生はきっと私たちの間に起こったことそのままを知りたがるだろうから、他人に嫌われるのが苦手な私は、先生に嫌われないように物事を運びたかったのだ。それに頼んだところで先生が教えてくれるかどうか、そして先生が了解したところでナオミと連絡が取れるかどうか、確信が持てなかった。
「どうしてそんなにこだわるの?」
あれ以来、前よりも距離が近くなった有希がそんなことを言った。私は親にも先生にも自由に物が言えないから、その反動で有希には何でも話してしまうのだ。
「……やっぱり、後悔してるから」
結局、そういうことなのだ。ナオミがどう思ったかということが重要というわけではなくて、自分の心がざわざわとしてしまうのをどうにかしたいのだ。そんな弱い私を、有希はそれでも見放しはしなかった。
「私だってそうだよ。あんなことを言われたのは辛いけど、でもやっぱりあの子にはあの子なりの事情があったんだと思う」
「そうなのかな」
「そうよ。だって……、どういう言い方をするのが良いかは分からないけど、あの子はリストカットをしてた。今時はそんなの珍しくないかもしれないし、興味本位でやったことのある子もいると思う。でも私はきっとそんなことできないから、だからあの子も色々なことを抱えているのかな、なんて思うよ」
私は有希の言葉を聞いて、嬉しさを感じると同時に自分の考えの甘さのようなものにも突き当たった。
「それでも有希には謝ってもらう資格があるんだと思う。……そんな風に考えるのは、有希にとっては迷惑かな」
「迷惑じゃないよ。さっきも言ったけど、あの子の言い方は冷たくて、私も傷ついたから。でもそうだなー、リサはやり遂げるタイプだね」
「どういうこと?」
「思いついたことは絶対にやり遂げる性格ってこと。私とは違うタイプだから、羨ましいかも」
「これはこれで大変なんだよ?」
「そうなんだ、私もそうなんじゃないかと思った」
私たちは同時に声を上げて笑った。こんなにおかしくて、笑わずにいられないのは久しぶりだった。
「ねえ、有希」
「うん?」
「ずっと仲良しでいようね」
「もちろん」
友達じゃなく、仲良し。
例え関係の形が変わってしまったとしても、距離が離れてしまったとしても、私たちはきっと仲良しでいられるはずだ。
結局、私は先生にナオミの連絡先を聞くことにした。先生は予想していたように連絡先を教えることはできないと言ったけれど、私は何とか知恵を絞って、自分の連絡先をナオミに伝えてもらうように頼んだ。私に連絡するかどうか、その判断をナオミに強いることになってしまうのは口惜しいけれど、そうした抜け道を通らなければナオミに辿り着けそうもなかった。私の作戦は成功して、先生はそのように取り計らってくれることになった。
「お前もいつの間にか策士になったようだな」
「先生のご指導のおかげです」
私は、短い一歩を踏み出せた。そしてそれは一つの選択でもあった。
早くナオミに追いつかねば。
私の心を突き動かすのは、そうした気持ちなのだった。
私の一歩は本当に短い一歩だったようで、勇気を出してナオミに連絡先を伝えてもらったのだけれど、待てど暮らせど連絡はこなかった。もう連絡はこないかもしれない。そんな思いが日増しに強くなっていって、落ち着かない日々が続いた。一週間も経たないうちに私の生活のリズムはそれまでのものとは違っていって、私は妙にふわふわとした気分で生活を送った。朝は五時くらいに目が覚めて、家でゆっくりしていても何だか落ち着かなくて、一本早い電車に乗って学校へ行く。学校という鎖が日中は私を縛ってくれたのだけれど、放課後はその反動で色々なことをした。友達がいるわけでもない吹奏楽部の練習を覗いてみたり、カラオケで三時間くらい一人コンサートを開いたり、意味もなく電車の一駅分を歩いてみたりした。
そういう日々は楽しくもあったけれど体力を消耗したし、何より心がざわざわとしていたから、午後十時くらいには自然とまぶたが重たくなって、そして次の日も五時に起きてしまうのだ。母親は最近元気になったわね、なんて的外れなことを言ったりするので、あまり顔を合わせていたくはなかった。だから、やっぱりほとんど家で過ごさない日々は楽しかったのだ。
ところが、困ったことが起きた。週末がやってきたのだ。平日なら学校へ行くことで時間を潰すことができるのに、その学校が休みではどうにもならない。どうにもならないけれど、五時には起きてしまう。だから私は、仕方なくいつものように電車に乗って出かけることにしたのだ。
休日の朝はいつもとダイヤが違っているから、私はいつもの時間に電車に乗ろうとして出鼻を挫かれ、仕方なく駅の待合室に行き、縁もゆかりもないおばあさんと談笑したりした。何を話したかなんて覚えていないけれど、暖房があまり利いていない待合室を出たとき、その頼りない暖房が愛しく感じられるほど冷たい風に吹かれた。それはまるで、ナオミという存在が大気に乗り移ったかのような、冷たく烈しい一吹きだった。
逆方向へ向かうおばあさんとはプラットホームで別れて、ゆっくりと進入してきた電車に乗った。座席の足元のヒーターが暖かくて、思わず小さく身震いをしてしまった。その身震いを見られてしまったので、私は思わず赤面して顔を背けた。電車もまた車体を身震いさせて動き出す。私は無機物であるはずの電車に親しみを感じて、ゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏にはこの半年と少しの間に起こったことが、走馬灯のようにと言っては不吉だけれど、それに近い形で思い出された。身の回りで起きていたあの嫌な出来事を思うと、今こうして休日の朝を身体の内に力を宿して生きていられるのは、とてもありがたいことだと感じられた。どうしてこんなに、こんなに世界は暖かいのだろう。
閉じたときと同じようにゆっくりと目を開く。昇ってきた太陽や木々や家々、それからあの水色の家のある丘が視界に入ってきたのは、まさにそのときだった。次の駅で降りよう、唐突にそう思った。
プラットホームに降り立ち、再び身震いして動き出した電車を見送ると、いつもは乗り降りをしないその駅の改札を出た。駅があるのは特徴のない地域だ。住宅が特に多いわけでもなく、何かの公共施設があるわけでもなく、かといって交通の便が悪いというわけでもない。そこに住んでいる人さえ魅力を知らないような、そんな土地だ。
それでも私にとってはわざわざ降りる価値のある駅だった。言うまでもなく、あの美しい家に行くためだ。丘のこちら側からしか見たことのないあの家にはどんな人が住んでいるのだろう。あの丘の上まで登って行ったとしたなら、あそこからは一体何が見えるのだろう。私は胸を躍らせながら、そして幻滅させられるのではないかという軽い不安に酔いながら、第一歩を踏み出した。
駅から丘の方へ行くのには時間がかかった。慣れない土地の、それも風景の代わり映えのしない住宅地を進むのは大変な作業だった。それでも方角だけは間違わないように歩いたので、三十分くらいかけて丘のふもとに辿り着いた。
「これが、第一の傾斜!」
私は心のなかでそう呟くと、山道よりもずっとなだらかな傾斜に足をかけた。そして第二歩、第三歩と休むことなく足を運んでいった。私を突き動かすのは好奇心であり、そこには小さな不安が含まれていて、さらにそうした気持ちの核の部分にはナオミへの想いがあった。
連絡すらしてこないなんて、ナオミのバカヤロー!
私は自分がそれで良いと言ったはずなのに、そのことに無性に腹が立った。でもそれは乾いた苛立ちなんかではなくて、少し湿った面白みのある怒りだった。
何かに背中を突かれたような気がした。後ろを振り返り、記憶の迷宮の中に何かを見つける。あのとき、電車の中で身震いした私を見ていたのは誰だったのだろう。あれは、きっといつも電車で会う男の子ではなかっただろうか。
私はさっきの赤面を取り返して、その恥ずかしさから逃れようと丘を駆け上がった。何もかも、ナオミが悪いのだ。
「ナオミのバカヤロー!」
そうして丘の頂上に辿り着いたとき、そこに待っていたのは正真正銘本物のナオミの姿だった。
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